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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


 もともと4月に(実会場で)開かれるはずだったものが、COVID-19の流行拡大を受けて中止になり、代わりにオンライン講座として開催されたものです。午前と午後の2回開催され、私は午後の方を受講しました。午後の講座は90名超が視聴するという盛況ぶり。知った方のお名前もちらほら見え、嬉しくなりました。

 講座では、担当講師のお話をお聞きするだけでなく、原稿(ゲラ刷り、事前に配布)を用いてその場で実際に校閲を体験する時間もあり、1時間半という時間が短く感じられました。Zoomのチャット機能を用いて質問ができるのもいいですね。講座中、講師以外にもうお一方校閲者の方がチャットルームに入られて、参加者からの質問に対応してくださいました。

 翻訳と同じだと思う部分も違う部分(「新聞」校閲という特殊性もあるかもしれません)もあり、さらにはハッキリ分けられない部分もあり、どうも上手くまとめられないので、箇条書きにします。

● 「書かれたものに不備がないかチェックし、整える」のが校閲の仕事。さまざまな種類の「不備」があるが、ケアレスミス以外に、思い込みから生じるものも多い。
 →この「思い込み」は翻訳でも気をつけなければならないものだ(というより、あらゆる分野・局面で気をつけなければならないものではないかと思う)。解釈間違いや訳語選択ミスは、最初「小さな違和感(なんかおかしい)」として引っ掛かる場合が多いのだけれど、思い込みは、この「違和感センサ」の効きを悪くしてしまう。

● 今回拾ったケアレスミス(誤字、助詞のダブり、同音異義語など)の多くは、Wildlightの辞書を上手く設定することでかなり防げるのではないかと感じた。但し、あるべき言葉の抜け落ちを拾うには、他の方も仰っていた読み上げや自身の音読が必要だと思う。音読すると、語順がおかしい場合も読みにくくて引っ掛かってしまうことが多いため、私はチェック作業のどこかで必ず音読するようにしている。

Wildlightについてはコチラを参照してください。
Microsoft Wordで動作するフリーのアドインマクロです。
https://terrysaito.com/wildlight/

● 新聞校閲は、原稿作成後と編集後(ゲラ刷り)の2回行う。人の手を経るので、間違いが起きる恐れがあるため。
→ 聞いたかぎりでは「同じようにチェックする」という印象を受けた。1回目と2回目で注目する点が変わるかどうか質問しようと思ったが聞きそびれた(文字入力が間に合わず質問できませんでした)。

● 第三者の視点でチェックする。読者の視点を大切にしている(読者によって読みやすいものに)
→ 新聞の製作では記者・編集者・校閲はそれぞれ別の人間だが、翻訳では、翻訳者がこの三者の業務を兼ねなければならない。翻訳作業と校閲作業のあいだに時間を置くなどして「書き手」視点から「読み手」視点にシフトする必要がある。

● 「最終的に品質が保証されたものを表に出す」ことを目的とするという点では、校閲も翻訳も同じだと思う。


 重複表現やものの数え方一覧(実習でも遭遇)などの資料を頂きました。講義中、参照する資料(紙版)の紹介もあり、ここで紹介された『数え方の辞典』(小学館)を購入しました。購入したあとで、Japan Knowledgeにも入ってるよ、と教えて頂いたのですが、読みものとして読むには紙版の方が読みやすいかなと思いますので、ま、いいか。

 実習では、コロナウイルス感染症関連の記事が多く取り上げられました。「コロナウイルス感染拡大」という表現には、医療翻訳者としてはもやっとするものがないでもありません(同じ質問をされた方もいらっしゃいました)。けれど、スペースの問題(少しでも原稿を短くする)を考えると、この表現になるのは仕方ないことなのかなと思います。ただ、読者のあいだに正しい表現を浸透させるのも新聞の仕事のひとつではないかと思いますので、紙面のどこかに「正しくは~だが、紙面のスペースの関係で~という表現を使用しています」のような記載があってもよいのではないかと、そんな風に思ったりもしました。


 講座を受講してみて、「『おかしい』はそのままにしない、とにかくいちいち辞書・事典を引く、『思い込み』は意識して捨てよ」が大事だと改めて思ったのでした(――てありきたりすぎ?)
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2020.07.01 01:00 | 翻訳祭・フォーラムetc.報告(2016-) | トラックバック(-) | コメント(0) |

 ご無沙汰しました。
 それなりに元気です。
 ちょうど、一年も折り返し点を迎えましたので、近況報告(?)など。

 一昨晩、一年以上抱えてきた大きな仕事にひと区切りつきました。

 振り返ってみれば、苦しく楽しい仕事で、やり甲斐はありました。けれど、収入的にあまり期待できない仕事ではあります(分かって引き受けた、というか突っ込んでいった仕事なので、後悔はありませんが)。遅々として訳出が進まぬ毎日の連続でした。特にここ半年は、どこがどうという訳ではないのですが心身の不調が続き(…単に年のせいかも…)、文字通り這って机に向かう日々もありました。よく乗り切れたものです。そこだけは自分を褒めてやろう。

 この仕事を最後までやり遂げるために、昨年は少し仕事をセーブした時期がありました。おかげで、昨年の収入は百万円を切るという目を覆うばかりの結果でした(貯金を切り崩して生き延びました)。チラッと事情を書いた記事はコチラ

 今年も少し仕事をセーブしたのですが、偶然にもと言うかなんと言うか、セーブを始めた時期は、COVID-19の流行が本格的に始まる直前でした。5月の連休明けに通常営業に戻したものの、世間はStay Homeのただ中。小さな仕事しかないか、大きな仕事の打診はあるものの、こちらの呈示する納期が折り合わず流れていく、という悲惨な状況が長く続きました。最近やっと「(多少)状況が改善してきたかもしれない」と感じています。一時的なものかもしれませんが。そんなわけで、今も貯金を切り崩して生活しています。

 というわけでですね、Twitterでは結構エラそーに翻訳に対する態度など呟いたりしておりますが、決して「楽しくやりたい翻訳をする」と「翻訳で生計を立てる」のバランスがとれた生活ができているわけではありません(エラそーなことたくさん書いてスイマセン)。

 そんな私の下半期ですが、年末の記事で表明したとおり、貯金に頼りながら、やりたい仕事(先日ひと区切りついた案件とは、まだしばらくお付き合いが続きます)を優先し、無理のない範囲で実務の仕事も受けながら、がしがし勉強できたらと思っています。やっぱり力はつけておきたい――と言っても、私くらいの年齢になると、一生懸命勉強して「現状を維持できる」というのが本当のところかもしれませんが。

 まだ本調子にはほど遠いですが、とにかく納期通り大きな仕事を納められたことで、少し気持ちが楽になりました。
 当面、無理せず頑張っていこうと思います――いやいや、がしがし勉強するんでしたね(棒読み)。
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2020.06.30 22:44 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

注:一参加者モードで書いております。勉強会の進行やその目的は、あくまでも参加者としての理解や感想であること、ご了承ください。

 二回目のオンライン勉強会が終わりました(先週の金曜日だけど)。
 一パラグラフ(数行)と三時間格闘し、精根尽き果てたという感じ。オンライン勉強会、けっこう疲れますね。慣れていないというのもあるかもしれませんが。

 
 これまで参加していたオフライン(実際に会場に集まって)の小勉強会「翻訳を勉強する会」は、新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、実質休会状態になりました。
 そんなとき、会の管理人さんが「せっかくですから同じメンバーでオンライン勉強会をやりませんか」と皆に声をかけてくださったのです。ただし、二つは別ものという位置づけとのこと。もちろん、原文をきちんと読み、解釈し、適切な日本語にするという基本の部分は同じですが(別件でやり取りした際には、「スピンオフ的な」という言葉を使っておられました)。
 オフライン勉強会では「それなりの長さのエッセイを読んできちんと解釈し、各回二、三パラグラフの課題を訳し検討する」ということをやっていました。
 一方、オンライン勉強会では、一パラグラフの課題文の文法や構文などを細かく確認したのち、各人が勉強会開始時に提出した訳文を検討します。課題は、オフライン勉強会の主催(=「翻訳を勉強する会」管理人さん)が、当面『決定版 翻訳力錬成テキストブック:英文を一点の曇りなく読み解く』(柴田耕太郎)の中から選んでくださっています。
 訳文は前半の原文の確認が終わってから配布されます。手もとに訳文があるとどうしてもそちらに目がいってしまい、まっさらな状態で訳文を読み解くことができないんじゃないか、というのが主催の意見。理由を聞いてなるほどと思いました。確かに、先に訳文が配布されると、つい他の方の訳(特に自分の訳で気になっていた部分)に目が行ってしまい、「ち、間違った」「解釈あってたやん」といった先入観をもった状態で原文を見てしまうのですよね。オフラインの勉強会では、訳文検討が中心になります。エッセイ全体の話の流れや作家の意図、時代背景などに話が及ぶことも多々あります。「きちんと原文を解釈する」ことを目標に掲げてはいますが、どうしても原文の細かな部分への目配りがおろそかになりがちです(思い返してみて「自分の場合は」ということですが)。今一度「きちんと細かく見る」大切さを再認識させてくれる勉強会に参加することができ、ありがたく思っています(自分の欠点として、ひとつことに注力すると他のことが疎かになりがちなので、「細かく見つつも全体を俯瞰することも忘れない」を常に頭の片隅に留めておこうと思います)。


勉強会を終えての感想(順不同)

● 最初に書いたとおり、三時間ノンストップで格闘し、疲労困憊して終わりました。途中で休憩があった方がいいかも。
● オフラインの勉強会から継続してきた「批判的な議論をする(褒めるだけ、間違いを指摘するだけのやり取りをせず、そこからさらに議論が広がるような発言や訳語/訳文の提案を心がける)」という態度は、オンライン勉強会にも引き継がれていると感じました。メンバー全員の努力の結果かなと思います。
● 一パラグラフのみということで、各人の訳文が、オフライン勉強会のときより細かく検討されます。読点の使い方や語順など、自分の癖や弱点がオフライン勉強会のときより明確化されるように感じました。
● 自分は、細かいところ(文法や構文、語義など)にも全体(話の流れやトピックセンテンスなど)にも――もちろん間違いはありましたが――そこそこ目配りはできているが(この「そこそこ」というのが本当はくせ者ではあるんですが)、選んだ言葉、語順、文の書き方などにこめられた細かな作者の意図への気配りが不十分だなと実感しました。木も森もそれなりに見ているけれど、枝ぶりまでは気が回っていない、みたいな。これは、常にそのことを意識しながら(そうすれば「常に意識する」というそのこと自体が習慣になる)、読む・考える・訳すを続けることでしか改善しないのかなと。道は遠いなあ。
● 何より、一つの課題について「あーでもない、こーでもない」と言い合うのは楽しかった!


 私は褒められて慢心し駄目になるタイプなので、定期的に自分のできなさ具合を思い知らされるこうした機会は本当に貴重です。今回もその前の回も、閉会後「まだまだ読めてないじゃーん」とどんよりしましたが、そんな風に「今回はできたんじゃ」という自信を打ち砕かれるのは、自分には必要なことだと。この先、勉強会の形も変わっていくのかもしれませんが、当面今の勉強会で都度ズタボロにしてもらえたら嬉しいです。
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2020.06.08 22:57 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

『文章は接続詞で決まる』(石黒圭、光文社新書、2008年)
『「接続詞」の技術』(石黒圭、実務教育出版、2016年)

 ブログに書こうと机の脇に積んでひと月。「明日こそは明日こそは」詐欺を続けている(?)うちに、「翻訳フォーラム」さんがYou Tubeで紹介してくださいました!
URLはコチラ→https://www.youtube.com/watch?v=soeaJjdXIio

 もう、こちらの動画を見て頂くだけで十分なのですが、動画ではどちらかというと『「接続詞」の技術』が中心でしたので、オマケというか「気が向いたら読んでね」的に、二冊の読書感想文を書いておきます。

 あえてこの二冊の違いを挙げるなら、『文章は…』が接続詞を考えるための本であるのに対し、『「接続詞」の技術』は、日々のカキモノに接続詞を適切に使うための本であるということができるかなと思います。手を伸ばせば届くところに置いておくなら『「接続詞」の技術』の方。巻末の一覧表は切り離せるようになっていますので、一読したあとは、この一覧表を見えるところに貼るなり置くなりするのもよいかと(字が小さすぎて老眼にはツラい&スペースの問題がありまして、私はやっていませんが)。

 『「接続詞」の技術』は、動画でも紹介されていたとおり、四種十類の各分類に属する接続詞について、例を挙げながら細かな違いを説明しています。その明解な説明に、ナルホドと頷くばかりです。
 一読して心に残った部分は何箇所もありましたが、そのひとつが「『そして』は帰着点を表す働きがあり(中略)『そして』のあとに情報の比重が置かれるような語感があります」という部分です。よく、andの訳語として安易に使ってしまいがちな「そして」ですが、気をつけて用いないと、うるさいばかりでなく、本来際立たせるべき情報も霞ませてしまうと思いました。以前、柴田元幸さんが「日本語の『そして』はandより強い」と、どこかに書いていらしたのを拝読した記憶があるのですが、それはここで石黒さんが仰ることとも関係しているのではないかとも。そんな風に、別の著者がまったく別の文脈で言っておられたことが、自分の中で関連づけられるのも、(翻訳にかぎりませんが)「学び」の醍醐味のひとつではないかと思います。

 そういう実践的な書籍なので、どちらか一冊をということであれば、『「接続詞」の技術』の方かなと思いますが、できれば『文章は接続詞で決まる』の方も併せて読んでいただきたいです。
 こちらでも、やはり接続詞が四種十類に分類され、その説明にかなりのページが割かれており、実際『「接続詞」の技術』とかぶる部分も多いです。けれど、それ以外の部分に、接続詞を使うに当たってあらためて考えてみてもいいんじゃないかという箇所がいくつもあると思うんですよね。

 目次はこんな感じ。

 序章 接続詞がよいと文章が映える
 第一章 接続詞とは何か
 第二章 接続詞の役割
 第三章 論理の接続詞
 (ここから第六章までの四章を使って四種十類の接続詞を説明)
 第四章 整理の接続詞
 第五章 理解の接続詞
 第六章 展開の接続詞
 第七章 文末の接続詞
 第八章 話し言葉の接続詞
 第九章 接続詞のさじ加減
 第十章 接続詞の戦略的使用
 第十一章 接続詞と表現効果

 第二章「接続詞の役割」で、石黒さんは、書き手・読み手両方の立場から「接続詞」というものを考えておられます。この書く側からも読む側からも考えてみるという姿勢は、石黒さんの新著『段落論』にも引き継がれているように感じました(『段落論』はまだ途中なので、気のせいかもしれません)。
 第七章の「文末の接続詞」は、「日本語の場合、接続詞が文末に埋め込まれている場合があります」と始まります。最初はその考え方に「え」と思うかもしれませんが、読み進めていくと、納得できることばかりで、私は、この章を読んでから、訳文で「のだ」を使いそうになるたびに、「ここは本当に『のだ』がいいのか?」と考えるようになりました(←「のだ」が結構好きだったヒト)。だれでも文章をかくとき無意識のうちに、このいわゆる「文末接続詞」を使っているに違いないのですが、それらの働きについてあらためて考え直すことができる章だと思います。
 また、第九章の「接続詞のさじ加減」には、「接続詞を使わない方がよい場合」が、「接続詞の弊害1~5」として具体的に述べられています。接続詞は文章をnavigateする大事なものではあるのですが、「使わない方がいい場合」というのもあるんですよね(と読んで納得)。『「接続詞」の技術』にも、「不要な接続詞を間引く」という項目がありますが、この第九章ほど詳しく述べられているわけではありません。

 という感じなので、両方併せて読んだ方が、接続詞に対する理解(…いや、自分の場合まだ「理解」できたとは言えないので、「興味」かな)がより深まるんじゃないかと思います。

 動画の中で帽子屋さんは、『「接続詞」の技術』にはたくさん付箋をつけたと仰っていましたが、私は、アンダーラインはしまくりましたが、付箋はつけませんでした。(これもやはり帽子屋さんが仰っていたことなのですが)目次と索引が充実しているので、付箋がなくてもすぐに探している情報に辿り着けるんです(『文章は…』にはぺたぺた貼りましたが)。

 というわけで、「翻訳フォーラム」さんの動画を見てから、表題の二冊を読めば、接続詞がこれまでより可愛い(?)ものに見えてくるんじゃないかと思います。興味の湧いた方は、是非試してみてください。
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2020.05.16 21:24 | 辞書・参考書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

遺言を認めた。

決してうつになっているわけじゃない。まあ、精神的な疲れは溜まっているし、毎日うつうつはしてるけど(笑)。


実は、遺言を書くのがこれが三通目。

一通目は、もう10年以上前、両親の介護、特に母親への対応でテンパっていたときに書いた。
とにかく母親から逃げたくてしかたなく、でも、「逃げたあとのことはきちんと頼んでおかなくちゃ」と考えていたところからして、もう若干(いやかなり)普通じゃない。
(これは当時も今も変わらずなのだけれど、「血縁」という意味で私は天涯孤独だ。実家は私で途絶える。だから、実家の始末はきちんとしなければ、という強迫観念のようなものがあるのは事実だ)

二通目は、両親を(無事に)送ったあとに書いた。
お願い事項の内容を書き換えないといけなかった。


今回、遺言のことが頭に浮かんだのは、コロナウイルス感染症が急激に重篤化し死に至る例が、何例も報道されたから。
そういえば、両親を送って10年近くになるけれど、実家はそのままだし、永代供養の話も全然できてないし(かろうじて実家の仏壇だけは始末した)。

というわけで、登記謄本の場所を確認し、生命保険証券の場所と内容を確認し、預貯金通帳、実印、年金手帳、現在の住いの賃貸契約書の類も確認し書き留めた(旦那は自分のものも含め、これらの在処を知らない)。
(この部分は、あまり変更がない)

連絡してほしい人をリストアップし、SNSへの投稿とアカウント削除の手順も書き留めた(旦那はSNSはまったくやらない<だから私が安心して呟けるわけなんだけど)。
(連絡してほしい人の内容が少し変わる。SNSへの言及は新規)

それから本文を書いた。いつも本文は最後だ。
25年も一緒にいると、むかつくこともあるけど(<でもたぶんそれは向こうも同じ)、「私がいなくなったあとに一人でこれを読むんだ」と考えたら、やっぱり出てくるのは感謝の言葉になる。特に、実親の介護は、旦那の有形無形の強力なしには乗り切れなかった。書きながら、翻訳や自分のしたいことを優先させて(まあ、それは向こうも一緒なんだけど)、一緒に過ごしたり話をしたりする時間が少なかったなと思えてくる。せめて、これからの時間をもう少し大切にしようと、殊勝なことを考えたりもする。もっとも、それが、あとまだ20年くらい続くかもしれないんだけど。

…という一種の正常性バイアス的なものが、これを書いた今も、自分の心のどこかにあるとは思う。「自分は、自分だけは大丈夫」という根拠のない自信。
ともあれ、これからの毎日を、自分のためだけではなく、二人のために大事にすごし、これからの世の中を、自分なりに生き抜きたいと思う。

書いたことで、ちょっとほっとし、少し自分を見つめ直し、周りの人々のことにも思いを馳せた。
「書きたい」「書かなければ」と思ったことを文字にするのは、私には一番の自浄作用のような気がする。
明日からまた、少し落ち着いて、日常のさまざまなことをこなしていこうと思う。

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2020.05.12 00:47 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(1) |