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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


 しばらく前にTwitterで、皆さんが「どうやって翻訳者になったか」という話を書いてらしたことがあり(私も参加しました)、そのとき「皆さんの子育てや介護の話も聞いてみたいよね」というツイートを目にしました。
 で、書いてみました
が。
ひとりひとり置かれた状況が違うわけで、子育ての体験談も介護の体験談も、たぶん「そういう乗り切り方もあるんだ」以上の参考になるものは少ないんじゃないかと思います。私の話も、そんな感じでひとつの例として読み流していただけたらと思います。

 どんな形で介護に携わるかは、本当にさまざまだと思います。
 実親なのか義父母なのか、シングルなのか結婚して自分の家庭があるのか、子育てと両立させる必要があるのか、親との関係はどうか、協力できる兄弟姉妹はいるのか、自分がキーパーソンとして介護を担うのか協力者の立場なのか、同居か別居か、実家(義実家)は近いのか遠隔地なのか、自分の稼ぎで一家の生活を支えているのか、一定期間翻訳量を減らしても(あるいは休業しても)生活していける状況なのか、どれくらいの費用を賄わなければならないのか――という感じで、介護の形が変わってくる要因は本当にたくさんあるかと。


 私の状況はこんな感じでした。

● 結婚前は、両親、父方の祖母、伯母(父の姉、生涯未婚)と同居、ひとり娘。
● 介護に携わる頃には、実家から一時間ほどの場所で別居。子どもはなし。
● 1999年に祖母(介護にはほぼ関与せず)、2007年に伯母(主介護者)、2011年に母(主介護者)、2012年に父(主介護者)を送る。生活の中心が介護だった期間は6年弱。
● 実際に自分が日々の介護に携わった期間はごく短期間。病院・老健・ホーム・特養にお世話になる。

 私の中には、自分ではほとんど何もしなかったこの状態を「介護」と呼んでいいのかという疑問が今でもあるのですが、「まあいいんじゃない」という友人の言葉に甘えて、本記事では「介護」と記載させていただきます。まあ、確かに、病院や施設との折衝や面会、付き添いも、それなりに面倒ではありました。


 自分の経験から、もしかしたら一般的にも多少は役に立つかもしれないと思うことは、以下のとおりです(あくまでも参考程度ということで)。

1 口だけ出す親戚の助言は基本すべてスルー
 私はひとり娘でしたし親戚も少なかったので、すべて自分で決めなければなりませんでしたが、それは、裏を返せば、すべて自分の裁量で決められるということです。話をどんどん進めることができて楽だった部分も結構ありました(体調不良その他何があっても誰にも頼れないということは、デメリットとしてあります。自分の健康管理には気を遣いました)。友人からは「口だけ出す親戚」の愚痴をよく聞かされ、しがらみが多いというのもそれなりに大変なのだなと思いました。でも、そういう方が介護を肩代わりしたり「こうしなさい」と言ったことにお金を出してくださったりすることはないので、可能であれば、のらりくらりへらへらスルーするのがベストかと思います。

2 使えるサービスはとことん使う
 行政サービスは、地域によってまた担当者によって当たり外れがあるという話も聞こえてきますが、使えるものは使うのがいいかなと私は思います。ただ、これは介護にかぎらずだと思いますが、「待っているだけでは手に入らない」情報もそれなりにあります。私の場合は、保健所での精神科医による介護無料相談がそうでした。市の広報誌を丹念に読んでいて見つけたもので、結果的に、自分にはこの先生の助言が大変役に立った(助けられた)と思っています。なので、調査能力をフル活用することは大事かと。その他に、ベタですが、支援センターや病院のソーシャルワーカーさんを使い倒しました。たまたまあたった方がよい方だったのかもしれませんが、皆さん親身に相談に乗ってくださいました。
 実家が遠隔地の方は、今は(サービスの質はわからないですが)「見守りサービス」的なものもいくつもありますよね。これらは、私が介護に携わっていた頃にはなかったと思います。こういうサービスを考慮してみるのも手かもしれません。

3 介護では同じ状態は長くは続かない(悪い方に段階的にまたは急激に変化する)=介護に全力を注いで奔走しなければならない期間はそう長くない
 ときどき、子育ては期間が予想できるが介護はいつまで続くかわからないという言葉を耳にします。確かにそうだとは思いますが、介護の必要な高齢者の健康状態が、同じ状態で長く続くことの方が少ないのではないかと、私は思います。以外にあっさり、宙ぶらりんの「どうすればいいのか」状態が終わる可能性もあります。いい方に変化することはまれですが。
 認知症の入った父も「この先父をどうしたらいいだろう」的要介護2の状態は長く続かず、わりと短期間のうちに要介護4まで状態が悪化し(結核で有無を言わせず療養施設に入所させられたということもありますが)、「特養空き待ち施設入所」に(言葉は悪いんですけど)スムーズに進みました。

4 自分の精神の安定が保たれることを最優先する
 私は母との相性がよくありませんでした。頭では母の人生のあれこれを理解し、ここまで育ててもらったことに感謝しなければならないと思ってはいますが、いまだに寂しい悲しい愛しいという気持は湧いてきません(むしろ、母が夢に出てきたときなど、「もう亡くなったはず」と苦しい思いをし、目覚めてもしばらく動悸が治まらないことが、ときどきあります)。ご不快に思われる方があったら、ごめんなさい。でも、そういう親子関係もあるということです。
 そんなわけで、私は、身体が弱りより頑迷さを増した母と相対することがとても苦痛でした。そして、母に対してそんな感情しか抱けない自分を責めました(ドラマなどでは何かのきっかけで親子関係が劇的に改善することがよくありますよね)。その結果、身体より先に心の方を壊しかけました。それを、先に書いた保健所相談の先生に救ってもらったわけですが(そのへんの経緯は本記事に直接関係ないので省きます)、その経験を通じて思うことは、自分が心身ともにある程度健康でなければ、(決断も含めた)適切な介護はできないということです。ですから、介護する相手の心の安寧や快適さに腐心することは大切だけれど、「自分の心と体を守ること」が一番大切ではないかと思うのです。どうやってそれを達成するかの方法は、状況や性格にもよりますし、人さまざまだと思います。

おまけ・成年後見
 (10年以上前の話でして、記憶を頼りに書いております。正しい詳しい情報が必要な方は、法務省の該当ページなどを確認してくださるようお願いします。)
 伯母が亡くなったとき、その少しばかりの財産は唯一の身内である父が相続することになったのですが、その時点で、父はもうきちんとした判断ができない状態でした。そして、私は「三親等の壁」に阻まれて代理手続きができませんでした。それを解決する唯一の方法が「父の後見者として代理手続きする」というものでしたので、家裁に申請して父の成年後見人になりました。
 成年後見手続きをするのがいいかどうかは微妙なところです。まず申請手続きが大変。成年後見人になってからも、家裁に定期的に収支報告をしなければなりません。私は、最初は6か月に一度、しばらくして1年に一度でよいという話になりましたが、成年後見人選定にあたって兄弟間でもめた場合などは、3か月に一度というケースもあるそうです。個人的には確定申告より面倒くさいと感じました。
 メリットとしては「施設入居費用や母の生活費・入院費として父のお金を動かせるようになった」ということがあります。大きな金額を動かす際は、その都度家裁に事前申告する必要があるのですが、施設入居費など定期的に出て行くお金については、年度初めに計画書で申告しておけば問題ありませんでした。
 私自身は、成年後見人になってさまざまなことがやりやすくなったと感じましたが、これも人それぞれだと思います。成年後見を検討される場合は、「後見」ではなく「補佐」や「補助」しかできない場合もありますので、家裁の無料相談などで事前によく相談されるのがよいと思います。

仕事のこと
 で、何でしたっけ。仕事の話でしたね。
 当時は、主人がまだ普通に仕事をしておりまして(今は諸般の事情により、パート勤務をしております)、贅沢さえしなければ、主人の給料だけで十分生活していける状態でした。
 ですから、完全休業という選択肢もありましたが、将来復帰することを考え、ゼロにはしませんでした。通常を100%とすると20~30%くらいの稼働状態だったと思います。登録していた翻訳会社には、状況を正直に話しました。そんなわけで、打診数そのものは減りましたが、それでも「今できそうですか」と声をかけ続けて下さった担当者の方々には感謝しかありません。ただ、これは、体力がなくかなりメンタルもやられていた私の場合ですので、同じ状況でしたら、他の方は60~70%は十分稼働できたのではないかと思います。
 仕事を減らせない状況にある方は、使えるサービスを使い倒し、協力できる家族がある場合は協力しながら最善の道を探るしかないのかなと。参考にならず申し訳ありません。

危篤・そのとき仕事はどうした
 父が危篤になったとき、私はいくつか仕事を抱えていました。母が亡くなって多少余裕ができたので、少し仕事を増やしていたのです。そのときの経緯は、以前ブログに書いていますので、リンクを張っておきます。
 翻訳会社の方々も人の子ですから「家族が危篤」という状況で一時的に仕事ができなくなっても、それが原因で、それ以後まわす仕事の量を減らすということはないと、私は思います。大事なのは、そのときにどう対処するかということではないかと。
その時、仕事は



 結局、いろいろ先を読んで計画を立ててもなるようにしかならないのが介護なんじゃないかなあという気がします。「いつかくる」という心の準備と、可能であればある程度資金の算段はしておいた方がいいと思いますが、それ以上のことは、「そのとき」がきたら、状況に従って、できるかぎりの情報を収集しつつ全力投球する、というやり方がベストなのかなあと。

 うちは、このあとまだ義父母の介護があるんですけど、「遠からずくる」(今は通院など軽い援助は必要ですが、基本的に自立してくれています)と一応の心準備をしつつ、毎日の生活を大事にしたいと――思いつつ、ついだらだらしてしまう毎日です。
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2019.09.18 16:28 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |

 テレビに釘付けの一日が終わり、次の日には日常が戻ってきた。学校に通い、ボランティアにでかけ、勉強し、家事をこなす日々。住んでいた国がテロの標的になったけれど、私の毎日の生活が直接影響を受けたわけではない。事件はわが事でもあり他人事でもあった。それでも、9.11が私の心を深く揺さぶり恐怖を植え付けたのは確かだった。
 
 学校は、地域住民ならだれでも格安でクラスをとれるCommunity Collegeで、中東系の面立ちの学生も少なくなかった。彼らがヘイトの対象になっている場面に遭遇したことはなかったし、クラスメイトが(一般的なものであれ)それらしき言葉を口にしたのを聞いたこともなかった。けれど、あとになって、いわれのないそしりを受けた学生がいたらしいという噂を聞いた。
 その年の暮れ、ボランティア先の図書館のエジプト人スタッフが、ひっそりと祖国に帰っていった。町なかで、兄が中東系の人間だというだけで通行人にからまれ、暴行され、けがを負い、「怖くてもうこの国には住めない」と思ったのだそうだ。「(アメリカ人の)友達もいるけれど」と寂しそうに言った顔が忘れられない。
 業務を縮小したり現地スタッフを増やして駐在員を減らしたりした日系企業も多く、テロ後1年ほどの間に、駐妻の知合いがひとりまたひとりと帰国していった。

 テロがあってから、私はキリスト教に興味をもった。信仰心が個人を支え、国としての団結をより強固なものにしているような印象を受けたのだ。当時師事していた英会話の先生(カトリック信者)に相談すると、”More Than a Carpenter” (Josh McDowell)* という書籍を紹介してくれた。100ページほどのペーパーバックだ。正直「理解が深まった」とは言えないが、いまだにこれ以上分かりやすい三位一体の説明はないと、個人的には思っている>ご参考まで。

 * 私が持っているのは1977年版ですが、2009年に、”new generation of seekers”を念頭に置いて、大幅な加筆が行われた新版が発行されているようです。

 「その日」でも書いたとおり、10月初旬にアフガニスタン侵攻が開始された。時を同じくして、炭疽菌入りの封筒が送られる「炭疽菌事件」が連日大きく報道されるようになった――というのが、私の記憶なのだが、記事を書くにあたって時系列に整理された情報を調べてみると、最初に炭疽菌入りの封筒が投函されたのは9月18日とある。人間の記憶はあてにならないものだ。テレビ局や出版社に宛てて投函された数通の炭疽菌入り封筒のうち、フロリダの出版社宛てに送られた封筒で犠牲者が出た。それが10月初旬だった。このあたりの経緯は、Richard Preston*の”The Demon in the Freezer”に詳しい。その後、上院議員宛てに再び炭疽菌入りの封筒が送られ、封筒が開封された建物は、除去作業のため数日間閉鎖された。封筒には9.11との関係を示唆するような紙片が入っており、生物兵器を使用した無差別テロかという報道もあったと記憶している。結局、テロとは無関係で、容疑者として浮上した米国人科学者の自殺で幕を閉じた、らしい(この頃にはもう日本に帰国していたので、「炭疽菌事件」の結末は、かなりあとになってから知った)。結局、数名が亡くなり、数十名が炭疽菌に感染した。
 この事件のもっとも恐ろしい部分は、封筒を扱った郵便局の職員が多数炭疽症を発症した――つまり、封筒紙の繊維をすり抜けるほど小さな炭疽菌芽胞が使用されたということだと思う。送付経路上にいて芽胞を吸入した者ならだれでも、炭疽症を発症する可能性があったのだ。
 そんなわけで、私たちはみな震え上がった。図書館の本のページに白い粉がついているのが発見され、専門家が出動したこともあった。宇宙服様のスーツを着用した人間が図書館に入っていくのは、想像するだけでもなかなかシュールな光景だが、当時はだれも笑ったりしなかった。予防用の抗生剤の名前と入手先情報が新聞に掲載されたりもした。私は、その記事を切り抜いて、かなり長いこと、冷蔵庫の扉にマグネットで貼っていた。

 *  Richard Prestonはエボラウィルス病(エボラ出血熱)を扱ったベストセラー”Hot Zone”(『ホットゾーン』高見浩訳)の著者。その恐怖を増幅するような臨場感あふれる描写や記載内容に批判的な文章を読んだこともありますが、Prestonが膨大な資料と関係者へのインタビューをもとに文章をまとめ上げているのは確かだと思います。2019年7月に新刊”Crisis in the Red Zone: The Story of the Deadliest Ebola Outbreak in History, and of the Outbreaks to Come”が出版されています。なお、「批判的文章」の方は”Ebola: The Natural and Human History”(David Quammen、『エボラの正体』山本光伸訳)。

 11月には、アメリカン航空の旅客機がJFK空港(NY)近くの住宅地に墜落し、乗員乗客全員と巻き添えになった住民数名が亡くなるという事件があった。のちに乱気流と操作ミスが重なった不幸な事故と判明するのだが、ブレーキングニュースが報道されたときは、だれもがテロを疑い、不安な数時間を過ごした。

 9.11は確かにおそろしい事件だった。旅客機を乗っ取っての自爆テロなど、それまでいったい誰が想像しただろう。だが、それは9月11日だけでは終わらなかった。表だっては、アフガニスタン侵攻を経て、イラク戦争へと向かった。水面下では、人々の心に恐怖を植え付けた。少なくとも私の心には、しばらくのあいだいつも恐怖という火種があり、なにか起こるたびに「またテロかも」という思いが頭をもたげた。理性的に「そんなはずはない」と打ち消すことができれば一番いいのだろうけれど、そうした原始的な恐怖を克服するのはなかなかむつかしい。憎しみに転化される(あるいは憎しみを煽ることに利用される)こともあるんじゃないかと思う。

 9月11日は、無駄に恐怖に支配されてはならないという(あたりまえの)ことを改めて思い出させてくれる日だ。
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2019.09.10 19:08 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |

 2001年9月11日。
 洗車しようと思ったくらいだから、その日は朝からいい天気だったと思う(ともかく、テレビ画面越しに見たNYの空は青かった)。
当時、私たちはシカゴ郊外に住んでいた。ダウンタウンから車で40分ほどの場所だ。
 その日、私は朝からクリニックの予約があり、新聞に目を通しただけで慌ただしく家を出た。いつもCNNでニュースをチェックするのに、その日はしなかった。NYとの間には1時間の時差があるから、テレビをつければ、もう「ツインタワーに飛行機が突っ込んだ」というブレーキングニュースが流れていたはずだ。
 クリニックにテレビはなかった。インターネットはダイヤルアップ接続、携帯電話の機能は通話とカメラだけという時代だ。その時刻クリニックに居合わせた人たちはだれも、東海岸で起こっていることを知らなかったと思う。
 診察は問題なく終わり、久しぶりに車を洗って帰ろうと、帰宅途中に機械洗車場に寄った。10時を少し回った頃だった。そこは、車を預けレジで精算をすませて洗車が終わるのを待つシステムになっている。レジの上に天井からテレビが吊してあるのだが、その日は、その前に人だかりができていた。テレビには、黒煙をあげる建物が映っている。画面にWashington, D.C.と字幕が出ていた。周囲の人にどうしたのかと聞くと、「ペンタゴンに飛行機が墜落した」と言う。「ツインタワーにも突っ込んだ。これはテロだ」と。
 そう聞いてもあまり実感は湧かなかった。その時点でまだツインタワーの映像を見ていないというのもあったかもしれない。
 帰宅すると、留守番電話が何本も入っていた。双方の母、主人、主人の同僚、直属の上司、NJ本社の主人の上司―― 
 その二、三日前から、主人はワシントン州に出張していた。私は、前夜本人からの電話で翌朝(9月11日)の移動はないことを聞いていたが、会社では詳しい移動予定を把握していなかったらしく、「飛行機に乗っているかも」という話になったらしい。会社からの電話はすべて「ご主人は無事ですので安心してください」というものだった。
 (余談だが、テロ発覚後、米国内の空港はすべて閉鎖され、運航が再開されたのは14日になってからだった。主人は帯同していた日本からの出張者を無事に帰国便に乗せるまで帰ることができず、結局1週間ほどポートランドに滞在することになった。)
 テレビをつけると、ちょうどツインタワーが崩落した直後で、画面では、崩落の瞬間や2機目の飛行機がタワーに激突した瞬間の映像が繰り返し流された。ことここに至って、私ははじめて、尋常ならざる事態が起こっているのだということを認識した。
 その時点ではまだ、あまり怖いという気持ちはなかった。乗客乗員がハイジャック犯に立ち向かったユナイテッド航空93便が、ピッツバーグ郊外に墜落したことが分かるのはもう少しあとだ。ダウンタウンならいざしらず、郊外の住宅地に住む自分の身に差し迫った危険があるとは思えなかった。だが、世界で一番忙しい空港と言われるシカゴ・オヘア空港を離陸した5機目のハイジャック機があって、シアーズタワー*を目指して果たせず、郊外に墜落するというシナリオだってあり得たかもしれないのだ。
 その日は何も手につかず、終日テレビを見ながらすごした。

 *シカゴダウンタウンの高層ビル。現在はウィリスタワーと呼ばれる。2001年当時、世界一の高さを誇っていた。

 それからしばらくの間、報道はTerrorist Attack一色だった。ニュースを見ながら、言葉が完全に聞き取れないことをもどかしく思い、また幸いにも思った。地元の新聞を購読していたので、新聞記事は丹念に読んだ。93便の反撃を主導した乗客のひとりが地元出身者だったことが明らかになり、新聞でも大きく扱われた。反撃の直前に彼が発したと言われる”Let’s roll”というフレーが広く知られるようになり、しばらくの間、何かことをなすさいの「決め」言葉的に用いられたと記憶している。
 1週間ほど経過した頃、ブッシュ大統領が議会で演説をおこなった。「テロには屈しない」と国民を鼓舞する内容だったと思うが、ほぼ1フレーズ毎に起こる異様なまでに熱狂的なstanding ovationを愛国心の発露と少しうらやましく思いつつ、この高揚した状態のままこの国はどこにいくのだろうと、一抹の不安を感じた。

 10月7日、やはりブレーキングニュースが、有志連合のアフガニスタン侵攻を伝えた(タリバーン政権は、9.11テロの首謀者と目される、アルカイダのビン・ラディンをかくまっているとも支援しているとも伝えられていた)。攻撃の様子をテレビで見るのははじめてではない。だが、遠い異国のできごとだった湾岸戦争(1991年)と違い、今自分は当事国にいる。相手国に攻撃されることはないとしても、またいつどこで、どんな形でテロが起こるかわからない。とにかく早く収束してほしいと、それだけを願った。
 タリバーン政権は倒れたが、ビン・ラディンの行方はわからずじまいで(のちに発見・殺害)、テロの脅威は消えず、2003年には対イラク戦争が始まることになる。その頃になると、庭木に黄色いリボン(家族が戦争に行っているというシンボル)を巻いた民家が増えていった。車で走っているときなど、リボンを目にするたびに「戦争をしている国にいる」ということを実感した。


 生活環境というものは、おそろしいものだ。私のような、よくも悪くも周りに感化されやすい人間にとっては特に。テロ以前、私は国防ということを真剣に考えたことはなかった。だが、テロ以降、現地の報道や周囲の人間の意見・行動などに接するうちに、「日本も有事に自分たちで国を守れるだけの軍事力を持たねばならない、それが衝突の抑止力にもなる」と考えるようになった。ひとつにまとまった(ように見える)アメリカがうらやましかった。他人事として扱う日本の報道(当時、読売新聞衛星版を購読していた)に不安が募ったということもあったと思う。
 帰国後、日本でさまざまな情報に接し、また外からアメリカという国を見るうちに、私の考えはまた変化した。今は軍事力で「一線」は越えるべきではないと思っている。自分のためにもこれからの世代のためにもそうあってほしい。
 もう一度、私の考えは変わるだろうか。絶対に変わらないとは言いきれない。けれど、あのとき雰囲気に流されて自分の考えを形づくってしまったことは、忘れないようにしたいと思う。自分の目や耳に入ってきやすい、狭い範囲のかたよった報道のみに頼って、自分の考えを変えることだけはするまい――そう自戒している。日本とアメリカを内から、そして外から見ることができたのは、本当に貴重な経験だったと思っている。


 事件から6ヵ月後の2002年3月11日、未公開のビデオを編集した特別番組が放送された。偶然消防隊だか警察だかに同行してツインタワーに入ることのできた記者が撮影した映像だ(記者も同行者も生還している)。途中何度も、建物の外からドカン、ドカンと大きな音が聞こえた。近くで自動車事故が起きたときに耳にするような音、とでも言えばいいだろうか。それが「炎と熱に耐えきれず高層階から地上にダイブした人体が地上に激突した音」だと教えてくれたのは、撮影者自身だったか番組のナレーションだったか――記憶はもうあいまいだが、私は一生その音を忘れないだろう。

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2019.09.01 00:44 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |

いつもひねりのない副題でスイマセン。
(あとで自分が内容を思い出しやすい副題にしています)

勉強会・通常編、終了しました。

今回は、まず、今後の進め方を話し合うところからスタート。
課題が取りまとめられた段階で、管理人さんから「課題の難易度が高すぎるかもしれない。要約継続の是非も含めて検討した方がいいかも」という提案があったためです。

話し合った結果、「現在のテキストをそのまま継続する」「要約に向かないタイプの文章も多く、またどうしても『要約のために読む』になってしまいがちなので、課題として要約を行い勉強会で検討することは止める。翻訳の前に要約するかどうかは個人の裁量にまかせる」ということになりました。
確かに、Best American Essays of the Centuryのエッセイは、読むのも訳すのもとても難しく青息吐息なのですが、普段の仕事に戻ったときにとてもラクに感じるのも事実でして(と油断していてはいけないんですけど)、個人的には今のテキストをそのまま続けたいなと思っておりました。というわけで、ワタクシ的には望ましい方向に向かってくれて嬉しく思っています。要約は、先のことはわかりませんが、当面続けてみるつもりです(井口さんが仰った「もう少しやさしい課題を、トーンや想定読者を変えて訳してみる」ということも、いつかやってみたいなと思っています)。
こんな風に、ときどき話し合って軌道修正しながら、メンバーが力をつけるのに最適な方法を探っていけるのが、勉強会のいいところかなと思います。

また、今回から、「日本語学習の時間」が追加されました。ひとつのテーマについて、それぞれが事前に下調べをしてきて、当日はルーレット(!)で指名された1名が発表、そこから話し合いに発展させるというやり方です。フタを開けてみると、ほぼ全員が何らかのプリントアウトを用意してきていて、活発なやり取りとなりました。初回は(連続の是非も含めた)「の」についての考察。次回は「は」格と「が」格について勉強します。
「番外編」では「『の』を減らす」というお話がありましたが、減らすにしても「の」とはどんなもので、どんな種類があるということを抑えておかないと、言い換えてよい「の」とそうでない「の」を、自信を持って適切に判断できないですよね。
これまで、さらっと簡単な文法書を読んだくらいで済ませてきましたので、ここできちんと勉強しようと思います。
管理人さんからは、

『日本語学入門』(近藤安月子、研究社 2008年)
『日本語の文法』(高橋太郎、ひつじ書房 2005年)
『日本語文法整理読本―解説と演習 (日本語教師トレーニングマニュアル) 』(井口厚夫他、バベルプレス 1994年)

の3冊を推薦いただき、まずは上2冊をAmazonさんで購入しました(帰りに寄ったリアル書店にはなかったので)。


後半は訳文検討の時間。
すでに何ヵ月やっているか分からなくなってきた(笑)"Graven Images"。もういい加減きちんと読めていいやろという話ですが、そう甘くはなく。細かい話は省きますが、皆さんの訳文を拝見し勉強会での検討を経て、自分は

● わざわざ難しく読んでいる。
● 一度思い込んだらなかなかその思い込みから離れられない。
● 本当はよく考えるべきポイントや単語を結構スルーしている。

ということがよく分かりました。
こうしたこと自体は、他の方にも「よくあること」かもしれませんが、問題は、自分はこれまで何回も、気づきとして似たようなことを書いてきた、ということ。これはもう、「(やってはいけないが)往々にしてある話」ではなく、自分の一番の「欠点」なのだときちんと意識して公言しなければいけないんじゃないかと。そこからのタイトル副題(前半)です。こうした自分の癖については、独学だけで気づくことは難しい。比べるもの(他の方の訳文)があり(やんわりと)指摘されてはじめてはっきり見えてくるものだと痛感しています。


勉強会については、いつもまずFB上で、「今日のスイーツ」の写真も含めて簡単に報告しています。
今回、「管理人さんがこれまで読んでこられた書籍参考書の数々、勉強されてきた内容を考えれば、並んで歩ける日が来るとは思えませんが、いつの日か(おずおずと)『ここが気になる』と細い赤線を引けるくらいにはなりたいものです」(各人が訳文の気になる箇所に赤線を引きコメントを添えたものを返して頂きました*)と報告しましたら、井口さんから「遠慮はいらない。どんどん口にすべき」(抜粋・以下の引用箇所同じ)というコメントを頂きました。それに対して「気になる箇所があっても、自分の中にきちんと説明できるだけの根拠がなく、ふわっとした説明しかできないので、自信が持てない」と返信しましたら、今度は「ふわっとした疑問でも『ここが気になる』ということは大事。そこから(メンバー全員による)ブレインストーミングにつながるかも。それが勉強会の醍醐味では」というコメントが。
それを読んでハッとしました。私は、もっと自信が持てるようになるまで「意見を述べるなど百年早い」と思っていたのですが(なので、勉強会では、どちらかというと聞かれたことに対して防戦し、たまに斬り込んでいく感じ)、それでは勉強会というより、片方が教えを請う講座に近いものになってしまいます。それは最初に自分たちが目指したものではなかったはず。まだまだ実力差はあるとはいえ(そして、互いに勉強を続ける分、その差はいつまで経っても埋まらないものなのかもしれませんが)、次回は(返り討ちにあうとしても)もっと声を上げていこうと思います(板書もしてるんで、なかなか難しいんですけど)。


* 「各人が訳文の気になる箇所に赤線を引きコメントを添えたものを返して頂きました」→最後に迷って書き換えたもの、イマイチと思いつつそれ以上の訳語を思いつかずそのままにした箇所も、「やはりな」という感じで指摘されていましたが、打ち返せそうなもの(笑)もありました。訳文自体はまだまだとしても、言葉で説明(弁明)できそうな箇所が増えたことが、「翻訳への向き合い方」という点で、この1年半の(少しの)進歩と言える、かもしれません。


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2019.08.25 00:05 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「ムギと王さま」(Eleanor Fargeon、石井桃子訳、岩波少年文庫2001年)

裏表紙には「『現代のアンデルセン』とも称されたファージョンの美しい自選短編集全27編」とあります。子どもの頃、大好きで何度も読み返しました。
私の手元にあったのは、おそらく1971年出版の単行本(ハードカバー)。今も実家の物置に保管されているはずなのですが、その物置だけは鍵が行方不明で、中のものを取り出すには鍵を壊して開けるしかありません。

ということで、図書館から借りてみました。とにかく分厚く重たく、その厚みがまた好ましかった記憶があるのですが、岩波少年「文庫」ということを差し引いても、薄い、軽い。嘘やろ――と思ったら、新版は「ムギと王さま」と「天国を出ていく」の2巻に分かれているのですね。それぞれに「本の小べや1」「本の小べや2」と副題がついています。

そう、この本の原題は"The Little Bookroom"。その原題の説明にもなっている「作者まえがき」が、私は大好きなのです。
ファージョンが子どもの頃に住んでいた家には、子どもたちが「本の小べや」と名づけた小さな部屋があったそうです。それ以外の部屋も本で占領されていて、「本を読まないでいることは、たべないでいるのとおなじくらい不自然に」思われるほどだったそうです。そうした部屋々々の本棚からあふれた本が流れつくのが「本の小べや」で、そこには選択も秩序もなく、雑多な本がところせましと積まれていて、「いろいろな種類の本でぎっしりつまっている、いくつかのせまい本棚は、壁の中ごろまでとどき、またその上には、ほとんど天井にとどくところまで、乱雑に本がつんでありました。床に山とつんであるのは、またがなければなりませんでしたし、まどによせかけてつみあげてあるのは、ちょっとさわれば、たおれおちました。おもしろそうな表紙の本をひきだせば、足もとには、まるで大波がおしよせたように本がひろがります」という状態だったとか。そして、子どもたちは日がな一日、そこで本に読みふけり、空想にふけったのです。

たとえば、屋根裏みたいに天井が低く天窓からひかりが差し込むような、秘密基地めいた小さな部屋に、こんな風に本が積まれていたら、嬉しくないですか。まあ、掃除も行き届かないでしょうから、ファージョン自身が言っているように、つねにほこりが舞っていて、のどを痛めてしまうに違いありませんが。

子どもの頃に住んでいた社宅では、せまいダイニングキッチンのダイニング部分を潰すような形で、天井まで父の蔵書が積まれていました。真ん中にあるせまい通路は、子ども一人やっと通れるほどの幅で、いつもうす暗く、奥はまるで穴蔵のよう。私はよくそこにもぐり込んでは、本の背表紙を飽かずながめたものです。そんな小さい頃の風景がファージョンの前書きとシンクロしたのかもしれません。(今は、本を処分することの大変さを身をもって知ってしまったので、自分では本に囲まれた生活はもういいやと思っていますが)。


再読すると、どれも「ああ、こんな話だったなあ」と懐かしくてたまりませんでした。何回も読み返しただけあって、少し読むと結末を言い当てられるお話がほとんどでした。
寓話や昔話、子どもの日常、神話に題材をとった話――とファージョンの語る話は多岐にわたります。『大学教授のように小説を読む方法』のフォスター先生なら、「こんな風に読み解ける」と仰るところかもしれませんが(注:決してThomas C. Foster氏に異を唱えているわけではありません。この本(私が読んでいるのは原書ですが)は小説をもう一歩踏み込んで深く読む読み方とその面白さを教えてくれます)、ここは、深読みは忘れ、童心にかえって楽しく読むのがいいかなと思います。石井桃子訳は、やわらかく暖かく、若衆だの駅夫だの、もう死語といってもよい言葉もたくさん登場しますが(初版は1959年)、それさえも古い不思議な世界に誘ってくれる合い言葉のようです。

中学生の頃は、王さまが小間使い(実はとなりの森の女王)と結婚なさったり、王女さまと木こりの青年が恋に落ちたりといった、"Happily ever after"系のお話に心惹かれましたが(そういうお年頃でした)、今は別のお話にもっと心を惹かれるのは、四十有余年という年月のなせる技でしょうか。再読して一番心に残ったのは『金魚』という掌編。むかしむかし金魚は海に住んでいたけれど、そこは金魚には広すぎると考えた海の王さまが、小さな金魚がほしいと泣いた世界(金魚鉢)と月(銀色の金魚)を金魚に与えてやるというだけの短いお話なのですけど、小さな金魚がなんだかとてもいとしくて。作者のお気に入りだったという、神話に題材をとった『パニュキス』も、初読時は別になんとも思わなかったのですが、(特に最後の大人になってからを描写した数行が)なんだかとても切なく感じられました。


というわけで、「本の小べや」が原点の女性が書いた物語に興味が湧いた、かつて少年少女だったみなさん。
図書館で見かけましたら、手に取ってみて頂ければと思います。
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2019.08.23 23:25 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |