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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「翻訳を勉強する会」管理人第1秘書です。

昨日、「翻訳を勉強する会・番外編」(井口耕二講師による「訳文による絵の描き方」、於:大阪市中央公会堂大会議室)を無事に終了することができました。
降ったり止んだりのあいにくのお天気でしたが、関西はもとより中国、東海、北陸、関東から、50名をこえる方にご参加いただきました。皆さん運営の至らぬ点は片目を瞑って寛大にスルーしてくださった上、多くの方が、本編、特に後半の実例をもとにした訳文検討に「大変濃い内容だった」など肯定的な感想を述べてくださいました。否定的な意見は(特に開催直後は)あまり直接的な形で表に出てこないという点を差し引いても、主催者冥利に尽きる結果です。これは、講師の力量はもちろんですが、ご参加くださった方々の積極的な参加の姿勢なしには実現し得なかったことだと思っております。皆さま、本当にありがとうございました。


さて、運営モードはここまで。
ここからは、検討対象となった訳文を提出した一翻訳者モードです。主に、自分の振り返りと覚えの目的で書いておりまして、いつもの「内容レポート」モードではありません。その点ご了承ください。

「訳文による絵の描き方」は、前半(2時間)が、井口さんの考える、あるべき訳文作りの方法やそれを実践するための方法などについての説明、後半(1時間)が、「翻訳を勉強する会」事務局3名が提出した訳文を使用しての訳文検討会でした。
前半部分は、今年のシンポジウムの内容ともかなり被る部分がありました。詳細は、ハッシュタグ#翻勉2019で辿っていただければと思います。齋藤貴昭さん(Terry Saitoさん)がまとめてくださいましたので、そちらをご覧ください。
https://togetter.com/li/1376635

後半の訳文検討会では、私たちが普段の勉強会で実際に翻訳した部分をさらに推敲・提出したものを、検討対象訳文として使用しました。つまり、それぞれが(一応それなりに)原文を解釈できているという前提です。「それなら(原文解釈の部分をすっ飛ばしていきなり)訳文をどうブラッシュアップしていくかという話ができるのではないか」というのが、井口さんのご意見でした。

蛇足ですが、今回お話いただく内容を決めるにあたって、井口さんからこの「公開検討会」の打診があったとき、管理人さんは歓喜し、第2秘書は「少し時間をください」と覚悟を決める時間を要し、すでに運営モード全開だった第1秘書は「それ参加者にとって美味しすぎる!やらねばなるまい!」と当たり前の事実として受け入れる、という三者三様の反応でした。

閑話休題。

使用した原文は、Sawl Bellow晩年のエッセイ"Graven Images" その第14段落が検討対象になりました。参加者の皆さんには、2週間ほど前に「参考資料」という形で原文をお送りしています。
該当部分は以下のとおりです。

 The photograph ? to narrow it down ? reduces us to two dimensions and it makes us small enough to be represented on a piece of paper or a frame of film. We have been trained by the camera to see the external world. We look at and not into, as one philosopher has put it. We do not allow ourselves to be drawn into what we see. We have been trained to go by the externals. The camera shows us only those, and it is we who do the rest. What we do this with is the imagination. What photographs have to show us is the external appearance of objects or beings in the real world, and this is only a portion of their reality. It is after all a convention.

(look atのat、look intoのinto、to be drawn のdrawn、with the imaginationのwithがイタリック)
出典: THE BEST AMERICAN ESSAYS of the CENTURY
Copyrigntc by Houghton Mifflin Company
Copyrigntc 1997 by Saul Below, reprinted with permission of The Wylie Agency, Inc.

訳文を提出したときは、「もうこれ以上はできない」と思っていたのですが、どうも自分は、ひとつの考え(というかやり方)にとらわれたまま、その中で訳文を推敲しようとグルグルしていたみたいです(特に、後述するtrainに関する部分です)。検討会を前に、原文と他のお二方の訳文とも併せて自分の訳文を再読してみると、「悪くはない、大きく間違ってはいないんだけど、うーん、のっぺり?」という印象でした。今回は勉強会なのでたかだか数行ですけれど、こののっぺりした文を長々と読まされたとしたら、読者はたまったものではありませんよね(「のっぺり」が原文の意図であれば、また話は違ってくるかもしれませんが)。
 * 井口さんは、前半部分で、「ノイズを減らして(不要なものが多いと本当に必要なものは見えてこない)、際立たせたい部分を際立たせる」という話をされています。そこで言われた「ノイズの多い」訳文の典型と言えばよいでしょうか。

昨日、井口さんからいただいたご指摘や井口さんご自身が作られた同じ箇所の訳文(の記憶)をもとに、「なぜ『のっぺり』訳になってしまったのだろう」と今朝からずっと考えていたのですが、結局はきちんと読めていなかった(絵が描けていなかった)ということなのだという結論に至りました(「原文を解釈できているという前提」以前の問題という…)。すべては、1文目と2文目の関係がきちんと把握できなかったという点から始まっていたと思います(そこがよく分からなかったということは、検討会でも発言していますので、覚えている方もいらっしゃるかも)。

2文目のtrainを、「この言葉をどう訳せば一番しっくりくるだろう」という視点でしか考えることができず、一度そこで立ち止まって、「なぜtrain?」を深く掘り下げることができなかったのが敗因のひとつかなと思います。井口さんの解釈のように、(二次元的表現方法なのにカメラによって外面を見ることに)慣れてしまっていると解釈すれば、上手く続いていきそうです。さらに1文目を「写真では(私たちは)このように表現される」とすれば、ずっと「私たち」視点を保ったまま訳文を作れそうです。
これからは、行き詰まったとき、今あるものをどういじるかだけではなく、一から「そこ何を言いたい? 何を言ってる?」と問い直すことを忘れないようにしたいと思います。
 * ここでは、「視点をどうするか」が話題に上りました。この段落を字面で訳すと、主語が写真になったり私たちになったりカメラになったり、とかなり目まぐるしく移動するのです。では、視点を固定して訳すことができるかどうかと考えたとき、日本語では人を主体にするとアプローチしやすいというお話がありました(日本語では「人がにじむ」という表現も使われたのですが、訳文検討の最中でしたので、詳細書き漏らしました→そのときのことを、井口さんご自身が「無生物と人間のどちらかに寄せるならって話をしていたので、だったら人に寄せるほうがってことなんだけど、逆に、人がにじまないように訳すケースも、当然、あるわけです」とツイートされています)。

まとめると、躓いた2文目以降きちんとした絵が描けなかったことで、メリハリのない(=強調したい部分がきちんと強調できていない)のっぺり訳になってしまった、ということかと思います。その他にも、小さな違和感を持ちながらそのままにしていた部分があり、自分の中では「時間がなかった」と言い訳していたのですが、煎じ詰めればそれも「絵が描けていない」ことが原因なのかなと。結局はそこ。

これまで「絵が描けてない」という状態を何となく理解していた(あるいは「理解した」と思っていた)私ですが、今回、悩んだ末の訳文を、微視的視点・巨視的視点の両方から検討していただいた結果、それがどういう状態なのかということを、実感として理解したような気がします。
今回、「よく(皆の前で井口さんに訳文を評価される)勇気出ましたね」とか「運営の仕事と併せて大変でしたね」とか言っていただきました。確かに、何をやっているのか自分でもよく分からん(くらい精神的に追い込まれた)時期もありましたが、すべて終わった今となっては、今回の訳文検討は、事務局メンバーにとって一番実りの多い贅沢な時間だったのではないかと思っています。何ものにも代えがたいものを「体感」できたわけですから。


訳文検討をまとめてみるとこんな感じですが、あと、お話の中で印象に残ったこと、思ったこと、感じたことを二つ三つ。

● イタリック体の処理→課題部分のイタリック体を私は傍点で訳したのですが、事務局3名の訳文は、傍点、「 」、何もなし(その言葉が強調される表現にする)と三者三様でした。最後に井口さんが示された訳例では、イタリック部分が見事に強調された文章になっていて、なるほどここまですれば、普通の文の中できちんと強調できるのだなと思いました。

● 「気をつけている」は何もやっていないと同じ。「の」の連続、「は」と「が」の使い分け、点の打ち方、文のきれつづき、テンス・アスペクト・ムードなど訳出の基礎的スキルのそれぞれを、期限を区切って訓練するなどして一つ一つ身につけていくことにより、意識しないでもできるようになっていくというようなお話をされたと記憶しています。

● 自信をもって訳していくには、自分は、もっと日本語力をつける必要があると思いました。語彙や表現ももちろんそうなのですが、訳文について、「こうだからこうなる」「こうだからこうする」といったことを日本語側からきちんと説明できる力とでも言いましょうか。二次会の隣のテーブルでは「日本語文法大事」という話で盛り上がっていたそうですが、それに近い感じでしょうか。管理人さんも「日本語文章を強化する試みも取り入れていきたい」というようなことを呟いておられましたので、どんな形で実現するか楽しみです。


運営という立場上、できるだけ多くの方に井口さんとお話しする時間をとっていただきたいと思っていました。極端なことを言えば、自分は実務連絡以外は話ができなくてもいいと思っていたんです。だって、それまでに、FB上で打ち合わせの形で、何度も濃いやり取りをさせていただいていたわけですから。ありがたいことに、こちらから「できるだけ皆さんとお話してください」とお願いしたわけではないにも関わらず、懇親会では、井口さんご自身が席を移動して、たくさんの方と話をしてくださいました。そして、二次会の最後の最後に私の座っていたテーブルにも来てくださいました。シンポジウムやレッスンシリーズや公開勉強会などを経て「ここを気をつけなくては」という点が少しずつ増え、「翻訳スピードがすごく落ちています」というお話をしましたら、「次の段階にいくための時期です」というような言葉で励ましていただきまして。このところ、上手くいかないことが多くちょっとやる気が萎え気味だったのですが、(これからもたいして光る訳文は書けないのかもしれませんが)もう少し頑張ろう、自分のできる少し上を目指そうと思い直すことができました。
明日からまた平常運転に戻って頑張ろうと思います。
2019.07.15 23:53 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

7月14日の「翻訳を勉強する会」番外編にお申し込みいただいた方に、懇親会の案内をお送りしています。

会場のURLをご覧になって、その、なんと言いますか、「お洒落具合?」に驚かれた方もいらっしゃるかもしれません(そこしか取れなかった、的な)。
当日はタキシードかイブニングドレスか振袖か着ぐるみか、と心配されている方も一定数おられるかもしれませんが(<いるんかい)、大丈夫です、臆せず平服で(時節柄涼しい格好がよいかと思いますが、セミナー会場用に念のため羽織れるものを1枚ご持参いただくとよいかもしれません)お越しください。


「番外編」にはたくさんの方にお申し込みいただきました。
関東や東海、関西以西の方もいらっしゃいます。暑い時期、3連休のなか日にもかかわらず、遠方からのお申し込み、本当にありがとうございました。

ご参加の方の中には、翻訳関連の雑誌やセミナーでよく名前をお見かけする方々、長きにわたりTwitterで有用情報を発信下さる方、翻訳に軸足を置きつつ読書会でも精力的に活動される方々など、さまざまなバックグラウンドの方がおられます。そうした方々の多くが、懇親会への参加を表明してくださっています。当日は、翻訳はもちろんのこと、(話題のもって行き方によっては)もっと広い世界の話もお聞きすることができる、かもしれません。

懇親会への参加の有無の連絡がまだの方、さまざまなご事情から時間を捻出するのがむつかしい方も多いと思いますが、もしも可能でしたら、諸々調整の上、懇親会へもご参加いただけましたら幸いです。

また、もしも、学習中や翻訳者歴が浅いということで気後れしている方がいらっしゃいましたら、どうぞ臆せずご参加ください。
そして、(私もついつい忘れてしまいがちで気をつけなければと思うのですが)「学ばせてもらう」という気持ちを忘れず、翻訳なり相手の方なりについて多少なりとも勉強し自分なりの(今の時点での)考えや疑問を持った上で、(周りをよくうかがいながら)先輩に突撃(笑)していただければと思います。どの先輩も、それぞれ初心者だった時期はあり、またOnline Onlyのヒキコモラーだった方もそれなりにいらっしゃるはずですから、こちらが真剣だと分かれば、真剣にそして気さくに話に乗ってきてくださるはずです。
そうした諸先輩の生の声を聞くことのできる機会を大切にしていただけたら嬉しく思います。

…とはいえ、それもなかなか勇気がいることには違いありません。特に、初対面の方には、なかなかこちらから声を掛けづらいですよね。そんな場合は、事務局メンバーの袖をこっそり引いていただければと思います。事務局メンバーも基本Shy揃いではありますが(そうなの、信じられないと思うけど、ジツはあの魔王さまもShyなのよ)、諸先輩方にご紹介くらいはさせていただけるかと。どうぞ事務局を使い倒してください。


ご参加の皆さまには、7月上旬に「公開処刑」用エッセイ原文を配布し(「興味のある方は目を通してください」という趣旨の配布ですので、特に何かをしてきていただくということはありません)、セミナーの3~4日前に最終案内をお送りする予定です。
それぞれ、お送りしましたら「翻訳を勉強する会」Twitterアカウントなどでご連絡する予定ですので、参加される方は気をつけてチェックしていただければと思います。


今回、さまざまな事情からご参加いただけなかった方は、今後、機会をとらえて、さまざまな先輩の「生の声」をお聞きするようになさっていただけたらと。
(機会があればまたどこかでお会いしましょう)
2019.06.27 16:35 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

 という副題は、管理人さんの言葉ではなく、私がいろいろ悩んでつけたものです。
 本文でうまく説明できればいいのですが。

 昨日、第13回勉強会を終了しました。

 本来は新しい課題の要約回になるはずでしたが、前回、Saul Bellowの『Graven Images』の訳文検討が途中で終わってしまったため、今回は、残った訳文を検討するところから始まりました。「さくっと終わらせましょう」と始めた割りには、原文のイタリック体部分の訳文への反映や、ある「it」の意味するものは何か(→迷ったときは文法に戻れ)など、結構つっこんだ議論ができたかなと思います。最後に、全体を見渡したまとめを行って終了。

 残りの時間は、管理人さんが提案してくださったショートショート、Ann Beattieの『Snow』の要約と訳文の検討です。次回勉強会が「翻訳を勉強する会・番外編」(別名:公開処刑会)になるので、今回は「箸休め的に軽いものを読みましょう」ということで提示された(はずの)掌編で、気楽に楽しく取り組み和気藹々と論じ合う、はずだったのですが、期せずして私(たち)の欠点がハッキリ露呈される結果となりました(”Ann Beattie" ”Snow” でG検索するとPDF原稿がヒットします。A4で2ページほどの短いものですので、興味が湧いた方は目を通してみてください。道下匡子さん、柴田元幸さんのお二方による邦訳も出版されています)。

 さて、この『Snow』の検討ですが、まず、メンバーひとりひとりが「どんな主人公(一人称なので話者)をイメージし、どんなところに気をつけて翻訳したか」を説明することから始まりました。すると、魔王様を除けば妙齢(!)の女性ばかりの集まりですから、「いまだ残る未練が雪によって喚起される」(演歌派)、「いや結構醒めていて過去の思い出を昇華しようとしてるんじゃないの」(ユーミン派)、「自分に酔ってるよね」(思いつかないので、さくっと「その他」派)等々、感想、出るわ出るわ。総じて、「訳文を考えるのがとても楽しかった」というのが女性メンバーの一致した感想でした。
 そして、最後に真打ち魔王登場となるわけなのですが、管理人さんは、まず「どんなToneで書かれているか」というところから入ります。女性陣がさまざまに感想を述べたにも関わらず「直接的に話者の感情を表現する言葉はないですよね」だから「淡々とした日本語で表現したい」。なぜなら、それが著者の意図するところだから。

 この管理人さんの説明を聞きながら、女性メンバーは(たぶん)みな「自分は読者と同化しすぎていた」と感じていました。作品への思い入れは必要ですが、読者と同化してしまっては、著者の思いをきちんと伝えることはできません(これは著者に対しても言えることかなと思います。著者の思いを伝えたいという気持ちばかりが先走った訳文も、やはりよい訳文とは呼べないような気がします)。
 ホワイトボードには「訳者は、最初に読むときは無色透明な気持ちで読むべき」と書いていますが、あとで、それもちょっと違うかなーという気がしてきました。訳者も、最初は読者として読んでよいのではないかと。あくまで私の個人的な考えですが。そうでないと「これはいい」「この文章を他人にも伝えたい」という気持ちが湧きにくいような気がするのです。そうした「これを伝えたい」という気持ちは、訳していく上で大きなモチベーションになります。だから、ざっと一読するときは、まず読者として読めばいい、その代わり、もう一度熟読するときは、距離をおいて英文をきちんと観察することを忘れない、そして訳すときは「(自分がではなく)著者が日本語でその文章を書いたらどう書くか」をつねに頭に置いて訳す、この3つの立場を混同することなく、原文そして訳文と向き合えばいいのではないかと、一日経った今は、そんな風に考えています。
 ――というところからの、「読者として、観察者として、そして訳者として」ですが、若干芸がなさ過ぎた感ありますね(汗)。

 この課題では、「その訳語をそのまま(日本人読者に向けた)訳文に当てはめても大丈夫か」「ダブルミーニングの言葉の、ほのめかされている方の意味をどこまで訳文に反映させるか」といったことも話題に上りました。これらについては、現在も、FBのグループで議論が続いています。たぶん答はでないけど。

 白状しますと、訳文を仕上げたとき、心中密かに「いいのできたー♪」などと思っていたわけです。それが、「(たとえ日本文として悪くないものだとしても)作者の意を汲んだ訳文ではなかった」という事実をどかんと突きつけられるのは、辛くはありますが爽快でもあり、少し時間を置いた今、自分に必要なボディブローだったと思っています。「よくできた」と思っていた訳文を褒められたりすれば、それこそ天狗になってしまっていたに違いありませんから。

 というわけで、今回も、さまざまに考えさせられた勉強会でした。
 何回目になっても、いつも何かしら学びがあり気づきがあります。それは、「成長が遅い」ということなのかもしれませんが、決して「成長していない」ということではないと思っています(希望的観測)。「もう学びも気づきもなくなった」と思ったときこそ要注意なのかも知れません。

 来月は「番外編」準備のため、通常の勉強会はお休みです。お盆明けに再開の予定。「番外編」にお申込みいただいた皆さんは、公会堂でお会いしましょう(でもたぶん背景に同化しているはずなので見つからない)。
2019.06.15 18:33 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

すでにTwitter等でご存じの方も多いと思いますが、「翻訳を勉強する会・番外編」として、出版・実務翻訳者の井口耕二さんにお話をしていただける運びとなりました。
日時は7月14日(於:大阪市中央公会堂大会議室)。詳細は、下記告知申し込み画面をご確認ください。6月1日(土)正午から申し込み可能となります。

翻訳を勉強する会・番外編 ― 訳文による絵の描き方

大阪で翻訳フォーラム・レッスンシリーズなどの裏方を務めるようになって以来、ワタクシは「井口さんのお話お聞きしたいんですよねー」と願望を口にしては(ワタクシは井口さんお一人のセミナーというものに参加したことがないのです)、同じく運営に携わってくださる本会管理人さんに「そういうことは『時期』が来れば動きます」と諭され続けてきました。

「井口さんとはもうご縁(?)がなかったのかもしれない」と思い始めた頃、「翻訳事典」「通訳翻訳ジャーナル」に立て続けに井口さんの寄稿文が掲載されました。特に、翻訳事典の記事は井口さんの翻訳プロセス(訳文を仕上げていく過程)を詳細に記したもので、昨年のシンポジウムの内容と通じる部分もありました。これをふくらませた内容のお話を、大阪で聞くことができたなら。
ちょうど同じ頃、ワタクシたちは「公開勉強会in東京」の準備を進めていたのですが、その勉強会に井口さんも参加されるということが分かりました。管理人さんの言っておられた「『時期』が来れば」とは、これを言うのかもしれないと、(勝手に)少しばかりゾクゾクしました。林先生なら「今でしょ」と言うところです(…のハズ)。というわけで、公開勉強会の際、「翻訳を勉強する会」を代表し、おそるおそる大阪でお話してくださいとお願いすると、井口さんは「喜んで」と二つ返事で快諾してくださったのでした。

日時と開催場所を確定後、内容の検討に入ったわけですが、FBの「翻訳を勉強する会」事務局グループで「あれも聞きたいねん、これも聞きたいねん」と駄々をこねるワタクシは(駄々っ子かい…)、またまた管理人さんから「基本、井口さんが話したいように話してもらうのがたぶんベストです」と諭され(諭されてばっか…)、「本会の趣旨に沿った方向で」今一番話したいことを話してくださいとお願いしました。その結果提案いただいたのが「お話いただく内容」に記載した内容です。「(循環を繰り返しつつ)訳文を仕上げていく」ことにフォーカスしたセミナー、これまで(クローズドの場を除くワタクシの知るかぎりということですが)まず耳にしたことはありません。思わずPCの前で小躍りしてしまったのでした。

しかしながら。
無傷で心躍るお話を聞くことができる、などというオイシイ話が、そうそうその辺に転がっているはずはありません。
その提案には、「直前の勉強会で使った原文と訳文をいただいて、訳文をブラッシュアップするのに考えるべきと私が思うポイントを指摘する」のはどうでしょう、それも「どうせなら、参加型のほうがおもしろくなるんじゃないですか?」という、悪魔が書いたとしか思えないような文章が続いていたのです…
現在、事務局内で「公開処刑」とも「人柱」とも呼ばれているこの「検討会」プログラム、事務局3名、覚悟を決めるまで少し時間が必要でした(少なくとも秘書2名は、ということです)。
けれど、落ち着いてよく考えてみれば、これは、またとない機会なのかもしれません。「訳文をつくるとはこういうことだ」と理解しているつもりなのに、表層的な訳文しか作れない自分。ここでひと皮むけるとは到底思えませんが、「検討会」に参加する(準備をする)ことで、もう少し深く読み考える術を身につけることができるようになる、かもしれません(希望的観測)。ということで、現在「これは役得♪」と鋭意自身を洗脳中です。参加される皆さまには、ひととおり読解ができたところからの訳文作りとブラッシュアップの実際を見ていただくことで、井口さんが前段で話される内容の理解をさらに深めて頂くことができたならと願っております。そのためなら、喜んで人柱になりましょう(棒読み)。

そんなわけで、7月14日。
できるだけ早いうちに来阪していただきたいと日程を調整した結果、ご参加くださる皆さまには優しさの欠片もない、3連休のなか日(しかも大安です)という日時設定になってしまいましたが、可能であれば予定を調整してご参加いただけたら大変嬉しく存じます。

会場の大阪市中央公会堂は、ご存じの方も多いと思いますが、国の重要文化財に指定されている、赤れんがの大変美しい建物です。建物内には、公会堂限定グッズを販売するショップや無料の展示室もあります。また、廊下に配置された足休めの椅子は、建築当時のもので、その時代ならではの工夫がこらされている大変珍しいものです。セミナーのみならず公会堂の建物の方もご堪能いただければと思います。

皆さまの参加をお待ちしています!
2019.05.29 17:49 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |
 昨日、第12回勉強会を終了しました。

 課題は、引き続きSaul Bellowの『Graven Images』。今回は指定段落2段落の翻訳回です。
 病癒えた魔王…もとい管理人さんが帰還し、課題の難しさも相まって、とても密度の濃い訳文検討会となりました。

 この『Graven Images』は、前回のAnn Porterに比べれば、一読して何となく全体の意味や流れは掴みやすい(とりあえず分かった気にはなる)、けれどいざ訳出するとなると簡単な単語の訳語の選択に四苦八苦するという、なかなかに性悪なシロモノです。その原文を、私は、「ずいぶん皮肉っぽい文章だな(でも自分も皮肉の対象にしているところは嫌いじゃないわ♪)」と思いながら読んだのですが、管理人さんがTwitterでぽろっと漏らされた「重厚な」という言葉がずっと意識の片隅に引っ掛かっていました。このエッセイのどこがどんな風に重厚なのか、私には分からなかったからです。

 そこで、細かい検討に移る前に、まずその意味を尋ねたのです。そして、このエッセイが、いくつもの単語やフレーズが呼応し合った、話の流れ以外にも、単語の選択ひとつをとっても計算し尽くされた無駄のない文章であるという説明を受けました。だから、キーワードに拘りすぎると全体を見失うのだとも。そういう言葉やフレーズが互いに関係し合い重なり合ってエッセイを形作っているそのことを、管理人さんは「重厚」という言葉で表現されたのでした(というのは不肖Sayoの理解です<念のため)。

 最初にその話があったせいか、冒頭で書いたとおり、その日の訳文検討は、とても密度の濃いものになりました。

 個々の検討の中で、その日、私が「おおっ」と思ってホワイトボードに赤色で書いた内容(の一部)は、「(単語の選択レベルに始まり)読み手を裏切らない訳文をつくることが大事」「簡単な単語の訳語もその段落の中だけで決めず、全体との兼合いを考えながら決める」「そのまま訳しては分かりにくい単語は品詞転換を試してみる」などなど。いずれも、それだけ読んでも「そのとおり」と思うことばかりなのですが、実際に訳出に苦労した訳文と原文を手元に置いた状態でそういう話をすると、記憶への定着度が違います。そういうところも、勉強会を行うことの意義ではないかと思います。

 最後に、エッセイの中に散りばめられたいくつかの単語を基に、前回皆を悩ませた「(my) Old World」が見事に読み解かれ、「重厚」の意味するところを、身をもって体験することができました。

 「全体をみる」とき、また個々の単語について「なぜその単語なのか」を考えるとき、「関連性を考える」という発想は、これまであまり自分の中になかったような気がします(今回の自分の訳出過程を思い返してみると、(一部は)前後を行き来しながら実は関連を考えていたフシがないでもないですが、ともかく自分の中にそうした意識はありませんでした)。「きちんと意味を伝える上手い訳文をつくりたい」は、もちろん常に目標としてありますが、今は、こんな風に考え方の幅が広がっていくのが、毎回とても楽しみです。


 最後に、実はこれはその日の勉強会の冒頭で確認し合ったことなのですが、「仕事と直結しない(難解な)課題に取り組むことに意味はあるのか? あるとすればどんな?」
 もちろん、皆「ある」と思うから、時間を捻出して毎月課題に取り組むわけなのですが、その日、私たちが辿り着いた結論は「自分たちがやっていること(原文を書いた著者が頭に思い浮かべた『絵』と読者が訳文を読んだときに頭に思い浮かべる『絵』が同じになるよう、さまざまな点に気を配りながら訳すこと)は、種類を問わずすべての翻訳の基本である(だから意味がある)」というものでした。
 ふだん(意識的であれ無意識であれ)頭の中で「絵を描く」という行為をやっているつもりでも、慣れた案件では「分かったつもり」で絵を描かずに訳している自分に気づくことがあります。単語も、そこだけを見て「この訳語はこう」とかなり機械的に置きかえている。慣れとは怖いもので、そうした訳文でも、それなりのできにはなっているのです。そんなことが続いたあとでは、課題や難解案件で「絵を描き全体に気を配る」ことが常より難しく感じます。
 そうした「あまり考えなくてもそれなりのできになる」案件は、今後順次機械翻訳に置き換えられていくでしょう。その是非如何は置くとして、そういう流れができつつあるように思います。「もっときちんと原文の内容を伝えられる訳文をつくりたい」というのが、私が勉強を続ける一番のモチベーションですが、実際問題として、今の流れの中で翻訳者として切り捨てられないためにも、きちんと絵(それも一連の絵コンテの中の一枚一枚の絵)を描く訓練は必要だと思っています。
2019.05.11 19:16 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |