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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


昨日、大阪事務局の方から、「公開勉強会」申込者の皆さんに、各種資料とアンケートをお送りしました。
これで、精算以外の処理が終わり、私たちもやっと前を向くことができます(笑)>すると、そこには、次回の課題が仁王立ちしているなど。

今回の課題は、私には(そして、おそらく大部分の参加者の方にとっても)とても難しいものでした。

私のふだんの仕事は、報告書や試験実施計画書が中心です。
機器の説明や動作が難解なものもありますが、それは、英文そのものが難解であるというより、動作原理や作用機序がきちんと理解できていないことに起因するものです。文章の流れを追うのが困難ということは、まずありません(英語がおかしい、または言葉足らずで分かりにくいということはたまにある)。
読者も、最初からほぼ想定されています。こうした文書は、最終的に、厚労省(PMDA)に提出される機器承認申請資料の一部となることが多いと思われるので、私は「医療機器全般について専門知識はあるが、開発技術者ほどの知識はない」という読者(審査官)を想定して、その読み手が「内容を理解する以外のところで無駄に頭を使わないでよい」訳文をつくるよう心がけています(もちろん、その前にクライアントの手でリライトされる可能性もそれなりにあるんですけど)。
文書作成者の意図に思いを馳せる、ということもありません。基本的に、「いかにスムーズに申請を行うか」が主目的なので。

けれど、課題では、本当にたくさんのことに気を配らなければなりませんでした。
具体的な事例から普遍的な考察へと移っていく文章の流れだったり(そこをきちんと読み取るには、ひとつの冠詞も時制もおろそかにはできないということが今回身に沁みました)、文章の書き方だったり、時代背景だったり、対象読者だったり。そして、彼の国とこの国の文化や歴史の積み重ね、感じ方や考え方の違いも。

対象読者といえば、勉強会で読者レベルに関する手掛かりを得るひとつの指標が示されましたが、それを使うと、あのえげつない課題は高校3年生向けの文章という結果になっていましたよね。私も、最初にレベルを聞いたときは「え」と思ったのですが、よく考えてみれば、自分たちも、学生時代けっこう難しい文章を読んでいたなと。思い出せる範囲でも、森鷗外の「舞姫」「最後の一句」、福永武彦の「あなたの最も好きな場所」など(最後のは公開模試で読んだものだったかも)。母国語だとはいえ、高校時代にそういう文章を鑑賞していたのだから、英文を正しく読み解くことができれば、課題エッセイももう少し深く鑑賞することができるのではないかと思わないでもありません(<それともそれは錯覚か)。

そうやって、ウンウン唸って得たものを、日本語でしかその文章を読まない読者にどういう表現で伝えれば、原文の意図(OR 自分が「意図」と錯覚したもの)を一番正しく伝えられるのか――といったことを考えると、本当にキリがないのですが、そうやって(できるかぎり)ギリギリまで頭を使うことが勉強会の目的のひとつなのかなと思います。勉強会は、そうやって、原文と訳文の間をいったりきたりする頭の使い方を自分の身体に覚え込ませるトレーニングの場でもあるのではないか(仕事ではここまでいったりきたりしないので)、そう考えると、また勉強会に対する意識も少し違ってくるような気がします。

これまでの勉強会を通じて、私は「自分には巨視的な視点が欠けている(実務翻訳って、微視的な視点だけでそれなりに訳せてしまうことってあるんですよね)」「ひとつ『これは大事だ』と思うことがあるとそれ以外のことをお座なりにしてしまいがち」だと自覚するようになりました。そうした欠点は、他のメンバーとのやり取りを通じてハッキリ見えてきたもので、勉強会には、そうした「自分の欠点を際立たせ気づかせやすくしてくれる」効果もあるように思います。
そして、今回の公開勉強会では、始めてしみじみと「英語の文体」について考えました。日本語で書かれる文章に人それぞれのクセや文体があるように、英語にも、その人その人の文章のクセや文体があるはずです。私は、これまで洋書はそれなりに読んできましたが、ストーリーや流れを追ったり内容を理解したりするのに精一杯で、「これはどういう英語なのだろう」ということを意識したことはなかったような気がします。というか、ハッキリ言ってまだよく分からない。恥ずかしながら、今回の課題の文章についても、管理人さんに「こうですよね」と言われて始めて「あ、そうなのか」と思う始末でして。この「文体」との戦い(おおげさ)が、今後の自分の課題のひとつになるかなと思います。

というふうに、回を重ねるごとに、新しい気づきがある勉強会。
ギリギリまで頭を使おうとすることで、「では、考える時間を長く取れる作業法はないか」とか「語彙(脳内辞書+Excelなどの手持ち辞書)を充実させるにはどうすればよいか」とか「考えるプロセスをもっとスムーズにできないか」といったことを考えるようにもなります。この頃では、それこそが究極の効率化ではないかと思うようにもなりました。そうした考え方や頭の使い方は、実務に戻ったときにも役に立つのではないかと思うのです。

順不同に書き連ねてきましたが、要は、勉強会の準備をするのは大変だけれど、得るものも大きく、毎回何らかの気づきがあるということです。
もちろん、どなたにもそれぞれの事情があり、すぐにも勉強会を始めたり参加したりできるものではないと思います。勉強会のメンバーはみな、子供がいなかったり子育てが一段落していたりする方ばかりで、そこそこ自分中心に時間を使うことができます。子育てまっただ中の方は、それもなかなか難しいでしょうし、家族の介護に携わっている方もいらっしゃるかもしれません。私自身、今後、義父母がもっと弱ってきたら、勉強会や仕事にどれだけ時間が割けるか分かりません(「だから今」という強迫観念のようなものがあるのは事実です)。
でも、結局、始めてみないと何ごとも始まらないし、始めてみたら、案外できてしまうものかもしれません。ちょうど私がそうだったように。
「公開勉強会」が、そうした「何か」のひとつのきっかけになれば嬉しく思います。

翻訳は、深く、難しく、一筋縄ではいかなくて、けれど面白くもある。
翻訳をひと言で言い表そうとすると、私の頭の中にはいつもawestruck という言葉が浮かんでくるのです(この単語もなかなか上手く訳せないんですよね)。
2019.03.11 03:09 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

Side 運営ときどき Side 参加者

「翻訳を勉強する会」自称管理人第1秘書です。
昨日、無事に公開処刑…もとい公開勉強会を終了することができました。

H野靖子さん、T橋(あ)さんを始めとする東京事務局の皆さんには、本当にお世話になりました。
参加者が交流しやすい会場を確保し設営してくださった上に、充実(以上)の糖分!
誰も、糖分不足のために最後まで頭がフル回転しなかったという言い訳はできますまい。
準備に奔走して下さった皆さんに、心から御礼申し上げます。

また、当日、足下の悪い中ご参加下さった皆さん、本当にありがとうございました。
参加人数も多く、なかなか発言しづらかったと思います。そんな中、ようやっと意見が出始めたなというところで時間切れになってしまい、bell で強制終了しなければならなかったこと、心苦しく思っております(…と言いつつ、ジツは、ベルを押すのが快感になっていたりして)。それでも、「自分も参加する」という雰囲気の一端でも感じて頂けたとしたら、大変嬉しく思います(発言を促して下さったF井さん、口火を切って下さった「8番」さん、ありがとうございました)。
昨日の会は、管理人さんによる要約の説明はありましたけれど、基本的には「私たちは、こう考えてこんな風に要約と翻訳に取り組んでいます」というところをお見せするつもりの会でした。その中で、同じ原文に取り組んだ参加者の皆さんにも「斬合い」に参加して頂こう、というのが私たちの目標とするところだったのですが、私たちの準備不足・力不足で、なかなかそういう方向に持っていけなかったこと、「今さら言われても」ではありますが、お詫び致します。
それでも、この公開勉強会が、皆さんが「自分に足りないものは何か」「それを強化するにはどうしたらよいか」といったことを改めて「考える」きっかけになれば嬉しいなと思います。「他人がやっているからいい」では何ごとも本当に身につかないのではないかというのが、秘書の考えです(過去、何度そういう小さな失敗を繰り返してきたことか…)。勉強会は要約や翻訳を検討し合う場所ではありますが、同時にメンバーそれぞれが自分の翻訳を顧みて、足りない箇所を伸ばすべく自分のテーマをもって取り組む場でもあります。そうやって考えてみた上で「要約をやってみよう」ということになれば、取り入れてみて下さい。その際、どうか最初の頃の私のように「要約が目的」にならないでくださいね。要約はあくまで最適の訳文をつくるための「手段」です。

当日の要約の説明については、私があれこれ言うより、以下のまとめを見て頂く方が、流れも分かり理解しやすいと思います。まとめを作成してくださったF井さん、管理人さんが喋った内容をリアルタイムでがんがんツイートしてくださった(おもに)Terryさん、本当にありがとうございました。

https://togetter.com/li/1324936


さて、皆さんがパシャパシャ撮影してくださったホワイトボード、質問がありましたので、ちょっとだけ書いておきます。
ツイートやFBでもボードの写真を公開してくださった方がいるので、参加者以外で目にされた方もいらっしゃるかと思いますが、ジツは、同じ板書でも(自分の中で)2つのモードがあって、今回の板書は2つのモードを行き来しています。
1つは、「要約」モードで、このときは、喋られた内容を分かりやすくまとめようと結構考えながら板書しています。通常の勉強会はこのモードです。議事録も兼ねているので、どうしてもそうなります。もう1つは「全書き(もっと適切な言葉が思い浮かばないので)」モードで、あとでそこから必要な部分、大事だと思う部分を拾っていくことが目的なので、「聞いたことは全て書き取る」が目標です(あくまで、目標ですよ、目標)。シンポジウムの際のノートの取り方はこちらです。
今回の板書でいうと、Q&Aの部分が後者になります。で、これは、私だけかもしれませんが、後者の板書をした内容は(あとで読み返すと思い出せますが)書いた直後はほとんど覚えていません。たぶん「考える」ということをほとんどしていないのだと思います。
今まで何となく当たり前のようにやってきた板書ですが、昨日改めて考えてみて、そういえば2モードあるなあと思いました。


以下は、参加者モードで、順不同に思ったことを。

● 要約の目的(きちんと流れを掴み最適の訳文をつくるための要約)を常に忘れないようにしなければと(何度目かに)自戒するなど。

● 通常の勉強会もそうなのですが、今回の公開勉強会でも、皆さんの訳文を拝見して、訳語や表現や解釈など「こうきたか」「こう処理するのか」「おおこの表現はまったく思いつかなかった」と思うものがいくつもありました。正直「負けたー」「悔しー」と思ったものも(いやいや、勝ち負けじゃないんですけど、正直な気持ちってことで)。でも、そういう思いをすると、次からそこには気を配ろうと思いますよね。ひとつのことしか見えなくなりがちな私も、この1年で、以前よりかなりさまざまなことに気が配れるようになったと思います(訳文の向上はとりあえず置いておいてね)。そういう経験を重ねて少しずつ翻訳をする力がついていくのではないでしょうか(と信じたい)。

● 懇親会の二次会(スイーツによる締め)で、「常体か敬体か」という話をしていたとき、I口(こ)さんから、「それもだが、翻訳するときには相手との距離を正しく測ることが大切ではないか」という意見が出ました。ざっくり言うと「読者の想定」ということになるのでしょうか。自分とどれくらいの距離にいるどんな相手(配偶者~近しい友人~それほど親しくない知人~見知らぬ一般大衆 etc.)に語りかけるかによって自ずと語調が決まるのではないか、というような話です。そのご意見にハッとするものがありました。ジツは、私は、今取り組んでいる少し納期長めの仕事で最近「何だかしっくりこない」と感じていることがあったのですが、それは、この部分が自分の中できちんと定まっていない状態で訳しているからなのかもしれない、と思い至ったのですね(もちろん、全然別の理由によるのかもしれませんが)。
勉強会もですが、翻訳者が集う懇親会や二次会は、こういう「あ」と思うような「がっつり翻訳な話」が出ることがままあるような気がします。子育て・介護・その他の事情で、懇親会まで出席するということが難しい方も多いかもしれません(私も、親を看ていたときは、そもそも勉強会やセミナーのことすら考えたことがありませんでした)。でも、もしも少し余裕ができたら、懇親会にも顔を出して頂き、そういう幸せな瞬間を体験して頂けたらなと思います。


大変なこともありプレッシャーもありましたが、終わってみれば幸せな1日でした。
皆さんのおかげです。ありがとうございました。
2019.03.04 22:25 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

公開勉強会(in 東京)が迫ってきました。
1年前、「翻訳を勉強する会」が始まったとき、こんな事態になると誰が想像できたでしょう。
「翻訳を勉強する会」は、「おおさかでXXハムさんたちが何かやっているらしい」と、たまに誰かの口の端に上る程度の小さな勉強会になるはず、でした。
それが、どうもこの頃、「何やら本格的な凄い勉強会らしい」(確かに「凄く」厳しい勉強会ではあります)という噂だけが独り歩きしているような。その虚像と実際の自分(たち)との差にとまどい、恐れおののく今日この頃です。
私たちは(少なくとも私は)、慢心しては自信をなくす、を繰り返している、ごく平凡な翻訳者です。どうかどうか、そこのところ誤解のなきようお願い致します(実物を見てがっかりされないよう、あらかじめ予防線を張っておくなど)。

私たちの地味な勉強会を多くの方に認知いただいた理由のひとつとして、「もっと上手く翻訳したい」と試行錯誤するだけでなく、そのために仲間と切磋琢磨したいという方が多いということがあるのかもしれません。勉強も仕事も、とても孤独な作業ですから。

私も、しばらく前から、他の方と一緒に勉強会をやってみたいという気持ちがありました。
けれど、勉強会は、ちょっと油断すると簡単に、仲よしランチクラブに流れたり、仲違いが起こって空中分解したり、メンバーが忙しくなって形骸化したりしてしまうおそれがあります。そういう勉強会は嫌だなと思っていました。もう年も年だし。
と思っていたところを、管理人さんに釣り上げられてしまったわけです。

「翻訳を勉強する会」は、1年が経過した今、いい感じに機能しています(もちろん、この先どうなるか分かりませんが)。今までそれなりに上手くやってこれた理由を考えてみました。あくまで自分の場合で、誰にもあてはまるものではないと思いますが、参考、ということで書いてみます。


● 最低これをやりたい、ここはブレたくないという点を最初に明確にする
  → 「翻訳を勉強する会」の場合は、「毎月それなりの量の英文を読みきちんと訳す、メンバー全員が参加する、分野を問わない和訳の勉強会」がこれにあたるかなと思います。もしかしたら、この先、「要約」は別のものに姿を変えたりなくなったりするかもしれませんが、この基本の部分は変わらないと思います。

● 少しだけ自分より秀でた人をつかまえてメンバーにする(笑)
  → この「少しだけ」という部分がミソかなと思います。あまり実力差がありすぎると、その人に「学ぶ」姿勢になってしまい、他のメンバーの積極性が低下してしまうと思うのです。また、「少しの差」の場合、知識や調べ方や訳し方という点で、その方自身もまだまだ向上できるような気がします。「翻訳を勉強する会」では、管理人さんがそういう立場でした。その圧倒的読書量は秘書らにはとうてい太刀打ちできないもので、その部分が「良書を教えてもらう」になってしまっているのは若干残念ですが、訳文に関していえば、管理人さんの訳文も、素晴らしいものではありますけど、決して他のメンバーのものを圧倒的に凌駕するものではありません。必死に努力すれば追いつけるかもしれないと感じさせてくれるものです。

● 訳文と人格は別ものということを忘れず、訳文の検討を行う。
  → とはいえ、自分の訳文に対する厳しい意見や指摘は(あとに禍根を残さないとはいっても、少なくともそのときは)あまり気持ちのよいものではありません。私は、どなたかの訳文にツッコミを入れるときは、ツッコミの数だけ褒めるように心がけています(除:対管理人さん)。

● 楽しみも大切
  → 雑談や糖分摂取タイムのおやつも勉強会に欠かすことはできません。

● ホワイトボードを活用する
  → もともと公開勉強会(in 大阪)の準備の一環として始めたものですが、その日に話し合ったことを共有できる以外に、意見を言いやすい雰囲気ができたような気がします。実際、ホワイトボードを使うようになってから議論が深まったように感じています。


順不同に挙げてみましたが、読み返してみると、あまり役に立たなさそうな(笑)。やはり、勉強会は「どうすれば自分もメンバーも向上できるか」を考えて運営していくのが一番だと思います。
始めてみて思ったのは、「新しいことを始めよう」と一歩を踏み出してみるのは意外に簡単だということ。その代わり、準備を整え、軌道に乗せ、続けていくには、かなりのエネルギーが必要。少なくとも私は、勉強会にかなりのエネルギーを吸い取られています。でも、それも何かの形で私の糧になっているのかも(錯覚かもしれませんが)。
そんなわけで、「とにかく始めてみる」は意外に簡単ですが、長く続けるためには、ある程度きちんと準備し話し合ってからの方がいいのかもしれません(というのは、あくまでも私の考えです<念のため)。何かの参考になりましたら幸いです。
2019.02.22 19:12 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |
早いもので、「翻訳を勉強する会」も2月で丸1年が経過しました。
長かったようなあっという間のような(まるで年末のセリフやな)。
簡単に1年を振り返ってみたいと思います(注:あくまで秘書個人の感想です)。

「分野を限定せず、まとまった量の良質の文章を読み要約した上で翻訳する」ことを目標に始まった勉強会。
それは「やってみたい」と思っていたことではありましたが、1年前は、自分は何を目指しているのか、どう勉強していきたいかが明確ではなかったような気がします。

管理人さんの発案で要約を取り入れてはみたものの、「なぜそれをするのか」「どうするのがいいのか」がよく分かっていなかったような。5月には、なぜ要約するのかを記事にまとめようと努力していますが(「なぜ要約するのか」)、今、当時の記事を読み返してみると、その時点では、まだ本当にキモの部分が分かっていなかったような感じがします。

それでも、翌6月には、「勉強会に参加するようになってから、『丁寧に読んだと思っていた』『読めたつもりでいた』ことがいかに多いかに気づき、愕然とし」「(勉強会は)『さまざまなことを踏み込んで考えるきっかけを与えてくれる場』であり、『読み方、訳し方』を自分なりに考え、メンバーとのやり取りの中で修正し、また試し...を繰り返す場のように感じ」るようになっています(「読めたつもりが...」)

といっても、7月はまだ「『自分はこうなんや』というところに気づいた段階で、『では、どうすればいい』『何をすればいい』という部分はまだ手探り」という状態です(「勉強会について」)。

8月には、11月に公開勉強会を行うことを正式決定し、「なぜ勉強会を続けるのか」を考えることが多くなりました。しかし、9月になってもまだ、「キモの部分を自分の中できちんと咀嚼できて」おらず「性懲りもなく毎回迷走してしまう」状態でした(「第7回勉強会-なぜ要約するのかふたたび」)。それでも、この月の勉強会でホワイトボードを使用するようになってから、少しずつですが、文法的なことや段落の関係などにも自然に目がいくようになり「常に情景を脳内再生」することを心がけるようになりました(「ホワイトボードは役に立つ+「公開勉強会」業務連絡」)

けれど、やはり、公開勉強会を経験したことが、自分の中でひとつの契機になった、というか、そこから、自分の中で、バラバラだったパズルのピースが少しずつまとまり始めたような気がします。公開勉強会を終えたあと、「何のために要約するのか」がようやく自分の中で明確になり、そこから「そのためにはどう読み要約するか」を考えるようになっていったと思います。また、自分の一番の欠点は、指摘や気づきがあると、ひとつのことしか考えられなくなることだと自覚し、とりあえず「要約も訳文も、いつもデコボコしたアンバランスなものになって…(中略)…そのデコボコが、1本の線に近いところに収められるようになれば、近距離から、遠距離から、そしてさまざまな方向からみた、バランスのとれた『読者に余分な労力を使わせることなくきちんと原著者の意図が伝えられる』訳文がつくれるようになる」のかもしれないというところまでは辿り着きました(「公開勉強会終了しました-Side一翻訳者」)。


思い返してみれば、勉強会を始めた当初、わたしは「上手い(と思われる)訳文が書きたい」ということばかり考えていました。今は、もちろんそれもありますが、それよりも、原文のよさと流れを殺さない訳文が書きたいと思います。「自分が(いいものを書きたい)」ではなく「原文と訳文どうよ」中心に考えられるようになったこの変化を、私は進歩と思いたい。

「少しでもよい訳文を」が目標ではありますが、同時に、勉強会は、考える――原文にあっては「なぜそれがそこにその順番で置かれているのか」を、何かをするときには「なぜそれをするのか」を――訓練をする場でもあるのではないかと思います。少なくとも、私はそう思うようになりました。そして、この「考える」部分が、(少なくとも今現在の)AIと人間の決定的に異なる部分なのではないかとも思います。

そういう1年を経て読んだのが、「翻訳事典」の「私が考える『翻訳』」(井口耕二さん)でした。そこに記されている「翻訳の手順」には、私がおぼろげに「こうありたい」と思い始めていたものが、明確に小気味よく文章化されていました。これを「そこまでは自分には無理」と考えるか「同じレベルは無理でも(無理です<キッパリ)どこまでそこに近づけるか」と考えるかは人それぞれだと思いますが、私は、たとえ今ははるか低レベルでも後者でありたいと思うのです。

井口さんは、最後の方で「本来の翻訳では、『使える』で満足せず『ベスト』を探し求める。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』と『ベスト』の微妙な違いを判断する力だ。対してMT+PEでは、『使える』なら十分で『ベスト』である必要はない、になる。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』とここからは下は『使えない』の境界を見極める力だ」とし、「使える」と「使えない」の境界はだんだん下方にずれ、それによってPE作業者の言語感覚そのものが狂ってしまうと述べられています(「翻訳事典2019-2020」P43)。
この部分を読むと、料理研究家の故・辻静雄さんの「九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」という言葉(海老沢泰久「美味礼讃」より)が頭に浮かびます(語られる文脈としては、ちょっと違うかなという感じもするのですが)。

最初から「使える」を求める勉強会はないと思うのですが、「翻訳を勉強する会」が1年の時を経て、「ベストを求める」勉強会に育ちつつあることを(少なくともわたしにはそのように感じられます)嬉しく思います。苦しさも、そして楽しさも、ベストを求めるがゆえのものだと。
今後いつまで続けられるか分かりませんが、できるかぎり長く、この苦しさと楽しさを味わっていきたいと思っています。
2019.02.14 23:13 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

少し間が開きましたが、先日、第10回勉強会を終えました。
今回は、前回の要約をもとにした翻訳回です。

の前に、前回の要約があまりひどかったので、もう一度やり直しました。きちんと理解した要約を作っておかないと翻訳できんわーと思ったので。今回のエッセイは(少なくとも私にとっては)それほどの強敵でした。

今回は、前回、要約箇所を最後まで検討できなかったので、まず前回の続きから。
前回は青息吐息で、皆さん「分からん、分からん」とうなりながら終えましたが、今回は前回から2ヵ月近い準備期間があり、みなそれなりに課題エッセイと格闘なさったようです。そのことは、皆さんが提出された課題訳文を一読した瞬間に分かりました。もちろん、細かなミスや読解の誤りもありましたが(…ワシもな…)、文法に悩み言葉を選んだことがハッキリ分かる訳文でした(逆に言えば、やっつけで提出したものも簡単に見抜かれてしまうということで、ますます手を抜けなくなってしまったのだった)。
今回は、検討する中で、時代背景やその時代の英文の書き方にまで話が及び(といってもほとんど管理人さんからですが)、最後には「翻訳するときは、そういう背景や作者がエッセイを書いた年齢も考えた方がいいよね」という結論に達しました。段落によっては、中身を分解(図解)して「こういう流れだよね」と確認したものもあります。
今こうして思い返してみて、自分で「わたしたちはここまできたのか」とちょっとビックリし軽く感動しています。若干自慢混じっている感じでスイマセン。けれど、1年前、(少なくとも管理人さんを除く)わたしたちは、何に気をつけ何を考えながら要約や翻訳に取り組んだらいいのかさえ分からず、途方に暮れていて、ポツポツと「この表現はいいですね」的なことしか言えず、ただただこうべを垂れて管理人さんの審判を待つだけだったのです。それが今では、細かく全体に気を配ることを覚え、(ときどきは)秘書らもこちらから斬りかかっていくようになりました。
それでも、もちろん、みな「まだまだ」な訳文しか書けないのですが、1年かけて、原文と翻訳作業にどう取り組んでいけばいいのかが、少しずつ分かってきたような気がします(錯覚かもしれませんが)。たとえて言えば、深い霧の中で動けずにいたのが、少しだけ霧が薄くなって周りにあるものの輪郭がぼんやりと見えてきたような。そして、もちろん翻訳そのものの上達が目標ではあるのですが、自分たちで悩み考えときには間違ったりもしながら「翻訳する考え方を身につける」ことこそ、勉強会が目指すべきところではないかと思います。そして、今わたしたちは確かにその方向に向かっているのではないか、そんな風に思えた勉強会でした(錯覚かもしれませんが)。

次回は次のエッセイに進みます。
コイツもまた手強そうで、チラッと見てそっと本を閉じ静かに書棚に戻しました…(やはり成長がないようです)
2019.02.14 00:24 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |