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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


少し前、YasukoHoshinoさんが、先月終了した翻訳祭の感想をブログ記事にされました。

「第29回 JTF翻訳祭2019【後編】~”翻訳の日”キャンペーンに思うこと/ 職業翻訳者としての誇り~」

職業翻訳者に誇りをもとうと呼びかける素晴らしい内容でした。
まずは、その一部を抜粋します。

「翻訳は、文芸翻訳だけではありません。同業者なら当たり前に思われるでしょうが、一般の人にとっては文学以外の実務翻訳の世界があまりよく知られていない面もあります。また、当の実務翻訳者自身にも、自分の仕事の価値を宣伝しきれていない面があるのではないかと感じました」

「実務翻訳によって日本の国家や社会、文化が有形無形に形作られてきた長い歴史があるという事実がもっと広く知られてほしいし、できれば翻訳者にとっての常識となってほしい。実務翻訳が今の日本を作り、支えてきたことを踏まえれば、翻訳者は今以上に誇りをもって翻訳という仕事に取り組めるようになるのではないかと感じます」

「(翻訳祭のセッションのひとつ『質を守る翻訳者の工夫~原稿受領の時点から』の)資料に出てきた『リスペクトされる仕事 プライドをもてる仕事』というフレーズが印象に残りました」


これらの力強い言葉の数々を読みながら、けれど私は、「実務翻訳者ということに私は誇りを持てるだろうか」と自問自答していました。

(注記)
*以下でいう「実務翻訳」は、あくまでも日々自分が仕事で接する翻訳業務で、世間(主に業界)で用いられる「実務翻訳」をすべて包含するものではありません。
私が主に対応している翻訳は、分野は医療機器(もう少し範囲をせばめるなら、循環器系の体内植込み機器や手術用具)、文書は報告書や試験実施計画書が多く、これらは、主にPMDAに提出される申請書類の一部となります。それ以外に、論文・照会事項・社員教育資料・パンフレットなども扱いますが、報告書と計画書が半分以上を占めています。定型表現が頻出するものもあり、改訂版や同種製品の報告書の場合は、差分翻訳を求められることも増えました。



「誇りを持てない」というのが、正直な気持ちでした。少なくとも、ブログ記事を読んでしばらくのあいだは、ということですが。

心のどこかに、「文芸翻訳の方が格上ではないか」という気持ちがありました。

(注記)
* どこまでを文芸に含めるのかという問題もあるかと思いますが、ここでは、「日々の実務に使用される文書」の対極にあるものを連想しています。文芸に含めてよいのかどうか迷うところであるノンフィクションなども含めて考えています。その意味では「出版翻訳」や「書籍翻訳」という言葉を使った方が近いと言えるかもしれませんが、便宜上「文芸」という言葉で統一しています。


そして、確かに、普段の報告書系の仕事より、もっと自由度の高い案件や課題の翻訳の方が、格段に難しい。難しい、という言い方は語弊があるかもしれません。報告書でも、正しい動作やグラフの読み方を求めて、ネットや参考書を何時間も、ときには日をまたいで調べることだってあります。ただ、実際の訳文作りにかける時間は、課題エッセイなどの方がはるかに長い。

また、文芸翻訳は(共訳や翻訳協力という形になることはあるにしても)、全体を俯瞰しながら、一人でまとまった量を訳すことができる。もちろん、報告書などでも、ある程度時間をかけて1件まるまる1本の文書を訳すこともありますが、「納期が短いので数人で分担」「納期と予算の関係で最低限の差分翻訳」ということが増えました。
「これに合わせてほしい」と同時に参考文書を渡されることが多いのも報告書の特徴のように思いますが、文書によっては表記や用語の統一が取れていないものもあります。さすがに修正すべきと思う箇所にコメントを入れながら「(おおむね多忙が理由かと思いますが)どうせきちんと読まれないのだろう」と空しくなることもあります。
けれども、そういう仕事は、それなりに繰り返しの多い、あまり頭を使わずに既訳をベースに訳文をつくれる「美味しい」仕事だったりもするのです。心の中でため息をつきながらも、お金がほしくて、ついつい受けてしまう。いくら早めに仕上げて納期の残りの時間を勉強や別のもう少しやり甲斐の感じられる仕事に当てようとも、自分の中でもやもやする気持ちがなくなることはありません。


自分が弱い、と言ってしまえばそれまでなのでしょう。
意に沿わない仕事が多いのであれば、もっと積極的に、そうでない仕事を与えてくれる翻訳会社(クライアント)を探せばいい。そのためには実力をつけよと人から言われ、自分でも自分をそう鼓舞しているけれど、実際は、理想と現実のはざまで揺れる日々なのです。
実務翻訳が、今の日本をつくった。そして、今もあらゆる活動の基礎になっている――確かにそう、なのでしょう。でも、「だから重要なのだ」という言葉は今は心に空しい。

そんな自分は、いったい何に誇りをもてばいいのだろう。


そんな風に悶々としていたとき、私はある文章に出会いました。
それは、『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル)の中の一節でした。

(蛇足)
* この書籍は、タイトルどおり、キャンベル氏による井上陽水の歌詞の英訳を対訳形式で収めたものですが、前半部分には、氏の英訳時の姿勢や、歌詞の解釈、英語の表現を求めての呻吟、陽水氏との対談なども収められていて、大変興味深い。この本については、いつか改めてブログ記事にしたいと思っています。



「白なのか黒なのか、ではなく、白でもあり黒でもあるのではないか。はては、白でもなく黒でもないのではないか。そういう、ある種測れない形のぼんやりしたものが文学的なのではと思うのです」
「(日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、『雪国』英訳時に川端康成に『多くの部分が曖昧でとても困っている』というような質問を投げかけたときの川端の答えとして『余白と言おうか、余情とでも言おうか、曖昧だからこそ、逆に表情を豊かに受け止める力が生まれる。その可能性を私は信じたいのです』」


訳文に余白を持ち込む、と言っても、翻訳者は、自分の頭の中にきちんとひとつの解釈をもって(=確固たる絵を描いて)いなければなりません。その上で、原文が曖昧さを残した文章であれば、どこか読者に解釈を委ねる余地を残した訳文をつくるのが文芸翻訳だということができるのかもしれません(もちろん、曖昧さを排さなければならない場面もあるには違いないのですが)。

それなら、実務翻訳は「余白を徹底的に潰す」翻訳と言ってもいいのかもしれない。少なくとも自分が扱うような文書においては。
私は、そのとき、ふとそんな風に感じたのです。「そこに書かれている解釈が唯一の正しい解釈である」訳文をつくる――これは、あたりまえと言えばあたりまえのことですが、実はとても難しいことではないかと思います。日々「余白のない訳文をつくる」という意識をもって翻訳に向かうことが、実務翻訳者として自分がすべきことであり、常にそういう訳文がつくれる翻訳者であるということが、実務翻訳者の誇りだと言えるのではないか。


結局は、ただの心の持ちようでしかないのかもしれません。
けれど、「重要な仕事を担っている」という少し抽象的な理想より、「余白を排除する」という考え方は私の心に響いたのです。
そして、余白について考えたとき、自分の中の悶々とした気持ちが確かに少し楽になったのでした。

この考え方(翻訳に対する姿勢)は、これまで培ってきたもの、やってきたことから外れるものではないと思っています。
ただ、「余白」という言葉が最適のものなのかどうかについては、正直まだ少し迷うところがあります。もしかしたら、自分の考えをきちんと伝えきれていないかもしれない。

それでも、(少し大げさな物言いをするなら)「実務翻訳者であることに誇りをもつ」心の拠り所が得られたということを文章にしたく、現時点の認識で記事にしました(あくまで自分の拠り所ということです――ただ、こういうことは、自分の心が納得するということも大事かなと思っています)。
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2019.11.11 01:06 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

…という言葉が適切かどうか分からないのですが、他に「これ」という言葉を思いつかないので…

しばらく前に、こんな↓↓↓ツイートをしました。

今日は、「どんな風に英訳できるだろう」ではなく「どういう英文だったらこの日本語にできるだろう」と考えながら新聞記事を読んでみた。なんかちょっと違う視点から見れたような。

(いちおー日英翻訳もやっていた時期もあるので――今はもう「商品」になる英文はつくれないと思いますが――たまに英訳を考えてみることはあります)

これ、その後も時々やっています。なかなか面白く、そして難しい。

たとえば、10月30日の朝日新聞朝刊の多事奏論。編集委員の駒野剛さんが、冒頭に次のように書かれています。

「長崎市の繁華街、新地中華街近く、企業のビルが立ち並ぶ中に木造の洋館が立っている。(中略)…幕府に渡された。欧米やアジアの情勢を知る重要な手段だった。(中略)「出島にいて何で世界が分かるのか」。不思議に思う少年がいた」

この中で、フと気になった部分について、「どんな英語だったら、この日本語を使ってもおかしくないだろう」と考えてみるのです。

たとえば、「立ち並ぶ中に」。「背の高いビルが林立する間に(それだけ異質な)古い木造の洋館がある」というイメージです。試みにうんのさんで「林立」を引いてみると、elbow each otherという表現が見つかりました。なるほど。でも、ここでは、背の高いビル群が押し合いへし合いするという表現では、洋館から注意がそちらに逸れてしまうような気がします。では、「A sits (or sat) among 背の高いビル」という英語表現の中で、「背の高い」を少しばかり強調するような言葉が使われていたとしたらどうだろう。注目させたいものがAだとしたら、この新聞の表現のような日本語になるんじゃないか。

あるいは、どんな英文だったら、「不思議に思う少年がいた」と訳したくなるだろう。ここには、「他の誰も不思議には思わないのに」という言外の意味が込められているような気がする。(just) one boy? One boy ...で始まる英語表現、実際に遭遇したら条件反射的に「一人の少年が」としてしまいたくなるけれど、こんな風に「…がいた」とするのもありかもしれない。とにかく、ここは「不思議に思う少年がいた」を強調したい箇所。「がっつり強調したい」的な英語表現に遭遇したら、こんな風に日本語にできる場合があるということは、覚えておいていいかもしれない。

…という具合です。
(上の私の具体例の発想に対して「それはおかしいやろ」という意見もあるかもしれないのですが、ここは、「日本文を読んでこんな風に考えを発展させていきます」という「考え方」の例として読んでいただけるとありがたいです)。


目の前の文をきちんと英訳するわけではなく、自分の頭の中も、英訳モードにはなっていないように感じます。
上手く説明できないのですが(という表現は2019年「屋根裏通信」禁忌表現に指定されているのですが、どうしても明解に説明できないので、禁を破ってこの言葉を使います)、あえて言うなら、和訳作業の助走状態での「頭の中で行ったり来たり」の延長上にあるような感じです。「1回『英語から日本語を考える』枠組みの外に出て、振り返り、同じところに戻れるかどうか見てみる」みたいな。翻訳が上手な方は、無意識のうちに頭の中でこの作業をやられているのではないかと思います。私はまだまだ、その域まで達することはできません。なので、こうやって意識的にやってみることで、「外に出る」距離がもう少し伸ばせるのではないかと。行きすぎないように注意しなければなりませんが。

ということで、もうしばらくこの作業を続けてみようかなと思います。
結構考えるときもあるので、時間と気持ちに余裕があるときしかできませんが。
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2019.11.02 17:10 | はじめに | トラックバック(-) | コメント(0) |

最近、新聞で「無知がおそれを生む」という言葉を見かけました。
それは、病気(難病)に対して使われていた言葉だったと思うのですが、それ以外の多くのものに対して言えることだと思いました。今話題になっている機械翻訳(MT)に対しても。

これもわりと最近、こちらはTwitterだったと思いますが、MTの出力について「95%の精度」という言葉を見かけました。学生時代95点などという点数はなかなか取れなかった私などは、この数字を見ただけでドキッとしてしまいます。

でも、何をもって「精度」「100%」と言っているのか、「95%」とはどんなレベルをいうのか、ということは、もう少しMTについて学んでみなければ分からないはずだし、そうやって学んでからでなければ、「精度95%のMT」を本当にその特定の現場に持ち込んでいいのかどうか、持ち込んでよいとした場合、現場できちんと運用するためにどんなことに気をつけなければならないか、は正しく判断できないんじゃないかと思います。
だから、多くの方が言っておられるように、翻訳者も、使う使わないは別として、適切な判断が下せるよう、MTの基本的な仕組みや強み・弱み、出力結果について、ある程度きちんと知っておく必要があると思っています(その割に勉強できていないことには、今日は突っ込まないでいただけるとありがたく)。

もうひとつ多くの方が(私もですけど)おそれているのは、今後、クライアントや翻訳会社のあいだで、(数字だけをもとに)「MT主体」の方向への動きが加速するのではないか、ということではないかと思います。(確かに、訳文出力が人力と比べものにならないほど早いというのは事実だと。翻訳祭でお話した翻訳会社の方も、「文書によっては『最初の入力の手間が省ける』のが大きな強み」と仰っていて、この話にはナルホドと思う部分がありました)
確かにそんな流れを感じますが、第2セッションに登壇された翻訳会社の方や、私が個人的にお話した翻訳会社の方は、MTを使用しながらも、できること・できないことを冷静にきちんと見極めようとしておられ、使用拡大には懐疑的でいらっしゃるように見受けられました。PEはやらないと決めた場合は、そうした会社を探していくことになりますが、よく探せば意外にあるのではないかと感じました。

そうやって、「相手を知る」と同時に、自分をよく知っておくことも大事だと思います。
何度も書いていますが、私は、よくも悪くも周りの影響を受けやすい人間です。しばらく前、医薬翻訳分野にCATツールの波(のようなもの)が来たときは、「皆がその方向にいくから」という理由だけで導入しようと考えたこともありました。そういう主体性のなさってとても危険ですよね。それに「影響を受けやすい」が加わったら、もう「逆鬼に金棒」なわけで。ツールは便利だとは思いますが、この性格から考えて使用に走るのは(自分&自分の頭の中の翻訳作業&自分の訳文生成には)危険だと考えて、距離を置いています。私の場合、その延長上にMT-PEがあるという感じです。

今も、流されやすい本質は変わりませんが、立ち止まって「自分は何をしたいのか」を考えるようになりました。

そのように、「相手を知り、自分を知る」ことで、(たとえおそれるとしても)闇雲におそれることもなく、前向きな判断ができるのではないかと。考えてばかりもだめだけれど「自分できちんと考える」ことは必要。そのためには、相手を知り、自分を知ることが欠かせない。そう、自分にもう一度言い聞かせるべく、記事にしました。
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2019.11.01 23:31 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

2016年、2017年に続いて3回目の参加になります。
(2018年の京都は参加しとらんのかい!というツッコミはなしね)

実行委員始め関係者の皆さま、ありがとうございました&お疲れさまでした。

最初にプログラムを拝見したときは、機械翻訳関連が多いのかなという印象を受けましたが、あとでゆっくり講演内容冊子を拝見すると、機械翻訳がテーマと言ってもいくつも切り口があり、それ以外に、さまざまな視点から「(日々の翻訳作業であるいは翻訳業を続けていく上で)翻訳者としておさえておくべきこと」もちりばめられていて、それなりにバランスのとれたプログラムのように感じました。
大会組織委員長(高橋聡さん)の挨拶に「…どの道を選ぶにしても、必要なのは十分な情報に基づいた自覚的な判断です。今年の翻訳祭では、その判断の手がかりとしていただけるような24のセッションを用意しました」とありました。聞きたいセッションが被っているものもあって悩みましたが、そこからひとつを選ぶという作業から、もう「自覚的な判断」が始まっているのかもしれません。

簡単に各セッションの感想

まず、時間的に間に合わなくて、聴講したかったけれど聴講できなかった1時間目のセッションについて。

「質を守る翻訳者の工夫~原稿受領の時点から」(高橋さきの・齊藤貴昭)
聴講された方の話を伺ったり、資料を見せていただいたりしたところでは、「翻訳の品質」に焦点を当て、(頭の中で起こっていることも含めて)原稿受け取りから最終チェックまでの「翻訳」とはどのような作業なのかということを、高橋さきのさんが説明され、それを間違いなく効率的に行うためのチェックの一方法を齊藤さんが実例を示して説明される、という贅沢な内容だったようです。どちらか一方だけでは見えにくい可能性もある「なぜそれが大切なのか」が見事に可視化されたセッションだったと想像します。初めての試みであるサテライト会場(英断!)も含めて立ち見が出る盛況ぶりだったそうで、「翻訳の基本」に関する話を聞きたい翻訳者がそれだけ多いということの現れではないかと思いました。

* こうした翻訳の基本について丸一日話を聞くことができる「翻訳フォーラム・シンポジウム」、来年は6月28日の開催だそうです。詳細発表はおそらく来春でしょうが、興味のある方は、翻訳フォーラムさんのツイッターに気をつけておかれることをお勧めします(回し者ではありません<念のため)。


2時間目「機械翻訳時代のサバイバル戦略」(井口富美子・梅田智宏・加藤泰・成田崇宏)
個人翻訳者(井口さん)、翻訳会社経営者(梅田さん・加藤さん)、翻訳会社の翻訳事業部責任者(成田さん)という立場の違う4名が、それぞれの立場から語る翻訳(社/者)の未来とサバイバル。このセッションも(サテライトを含め)立ち見が出ました。メモから抜粋します(共感できなかった部分も含めて箇条書きにしています)。お話をお聞きしたかぎりでは、こちらの翻訳会社はいずれも、MTを導入しているとはいえ、翻訳者の力というものを認め、MTについてきちんと考え、PEの労力もきちんと評価しようとしている、良心的な会社であるように感じました。また、他業種から転職されたという方の、「外から翻訳業界をみる」視点は、なかなか興味深いものでした。
・本来MT-PEに人力と同等の品質を求めるのは困難。内容に間違いがないレベルを提供。
・駆け出しではなくベテラン翻訳者の方がPEに向いているように思う。
・MTエンジンの精度は分野によってまちまち。PEの作業がきちんと評価されずコスト下げ圧力がかかった場合のはけ口にされている。
・MTを使う使わない(PEをするしない)は自分次第。受けるのであれば、他の作業者のためにも条件闘争はすべき。
・今後どのように状況が変わるか分からないため、使う場合もそうでない場合も、常に(MTの)リサーチや勉強は必要。
・現状、MT出力の品質を正しく評価できないクライアントが多いのが実状。本来は、翻訳会社が、できるかできないかを顧客にきちんと説明すべきである。
・今後は「やわらかい」翻訳しか人手翻訳として残らないと思われる。そこでも、納期短縮とコストダウンは求められるだろう。
・そうした時代に生き残るために、ベテランは力をつけてほしい(専門性、翻訳力など)。新人の場合は、もし抵抗がなければ、PEを極める方向に向かうという選択肢もある。ただし翻訳会社を選ぶ際は、搾取されないよう注意が必要。
・世間の9割以上が「翻訳とは何か」を知らない。
・今後、翻訳者はどうすればよいのか? 専門を極める、信用・信頼に基づいたチームをつくる、multi-profession(複業)で生きるなどのやり方が考えられる。


3時間目「NMT+PE=医学翻訳の新たな潮流」(津山逸)
(自分=津山氏の考えでは)MTは、Translation Memory Softwareと同じような、Toranslation Toolsのひとつ。対抗し戦う相手と考えなくてもよいのでは。PEによって翻訳者の仕事の幅が広がると考えればよい。NMTの良し悪しを決定するのはコーパスの良し悪しだ。英日翻訳については、NictがR&D Head Clubと共同でAI自動翻訳システムの最適化を進めている(加盟製薬会社複数社から提供された対訳データをコーパスとして使用)。このデータを用いたMTのPE作業が今後飛躍的に増えるのではないかと思われる。それが大きな割合を占めるようになるのが避けられないのであれば、早いうちに慣れて備えておいた方がよい。翻訳会社はよいポストエディタを求めているが、人力翻訳能力が高い翻訳者でなければよいPEはできない。一見誤訳に見えるがそうではないようなものも短時間に見極める能力が必要だからだ。背景知識も必要。MT-PEでは、短時間でどれだけ多くの量を仕上げられるかが問われる。100点を求める必要はない。「ちょうどよい」レベルでよい。ただし、常に100点のものができる実力はつけておく必要がある。PEはMTの付加価値であるから、コストダウンの対象にはしてほしくない(最終的なしわ寄せがエディタにくるようなやり方はやめてほしい)。

――というのが講義全体の大意。セッションでは、通常のMTエンジンと、それに製薬会社内のコーパスを加えたものから出力された訳文の比較を行いましたが、後者(以下Adaptive)の出力は、訳文のみをさらっと読んだだけでは、ほとんど違和感が感じられない仕上がりになっていました。(医薬のこの種の文書にMTを使うという判断の是非はひとまず置くとして)正直、これならかなりの数の人間翻訳者が負けるわと思いました。あくまでもセンテンスレベルの話ですが。セッション後半では、いかに短時間で、そうしたAdaptive訳文の不備を見つけ、修正の要否を判断するかのtipsが説明されました。「よいPE」を行うための秘訣的なものとでも言えばよいでしょうか。


4時間目は、「メディカル翻訳の将来を考える」か「玄人な関係を築くための本音トーク90分」のどちらかを聴講しようと思っていましたが、常日頃一番お世話になっている翻訳会社の役職者の方とサシでお話をする機会に恵まれましたので、サボってしまいました(スイマセン)。その社の方針(かなり本音レベル)や現況をお聞きし、こちらも考えや目指したい方向についてお話することができました。感触は悪くなく、これからもよい関係が続けられるのではないかと思いました。今回の東征の(個人的)収穫のひとつです。


(感想いろいろ)
私が聞いた2つのセッションでは、ポストエディタに向くのは、知識も翻訳力も豊富できちんと判断のできるベテラン翻訳者だとされていました。その点は確かにそうかなと思うのですが、PE作業ばかり続けていると、出力される訳文以上の訳文を自力でつくれなくなるおそれがあるという負の部分(つまりMTが翻訳者に及ぼすデメリットのひとつ)への言及はありませんでした。とはいえ、PE打診時に翻訳会社側からそういう話があるはずもなく、その点は翻訳者自身が自覚しておかなければならない点だと思います。上で、Adaptive訳文はなかなか素晴らしかったと書きましたが、一般MT訳の方は、読めるものもありつつ「…」という箇所もあり、たとえて言うなら、砂抜き不十分なしじみのお料理をいただいているような感じでした。そういう文章ばかり見ていては、そんな文章しか書けなくなるのは時間の問題だと思います(少なくとも、良くも悪くも影響を受けやすい自分はそうなるに違いありません)。

以前、MT導入がなし崩しに進んでいるというような話に絡んで、MTが自動運転と対比されていたことがあったと記憶しています。自動運転では、事故が起これば死に至るおそれがあるから、開発にも導入にも慎重になる(MTはそうではない)というような話だったと思います。確かに、言葉は、比喩的に「凶器」と言われることはあっても、それ自身が刃物のように実際に人を殺めるわけではありません。けれど、言葉はコミュニケーションの基本であり、それによって得られるメリットは計り知れませんが、ときには誤解を生み人間関係を壊し人や国を争わせる原因にもなり得ます。どんな形にせよ翻訳に関わる人間は、そのことを忘れてはならないのではないかと、メモを読み返し報告書を書きながら、ふとそんなことを考えました。翻訳祭とは直接関係はありませんが。

結局、一翻訳者としては「やみくもに恐れずけれど楽観もせず、現状を正しく認識し、周りの雰囲気や声に流されず、自分の置かれた(翻訳以外の)環境も考慮し、自分の進みたい道を自分で決め、決めたらとことん努力する」というごく当たり前のことを日々やっていくしかないのかなと思います。MTへと向かう流れを否定するものではありませんが(「他社がやっているから」「顧客が求めるから」「運用できちんと」で流れていくのはどうなんだろうとは思ってしまいますが)、自分はやはり自分で翻訳をしたい。であれば、今以上の力をつけていくことを一番に考えなければならないだろうと、改めて思ったのでした。


最後になりましたが、会場や懇親会でお話できた方、新しくお知り合いになった方、お話しできて嬉しかったです。ありがとうございました。一瞬のご挨拶しかできなかった方、またの機会にゆっくりお話させてください。総じて楽しい1日でした。ありがとうございました。
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2019.10.26 02:29 | 翻訳祭・フォーラムetc.報告(2016-) | トラックバック(-) | コメント(2) |

勉強会終了。

前回から取り入れた「日本語学習」の今回の課題は、「は」と「が」の違い。
その場で指名される1名が簡単に発表という形をとりますが、誰が指名されるかわからないためそれぞれ自習してこなければなりませんし、(管理人さんの力に負うところ大ではありますが)最終的に皆でホワイトボード上に整理しまとめていきますので、それまで「なんとなくできていた」ことの理由が(とりあえずそのときは)きっちり理解できます。個人的には、この日本語文法の時間を取り入れてよかったと思っています。次回課題は「テンス」。私は今おもに、前回管理人さんに紹介いただいた『日本語学入門』(近藤安月子、研究社)で学習していますが、この本わかりやすくまとまっていていいと思います。

翻訳課題の方は、今回から(たぶん2回にわたって)E. B. Whiteのエッセイ"Once More to the Lake"に取り組みます。

E. B. Whiteは、雑誌「The New Yorker」のライターとしていくつもの作品を発表していますが、日本人には『シャーロットのおくりもの』の作者というのが一番なじみが深いかも。"The Elements of Style"の著者でもあります。
このエッセイは1941年に書かれたもので、1900年代初頭の少年時代と今(エッセイ執筆当時)の湖での体験が交錯するもの。浅い理解なのかもしれませんが、2~3回読んだところで、私の頭の中には「郷愁」「焦燥」「受容」などの言葉が浮かびました。「なんとなく大意をとる」のはそう難しくないエッセイだと思います(翻訳は別です)。

これまでのエッセイは、1回ざっと読むと、すぐに著者や作品や時代背景などについていろいろ調べていたんですけど(実務ではそういう「まず調査ありき」の読み方をすることがほとんどです)、今回は、2度、3度と少しずつ注意するところを替えながら、Wikipedia以上の情報は入れないようにして原文を読んでみました。それから、いろいろ調べものをしながら原文を読み…という感じで、数回原文を読んで、かなりイメージが浮かぶようになってから翻訳に取りかかりました(それでも、自分の描いた絵が不十分だったと思い知らされるわけなんですけど…)。この読み方が適切なのかどうかわかりませんが、しばらくこのやり方を続けてみようと思います。

今回は、提出訳文配布時に、管理人さんから「メンバーの訳と自分の訳を比較するのではなく、他のメンバーの訳を読んで気になったところ、どう考えて訳したのか、訳語の選び方など、知りたいところや聞いてみたいところをチェックするようにしてください。間違いを探したり訳を評価したりする会ではありません」というコメントがありました。

それで、皆念入りに「全員の訳文を」原文と比較したのだと思います。ひとつ意見が出ると、皆が呼応し、これまでで一番「全員が深い議論をした」会だったのではないかと思います(管理人さんとしてはまだ不十分だったかもしれませんが、第1回から皆勤賞の私はそう感じました)。

「たずね方」ってありますよね。「この訳語すごい」「この訳文上手い」と思っても、そう言ってしまってはdiscussionはそこで終わってしまいます。疑問であれ賞賛であれ「なぜその訳語を選んだのですか」「なぜそんな風に訳そうとしたのですか」と尋ねれば、「なぜ」に対する答えが返ってくるし、もしかしたら、別の誰かも異なる見方だったり解釈だったりを追加してくれるかもしれない。聞き方ひとつで議論が深まるし、「こう考えてこうした」「こうしようと努力したけれどうまくいかなかった」といった他のメンバーの「翻訳する過程」を知ることもできます。
管理人さんが仰りたかった(そしてやりたかった)ことのひとつは、そういうことではないかと思います。

だいたい皆同じ箇所で悩んでいるんですけど、もう少し気を配るべきだったのに軽くスルーしていた(とあとになってわかった)ところもありました。精進精進。

今回はエッセイ冒頭部分が課題でしたが、次回は最後の部分の翻訳が課題です。
上手くできないのはわかっていますが(泣笑)、今からちょっとワクワクしています。


さて、Twitterで管理人さんも告知されていましたが、「翻訳を勉強する会」では、来春、ふたたび(東京編も数に入れればみたび)公開(後悔)勉強会を開催することになりました。私たちがふだんどのように勉強会を進めているかを体験していただきつつ、参加者の皆さんも積極的に参加できるような会にできればと思っています(希望的観測)。どんな風に進めていくかはこれから詰めてまいります。
2月下旬~3月の土曜日を考えております。詳細決定しましたら正式にアナウンス致しますので、興味を持ってくださった方、今しばらくお待ちください。
管理人さんと斬り合いたい方は今から腕を磨いておいていただければと(「それであなたはどう考えますか」と返り討ちにあうと思うけど、たぶん)。

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2019.10.06 01:28 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |