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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「今ごろ読んでるんかい」(2009年初版発行)と言われそうですが、先日まで読んでました。2巡しましたので、来週から「リベンジ編」に進もうと思います。

ツイッターで、

付箋と蛍光ペン片手に、今更「日本人なら必ず誤訳する英文」を読んでいるのだけど、間違い多くて泣ける。文法と構文に注意して読むようになった積もりでいたけれど、まだまだ雰囲気で読んでいるのだと痛感。「もっときちんと身につけなさい」という天の声と解釈。でも凹む(泣)。

と呟いたのが、昨年の11月13日。
2巡に2ヵ月かかっているわけですが(毎日ホントにちょっとずつなの)、それくらいの進み具合だと、いい具合に内容が記憶から消えていて、新たな気持ちで問題に取り組むことができます(言い訳です、はい)。

2巡目でも、1巡目に間違った箇所の半分以上で、同じ間違いを犯してしまいました。きっと、そこが自分のもっとも弱い部分なのだと思います。途中からは、問題と越前さんの解説をノートに書き写すようにしました。忘れた頃にもう一度読み返そうと思います。
(蛇足ですが、1巡目に正解だった問題を2巡目に間違う、ということもありました。雰囲気で「こんな感じかな」と訳したら、たまたま正解したもので、きちんと文法を理解していたわけではなかった、ということですね。)

文法的な弱点はさまざまあれど、それ以前に、自分は「雰囲気訳」が多いということが分かりました。勉強会に参加するようになってからは、雰囲気訳をしないよう注意してきたつもりですが、まだまだ「もうひと調べ」「もうひと確認」が足りないときがある。
読みや文法的解釈が不十分であっても、前後の流れからそれなりに訳せてしまう。しかもその解釈で(大筋は)合っていたりするものだから、文法を甘くみてしまう――それは、自分の欠点であり甘さであるということを痛感しました。
こんなに、できない、なんて(震撼)。

英文を文法的にきちんと解釈し、特定の単語や表現が使われている意図を理解し、その上で正しく文脈をよみとる――そのどれが欠けても、著者の意を汲んだ(その思考の流れを正しく移植した)適切な訳文を書くことはできないのだという、あたりまえと言えばあたりまえのことを、「日本人なら必ず誤訳する英文」に教えてもらったような気がします。

というわけで、次は「リベンジ編」に進むわけですが、この本のカバーのそでに書かれた「誤訳を防ぐための3か条」が――あたりまえのこととはいえ――とても素晴らしいものでしたので、転記しておきます。

1. 常識を働かせて英文を読むこと。違和感を覚えたら読みなおし、ゆっくり考えなおすこと。違和感には、大きく分けて形と意味の2種類がある。
2. 自分の弱点となっている文法事項を知り、覚えるべきことは覚えること。文脈から判断できない場合、最後の砦は文法の知識である。
3. 「自分の持っている知識など、たかが知れている」と自覚して、つねに調べ物を怠らないこと。
(『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文 リベンジ編』越前敏弥)
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2020.01.23 23:57 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

日本語タイトルは、ワタクシがその場のノリでつけてみました。
英語だけだと、「?」なタイトルですよね。

原書タイトルは、
『The Big Ones - How Natural Disasters Have Shaped Humanity (and what we can do about them)』 (Lucy Jones)

私が購入したのはコチラのペーパーバックですが、いくつか版があるようです。ペーパーバックはこれが一番安価。Kindle版は721円、Audibleは今なら0円です、0円ですよ、奥さま(2020年1月11日)。

原書は、勉強会のテキストや「これ読まな」(MUST)以外は、ヨコシマな下心(て何やねん<自分)を胸に(笑)、興味の持てそうな内容で、かつ翻訳書が出ていなさそうなもの(探し得るかぎり、ということですが)を選んで読むようにしています。原書を探すときは、必ず「なか見!検索」を斜め読みし、Amazon.comの書評を参考にします。医療系のノンフィクションを選ぶことが多いのですが(仕事柄、もあるけれど、もともと好きなジャンル)、これは、珍しく災害系(?)。「なか見!検索」で確認した目次に、関東大震災と東日本大震災が含まれていて、「外国人専門家の目からどのように見られているのだろう」と興味を持ちました。

著者Lucy Jonesは、カリフォルニア在住の地震学者。多数の論文を発表していますが、著作はこれが一冊目のようです。2016年にUnited States Geological Survey(USGS)を退いたとありますので(Wikipedia)、その後に書き上げたものだと思われます。原書を選ぶさいは、Referencesの充実具合も参考にするのですが、本書末尾のNotesやBibliographyも、しっかりしたものという印象を受けました(NotesとBibliographyは「なか見!検索」で確認できます)。

全12章の構成で、ヴェスヴィオ山の噴火による古代ローマ都市ポンペイの消滅から、東北大震災まで11の自然災害を年代順に取り上げ、その特徴、発生までの経緯、災害に際して人々がどのように行動したか、その災害やそのときの行動はその後どう活かされたのか(OR活かすべきか)を論じています。そして、最終章で、地震多発地帯(特にアメリカ西海岸)の住民や地震学者に何ができるかを考察するという全体の流れです。11の自然災害は、ヴェスヴィオス山の噴火、関東大震災、東北大震災の他に、ラキ火山の噴火(アイスランド)、アメリカの二つの大水害、ハリケーン・カトリーナによる水害など。

関東大震災の章では、震災以前、特に明治以前、日本で地震がどのように捉えられていたか(大ナマズが暴れているんだとか…)、明治時代に日本で地震学がどのように発展したか、当時の日本国民(特にもろに被害を受けた東京・横浜の人々)がこの天変地異をどのように捉え、また責任転嫁したかが、外国人視点ということもあるのか、淡々と書かれていてとても興味深いです。そして、(どの章もですが)ストーリーとして面白く読める。

また、ミシシッピー河畔の水害の章(だったと思う<付箋を貼り忘れた)には、大地震に比べて地味で世の耳目を引きにくいが、被害は膨大だというような記述があって、ここ数年の台風による災害を思い返してみると、本当にそのとおりだと思わずにはいられません。近年の災害の章には、地震学で予知できること・できないことについての記述もあって、これも興味深い。英語ですし専門用語もたくさん出てくるので、地震や堤防決壊などに関する記述は「なんとなく分かる」程度なのですが、文自体はそう難解ではなく、ワタクシのような地震学初心者も十分楽しめるものでした。
音読したので時間が掛かりましたが、黙読で読んだら、結構一気にいったんじゃないかと思います。

Amazon.comの評価は(高けりゃいいというものでもないとは思いますが)全89件、平均4.7とかなり高いものです(2020年1月11日)。

各地で災害が多発している現状を考えると、「日本でもそこそこ売れる本」ではないかと思います(もうどなたか翻訳中でしたらゴメンナサイ)。
万一、こちらを読んでおられる出版関係の方がおられたら、是非ご検討ください(この分野に強い方の翻訳、若しくは自然災害専門家の方の監修付きだと嬉しいかも>生意気言ってスイマセン>言うのはタダなので言うてみた)。
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2020.01.12 00:13 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
[お断り]
本ブログの勉強会関連の記事は、(自称)管理人第1秘書が個人的に思うところを自由に綴っているもので、決して勉強会の公式見解ではないことにご留意ください。
(公式ブログ:「翻訳を勉強する会 in 大阪」)

――という前提で読んでください。
一部、妄想や寝言も入っているかもしれません。


思い返せば、昨年3月、東京での公開勉強会を終えて心身ともにボロボロになり、「もう決して公開勉強会はすまい」と誓ったのではなかったか。どうした、事務局、何を血迷った。

というわけで、2月29日(土)、大阪で、3回目となる「翻訳を勉強する会」公開勉強会を開催します。
詳細はコチラ↓↓↓
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/0131ta10qxc04.html

始まりは昨年10月だったと記憶しています。
「翻訳を勉強する会」例会では、「読んで調べて解釈して表現した訳文を持ち寄って、全員が議論に参加し(場合によっては)議論を主導する」という当勉強会が目指す方向の萌芽が見え始めていました。いや、もちろん、それは一瞬の錯覚だったのかもしれせんが。であっても、そうした侃々諤々の議論は楽しい。「この楽しさをまた皆さんと共有したいですね、また公開勉強会どうでしょう」と口走った自分。そうだよ、元凶はおまえだよ。

もちろん仕事は「楽しい」ばかりではありません。けれど、「さまざまに調べ、原文を解釈し、最適な表現を探し、推敲を重ねる」というある意味贅沢な時間を過ごし、その結果をとことん議論し、「ああ楽しかった」と思えた経験は、その後の翻訳人生に確実に影響を与えてくれるのではないかと思うのです。たとえそれが一回限りの経験であっても。

というわけで、今回は、参加者全員に課題を提出していただくことにしました(オニかよ)。
申込み画面に課題掲載サイトのURLを記載しておりますので、公開勉強会に興味をもたれた方は、リンク先の課題をご一読ください。翻訳箇所は冒頭2段落と少なめですが、今回はその他に400字以内の全体要約課題を用意しました(これは私たち勉強会メンバーにとっても初めての取組みです)。なので、最後まできちんと読まなければ勉強会には参加できない仕様になっております。ご注意ください
(いや、こういうキビしい条件を出してきたのは、みな管理人さんだから。恨むなら管理人さんを恨んでください。そこのところ間違わないようにお願いします)

当日は、提出いただいた課題をもとに、グループワークを行う予定です(グループワークの内容は管理人さんの胸三寸なので、私たちもドキドキしているのだった)。
そのため、定員を少なめに設定しています。追加募集は予定しておりませんので、参加を検討される(命知らずの)方は、早めにお申込みください。

さて。
「課題について」の末尾には「当勉強会は答え合わせをする場ではありません。間違いを指摘したり、回答の優劣を比較したりする場でもありません。互いの回答を尊重し、どう読んだか、どう訳したかを議論する場です。難しめの課題に思い切りチャレンジしてください」と書かせていただいております。これは管理人さんの言葉ですが、勉強会メンバー全員の「訳文と議論に向かうさいの姿勢」でもあります。比較すべきものがあるとすれば、それは前回の自分、あるいは昨日の自分の英文解釈や訳文表現であり、他人の解釈や訳文ではありません。大切なのは「どれだけきちんと読み、訳したか」だと思っています。ですから、ベテラン翻訳者の方はもちろん、翻訳を初めて間もない方や学習者の方であっても「きちんと読み、訳し、推敲」します(するよう頑張ります)という方には、臆せず参加していただきたいと思っています。

最後に、課題"THEY ALL JUST WENT AWAY"についてひと言。
私も読んでみましたが、正直、読後感はあまりよくなかったです(笑)。好みもあろうかと思いますが、個人的には、課題じゃなかったら投げてますね。
(そういう感情的・皮相的な解釈をしちゃいけない、というのは、管理人さんからよく指摘される点ですが、正直な感想ではあります)
私自身も含め、多くの方が、ふだん「読み込む」ことは少ないタイプの文章ではないでしょうか。だからこそ、トライしてみる価値があるのでは。

文法的な解釈は別として、書かれた内容の解釈はひとつではないかもしれません(それもまた、多くの実務翻訳者が普段相手にする文書と違う点かと思います)。結局は、著者に聞かなければ「正しい」(という言葉は語弊があるかもしれませんが)解釈は分からないのかも。その著者解釈だって、『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル)のインタビューの中で、キャンベルさんの解釈に対し、陽水さんが「(そんな風に考えたことはなかったので)ははぁー、ちょっと目からうろこ」と言っているように、著者自身ぼんやりとしか捉えていなかったということも、もしかしたらあるかもしれません。ですから、公開勉強会では、たとえば経験豊かな先輩がこう解釈しているからそちらが正しいに違いないと頭から決めつけず、「よくよく考えて私はこう解釈した」ということをキチンと言葉にしていただけたら嬉しいです。そこからまた議論が広がっていくかもしれません。


――といろいろ書いてまいりましたが、がっつり準備をした上での議論、とても楽しいものです。他の方の発言に「おお、こんな視点もあったのか」と瞠目させられることもしばしば。時節柄、課題に取り組む時間を捻出するのは容易ではないと思いますが、半日、一緒に悩み、考えてみませんか? 皆さんのご参加をお待ちしております。
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2020.01.06 23:28 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

決して、どなたかに大きな「迷惑」を掛けたという意味ではありません、念のため。
(周りの方々に小さな迷惑をたくさんかけたであろうことは想像に難くありません。この場を借りてお詫び致します)

ということで、一年を振り返ってみました。


[総評]
慌ただしく過ぎた一年でした。
一年一年、少しずつ短く感じられるようになるのは、これが「年を取る」ということなのでしょうか。

ゆるやかに体力が低下し、ついに五十肩らしきものを迎えた以外は、主人も私も大過なく過ごすことができました。また、義父母も、白内障の手術、運転免許返納、自律神経の失調から来るらしい義母の不調などはあったものの(そしてもちろん、一年分のおだやかな老いはありましたが)、こちらも大過なく、家族の健康という点では平穏な一年でした(あと数日ありますが、たぶん)。ありがたいことです。せめてあと一年、この穏やかな状態が続いてくれればと願うばかりです。


[翻訳仕事]
「こういう訳文をつくりたい」「こんな風に翻訳と向き合いたい」が揺るがず来れた以外は、惑いの一年でした。今年を一字で表すなら「迷」か「惑」でしょうか。

今後の方向性について悩み続け、未だ答えは出ていません。

縁あって書籍の翻訳に携わる機会を得ました(正確には、まだやってます)*。
諸般の事情で、来年中に形になるかどうかは微妙なところです。もっと詳しく経緯をお伝えできる日が来るといいのですが。
毎日が、「自分なんかがこんなことをやっていていいのか」→「そんな弱気では著者にも読者にも失礼だ」→「とにかくできることを精一杯やろう」→自分のできなさ加減に打ちのめされる→最初に戻る、の永遠のループですが、きちんとやっているうちに終わりが来ることを信じて、一文ずつ、一パラグラフずつ、一章ずつ前に進むしかありません。
 * 書籍のことは、きちんと形になってから報告すべきなのではないかと悩みましたが、惑うている理由をきちんと説明するには外すわけにはいきませんでした。ということで、最低限の情報のみ記載することにしました。

翻訳を始めるにあたって、書籍の翻訳では先輩にあたる方から助言もいただきましたが、長いことなかなかペースが掴めずにいました。納期が長すぎて途中でダレてしまうということもありました(というかそこは現在進行形)。
そこに、普段の仕事・勉強会・セミナーの裏方の雑務が重なりました。
勉強会も裏方も「今しか打ち込めない」「打ち込みたい」という思いがあり、結果、仕事を減らすことになりました。

当然、今年の収入は昨年を大きく下回りました。
「仕事を減らす」という決断ができる環境にあったことは、幸せだったと思います。
我が家は数年前に主人が(体力的・精神的な限界を感じて)自己都合退職したため、その後、おもに私の収入のみで生活しています。私には二人分の生活を養うだけの収入がないので、少しずつ銀行預金を切り崩す生活をずっと続けてきました。それができたのは、退職までは主人の安定した収入があり、それまでにそこそこの貯蓄ができたからです。とはいえ、預金残高が少しずつ減っていくという生活は気持ちのいいものではありません。ここ数年大きなストレスになっているのは確かです。そして、仕事を減らした結果、当たり前と言えば当たり前ですが、今年の減り方は尋常ではありませんでした。

書籍の翻訳は、大変ですがやり甲斐もあります。けれど(ご存じだと思いますが)印税という形でしか収入になりません。また、「次」があるかどうかも分かりません(それも私の力次第なのでしょうが)。一年間、「この先どうしよう」という不安といつも背中合わせでした。
今までどおり実務の仕事を続けるにせよ、やり甲斐を感じられない仕事もそれなりにあり、今のままではいけない(自分の心が死んでしまう)という焦りもありました。
また、毎日の生活の糧をきちんと稼げていない状態で、ブログ等で翻訳の勉強を語ることについても、「そんな話をする資格はないのかもしれない」という思いが心のどこかにあり、常にその思いを引きずって苦しい一年でした。

「この先、どうしよう」
今も迷いの中にいます。
けれど、あと一年、迷いながら今の状態を続けようと決めました。とりあえず、一年なら生活なんとかなりそうなので。

まだ実務翻訳の効率を改善する工夫はできそうです。その点は、少し落ち着いたらもう少し探っていきたいと思っています。
また、これもよい機会かもしれないと、今年後半、方向性が違うと感じていた翻訳会社への登録を抹消しました。それで少し気分が楽になりました。今後は、受けたい仕事を中心に受けていくためにもっと何ができるか、という点もよく考えていこうと思います。
年末、友人の紹介で新たに翻訳会社に登録する機会に恵まれました。「CATは使わない、英日のみ」という条件を最初に提示した結果、「回せる仕事は少ないかもしれませんが」という話ではありますが、双方気持ちよく合意に達することができました。この流れになったのも、私の日々の仕事振りを友人が見ていてくれたからに違いなく、普段の仕事がいつどんな形で実を結ぶか分からないと実感しました。

この先しばらくは、実務の仕事をセーブしながら、書籍と勉強に一番の力を注ごうと思います。
それが、次の一年でやりたいことです。どんな風に進むにせよ、やはり力をつけておくことは大切だと思うので。
これまで培ってきたものが無駄にならないよう、SNSに足を突っ込みすぎないよう(笑)、一年頑張ります。
その結果、自分なりに書籍と実務のバランスをとったところに着地できるといいのですが。


本ブログも、これまで同様、そのときどきに思ったことを綴っていきます。
一年間お世話になりました。来年もどうぞ宜しくお願い致します。
皆さまが、平穏に新しい年を迎えることができますように。そして、新しい年が良き年になりますように。
少し早いですが、年末の挨拶とさせていただきます。
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2019.12.27 03:40 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル、講談社 2019年)

 
 タイトルどおり、歌詞の対訳集なのだけれど、陽水さんとの対談を含む訳詞の過程も書かれているということで、興味を持った。
 (私は陽水さんの曲は有名なヒット曲くらいしか知らない)

 本題に入る前の「はじめに」に、キャンベルさんがどんな英訳を目指したかが書かれている(ちなみに「はじめに」には「井上陽水はうなぎだ」という副題がついているのだけれど、ここではスルーするので、「うなぎ?」と興味を持たれた方は、購入するなり書店で立ち読みするなり図書館で借りるなりしていただければと思う)。

***(引用ここから)***

 難しいと思うのはまずそのまま「歌える英訳」を目指すのか、目指すなら言葉のひとつひとつが楽譜どおりに拍子(ルビ:リズム)に乗り、英語歌詞として破綻がないことを担保しなければならないけれど、そのためには、大切なことを切り捨てなければならないのです。
 一度素人なりに「氷の世界」を「歌える英語歌詞」として訳し音に乗せてみましたが、日本語に打ち込まれたもともとの陰影がことごとく網の目から抜け落ちてゆくばかりでした。そこで、なんとか歌詞のエッセンスを一滴もこぼさず読者に届けたいと考え、歌うのではなくまず読むための英訳=「読詞」を仕立てることにしました。

***(引用ここまで、P11)***

 私は(「著者の言っている(言いたい)ことを正確に読者に伝える」を基本として)、まず誰が何のために読むかを考え、文体や言葉遣いその他細かなスタンスなどをそれに合わせていく(仕事柄ということもあるかもしれない)。キャンベルさんの、原作を尊重しつつ、それを「自分はどんな風に届けたいのか」を考えるというアプローチは、最初に読んだとき「おお、自由だな」(読者どこいった?)と感じた。けれど、よく考えてみれば、歌詞という特殊性の強い原文の翻訳では、最初に「どういう形で読者に届けるか」ということをキチンと決めなければ先に進めない。キャンベルさんは、原作のもつ微妙なニュアンスを余すところなく伝えたい(そのために歌えない訳詞となってもしょうがない)、というスタンスをとられた。そして「(英語で歌えないということで、陽水ファンからは叱られるかもしれないが)ここではまず『読む詞』として味わっていただきたい」と読者に断っている。決して読者の存在を忘れているわけではない。そういう「翻訳する態度」を好ましく感じた。

 本書は3章構成になっている。
 第1章では、キャンベルさんがなぜ英訳を思い立ったかが語られ、第2章では、実際の訳詞の過程が語られる(二つの章のところどころに、陽水さんとの対談が散りばめられている)。そして第3章は実際の対訳集だ。

 第1章で、一番心に残ったのは、余白という言葉だった。
 当時私は、仕事のことで悶々とした日を送っていたので、よけいその部分に「感応」したのかもしれない。SNSへの言及に始まり、「文学」の役割について考察し、ドナルド・キーン氏による『雪国』(川端康成)の英訳へと続く文章を読んで感じたことを、そのとき私は「余白」という記事にした。

 自分の頭の中に確固たる(原文の)絵を描いた上で(←ここはすべての翻訳の出発点かと)、「余白を徹底的に潰す」のが実務翻訳なら、(原文の曖昧さに応じて)読者に解釈を委ねる余地を残す、つまり余白を感じさせる訳文をつくるのが文芸翻訳だといえるのではないかと、私は考えた(ちなみに、そのどちらとも少し違うように思えるノンフィクション翻訳では、大切にすべきは事実と著者の主張ではないかと思う。そこをしっかり踏まえた上で、まず訳文に余白を反映させるべき文章なのかどうかを判断し、その上でどこまで反映させるかを考えるということになるのではないか……と思ってみたりするのだが、まだ上手く考えをまとめきれていない)。
 キャンベルさんは、陽水さんの歌詞について、「聴き手に対するさりげない気遣いというか絶妙な距離感に深くうなずくしかありませんでした。この距離感こそが、日本文学でたびたび感じる『余白』だと思ったのです」(P51)と感想を述べている。そして、その「余白」を英詞でも表現しようと悪戦苦闘する。

 だからだろう、第2章のタイトルは「余白にきをつけろ」だ。
 第2章では、キャンベルさんは、個々の例を挙げながら、歌詞に、ときには陽水さんの視点にも、深い考察を加えていく。冒頭、「初めて聴く歌詞をすべて理解しなくてもさわりから大ざっぱにつかんでおけば、感情移入は十分にできます。逆に、全部わかったつもりの歌詞を一度音楽から突き放して読んでみると、いい詞ほど、意味不明な部分が現れます」と書いている。この「大ざっぱに掴んでわかったつもりになる」は、私も普段の仕事でやりがちだ。ざっと読んで大意を掴んだ「つもり」で訳し進めると、どうもきちんとつながらない箇所が出てくることがある。そんなときは、思い込みによる解釈間違いであることが多い。翻訳では「思い込み」を取っ払って読むことが大事だというのは、どんな翻訳でも同じだ。
 
 この第2章は、興味を引かれた箇所を挙げるとキリがないので(付箋だらけになっております)、二点だけ挙げておく。
 一つは、日本語詞中に現れる英語の処理。「なぜ英語を使ったのか」に関する考察も含めて、ナルホドという解釈をなさっている。
 もう一つは、「音」に関する考察――音合わせ的な言葉遣いを英語に置きかえるとき、どこまで配慮できるか――だ(昔Puffyが歌ってヒットした「アジアの純真」は、ナンセンスな言葉遊びの最たるものではないかと思う)。英語の頭韻や脚韻、単語の音合わせを日本語にどう反映するかはときどき考えることだが、逆方向については正直考えたことがなかったので、新鮮な気持ちで面白く読んだ。
 最後の部分で、キャンベルさんは、「英語で読む陽水さんの詞には、日本語だけで聴き、あるいは読む場合に思い浮かべる景色と異なるものがあります。総じて翻訳とはそういうもので、言語を前提にした文化の境を越えようとする時点で置いていかなければならない荷物と、理解を得るために肩の上に積まなければならない荷物とがあって、そのやり取りの過程で大切な旅人=原文が無事に向こう側へ渡れるかどうかが決まります」(P175)と書いている。渡し方はさまざまあれど、「必ず持って渡らなければならない荷物」というのもあるわけで、本書の訳詞においては(無意識か意識的かを問わず)陽水さんが歌詞に乗せて伝えようとしているものと、その結果原詞からかもしだされる微妙な空気(のようなもの)がそれではないかと思う。少なくとも、キャンベルさんは、それを大事にして翻訳に挑戦されたのだと、私は思っている。

 「翻訳は本業ではない」と仰るキャンベルさん。その翻訳との向き合い方に、翻訳者の私もさまざまに考えさせられるところがあった。

 そして今、私は、毎日少しずつ第3章の対訳を音読している。そして思うのは「陽水さんは、自分の主張をもった『詩人』だなあ」ということ。あらためて、日本語の音の面白さに、言葉選びの妙に「おおっ」と思ってしまう。それが、こういう英語になるのかという面白さもある。それらを読んでいくのは、中身のわからないおもちゃ箱の中から、ひとつひとつおもちゃを取り出すような、そんな感じだ。
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2019.12.14 00:38 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |