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2020. 11. 30  

 昨日、無事「改めて考えよう、翻訳に必要な力」セミナーを終了しました。

 登壇者の皆さん、運営スタッフの皆さん、お疲れさまでした/ありがとうございました。
 そして、ご参加くださった皆さんも、ご協力ありがとうございました。

 今日は雑感を。
 後日、オンラインセミナーを主催してみて感じたことをまとめられれば、と思っています。
 登壇者も運営も別々の場所にいて行うオンラインセミナーを主催してみて分かったことは、「セミナーを聞いている時間はない」ということ。適宜FBのグループで連絡を取り合い、参加者からの連絡や質問に答え、チャットから質問事項を抜き出してまとめその内容を共有し、ツイート(#改めて翻訳1129)をチェックし――と、ホント様々なことを並行して(裏で)やっていました。私が、じゃなくて、運営スタッフ全員で手分けして、です。今回、運営スタッフの皆さんの手際のよさには惚れ惚れしました。「司会進行よかった」と言ってくださった方もありましたが(それはそれで嬉しかったですが)、そうできたのは運営スタッフの皆さん、そして、あと1時間でも2時間でも喋っていられる(いたい?)方々ばかりなのに、予定時間ぴったりに対談をまとめてくださった登壇者の皆さんのおかげです。そのことは声を(文字も)大にして言っておきます。

 今回、もしかしたら、個人発表に戸惑われた方がいらっしゃったかもしれません。
 「改めて考えよう、翻訳に必要な力」というテーマを決めたとき、「テーマに沿って話したいことを話してください」とお願いしました。話したい(伝えたい)ことを話していただくのが、聞く側にも一番響くんじゃないかと思ったのです。そんなわけで、それぞれ「自分はこんな感じの話をしようと思う」ということは打合せ段階で言い合っておられましたけれど、各人がお互いの発表の内容を詳しく知ったのは、当日のそれぞれの発表のときだったはずなんです(高橋さきのさんと井口耕二さんはいつも「翻訳フォーラム」でご一緒されているので、お互いが話す内容は見当がついていたとは思いますが)。だから、三名の発表は――何というか――まとまりを欠いた、きちんとした筋書きのないものに見えた、かもしれません(いや、実際筋書きなかったんですが)。セミナーのテーマを見て「『翻訳に必要な力』を具体的に教えてもらえるんじゃないか」と思って参加された方がいらしたとしたら、「ちょっと想像していたのと違う」と思われた、かもしれません。

 高橋さきのさんは、「翻訳するとはどういうことなのか」を総論的に語ってくださいました。岩坂彰さんは、ご自身の記事翻訳の過程を説明することで、翻訳するには何が大切でなぜそこでそれをするのか(なぜその過程が必要なのか)を示してくださいました。そして、井口耕二さんは、ご自身の訳文推敲の過程を順を追って説明し、ベテラン翻訳者が何を考えどこに目を配りながら翻訳しているか、その思考の流れを見せてくださいました。決して具体的ではありませんでしたが(話の中で、あるいはその後の対談の中で具体的な方法(というか自分はこんなことをやった的な話?)も出ていたような気もしますが)、「翻訳に必要な力」をつけるために基本となる考え方や方法を示してくださったのではないかと思うのです。

 あ、私、今一参加者モードになってますね。
 どうか、上の段落は、主催者ではなく参加者が感じたことを書いたと捉えてやってください。

 セミナーから、何を学び何を感じ何を得たかは、自由であるべきではないかと私は思います。決して、主催者がこのようなことを言っていたからこう感じなければならない、ということはないはず。不満や失望を感じられた方も、もしかしたらいらっしゃったかもしれません(そうした感想は、できましたら「なぜそう感じたのか」という理由とともに、後日送付するアンケートの自由感想記入欄に書いていただけたらと思います)。

 ご出席の方は、ベテランやや多めでしたがベテランから学習中という方まで幅広く、翻訳フォーラム様関連の催しに参加したことがあるという方が結構多かったですが、夏の通翻フォーラムがこうした催しがはじめてという方もそこそこいらっしゃり、セミナーへの参加自体がはじめてという方もおられました。それまでどんな話を聞いてきたかによって受け取り方も受け取るものも違ってあたりまえではないかと思います。大事なのは、セミナーのあと、何が参考になったか、自分に足りないものは何かをよく考え、「よい」と思うことがあれば実践する、という姿勢なんじゃないでしょうか――というのは、あくまで私の個人的な考えですが(あと、私のようにいつも考えてばかりというのも、あまりよくないかもです)。
 
 というわけで、結局「感想・のようなもの」になってしまいましたが、ご参加の皆さんが何かひとつでも「心に響いた」ものを持ち帰ってくださったのだとしたら、こんな嬉しいことはありません。私も、どうしても実現したかったセミナーを無事に終えることができ、ホッとしています。
 登壇者の方々、運営メンバー、ご参加の皆さん、どうもありがとうございました。
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2020. 11. 27  
『イノベーターズI』(ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、講談社)

 *注)読書感想文ではありません。

 第6章まで読了(音読たまに黙読)。

 ふだんはあまり積極的に購入しない分野の書籍なのですが。
 でも、井口さんの訳された『PIXAR〈ピクサー〉』(ローレンス・レビー、文響社)を読んで、もっとこの方の訳文を読んでみたいと思ったのですね。グイグイ読ませる面白さは原作のもつ力には違いありませんが、妙な引っ掛かりのない井口さんの訳文は、それを存分に引き出していたと思うのです。

 というわけで、『イノベーターズ』を手に取ってみました。
 副題に「天才、ハッカー、ギークがおりなすデジタル革命史」とあるとおり、本書は「コンピュータ発展史」と呼ぶのがふさわしいと思いますが、発展に名を残した人々が「どんな人間だったか、何を考えたのか、その創造性の源がなんだったのか」が中心につづられます。ですから、私のような門外漢が読んでも十分楽しめる内容です。どんな人間かを伝えやすくするためもあるのでしょうか、文中、たとえば「XXはのちにこのときのことを『  』と語っている」などのように、登場人物の発言が随所に盛り込まれています。自分でこうした文章を訳してみてよく分かったのですが、発言(台詞)を訳すのはとてもむずかしい。ある程度自分の中に人物像をしっかりもっていないと「口調」がつくれないのです(もっとも、この「つくれない」は、経験の少なさも関係しているのかもしれませんが)。それが、訳し分けられていてスゴいなと思いました。

 「口調」の問題もそうですが、私は、序章の一文目、「コンピュータとインターネットは現代のひときわ重要な発明に数えられるが」という書き出しの部分にもうやられてしまったのでした。同業者の方なら、なんとなく原文が想像できるところではないかと思います("among the most important inventions of our era")。この「ひときわ」という言葉、言われてみればよくある表現なのですが、「among 最上級+複数形」を提示されたとき、果たして自分はこの言葉に行きつくことができるだろうかと思ったのです。いや、本当はそんな頼りない翻訳者ではいけないんですが。
 というわけで、『イノベーターズ』は内容を楽しみつつ、翻訳者目線で読むことにしました。読むほどに、文章のでこぼこ(突っかかり)の少なさや言葉の選び方に感心させられます。たとえば、「手練手管」や「臆面もなく」など、知っているけれど、その言葉を使おうと思ってもみなかった(思いつけなかった)言葉がいくつも出てくるのです。

 昨日TwitterでもShun Komamiyaさんとのやり取りで言及させていただきましたが、こうした(おそらく読書で仕入れた)「既知の(意味も分かる)言葉」は自分の頭の中の物置に、自分も実際に訳語候補として使える言葉は(同じく頭の中の)引き出しに入っているような気がします。引き出しの言葉は少し考えれば浮かんでくるけれど、物置の言葉はどうかすると、そこに入れたことさえ忘れてしまっている。「手練手管」なんか、まさにそう。この「引き出し」に入る言葉を増やさなければ、「いざというとき(笑)に本当に使える語彙」は増えないんじゃないか。
 ではどうすればいいのかと言えば、今思いつくのは、ブログやTwitterなどで「使えそうな文脈で実際に使ってみる」ことくらいです。そのとき、他の似た表現と比較しながら、なぜその言葉がベストなのかを考えるようにする(と言いつつ、自分がよく使う語彙の中でこの記事を書いていたりするわけですが)。以前は、「これは」と思う(一般的な)表現をExcelに対訳にして書き留めていたこともありましたが、この頃はあまりやっていません。書き留めたことで安心して終わってしまうことが多い、ということが分かったからです。あくまで自分の場合ですが、片っ端から物置に放り込んでいるのと同じ感覚なのです。

 上の「他の似た表現と比較しながら」というのは、現在「日本語構文マラソン」でやっていることです。「日本語構文マラソン」は約450種の機能語のそれぞれについて、とにかく3つ例文をつくるというもので、以前高橋さきのさんが参加者を募られたときに手を挙げました。その一部を選んでオンラインの例会であれこれやり合うという形で進められています。現在ちょっと斜め(?)の方向に脱線しておりまして、公式にはマラソンの方はストップしている状態ですが、個人的に(ほぼ)毎日一つ二つの機能語について、それは似たような「XX」という表現とどう違うのか、差し替えできるか、できなければなぜ――といったことを考えながら例文づくりに取り組むようにしています。蛇足ですが、この比較(の答え合せ?)のさい、『くらべてわかる日本語表現文型辞典』(Jリサーチ出版)や『日本語類義表現使い分け辞典』(研究社)にとても助けられています(後者は説明が細かすぎて、私は途中で力尽きてしまうことも多いのですが)。
 どこかに「考える」プロセスを入れたこうした練習(勉強?、訓練?)は、漫然と取り組むよりも少しは定着度が高いような気がします。



 ときどき「翻訳のセンス」という言葉を耳にすることがあります。「XXさんには最初から翻訳のセンスがあった」みたいな。
 昔は私もそんな風に思っていました。「センスがないんだから自分はあるセン以上のところまでいくのは無理だよね」と。でも、この頃では、特に意識して努力しなくても身についた(あるいはもって生まれた?)「センス」というものもあるにはあるけれど、一般に「センスがある」というときの「センス」は大部分が(正しい方向の)努力の積み重ねなんじゃないかと思うようになりました。「センスがない」と言うけれど、自分はいったいどれだけ努力をしてきただろう。「センスがある」人も「最初」の時点に至るまでにとてつもない努力をしてこられたんじゃないか――そう思うと、「もっと早く始めていればよかった」とは思うものの、この年になってもある程度は「翻訳のセンス」を磨くことはできるんじゃないかと思ったりするのです。
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2020. 11. 23  

 わたしは、本を読むのが下手だと思うんですよね。
 参考図書であれば、一言一句(←比喩ですが)力を入れて読んでしまい、読み終わったあと、重要ポイントが頭の中に残っていない(以前からそういう傾向がありましたので、「年のせい」のひと言では片づけられないような気がします)。また、楽しみのために読む小説などは、先が気になって飛ばし読みしたり最後の数ページだけ先に読んだりしてしまい、「味わって読む」ことが少ないような気がします。

 というわけで、もう1年近く前のことになりますが、勉強会の主宰に「本を読むために参考になりそうな本を紹介していただけませんか?」とお願いしました。
 そして、「こんな感じでどうでしょうか」と教えていただいたのが以下の3冊です。

 読了したのが何ヵ月も前でして、きちんと感想を書くには再読が必要なのですが、ずっと心の片隅に引っ掛かっておりましたので、とりあえず紹介だけしておきます。
 記載の順番に読みました。

 その後自分の中で何か変わったかと言われると「……」なのですが(<ヲイ)、新しく書籍を購入すると、まず、目次、索引、はじめに(はしがき)、おわりに(あとがき)に目を通してから積むように(<ヲイ)なりました。そしてもう「あの本買ったっけ?」と悩むことはなくなりました(←『翻訳とは何か―職業としての翻訳』を購入したことを忘れて図書館で2回借りたヒト)。


『本を読む本』(M.J.アドラー&C.D.ドーレン、外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫)
 原題は”How to Read a Book”1940年に初版が発行され、米本国はもちろん、各国語に翻訳され、長く読み継がれている本です。上記の邦訳は1972年改訂版の翻訳で、1997年に初版が発行されています。
 読書レベルを、初級読書(レベル1)、点検読書(レベル2)、分析読書(レベル3)、シントピカル読書(レベル4)の4段階に分類し、それぞれの段階でどんな風に本を読めばよいかを説いています。いや、ホント、恐ろしいくらい内容を忘れていますが、目次が助けてくれます。「どんなことが書かれているんだろう」と考えながらまず目次を読むこと、ホント大事(もちろん書籍の種類にもよるかと思いますが)。
 途中「(教養書はフィクションと本質的に異なり)科学や哲学の本の筆者は、読者をはらはらさせる必要はない。実際に、むしろはらはらした不安な状態に読者をおかない方が、読み通す努力を持続させることができる」と(実務翻訳者にも通じる)書き手の在り方に言及した箇所が現れたりするので、油断(?)はできません。


『段落論』(石黒圭、光文社新書)
 さまざまな面から「段落とはどういうものか」を考察しています。
 まだ自分の中でもうまくまとめられていないのだけれど、この中で紹介されていた、「絶対段落」を「書くための段落」、「相対段落」を「読むための段落」とする捉え方は面白く、個人的にはナルホドナと思うところがありました。「絶対段落」は英語のパラグラフに相当し、トピックセンテンスを太らせる方向に生成され、一方、長い文章を理解の流れに沿って切っていく「相対段落」はいわゆる日本語の段落に相当する。組み立ててまとまりをつくるものが「絶対段落」で、「切れ目」が前面に押し出された段落が「相対段落」。両者が同じにならないこともある、というものです。ただし、著者の石黒さんは「こうした違いから『パラグラフ』の英語は論理的で、『段落』の日本語は非論理的であるという短絡的な結論に簡単に至らない冷静さが必要です」と、両者を単純に図式化することを戒めています。


『「読む」技術』(石黒圭、光文社新書) 
 副題に「速読・精読・味読の力をつける」とあるとおり、さまざまな読み方について、それがどういう目的のものなのか、そしてどんな点に注意して読めばよいかを説いた本です。
 これもまた印象に残った箇所だけを語ることになりますが、味読の「視座・注視点・視線・視野」の説明は面白かった。そして、それに続く、宮沢賢治の「やまなし」「銀河鉄道の夜」の一節を「視点」に注目しながら読み解く部分も。これは、視点を通じて頭の中に映像を喚起しながら読む「視覚化ストラテジー」として紹介されていたものなのですが、翻訳で絵を描くさいにも参考になると思いました(それ以前に「そんな風に読めるんだ~」と純粋に面白かったです)。


 この3冊を読んで自分の本の読み方が変わったかと問われれば、またまた「うーん…」と言葉に詰まってしまってしまうのですが、「読み方」について考えることで(ほんの少し)全体の流れや(書き手の側からみた)文章を書くさいの構成といったものに意識が向くようになったような気がします。ご紹介くださった方の意図とは違ったところに行ってしまったかもしれないのですが…
 時間をおいてもう一度読んでみよう。今度は「フムフム」だけじゃなく、もう少しいろいろ考えながら。
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2020. 10. 30  

書籍のあとがきは原井先生が書いてくださいました。
なので、私は、一人でも多くの方に本書を手にとってもらえるよう、全力で訳者感想文を書きます。

*****

 テクノロジーが診断や治療の中心となりつつある現代医療においても、医師と患者のコミュニケーションが、質の高い医療を実現するための重要な要素だということに、だれしも異存はないだろう。だが、実際どの程度重要なのだろう? そもそも医師と患者はきちんとコミュニケーションがとれているのだろうか? 前著『What Doctors Feel』(邦題『医師の感情:「平静の心」がゆれるとき』)で医師の感情が医療にどのように影響を与えるかを考察したオーフリ医師は、本書では、コミュニケーションというやはり実体の掴みにくいものを考察の対象に選んだ。それこそがもっとも重要な診断ツールではないかと考えたからだ。そして、研究を紹介し数字を示しながら、コミュニケーションに関するさまざまな疑問を解き明かしていく。数字を用いた論考の前後には診察室での自身の経験や取材によって得たストーリーが散りばめられているので、読者は、自分にも関わりのある身近な問題としてコミュニケーションを捉えることができる。

 医師が途中で話をさえぎらなければ、患者は本当に――医師がおそれているように――際限なく喋り続けるのだろうか(第3章「相手がいてこそ」)? コミュニケーションは定量できるだろうか(第4章「聞いてほしい」)? 医療従事者の態度は術後の患者の回復に影響するだろうか(第6章「なにが効くのか」)? 話を聞く側は何もしなくてよいのだろうか(第8章「きちんと伝わらない」)? 医療過誤が生じたとき患者が医師や医療機関にもっとも望むことは何だろう(第10章「害をなすなかれ、それでもミスをしたときは」)? 医師は患者が本当に伝えたいことをきちんと聴き取れているだろうか(第11章「本当に言いたいこと」)? 医師に偏見はないのだろうか(第13章「その判断、本当に妥当ですか?」)?
 こうした問いのすべてについて、必ず研究の結果が数字とともに示される。

 BLM運動がアメリカ全土に波及し、日本のメディアにも取り上げられるようになった頃、私はちょうど医師の偏見を扱った章(第13章)を訳していた。医師は、人種的偏見はもちろんどのような偏見とももっとも縁遠い存在のように思えるが、決してそうではない。オーフリ医師は、潜在的連合テスト(IAT)の結果を示しながら、そのことを証明する。同時に、患者と自身のやりとりを振り返り、自分にも潜在的な偏見があるのではないかと自問する。
 本書がすぐれているのは、記述がそうした考察に留まらない点だ。オーフリ医師は随所で改善方法を提案する。たとえば、この章では、たとえ感情が追いつかない場合もまずは行動で偏見を抱いていないことを示すよう求めている。そうすればいつか潜在意識も変化するかもしれないし、何より研修医や看護師への模範となる、と。それくらいのことで人種差別の問題を解決できないことは明らかだが、それでも内なる偏見を直視し行動を変えることは小さな一歩であるにちがいない。

 全体をまとめる最終章では、本書を執筆するまで、オーフリ医師自身コミュニケーションは「息をするようなもの」だと考えていたことを告白している――呼吸困難に陥ったときだけ「治療」すればいい。だが、本書の各章で示されるとおり、コミュニケーションは、息をするように簡単な、無意識のうちにできるものではない。適切にコミュニケーションをとるには不断の意識的な努力が必要だ。だが、そうやって得られる恩恵は計り知れない。決してテクノロジーによって脇に押しやられてしまってよいものではないのだ。

 この本を訳してから、私は、診察の場で患者としてできることを実践している。その日必ず伝えたいことを三つ(頭の中に)書き出し、それを全部口にするまで医師との会話を終わらせないのだ。こう書くととても簡単なように聞こえるが、医師が会話を引き取ろうとするのをやんわりさえぎり、無言の圧に屈せずにいるのはなかなかむずかしい。けれど、不思議なことに、診察のあとは「言わなければならないことは言った」という満足感に包まれ、「先生はそれをもとに診断を下したのだから言うとおりにしよう」という気持ちになる。患者の側も「伝えたいことをきちんと伝える」ことで、確かに何かが変わるような気がする。

 本書は、医師と患者のコミュニケーションを扱ったもので、医療従事者や医学生を読者に想定している。だが、二人の人間がいるところには必ずコミュニケーションが生じるものだ。それは決して医療の世界には留まらない。一人でも多くの方に手にとっていただき、コミュニケーション、特に「相手の話をきちんと聴く」ことの大切さについて、改めて考えてみていただきたいと思うものである。

*****

 みすず書房に連絡をとり「共訳やりますか」と声をかけてくださった原井宏明先生、書籍翻訳ははじめての私に共訳を任せ、要所々々で鞭を当て、励まし、どんな質問にも丁寧に答えてくださったみすず書房の担当編集者、田所俊介さんに心から感謝いたします。
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2020. 10. 30  

 このたび、勝田さよの名前で原井宏明先生との共訳書『患者の話は医師にどう聞こえるのか――診察室のすれちがいを科学する』(ダニエル・オーフリ)がみすず書房から出版されることになりました。私の持ち込み企画です。
https://www.msz.co.jp/book/detail/08951/

 初訳書が翻訳したい本だったというのは、とてつもなく幸運なことに違いありません。

 とはいえ、それは(もちろんいくつもの幸運が重なった結果ではありましたが)「近くに転がってきたものを掴みとった」ものだと思っています。前編には、出版に至った経緯を記すことにします(どなたかのなにがしかの参考になるかもしれません)。


 この本は、もともと音読用に購入したものでした。洋書を音読する習慣は、駐妻として滞米時に「少しでも滑らかに喋ることができれば」と始めたものですから、もう20年以上続いていることになります。日本に帰国してからは医薬翻訳の勉強も兼ねてとテキスト類を音読していましたが、どうも面白くない。そこで、10年ほど前からは医療系のノンフィクションを読むようになりました。おもにAmazon.co.jp(洋書)で探して購入しています。書店や図書館で背表紙を読むのが大好きな私にとって、そうやって面白そうな本を探すのも至福の時間でした。数年前からは、未訳で面白そうな本を選び、「日本の読者も読みたいと思うだろうか」を考えながら読むようになりました。
 『患者の話は医師にどう聞こえるのか』の原書”What Patients Say, What Doctors Hear”(Danielle Ofri)は、2017年の末に購入したものです。すぐに「面白い」と思い、音読で数ページずつ進めるのがもどかしく、途中から黙読に切り替えました。医療従事者や医学生がおもな対象読者ですが、それ以外の読者にも思い当たることが多々ある内容だと思いました(そのあたりは、「後編:どんな本なのか――私的あとがき・のようなもの」で少し触れたいと思います)。この本を出版社に繋ぐことはできないだろうか。

 その2年ほど前、私は”Being Mortal”(Atul Gawande)を手に取りました。老いや病気で死を前にした人に対しまわりの人間や医療従事者は何ができるかを、医師が自分の体験をまじえて綴った上質の医療ノンフィクションで、「この本は絶対長く読まれ続ける」「だれか訳してほしい」と強く思いました。同時に「今頃だれかが訳しているに違いない」とも。
 その勘は当たっていて、”Being Mortal”は2016年6月に『死すべき定め-死にゆく人に何ができるか』(原井宏明訳)という邦題でみすず書房から出版されました。訳書の出版を知らせる原井先生のブログ記事を見つけたのはほんの偶然でした。その記事に”Being Mortal”を読んだ感想を書き込んだことがきっかけで、最初はブログ記事のコメント欄を通じて、その後はメールで、さらにはSNSでも先生とやり取りするようになりました。そして「一度お会いしましょうか」という話になり(先生は私が関東在住だと勘違いしていらしたようです)。ちょうど翻訳フォーラム・シンポジウム(2018年5月)で上京する少し前のことでしたので、シンポジウムの前日にお会いするという話になりました。
 先生にお会いしたとき、私は面白そうな洋書があると”What Patients Say, What Doctors Hear”を紹介しました。「でも版権があいているかどうか分からないんです」。実は、Danielle Ofriの前著”What Doctors Feel: How Emotions Affect the Practice of Medicine”は『医師の感情:「平静の心」がゆれるとき』(堀内志奈訳)という邦題ですでに医学書院から出版されており、”What Patients Say, What Doctors Hear”もすでにどこかの出版社が版権取得済みで翻訳が進んでいるという可能性も決してゼロではなかったのです。先生は、担当編集者に聞いてみましょうと請け合ってくださいました。
 そしてなんと1週間後には、先生から「版権あいています。一緒に訳しますか」というメールが届いたのです。仕事に関連する部分があると興味をもたれ、すぐにみすず書房の担当編集者である田所さんに聞いてくださったようでした。私は正直「先生、あの話覚えていてくれたらいいな」くらいの気持ちでしたので、この話の急展開に震え上がってしまいました。自分で翻訳したいという気持ちがまったくなかったと言えば嘘になります。でも、自分にそれだけの力はあるのだろうか。誰か私の実力を客観的に判断できる人に相談したい。

 その2年ほど前(<こればっか)、私はフェローアカデミーのノンフィクション講座(通信)を受講しました。出版翻訳にシフトしようという強い気持ちがあったわけではありません。その少し前から、よくも悪くも「慣れた」医学分野の文章以外の翻訳を学んでみたいという気持ちはありましたが、尊敬するI先生が講師をされるという点が受講の決め手になりました。講座の期間は6ヵ月、成績優秀者はすぐにも仕事ができるレベルと判断される「クラウン会員」に推薦されるのですが、もちろんそれにはかすりもせず、中の上の成績のまま講座を修了しました。I先生なら、私の力を客観的に判断してくださるに違いない。幸い、先生には講座修了後に別の翻訳セミナーでご一緒する機会があり、「困ったことがあれば何でも相談してください」という言葉をいただいていました。私はその不用意な社交辞令(笑)に賭けようと思いました。
 そこで、具体的なことはすべてぼかした上で、先生宛に長い相談メールを書きました。事情を説明したあと「編集の方も私の翻訳力に不安があるに違いないから、こちらから企画書作成と試訳の提出を提案しようと思う」と付け加えました(原井先生からのメールの時点では翻訳の話は口約束のみでした)。翌日には返信があり、祈るような気持ちでメールを開くと、最初に「共訳の件、大丈夫です。おやりなさい」と。「あなたにはまだ無理」と言われてもそれまでと思っていましたから、そのときの私の気持ちは――きっとこの気持ちを「第七天国にいっちまった」と言うのでしょう。
 とはいえ、いつまでも舞い上がっているわけにもいかず、実際的な話を進めていかなければなりません。みすず書房の田所さんにシノプシスと試訳を提出したい旨をお伝えすると、とりあえずシノプシスを書いてほしいと連絡があり、私は実務翻訳の合間を縫ってはじめてのシノプシスに挑戦することになりました。

 ノンフィクション講座を受講していたその同じ時期、私は並行して(株)リベルの「仕事につながるリーディング」という講座(通信)を受講していました(不定期の講座で今は開講されていないようです)。半年間に課題図書1冊、自由図書1冊を読んでレジュメに従ってシノプシスを作成して送ると添削してもらえる、というものです。「ノンフィクション講座を受講したのだからついでに勉強しておこう」くらいの気持ちでした。2冊とも「あらすじが短すぎる(これでは編集者の興味を引かない)が、所感部分は客観的な考察もありよい」という添削結果で、自分の弱点が分かりました。そうか、あらすじはもっと詳しく書くのか。
 というわけで、この講座のレジュメと『文芸翻訳教室』(越前敏弥)のリーディング関連の記述を参考にシノプシスを書き上げました。それが7月末のこと。翌月の企画会議にかけられるということでした。会議の前に「最初の数ページを訳してほしい」と言われ、すでに用意していたものを提出。「できあがりページ数を概算したいので」とのことでしたが、出版社としては、本当に翻訳を任せても大丈夫かどうかも確認したかったのかもしれません。出版企画は会議で無事承認され、実際の出版に向けて動き出すことになりました。

 版権が取得できGOサインが出たのが2018年11月。その後、原井先生が、本業やらご自身の著書の執筆やらで多忙を極められるようになり、当初だいたい半々ずつというお話だったのが、先生の了解を得て最終的に私が三分の二以上を訳させていただく形となりました。当初の予定より遅れて今年の6月に訳了したのですが、翻訳期間が延びたことで、私は、勉強会や翻訳フォーラムのシンポジウム、二度の公開勉強会、勉強会・番外編の企画などを通じて、翻訳について考える時間をたくさんいただくことができました。この間に翻訳(原文と訳文)に対する向き合い方も少し変わったような気がします。番外編(2019年7月)終了後、結局、それまで訳していたものを一からの訳し直しに近い形で修正しました。その後実務の仕事を減らしたり休んだりしながら、どうにか訳了まで完走。二度の赤入れを経て校了となりました。

 そうそう、これは言っておかなければ。
 番外編の直後、著者のオーフリ医師ご本人にお会いする機会に恵まれました。プライベートの旅行で来日され、版権エージェントを通じて出版社に「時間が合うようなら(担当者や翻訳者に)会いたい」と連絡があったのです。指定の日時に上京し、原井先生のクリニックで一時間ほどお話させていただきました。
 実際にお会いするまでのオーフリ先生の印象は、実は「つかみどころのない人」というものでした。原書を読んだときは(その時点で私の読みが不十分だったのかもしれませんが)「しっかり者でハキハキものを言う強そうな方」という印象でした。批判すべきはきっちり批判する態度にそんな印象を抱いたのかもしれません。けれど、YouTubeのインタビューなどを拝見すると、落ち着いた語り口には「強そうな」ところはまったくなく、第一印象よりずっと柔らかい方のように感じました。
 実際にお会いした先生は、人なつこくチャーミングで、くるくる変わる表情がとても魅力的な方でした。ユーモアをまじえて楽しそうに旅行の感想を語り、仕事の話になると、一転して真剣な口調になりました。その口調からは、内に秘めた芯の強さが感じられました。それら全部をひっくるめた方なのだなと、先生風にいうならそのときmy gut feelingが納得した感じです。この経験は、翻訳する上でも大きな助けになりました。このあと本人の台詞の「口調」で悩むことは少なかったように思います。「あの人なら日本語でこんな風に言うだろう」と容易に想像することができましたから。
 著者とじかに話をするという幸運はそうそうあるものではないに違いありません。今回の経験で(翻訳)人生の運をすべて使い果たしていないことを祈るばかりです。


 このように「面白い本があります」と原井先生に原書をご紹介してからはとんとん拍子に話が進んでいったわけですが、自信をもって「面白い」と言える本に出会うまでには、「面白そうな原書を探しては読む」を続けた期間が長くあり、その間に出会った心引かれる原書の感想を訳者にお伝えした行動力(無謀ともいう)があり(実は一度ではありません)、迷ったときに相談できる信頼に足る相手がいて、ノンフィクション翻訳もシノプシスの書き方も一通り学んでいた――という風に、「そこに向けてやるべき最低限のことはすべてやっていた」からこその結果だとも思うのです。
 それでもラッキーだったには違いないということは、忘れずにいたいと思います。今はまだ「一冊(正確にはその一部)書籍を訳した」に過ぎず、実務翻訳でいえば、初仕事を納品した、というところでしょうか。その先継続して受注していけるかどうかは、初仕事以降も安定した質の訳文を継続して提出できるかどうかにかかっています。書籍の翻訳もひとつの仕事のスパンこそ違いますが、基本は同じではないかと思うのです。幸運と言うべきか、今年の3月に同じ著者の新刊が出版され、その翻訳を任せていただくことになりました。でもその先は、私の実力次第。精進を重ね、力をつけて書籍の仕事も続けていければと思っています。

 この先どのような形で仕事をしていくかについては、まだ決めかねています。もう体力的に無理のきかない年齢です。バリバリ働くことはできません。義父母の介護もそこに見えている。書籍翻訳は遅々として進まない日々もあり精神的にもキツかったけれど、訳文を考え推敲を重ねる過程はとても楽しいものでした。反面、実務翻訳にも別種の面白さがあります。試験の結果から考察を経て結論に至る論理的な説明はときに美しいとも感じますし、難解な取り扱い方法をいかに分かりやすく伝えるかにもやる気をかき立てられます。それに、実務翻訳からは毎月少額なりとも定期的に収入が得られる。しかし同時に、休んだり減らしたりした時期にコロナ禍が重なり、全体的に受注量が減ったという厳しい現実があります。取引先の開拓に動いた方がいいのか書籍(と勉強)に力を入れるべきなのか。今はまだ貯金を切り崩すことができるけれど、この先は――と悩みは尽きません。当面、両立に悩みつつ、手探りしながら進んでいくことになると思います。

 
 一部の方はご存じですが、「勝田さよ」はブログ主Sayoの本名ではありません。私を可愛がり、甘やかし、いつも遠慮がちにそっと見守り応援してくれた伯母の名前です。今回訳書を出版するにあたり、出版社に「ペンネームを使いたいのですが」とお願いし快諾いただきました。
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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