屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

もうしばらく前のことになりますが、FBで、友人のベテラン医薬翻訳者さん(以下Cさん)が、口腔外科案件がきたときに役に立った辞書を紹介してくださいました。

口腔外科といえば、身をもってインプラント治療を体験したワタクシも黙ってはおれません(すでに6本のインプラント持ちという...フトコロ寒かった...)。
そうした過去がある割りに口腔外科案件の少なかったワタクシですが、このところ、少しずつインプラント案件を頂くようになりました。強度試験的なものが多いですが。

ということで、歯科(インプラント)案件で役に立ちそうな(立つかもしれない/もっていると安心的な)辞書参考書類をまとめてみました。


●  「研究社歯学英和辞典」
紙版(研究社、2012年、12960円)
http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/978-4-7674-3470-4.html
CD-ROM版(LOGOVISTA)
https://www.logovista.co.jp/LVERP/shop/ItemDetail.aspx?contents_code=LVDKQ14010
*調べた用語はほぼ載っている感じ。ただし説明が少ないのが難点(Cさん)。
*訳語調べの第1選択肢。多少の分野知識があるヒトが使うという前提のようです(あたりまえか)。対訳君でも使用可能ですが、かなり文字化けがあって見にくいため、結局LOGOVISTAのブラウザで検索しています(Sayo)。

●  「歯科技工辞典」(医歯薬出版、初版、1991年、8640円)
http://www.ishiyaku.co.jp/search/details.aspx?bookcode=430201
*説明が詳しいので重宝しました。ずいぶん前に購入したものなのでどうかな~と思っていたら、1991年に発行されて以来改訂されずに増刷のみ繰り返しており、今でも本屋に並んでいるのは初版本(Cさん)。

●  「口腔インプラント学学術用語集」(医歯薬出版、2014年、3780円)
http://www.ishiyaku.co.jp/search/details.aspx?bookcode=457800
*用語の意味だけなら前述の2冊で十分。そしてすごく引きにくい(Cさん)。

●  「歯学生の口腔インプラント学」(医歯薬出版、2014年、8640円) 
138ページ(薄さがウリ??なので頁数も入れてみました)
http://www.ishiyaku.co.jp/search/details.aspx?bookcode=457810
*届いたときの感想「薄っ!」。医学書が高いのには慣れてますが、これはほんとにビックリしました。まあ中身はコンパクトによくまとまっており、知りたい情報も載っていたので元は取れたと思いますけど(Cさん)。
*医歯薬出版の該当ページでは一部中身を見ることができるのですが、目次内容と見本ページを見るかぎり「買ってもいいかな」的な参考書のように思えました。歯学生が対象ですし。そこそこ口腔外科案件も受ける/受けていこうと思っているなら持っていてもよいかと思います(といいつつまだ購入していないSayoです)。

●  「常用歯科辞典」(医歯薬出版、第4版、2016年、16200円)
アプリ利用権付(iOS,Android版)
こちらの画面で立読みが可能です。
http://www.ishiyaku.co.jp/search/details.aspx?bookcode=457900
*日→英辞書なので、巻末の英語索引が気になるところですが、かなり詳しい説明がなされていますし、図表も豊富のようです。あとはお値段との相談+受注頻度との兼合いかと。アプリ利用権ではなくCD-ROMをつけてほしかったところですが、「整形外科学用語集」の付属CD-ROMのように、立ち上げる度に対訳君を落としてくれる(確かに「動作は保証しない」と書いてありますけど...)付属CD-ROMもあり、一概に「CD-ROMが付属していればいい」とも言い切れないところがツラいところです(Sayo)。
 ** 「整形外科学用語集」のCD-ROM辞書は、以前のPC(32bitのWindows 7)では、対訳君も含め、特に他のソフトウェアに影響を及ぼすことなく正常動作していました。ソフトウェアやPCとの相性もあるかと思います。

●  「インプラントYear Book 2017」
(クインテッセンス出版、2017年、6912円)
https://www.quint-j.co.jp/shigakusyocom/html/products/detail.php?product_id=3397
*巻頭に「インプラント治療の10年後を予測する」(メーカー視点)という特集記事あり。その後は、各社による自社ラインナップの紹介+医師によるそのインプラントを用いた症例紹介(国内外30社)となっています。強度試験や比較試験報告書の多いワタクシ的には、さまざまなメーカーのインプラントについての知識が得られる本書は、「使わないかもしれないけどもっていると安心」的位置付けの参考書なのですが、受ける案件の種類によって不要という場合もあるかもしれません。非力な女性の方が上腕の筋肉を(軽く)鍛えたい場合にちょうどいい重さです(Sayo)。

●  「口腔インプラント治療指針2016」(医歯薬出版、2016年、2700円)
http://www.ishiyaku.co.jp/search/details.aspx?bookcode=457940
*「歯学生の口腔インプラント学」の医師対象版のような感じでしょうか。適度に図表もあり、解剖学的構造の説明もあってコンパクトにまとまっていますが、歯科医師が対象なので「知識があるのが前提」という感じです。ただ他の辞書参考書に比べればリーズナブルですし、参考文献リストもありますので、手元に置いておいてもいいかなと(置いてます-Sayo)。

また追加するかもしれませんが、ワタクシとCさんの現時点の感想をまとめると、上のような感じになります。
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2017.05.18 23:07 | 辞書・参考書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
2月にヨレヨレの半死状態で提出したコチラの通信講座、ちゃんと添削して頂くことができまして、先日、時間差で2本の添削済みシノプシスが戻ってまいりました。2本目の戻りはGW中でした。休日返上で添削頂いたようで、本当に感謝しています。

どのシノプシス原稿にも40~50個のコメントがつく(注意点と褒める点の両方)と聞いてはいましたが、課題図書には約40個、自由図書には20個ほどのコメントが付きました。
自由図書のコメントが少ないのは、決してワタクシのシノプシスのできがよかったからではなく、シノプシスが短すぎたからです。もっと正確に言えば、あらすじが。なもんで、突っ込むところがないのよね。

リーディングのシノプシスは、ざっくり言うと、作品情報、著者情報、あらすじ、読後感(所感)から成り立っているわけなんですが、ワタクシは、2本どちらのシノプシスについても、あらすじへのコメントでも全体講評でも「あらすじが短く不完全で編集者にきちんと本の内容が伝わらない」と言われてしまいました。所感は意外にも「長さも内容も適切」と言って頂けて、そこは救いです。ワタクシは、仕事でもそれ以外でも、たとえオブラートに包んだ状態であっても、「ここはちょっと...」とネガティブな言葉にするのがとても苦手なタイプでして(他人に嫌われたくないという都合のよいタイプなのだった)、作品のよい部分、悪い部分を比較しながらきちんと文章にするのはなかなかしんどかったからです。

講評では、あらすじ部分の不完全さを「時間が足りなかったのかもしれませんが」と思いやって頂きましたが(まあ、それは事実なんですけど)、たとえ時間があっても、自分には短いあらすじしか書けなかったと思います。
どうも、ワタクシは、勝手に「あらすじは短い方がいい」と思い込んでいたみたいです。頂いた資料もきちんと読んだんですけど(<て、読んで「理解して」ねーだろ<自分)。2本のサンプル・シノプシスも、あらすじ部分は結構テキトーに読み流していました。

どうしてかなと考えていて(あらすじをまとめて文章にする筆力や構成力が不足していることは、ここでは取りあえず忘れておくんなさい)、それは、「読者を意識して」あらすじを書いていたからかなということに思い至りました。他の方はどうか分かりませんが、読者としてのワタクシは、結構少ない情報で「よし、この本を読もう!」と決めるタイプです。「あー、そこまで言わんとって(楽しみが...)」的な(<それで失敗することも多いのだった)。あらすじをまとめるときは、知らず知らずのうちに「自分」という読者を意識してしまい、そのために自分好みの、結果「編集者からみて情報の足りないあらすじ」になってしまったような気がします。でも、よくよく考えてみれば(というか、考えてみるまでもなく)、編集者はシノプシスの情報を基に「売れるかも」を判断するわけですから、過不足のないそれなりの長さのあらすじがいりますよね。
読後感の部分は「編集者に売り込む」ことを意識して書いているので、読後感としては「適切」と言って頂けたものの、逆に、全体として、バランスの悪いちぐはぐな印象のシノプシスになっていたかもしれません。

ということで、もう一度サンプル・シノプシスを読み直し、2本の原稿を書き直してみようと思います。

毎日の仕事では、目に見えない読者を意識することはなかなか難しい(報告書が多いんで意識するまでもないというか...)。
リーディング講座は、「きちんと読者を意識した文書を作成する」ということの大切さと難しさを改めて意識するよいきっかけになったかなと。訓練という意味で、ときどき「コレ」という原書のシノプシスを作成することはやってみようと思います。時間はないけど...まあ、何とか作るよ(あくまでも希望的観測です)。
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2017.05.10 23:40 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
調律師が主人公の7編の連作短編集。
一種の「お仕事小説」と言えなくもないです。
内容バレバレの読書感想文なので、続きはお好みで。
(全部読んでから手に取られても、十分楽しめると思いますが)

主人公鳴瀬(文中「私」)は30代半ばの調律師。若い頃は将来を嘱望された新進ピアニストでしたが、10年前に交通事故で重傷を負い(その事故で、調律師だった妻・絵梨子を失います)、調律師に転身した過去があります。妻の死に対し、常に罪の意識を感じているようです。現在は義父が経営する鷹栖調律事務所に籍を置いています。
鳴瀬はもともと共感覚の持ち主で、ピアノの音を聴くと同時にさまざまな匂いを感じます。ピアニストだった頃は、音に呼応して色が見える「色聴」の持ち主でしたが、事故を境に「色聴」は消え、妻・絵梨子が持っていた「嗅聴」を持つようになっています。鳴瀬は、この匂いを頼りにピアノの調律を行います。
全体、ちょっとハードボイルドっぽい感じ。個人的にはこういう感じ好きです。

調律作業がかなり詳しく書かれているのですが、専門用語が多い上、素人には「こうなるようにこういうことをする」という説明そのものが難しく、頭の中をハテナマークが飛び交う箇所も少なくありません。それでも面白く読めてしまうのは、嗅覚を頼りにピアノを「気持ちのよい匂い」に戻していく過程(の描写)に、謎解きに通じる部分があるからなのかなと思います。
「共感覚」という言葉は初めて聞きましたが、Google Scholarをググってみると、かなりの数の論文がヒットしました。分かっていないことも多いようですが、きちんと研究されている分野でもあるのですね。

どの話も捨てがたいのですが、私は「朝日のようにやわらかに」という1編が好き。
ジャズバーのオーナーの「全体的に、少しだけタッチを柔らかくしてもらえないですかね。このピアノ、タッチを硬めにしてあるんで、不特定多数のピアニストに弾いてもらうには、ちょっと癖が強いかもしれないんで」(86頁)「前はそうでもなかったのでこのホールのせいだと思うんだけど、音に角がでちゃっているというか、樽で寝かせた時間が短いスコッチみたいな感じがするんですよねえ。決して不味くはないんだけど、できればあと五年は寝かせてほしい、みたいな。そのニュアンス、わかります?」(87頁)という要請に応じて、「どうすればそんな音になるか」を考えながら少しずつ調律を行っていくんですけど、作業内容にハテナマークは飛びものの、「こうすればこうなるだろう」という仮定の下に、目的の音に少しずつ近づけていく過程の描写には、こちらの胸をドキドキさせるものがあります。ラストでは、オーナーと鳴瀬が過去に出会っていたことも明らかになります。

第6話「超絶なる鐘のロンド」で、鳴瀬は、仙台市のコンサートホールでコンサート用のピアノの調律作業中に、東日本大震災に遭遇します。その地震の描写が「体験した者でなければこうは書けまい」と思えるほど真に迫ったものだったのですが、あとで調べてみると、著者は仙台の出身で、当時も現在も仙台市在住でした。地震の最中、ステージ上を自走し始めたグランドピアノを、演奏家と2人でステージ中央に押し戻そうとする描写があります。「迫ってくるピアノから一目散に逃げるべきところ、なにも考えずにピアノを押さえようとしており、それは隣の成澤も一緒だった。私も成澤も、素晴らしい音を奏でる高価なピアノを、無意識のうちに守ろうとしたのかもしれない」(186頁)。常に心の中にある仕事(職業)に対する姿勢の本能的な表出の描写のように思われ、自分もそうありたいと、何となく心に残った場面です。

震災の経験をきっかけに、鳴瀬は「嗅聴」を感じることができなくなります。音だけに頼って調律しなければならないことに不安を感じる鳴瀬ですが、ある夜、絵梨子(の幽霊というか、鳴瀬自身の心の声というか気づきというか...)が彼のもとを訪れ、「いつまでも自分を責め続け苦しんでいないで新たな一歩を踏み出してほしい」と語りかけます。
6か月後、被災地にピアノを届けるボランティアとして、純粋に音や演奏を楽しむ鳴瀬の描写で本作は終わります。
正直、ちょっともの足りない感が残ったのも事実。ハードボイルドできて、そう着地しますか、的な。

あとがきで、著者自身が、連載途中で震災を体験したため、それまでと同じように書くことができず、第6話で「(大きく)転調せざるを得なかった」と書いておられます。確かに、震災→共感覚を失う→妻の幽霊(?)に遭遇という流れには、若干の違和感というか唐突感を感じますし、私が感じた「ちょっともの足りない感」も、それに起因するものなのかもしれません。
あとがきには「作品の底辺に流れるテーマをも、当初のものからちがうものへと変更した」(244頁)ともありました。「妻の死についてひたすらに自分を責める」いう鳴瀬の人物造形も、そうした変更によるものなのかもしれません(最初の1、2話には、あまりそういう描写は出てこなかったので)。
最終話が書かれたのは、震災の2年後。震災を過去のものにできるだけの時間が経過したとはいえない時期ではありますが、著者は、鳴瀬の再生を描くことで、「時間は掛かるだろうけれど、残った自分を責めずに生きてほしい」ということも伝えたかったのかもしれないと思いました(いつものように的外れの深読みかもしれませんが)。

別にメッセージ色の濃い小説というわけではなく、「調律師」という仕事について興味深く読める1冊です。
表紙デザインも素敵なのだ。
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2017.05.05 20:24 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
この先」で若干気弱になっていたワタクシですが、「バタバタ」以外に体調不良という理由がありました。
そのとき記事に書かなかったのは、ポリペクトミーの結果が出る前にフライングした(=記事にした)結果、悪性判定をくらってしまった苦い過去があるから。
験を担いでみたりなどしてみました。

3月後半から胃の不調が続いていました(てか、「います」継続ですが)。
ときどき胃痛を伴う胃部不快感という、「我慢すれば普通に日常生活ができる」、ある意味一番厄介な状態です。
先月初めに掛り付け医のじいじ先生に相談して胃薬も処方していただき、最悪期を10とすれば今は平均3くらいの状態まで回復しました。
この「ときどき胃痛を伴う胃部不快感」というヤツは、疲れたりするとときどき背部痛を引き連れてやってくるのですが、これだけ長く続くのは珍しい。
5月1日にドックで胃カメラを飲むことになっていたので、「カメラを早める必要はないでしょう」というのがじいじの見解。
「ストレスが原因でしょう。逆流性食道炎か昔なら神経性胃炎と言ったヤツ」
ワタクシの「理性」も同じことを告げています。去年の胃カメラも問題なかったし。確かに、仕事も含めてストレスあったと思うし。
しかしワタクシの「妄想」は囁きます。「去年問題なくて今しんどいってことは、ソレ、かなり進行してるってことだよね」
想像力(妄想力?)はかなり豊かです。考え出すと留まるところを知らず、かなり疲弊した1ヵ月でした。

で、今日の人間ドック。
胃カメラ所見は異常なしでした。
それ以外にいくつか小さな異常はありますが、年も年なので、許容範囲内です。
ほんならその胃部不快感何やねんという話ですが、今ではこうした状態を表す「機能性ディスペプシア」という便利な言葉があるようです。

調子が悪いときは、妄想ループの罠にはまり「実家をたたむことに傾注し、仕事はやめなあかんかも」と思い詰めたりもしましたが、当面仕事も続けていけそうです。ていうか、まあ、いろいろ考えすぎなんですけど。
ホッとするとともに、すごく大きなプレゼントをもらった気分なのでした。改めて、自分はこの仕事が好きなのだなと思いました。大事に続けていきたいです。

てことで、今日は、人間ドック終了後BOOK OFFを攻めたりして、ワタクシ的には珍しく、仕事は全面オフなのだ~。また明日から頑張ります。
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2017.05.01 22:21 | 健康 | トラックバック(-) | コメント(6) |
福島正実訳/小尾芙佐訳

初読は多感な高校生の頃(...遠い目)。
原書も翻訳書も永久保存版として所持していたのですが、20年ほど前に諸般の事情により行方不明になってしまいました。

先日、図書館で偶然小尾芙佐訳を見つけ、「ならば旧訳も」と両方借り出しました。

「夏への扉」はSFです。
舞台は(原作時点からみた)近未来。
主人公である発明家ダンは、親友と婚約者の裏切りによって(愛猫ピート以外の)すべてを失い、失意のままピートとともに人工冬眠で30年の眠りにつく決意をします。直前で考えを変え友人と婚約者に一矢報いようとするのですが、逆に麻酔を打たれ、2人の奸計によって人工冬眠に送り込まれてしまいます。
30年後に覚醒したダンは、自分が原型を試作した万能ロボットや頭の中に思い描いていた機械が広く普及しているのを知り、その謎を解くために、タイムマシンでふたたび30年前の世界に戻ります。そこで、自分が目にした未来が現実のものとなるよう手を尽くし、今度は、救出したピートを連れて再び30年の眠りにつくのです。

冬になるとピートが「どれかは暖かい夏に通じているに違いない」と固く信じて探し続ける「夏への扉」。夏は、ざっくりいうなら明るく希望に満ちた未来の象徴かと思います。
冒頭と結びに「夏への扉」への言及があります。

本作のあらすじを短くまとめるのはとても難しい。てことで、興味を持たれた方は、まずはWikipediaさんあたりでもう少し詳しいあらすじを仕入れてくださいと逃げるSayoなのだった。
その上で、お好みで旧訳/新訳いずれかの訳書に進んで頂ければと思います。

最初に年代を整理しておきます。

原作発表:1956年
福島訳初版:1963年
福島訳文庫化:1979年
小尾訳初版:2009年

作中の「現在」:1970年
作中の「未来」:2000年~2001年

20年以上のときを経ての再読ですので、忘れているところも多々ありました。
何より、ワタクシも多感でナイーブな高校生ではなく、世の中のあんなこともこんなことも見てきた50代ですから、当時とは違う感想もあり、主人公に思わず回し蹴りを喰らわしてしまった箇所もありました。

1 「万能ロボットを発明して女性を家事から解放してやりたい」とのたまう主人公ですが、「まずはお前も家事をやらんかあああい」と、まずそこで回し蹴り。
2 最終的に辿りつく2000年の未来で、主人公は、自分ともピートとも大の仲良しである、親友の継娘リッキーと結ばれてメデタシメデタシの結末となります。1970年にはダンは29歳、リッキーは11歳、約20歳の年齢差があるのですが、タイムトラベルで戻ってきた2度目の1970年を去る前に、ダンは、リッキーに「10年経ってもまだおじさん(=自分)に会いたかったら、2000年まで人工冬眠しなさい」と言い聞かせて人工冬眠に入り、2000年に再会して結婚します(てことで、その時点で2人の年齢差は10歳弱まで縮まっています)。しかし、しかしですよ、ダンは、手ひどい裏切りにあうまでナイスバディの悪女ベルに首ったけだったわけで。ところどころに「ずっと自分を慕ってくれた誠実なリッキーがいい」という心境の変化が描かれていたような気もしますが、ラブストーリーにはほど遠く。初読時には「眠り姫みたい♪」とロマンチックに思ったわけですが、恋愛は遠い記憶の彼方、結婚の実態を知った今となっては、「いやいやいや、そこおとぎ話すぎるっしょ」とツッコミを入れずにはおれません。
3 タイムマシンが介在したことで若干力技で話が解決してしまった感は否めません。

そうは言っても。
ワタクシは、この作品好きです。旧訳も新訳も、勢いがついてからは一気読みでした。

特に旧訳と新訳を付き合わせながら読んだわけではありませんが(2つの作品を楽しむのが目的なので)、同じ箇所を比べてみると、小尾訳の方が読みやすい訳になっているように思われました。とはいえ、福島訳にはごつごつとした力強さがあり、それはそれで、「未来は必ずよくなる」と信じて疑わなかった時代背景に合っているような気がします。どちらもそれぞれの味わいがあり、結局、原作がPage turnerの秀作であれば(上では細かいところに文句を付けていますが、「夏への扉」はやはり圧倒的に面白いSF作品だと思います)、力のある訳者の方が訳せば、それぞれ趣の異なる優れた訳書に仕上がるのかなあと思いました。
以上はあくまでも個人的な読書感想文です>念のため。

新訳を読むにあたって、旧訳と比べてみたいと思っていた訳語(訳文)が3つありました。

1 Hired Girl
2 Flexible Frank
3 You know, I think he is right.

1はルンバのまだ上をいく自動床掃除機。床の状態を見極めて、掃いたり、拭いたり、磨いたり、異物を拾ったりとさまざまな動作が可能です。福島訳は「文化女中器」、小尾訳は「おそうじガール」でした(どちらもルビつき)。「文化」はここではたぶん、昭和初期の最新の洋風住宅「文化住宅」を念頭においた「最先端」を意味する訳語だと思います。「文化住宅」も「女中」も死語となった今、Hired Girlはどう訳されているのだろうと。素直な訳になっていました。全体のトーンからすれば、これはこれでいいのかなと。1950年代にすでにルンバの登場を予見していたハインラインは凄いなと思います(蛇足ながら、彼はCADにつながる「製図工ダン」という自動製図機も”発明”しています)。

2は、皿洗いから猫ののどかきまで学習させたことは(ほぼ)何でもできるという万能型ロボット。福島訳は「万能フランク」、小尾訳は「ばんのうフランク」(どちらもルビつき)。「万能」という訳は、このロボットにぴったりの訳語だと思うのですが、個人的には絶対出てこない訳語だな~と思います。

3は本書の最後の1文。エピローグ的にダンとリッキーの「幸せな今」が描かれたあと、

ただし、ピートは、どの猫でもそうなように、どうしても戸外へ出たがって仕方がない。彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。
(福島訳)

でもピートはまともな猫なので、外に行くほうが好きだし、家じゅうのドアを開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず”夏への扉”なのだという信念をぜったい曲げようとはしない。
そう、ピートが正しいのだとぼくは思う。
(小尾訳)

「ぼくはピートの肩を持つ」という力強い賛同の言葉が未来賛歌のようにも聞こえて、初読当時大好きでした(お忘れかもしれませんが、うぶでナイーブな高校生でしたんで>念のため)。「名訳」と呼ばれることもあるこの1文を小尾芙佐さんはどう訳されているのか、とても興味がありました。

あっさりしとるな、というのが第一印象。
でも、読み直すうち、ところどころ読み比べるうち、いろいろ考えるうちに、2009年の新訳はこれでいいのかなと思うようになりました。
作中の未来である2000年が過去のものとなってすでに久しく、わたしたちは「明るい未来はくるのか」と自信が持てない「現在」を生きています(少なくともワタクシはあまり楽観的ではありません)。「そう、ピートが正しいのだとぼくは思う」には、原作を尊重した上での、小尾さんの「わたしたちは本当は2000年代が素晴らしいばかりの時代ではないことを知っています。でも(未来は明るいと信じる)ピートは正しいと私は思います。あなたもそう信じてみませんか」という思いがこめられているような気がするのです。そう、今ならやっぱりこっちかな。

しつこいようですが、あくまで個人的な感想です>念のため。
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2017.04.27 22:58 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |