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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


 しばらく前にTwitterで、皆さんが「どうやって翻訳者になったか」という話を書いてらしたことがあり(私も参加しました)、そのとき「皆さんの子育てや介護の話も聞いてみたいよね」というツイートを目にしました。
 で、書いてみました
が。
ひとりひとり置かれた状況が違うわけで、子育ての体験談も介護の体験談も、たぶん「そういう乗り切り方もあるんだ」以上の参考になるものは少ないんじゃないかと思います。私の話も、そんな感じでひとつの例として読み流していただけたらと思います。

 どんな形で介護に携わるかは、本当にさまざまだと思います。
 実親なのか義父母なのか、シングルなのか結婚して自分の家庭があるのか、子育てと両立させる必要があるのか、親との関係はどうか、協力できる兄弟姉妹はいるのか、自分がキーパーソンとして介護を担うのか協力者の立場なのか、同居か別居か、実家(義実家)は近いのか遠隔地なのか、自分の稼ぎで一家の生活を支えているのか、一定期間翻訳量を減らしても(あるいは休業しても)生活していける状況なのか、どれくらいの費用を賄わなければならないのか――という感じで、介護の形が変わってくる要因は本当にたくさんあるかと。


 私の状況はこんな感じでした。

● 結婚前は、両親、父方の祖母、伯母(父の姉、生涯未婚)と同居、ひとり娘。
● 介護に携わる頃には、実家から一時間ほどの場所で別居。子どもはなし。
● 1999年に祖母(介護にはほぼ関与せず)、2007年に伯母(主介護者)、2011年に母(主介護者)、2012年に父(主介護者)を送る。生活の中心が介護だった期間は6年弱。
● 実際に自分が日々の介護に携わった期間はごく短期間。病院・老健・ホーム・特養にお世話になる。

 私の中には、自分ではほとんど何もしなかったこの状態を「介護」と呼んでいいのかという疑問が今でもあるのですが、「まあいいんじゃない」という友人の言葉に甘えて、本記事では「介護」と記載させていただきます。まあ、確かに、病院や施設との折衝や面会、付き添いも、それなりに面倒ではありました。


 自分の経験から、もしかしたら一般的にも多少は役に立つかもしれないと思うことは、以下のとおりです(あくまでも参考程度ということで)。

1 口だけ出す親戚の助言は基本すべてスルー
 私はひとり娘でしたし親戚も少なかったので、すべて自分で決めなければなりませんでしたが、それは、裏を返せば、すべて自分の裁量で決められるということです。話をどんどん進めることができて楽だった部分も結構ありました(体調不良その他何があっても誰にも頼れないということは、デメリットとしてあります。自分の健康管理には気を遣いました)。友人からは「口だけ出す親戚」の愚痴をよく聞かされ、しがらみが多いというのもそれなりに大変なのだなと思いました。でも、そういう方が介護を肩代わりしたり「こうしなさい」と言ったことにお金を出してくださったりすることはないので、可能であれば、のらりくらりへらへらスルーするのがベストかと思います。

2 使えるサービスはとことん使う
 行政サービスは、地域によってまた担当者によって当たり外れがあるという話も聞こえてきますが、使えるものは使うのがいいかなと私は思います。ただ、これは介護にかぎらずだと思いますが、「待っているだけでは手に入らない」情報もそれなりにあります。私の場合は、保健所での精神科医による介護無料相談がそうでした。市の広報誌を丹念に読んでいて見つけたもので、結果的に、自分にはこの先生の助言が大変役に立った(助けられた)と思っています。なので、調査能力をフル活用することは大事かと。その他に、ベタですが、支援センターや病院のソーシャルワーカーさんを使い倒しました。たまたまあたった方がよい方だったのかもしれませんが、皆さん親身に相談に乗ってくださいました。
 実家が遠隔地の方は、今は(サービスの質はわからないですが)「見守りサービス」的なものもいくつもありますよね。これらは、私が介護に携わっていた頃にはなかったと思います。こういうサービスを考慮してみるのも手かもしれません。

3 介護では同じ状態は長くは続かない(悪い方に段階的にまたは急激に変化する)=介護に全力を注いで奔走しなければならない期間はそう長くない
 ときどき、子育ては期間が予想できるが介護はいつまで続くかわからないという言葉を耳にします。確かにそうだとは思いますが、介護の必要な高齢者の健康状態が、同じ状態で長く続くことの方が少ないのではないかと、私は思います。以外にあっさり、宙ぶらりんの「どうすればいいのか」状態が終わる可能性もあります。いい方に変化することはまれですが。
 認知症の入った父も「この先父をどうしたらいいだろう」的要介護2の状態は長く続かず、わりと短期間のうちに要介護4まで状態が悪化し(結核で有無を言わせず療養施設に入所させられたということもありますが)、「特養空き待ち施設入所」に(言葉は悪いんですけど)スムーズに進みました。

4 自分の精神の安定が保たれることを最優先する
 私は母との相性がよくありませんでした。頭では母の人生のあれこれを理解し、ここまで育ててもらったことに感謝しなければならないと思ってはいますが、いまだに寂しい悲しい愛しいという気持は湧いてきません(むしろ、母が夢に出てきたときなど、「もう亡くなったはず」と苦しい思いをし、目覚めてもしばらく動悸が治まらないことが、ときどきあります)。ご不快に思われる方があったら、ごめんなさい。でも、そういう親子関係もあるということです。
 そんなわけで、私は、身体が弱りより頑迷さを増した母と相対することがとても苦痛でした。そして、母に対してそんな感情しか抱けない自分を責めました(ドラマなどでは何かのきっかけで親子関係が劇的に改善することがよくありますよね)。その結果、身体より先に心の方を壊しかけました。それを、先に書いた保健所相談の先生に救ってもらったわけですが(そのへんの経緯は本記事に直接関係ないので省きます)、その経験を通じて思うことは、自分が心身ともにある程度健康でなければ、(決断も含めた)適切な介護はできないということです。ですから、介護する相手の心の安寧や快適さに腐心することは大切だけれど、「自分の心と体を守ること」が一番大切ではないかと思うのです。どうやってそれを達成するかの方法は、状況や性格にもよりますし、人さまざまだと思います。

おまけ・成年後見
 (10年以上前の話でして、記憶を頼りに書いております。正しい詳しい情報が必要な方は、法務省の該当ページなどを確認してくださるようお願いします。)
 伯母が亡くなったとき、その少しばかりの財産は唯一の身内である父が相続することになったのですが、その時点で、父はもうきちんとした判断ができない状態でした。そして、私は「三親等の壁」に阻まれて代理手続きができませんでした。それを解決する唯一の方法が「父の後見者として代理手続きする」というものでしたので、家裁に申請して父の成年後見人になりました。
 成年後見手続きをするのがいいかどうかは微妙なところです。まず申請手続きが大変。成年後見人になってからも、家裁に定期的に収支報告をしなければなりません。私は、最初は6か月に一度、しばらくして1年に一度でよいという話になりましたが、成年後見人選定にあたって兄弟間でもめた場合などは、3か月に一度というケースもあるそうです。個人的には確定申告より面倒くさいと感じました。
 メリットとしては「施設入居費用や母の生活費・入院費として父のお金を動かせるようになった」ということがあります。大きな金額を動かす際は、その都度家裁に事前申告する必要があるのですが、施設入居費など定期的に出て行くお金については、年度初めに計画書で申告しておけば問題ありませんでした。
 私自身は、成年後見人になってさまざまなことがやりやすくなったと感じましたが、これも人それぞれだと思います。成年後見を検討される場合は、「後見」ではなく「補佐」や「補助」しかできない場合もありますので、家裁の無料相談などで事前によく相談されるのがよいと思います。

仕事のこと
 で、何でしたっけ。仕事の話でしたね。
 当時は、主人がまだ普通に仕事をしておりまして(今は諸般の事情により、パート勤務をしております)、贅沢さえしなければ、主人の給料だけで十分生活していける状態でした。
 ですから、完全休業という選択肢もありましたが、将来復帰することを考え、ゼロにはしませんでした。通常を100%とすると20~30%くらいの稼働状態だったと思います。登録していた翻訳会社には、状況を正直に話しました。そんなわけで、打診数そのものは減りましたが、それでも「今できそうですか」と声をかけ続けて下さった担当者の方々には感謝しかありません。ただ、これは、体力がなくかなりメンタルもやられていた私の場合ですので、同じ状況でしたら、他の方は60~70%は十分稼働できたのではないかと思います。
 仕事を減らせない状況にある方は、使えるサービスを使い倒し、協力できる家族がある場合は協力しながら最善の道を探るしかないのかなと。参考にならず申し訳ありません。

危篤・そのとき仕事はどうした
 父が危篤になったとき、私はいくつか仕事を抱えていました。母が亡くなって多少余裕ができたので、少し仕事を増やしていたのです。そのときの経緯は、以前ブログに書いていますので、リンクを張っておきます。
 翻訳会社の方々も人の子ですから「家族が危篤」という状況で一時的に仕事ができなくなっても、それが原因で、それ以後まわす仕事の量を減らすということはないと、私は思います。大事なのは、そのときにどう対処するかということではないかと。
その時、仕事は



 結局、いろいろ先を読んで計画を立ててもなるようにしかならないのが介護なんじゃないかなあという気がします。「いつかくる」という心の準備と、可能であればある程度資金の算段はしておいた方がいいと思いますが、それ以上のことは、「そのとき」がきたら、状況に従って、できるかぎりの情報を収集しつつ全力投球する、というやり方がベストなのかなあと。

 うちは、このあとまだ義父母の介護があるんですけど、「遠からずくる」(今は通院など軽い援助は必要ですが、基本的に自立してくれています)と一応の心準備をしつつ、毎日の生活を大事にしたいと――思いつつ、ついだらだらしてしまう毎日です。
2019.09.18 16:28 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
英語で
put yourself into someone's shoes
と言われるアレです。

わたしは、家族の顔色を読む子ども時代を送ったせいか、わりと「でも相手の立場に立てば」という考え方をしてきたような気がします。

(とはいえ、中学生に上がる頃までは、家でこれをやっている反動もあったのか、学校では、割りとズバズバものを言っていた記憶があって、自分の思いも及ばぬところで、誰かの心に傷跡を残したということがあったかもしれません)

これは、仕事をしていく上ではなかなか便利(?)な考え方で、翻訳の仕事をよくご存じない方から無理を言われても、「でも、私もアナタの仕事内容をよく知らないし、たいして興味もないから、お互いさまだよね」と思えるし、コーディネータさんから無茶振りされても「板挟みになって大変なのね」と思うことができます。
以前は、そう思うだけで、心の中でため息をついてスルーしてきましたが、この頃では、「でも言わな」というときは、なけなしの勇気を振り絞って言葉にするようにしています。そのとき、「でも、私もアナタの仕事のことを知らないから、お互いさまなんですけどね」感を醸し出すようにすると、若干話が円滑に進むような気がします。気がするだけですけど。


しかしながら、この「想像するちから」というヤツには、度を超すと相手の立場や感情に呑み込まれてしまうという、副作用的なものもあって、これが強く出てしまうとちょっと(かなり)厄介です。
相手を思いやるには、想像するちからが欠かせないのではないかと思うのですが、同時に「自分を見失わないこと」も必要なのではないかと。

わたしと晩年の母の関係がそんな感じでした。

もともと、「離れていれば上手くいく」という淡泊な関係で、わたしは母を疎ましく思い、母も晩年「アンタのことはそんなに好きじゃなかったけど、私なりに愛していたとは思う」と述懐するような、想像できない方には想像できないであろう母子関係でしたが、父の入院がきっかけで、母が実家で独り暮らしをするようになってから、わたしはこの「想像するちから」に苦しめられることになりました。

「家族が帰ってくるあてのない家で自分が独りで暮らしているとしたら」「不安で押し潰されそうになってどうしていいか分からないとしたら」

母はいつも、さまざまな言い方で、その点をグイグイついてきました。今にして思えば、自分を守ろうとする本能で「そこを突けば、罪悪感に苛まれた娘は必ず自分のところにやってくる」ということが分かっていたのかもしれません。
当時、わたしの中では、想像するちからが「自分はどうしたいのか」を圧倒していたような気がします。
思い返してみれば、それは、自分にとっても母にとっても不幸なことでしかなかったのですが。


時間が流れ、母を「いとしい」と思うことはできなくても、母の気持ちや、わたしが疎ましく思っていた母の性格が尖鋭化した(と思われる)事情が理解できるようにはなったような気がします。
とにかく、母は、わたしに、生きていく上で「想像するちからを持ち、でも自分も見失わず」が大切なのだということを教えてくれました。

「想像するちから」のみに支配された当時のわたしの心の中は、罵りの言葉で満ちていました。
だから、こうしてあれこれ思い返せるようになった今、想像するちからと自分のバランスを保ち、人間としても翻訳者としても、うつくしい言葉で語れる人間になりたいと心から思うのです。

命日が近いので、ちょっとマジメに振り返ってみたりなどしました。
2018.03.16 00:29 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(-) |
本日は、「お好みによりスルー」記事にて。
ちょっと気持ちをまとめておきたかったので。


ここ3週間くらい、ちょっとしんどかったのでした。

身体の不調は心の不調から、
心の不調は身体の不調から、

という訳で、両者不調による相乗効果だったのかもしれません。

両親、特に対母親のことは、「自分なりに精一杯のことをやった」と気持ちの整理をつけた積りでいましたが、やはり、心の奥では、どうしても好きになれない気持ちと、その気持ちに対する申し訳なさがいつまでもせめぎ合っているのかもしれません。

今年は、連日、母も、そんな私をまだ許していないと知らせに来たと思われるような夢を見ました。私が必要とするものを隠したり、「やらない」と言ったり、無視したり、怒り狂ったり。お盆の直前におじさん(「喪失感」参照)のことがあったせいか、両親の魂が帰ってきているのを「感じた」ような気もしました(普段あっしはそういう人間じゃないんですけど)。

今朝の夢は、両親の魂がいると分かっている部屋に、ひとりで入っていかなければならない夢で、部屋に入ると同時に、色々なものが私を目がけて飛んできて、私は、顔を覆って「許して、許して」と絶叫していました。それでも、その場から動いてはいけないことだけは、分かっていました。その後、何が起こったのか不明ですが(何しろ夢ですから・・・)、部屋は静かになり、良い天気であることが分かりました。それから、多少関係のある、何の脈絡もない次の話へと移って行き(何しろ夢ですから・・・)、その途中で目が覚めたのでした(何しろ朝ですから・・・)。

許す、許さないは、私の心の問題で、たぶんこれからも背負っていくと思うんですけど、その夢から覚めたとき、何となく、自分の今回の一過性うつ状態は底を打ったような気がしました。何というか、長かった今年のお盆が、やっと今日終わったような。

それさえも、自分に都合の良い解釈なのかもしれませんが、ヒトの心には、そんな風に、自分の心を守ろうとする働きが備わっているのかもしれないなどと思いつつ、この文章を書いています。
2015.08.20 13:28 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(2) |
今年は春から訃報が多い。
そういう年なのかも。

週末亡くなったのは、数少ない薄い血縁関係の
(父の「はとこ」を私の血縁と呼べれば、の話だけれど)
でも、親戚としては、付合いは一番濃かったおじさん。
父の方がだいぶ年上だったので、「兄さん」と慕って時々実家を訪れた。

6月に旦那の元勤務先がちょっと世間様で話題となり
心配して電話をくれたのが最後になった。
「身体壊して辞めてん」と言うと、「そうか」と安心していた。
(そこ安心するとこかい、というツッコミもできますが)

声に覇気がなく、息をするのも大儀そうで
「肺に穴開いて声出えへんねん」という言葉に多少納得しながらも
おじさんらしくなく、どこか釈然としない気持ちもあったが、
忙しさにかまけてそのままになった。

実は肺がんで、その後寝付いたのだということは、
おばさんからの訃報の電話で知った。

よく言えば面倒見がよく、少し悪い言い方をすれば善意の世話焼きで、
実家絡みの謎かけのような電話に閉口したこともあったけれど、
あれも、今思えば、頼りない私を心配してのことだったのか。
ボランティアや民生委員として多忙な毎日、
遠い親戚のことなど、うっちゃっておくこともできたはず。

「おっちゃんももう後期高齢者やで」とぼやきながらも、エネルギッシュに行動し、
何となく、おじさんだけはいつまでも元気でいるような錯覚を抱いていたのだが、
最後のお別れをさせて頂いた、痩せてひと回りもふた回りも小さくなったおじさんには、
往事の面影はなく。
(といっても、久し振りに最晩年の父母を見た方も、
きっと同じように感じられたには違いないのですが)

旦那は一番近しい人で、尻にも敷き頼りにもしているけれど(意味的にヘン<自分)、
それでも、やはり「血のつながりはない」という意識がどこかにある。

父を亡くした時にもこれほどには感じなかった、
自分の拠り所がなくなるようなこの深い喪失感を、
人は誰もどこかで一度は味わうのだろうか。
しっかりと「喪失感を感じ」ておくことも、
これからの人生にとって意味があることなのか。


本日かなり感傷的ですが、
通夜葬儀で予定の狂った仕事の目途もつき、
明日は心を入れ替えて、PASORAMAの怪に触れたいと思います。
(つって、単に動かなくなったってだけですが)
2015.08.11 22:53 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
えっちらおっちら都会の病院まで行ってきました。
病院行く方が体調崩しそうな暑さだぜ。

ワタクシには甲状腺機能低下症という持病がありまして、
定期的に採血して甲状腺ホルモン値を確認し、
お薬を処方して頂かなければなりません。
(薬を服用している限り、特に生活に支障はありませぬ)

というのが本日の本題ではなく・・・

病院へ行くと、どうしても老親と思われる方を介助する(特に4~50代の)女性に目がいってしまうのですよね。
・・・因果な性格だぜ。


今回は、何くれとなく両親の世話を焼く40代くらいの女性に目が止まりました。
小気味よく世話を焼き、口ではぽんぽんいいながらも、ご両親に対する愛情が覗えました。
そして、私は、何となく、遠い地で癌を患うお父様の世話をする友人を思い出したのでした。
髪型や立ち居振る舞いが似ていたからかも。
暑い中、彼女も、こんな風に、ちゃきちゃきとご両親の世話を焼いているに違いない――
――そう思ったとき、「自分にはもう世話を焼くべき親はいないのだ」という寂しさを心の芯に感じたのでした。

彼女は、日々最良の治療を求めて悩みながら、とても献身的にお父様の世話を焼いています。それでもふと、「なぜ私(ウチの家族)だけ」「この忙しいときに」「自分のことだけしていたい」と思うこともあるかもしれません(それとも、そんな不埒な娘はワタクシだけだったのか)。

でも、そのしんどかった時間さえ、実はある意味幸福な時間であったと
懐かしく思い出すときも来るのだよ、たぶん。
私も通ったよ、その道。

だから、彼女にも、自分がへばらないように、そこは適当にセーブしながら、
感情を昂ぶらせすぎることなく、弱音吐き愚痴こぼし、ご両親は励ましながら
大事に今の時間を過ごしてほしいと願うSayoなのでした。


送信した。脳味噌沸騰した。しんだ。
明日は(というか今日ですが)墓参りじゃ(←納品ハイのようです)
2015.08.05 01:12 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |