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2020. 01. 23  

「今ごろ読んでるんかい」(2009年初版発行)と言われそうですが、先日まで読んでました。2巡しましたので、来週から「リベンジ編」に進もうと思います。

ツイッターで、

付箋と蛍光ペン片手に、今更「日本人なら必ず誤訳する英文」を読んでいるのだけど、間違い多くて泣ける。文法と構文に注意して読むようになった積もりでいたけれど、まだまだ雰囲気で読んでいるのだと痛感。「もっときちんと身につけなさい」という天の声と解釈。でも凹む(泣)。

と呟いたのが、昨年の11月13日。
2巡に2ヵ月かかっているわけですが(毎日ホントにちょっとずつなの)、それくらいの進み具合だと、いい具合に内容が記憶から消えていて、新たな気持ちで問題に取り組むことができます(言い訳です、はい)。

2巡目でも、1巡目に間違った箇所の半分以上で、同じ間違いを犯してしまいました。きっと、そこが自分のもっとも弱い部分なのだと思います。途中からは、問題と越前さんの解説をノートに書き写すようにしました。忘れた頃にもう一度読み返そうと思います。
(蛇足ですが、1巡目に正解だった問題を2巡目に間違う、ということもありました。雰囲気で「こんな感じかな」と訳したら、たまたま正解したもので、きちんと文法を理解していたわけではなかった、ということですね。)

文法的な弱点はさまざまあれど、それ以前に、自分は「雰囲気訳」が多いということが分かりました。勉強会に参加するようになってからは、雰囲気訳をしないよう注意してきたつもりですが、まだまだ「もうひと調べ」「もうひと確認」が足りないときがある。
読みや文法的解釈が不十分であっても、前後の流れからそれなりに訳せてしまう。しかもその解釈で(大筋は)合っていたりするものだから、文法を甘くみてしまう――それは、自分の欠点であり甘さであるということを痛感しました。
こんなに、できない、なんて(震撼)。

英文を文法的にきちんと解釈し、特定の単語や表現が使われている意図を理解し、その上で正しく文脈をよみとる――そのどれが欠けても、著者の意を汲んだ(その思考の流れを正しく移植した)適切な訳文を書くことはできないのだという、あたりまえと言えばあたりまえのことを、「日本人なら必ず誤訳する英文」に教えてもらったような気がします。

というわけで、次は「リベンジ編」に進むわけですが、この本のカバーのそでに書かれた「誤訳を防ぐための3か条」が――あたりまえのこととはいえ――とても素晴らしいものでしたので、転記しておきます。

1. 常識を働かせて英文を読むこと。違和感を覚えたら読みなおし、ゆっくり考えなおすこと。違和感には、大きく分けて形と意味の2種類がある。
2. 自分の弱点となっている文法事項を知り、覚えるべきことは覚えること。文脈から判断できない場合、最後の砦は文法の知識である。
3. 「自分の持っている知識など、たかが知れている」と自覚して、つねに調べ物を怠らないこと。
(『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文 リベンジ編』越前敏弥)
2019. 12. 27  

決して、どなたかに大きな「迷惑」を掛けたという意味ではありません、念のため。
(周りの方々に小さな迷惑をたくさんかけたであろうことは想像に難くありません。この場を借りてお詫び致します)

ということで、一年を振り返ってみました。


[総評]
慌ただしく過ぎた一年でした。
一年一年、少しずつ短く感じられるようになるのは、これが「年を取る」ということなのでしょうか。

ゆるやかに体力が低下し、ついに五十肩らしきものを迎えた以外は、主人も私も大過なく過ごすことができました。また、義父母も、白内障の手術、運転免許返納、自律神経の失調から来るらしい義母の不調などはあったものの(そしてもちろん、一年分のおだやかな老いはありましたが)、こちらも大過なく、家族の健康という点では平穏な一年でした(あと数日ありますが、たぶん)。ありがたいことです。せめてあと一年、この穏やかな状態が続いてくれればと願うばかりです。


[翻訳仕事]
「こういう訳文をつくりたい」「こんな風に翻訳と向き合いたい」が揺るがず来れた以外は、惑いの一年でした。今年を一字で表すなら「迷」か「惑」でしょうか。

今後の方向性について悩み続け、未だ答えは出ていません。

縁あって書籍の翻訳に携わる機会を得ました(正確には、まだやってます)*。
諸般の事情で、来年中に形になるかどうかは微妙なところです。もっと詳しく経緯をお伝えできる日が来るといいのですが。
毎日が、「自分なんかがこんなことをやっていていいのか」→「そんな弱気では著者にも読者にも失礼だ」→「とにかくできることを精一杯やろう」→自分のできなさ加減に打ちのめされる→最初に戻る、の永遠のループですが、きちんとやっているうちに終わりが来ることを信じて、一文ずつ、一パラグラフずつ、一章ずつ前に進むしかありません。
 * 書籍のことは、きちんと形になってから報告すべきなのではないかと悩みましたが、惑うている理由をきちんと説明するには外すわけにはいきませんでした。ということで、最低限の情報のみ記載することにしました。

翻訳を始めるにあたって、書籍の翻訳では先輩にあたる方から助言もいただきましたが、長いことなかなかペースが掴めずにいました。納期が長すぎて途中でダレてしまうということもありました(というかそこは現在進行形)。
そこに、普段の仕事・勉強会・セミナーの裏方の雑務が重なりました。
勉強会も裏方も「今しか打ち込めない」「打ち込みたい」という思いがあり、結果、仕事を減らすことになりました。

当然、今年の収入は昨年を大きく下回りました。
「仕事を減らす」という決断ができる環境にあったことは、幸せだったと思います。
我が家は数年前に主人が(体力的・精神的な限界を感じて)自己都合退職したため、その後、おもに私の収入のみで生活しています。私には二人分の生活を養うだけの収入がないので、少しずつ銀行預金を切り崩す生活をずっと続けてきました。それができたのは、退職までは主人の安定した収入があり、それまでにそこそこの貯蓄ができたからです。とはいえ、預金残高が少しずつ減っていくという生活は気持ちのいいものではありません。ここ数年大きなストレスになっているのは確かです。そして、仕事を減らした結果、当たり前と言えば当たり前ですが、今年の減り方は尋常ではありませんでした。

書籍の翻訳は、大変ですがやり甲斐もあります。けれど(ご存じだと思いますが)印税という形でしか収入になりません。また、「次」があるかどうかも分かりません(それも私の力次第なのでしょうが)。一年間、「この先どうしよう」という不安といつも背中合わせでした。
今までどおり実務の仕事を続けるにせよ、やり甲斐を感じられない仕事もそれなりにあり、今のままではいけない(自分の心が死んでしまう)という焦りもありました。
また、毎日の生活の糧をきちんと稼げていない状態で、ブログ等で翻訳の勉強を語ることについても、「そんな話をする資格はないのかもしれない」という思いが心のどこかにあり、常にその思いを引きずって苦しい一年でした。

「この先、どうしよう」
今も迷いの中にいます。
けれど、あと一年、迷いながら今の状態を続けようと決めました。とりあえず、一年なら生活なんとかなりそうなので。

まだ実務翻訳の効率を改善する工夫はできそうです。その点は、少し落ち着いたらもう少し探っていきたいと思っています。
また、これもよい機会かもしれないと、今年後半、方向性が違うと感じていた翻訳会社への登録を抹消しました。それで少し気分が楽になりました。今後は、受けたい仕事を中心に受けていくためにもっと何ができるか、という点もよく考えていこうと思います。
年末、友人の紹介で新たに翻訳会社に登録する機会に恵まれました。「CATは使わない、英日のみ」という条件を最初に提示した結果、「回せる仕事は少ないかもしれませんが」という話ではありますが、双方気持ちよく合意に達することができました。この流れになったのも、私の日々の仕事振りを友人が見ていてくれたからに違いなく、普段の仕事がいつどんな形で実を結ぶか分からないと実感しました。

この先しばらくは、実務の仕事をセーブしながら、書籍と勉強に一番の力を注ごうと思います。
それが、次の一年でやりたいことです。どんな風に進むにせよ、やはり力をつけておくことは大切だと思うので。
これまで培ってきたものが無駄にならないよう、SNSに足を突っ込みすぎないよう(笑)、一年頑張ります。
その結果、自分なりに書籍と実務のバランスをとったところに着地できるといいのですが。


本ブログも、これまで同様、そのときどきに思ったことを綴っていきます。
一年間お世話になりました。来年もどうぞ宜しくお願い致します。
皆さまが、平穏に新しい年を迎えることができますように。そして、新しい年が良き年になりますように。
少し早いですが、年末の挨拶とさせていただきます。
2019. 11. 20  

といっても、書籍の記述からの連想なので、実用的な記事ではありません、念のため。
(でもって、綺麗に着地できないまま終わっています、念には念のため)


最近、「日本人なら必ず誤訳する英文」(越前敏弥)に挑戦して、毎日ズタボロにされ、凹んでおります。
(購入したとき少し読んだきりそのままにしていたものです)

この本には、ところどころに「ちょっとひと息」というコラムがあります。越前さんがインタビュアーの質問に答える形になっています。その中に「資格試験というものは満点に近い点数をとれる実力をつけてから受けるべきですね。ギリギリで受かるぐらいなら、むしろ受からない方がいい」という一節がありました。英検についての話の中で出てきた言葉ですが、あとの方で、ご自分の大学受験にも触れ(2浪して東大に入学されています)、1浪目はおそらくギリギリのところで落ちたが、2浪目はかなり高いレベルで合格したはずだとも仰っています(1浪時は「わかった気になって実はよくわかっていなかった」伊藤和夫先生の授業の内容が、2浪することで「深く完全に理解できるように」なったと)。

このコラムを読んで、十分な実力をつけてから受けるべきという部分は、トライアルにも当てはまるんじゃないかと思いました。
(実力というのは曖昧な言葉で、実力の程度の自己評価は人によって違うとは思うのですが)
学校の試験でいえば、赤点ギリギリの点数をとっているような状態では、早すぎるんじゃないかと思うのです。

トライアルに関しては、「勉強ばかりしていないで、早くトライアルを受け、仕事をする中で学んでいくのがよい」といったアドバイスをよく見かけます。
このアドバイスには、納得できる点もあります。仕事と勉強では必死度が違いますし(少なくとも私は「だらだら度」は全然違います)、長時間集中すること、ミスをしないこと、効率を上げることなど、仕事をしなければその大切さを実感しにくいことも多く、さまざまな案件を受けることで知識の幅も広がります。
実際、私も、仕事を始めてから(おもに参考資料という形で)たくさんの業界用語・表現を身につけましたし、案件をこなす中で(付け焼き刃的なものも多いとはいえ)さまざまな知識を身につけました。それは、勉強ばかりしていては、なかなか身につかなかったものだと思います。

というものの、それらは、そうしたものを適切に訳文に反映できるだけの基礎力があったからこそ身についたものだとも思うのです。
英語読解力・日本語表現力・専門知識(の基本)・きちんとした調べ方と辞書の読み方――最低限こうしたことが身についた状態でトライアルを受けなければ、すぐに仕事がとれるレベルの評価は得られないのではないかと思います(英検のでんでいけば圧倒的実力がついてから、ということになるのでしょうが、それはやはり現実的ではないのではないかと)。
少なくとも、これからは、単価交渉で心理的に劣勢に立たず、自分を安売りしないだけの力がついたと思えてからトライアルに臨んだ方がよいのではないかという気がします。本当は翻訳がやりたいのに、PEに誘導されることがないようにするためにも。

力がついたかどうかを図るひとつの目安は、雑誌の誌上トライアルやアXXXの定例トライアルかなと思います。時間と資金が許せば、短期講座を受けて感触を掴む…という方法もありかもしれません。

ただ、そうやって勉強を続けた場合、「勉強することが目的になる」という落とし穴があるのですよね(←落ちたことがあるヒト)。ズルズル勉強ばかり続けないように、1年なり2年なり期限を切って勉強することも必要かと。越前さんは「性格的にコツコツ地道にやるタイプではないらしく、やるときとやらないときの差がかなり激しい」と書いていらっしゃいますが、「やるとき」にされたことを読むと、常人にはなかなか真似のできない量/質の勉強をされています。

期限を決めて(可能であれば)高負荷の勉強を、ということになると、そのあいだ、仕事との両立をどうするかということも考えないわけにはいきません。
(結婚してからのほとんどの期間を、旦那の安定したサラリーマン収入の下で、明日の生活の心配をすることなく生きてきた私に、偉そうなことは言えないのですが…)
今仕事に就いている方は、可能であれば仕事を続けた方がいいと思います。さまざまな理由で辞める方を選ぶ場合は、勉強期間+1年程度は無収入で暮らしていけるだけの資金を貯めてから辞める方がいいのではと思います(←私は後者のタイプでした>>翻訳を志したときはまだ未婚だった>>結局「辞めよう」から「辞める」まで2年掛かりました)。

トントン拍子に仕事を得ていく方もいらっしゃいますが(でも、そういう方の多くは、たいてい見えないところでとんでもない努力をされていると思います)、コンスタントに仕事をとれるようになるまでは、それなりの時間が掛かるのが普通。好き、面白そうという気持ちがあり、長い期間続けたいと思える仕事なら、長期計画で進めた方が、結局は長く続けられるのではないかと思います。

この頃、目を疑うような単価を目にすることが多くなりました。
楽して短期間で翻訳者になろうといった講座についての話も耳に入ってきます。

翻訳は決して楽な仕事でもオイシイ仕事でもありません――そもそも翻訳に限らず、オイシイ楽な、それでいてきちんとした仕事など、本当に存在するのでしょうか。
これから仕事を、と考えておられる方は、雑誌を読む、(ツイッター→ブログ→書籍などの順に)さまざまな立場の方の意見を読むなどして現状を知り、十分な力をつけてからトライアルに挑戦していただけたらと思います。結局はそれが、仕事を始めてからも搾取されず、知らないあいだに波にのまれることもなく、自分の進みたい方向に進むための早道ではないかと思うのです。
そして、一度コンスタントに仕事がくるようになっても、その状態がいつまでも続くとはかぎらない。勉強(というのは、原文読解力を高め、日本語文章力を磨き、必要な専門知識を学び、対応する分野の今後の動向を注視する…などになるでしょうか)を続けなければ置いていかれてしまう、厳しいけれどやりがいのある仕事だと思っています。

着地点が見えないので(?)このへんで失礼します。
2019. 11. 11  

少し前、YasukoHoshinoさんが、先月終了した翻訳祭の感想をブログ記事にされました。

「第29回 JTF翻訳祭2019【後編】~”翻訳の日”キャンペーンに思うこと/ 職業翻訳者としての誇り~」

職業翻訳者に誇りをもとうと呼びかける素晴らしい内容でした。
まずは、その一部を抜粋します。

「翻訳は、文芸翻訳だけではありません。同業者なら当たり前に思われるでしょうが、一般の人にとっては文学以外の実務翻訳の世界があまりよく知られていない面もあります。また、当の実務翻訳者自身にも、自分の仕事の価値を宣伝しきれていない面があるのではないかと感じました」

「実務翻訳によって日本の国家や社会、文化が有形無形に形作られてきた長い歴史があるという事実がもっと広く知られてほしいし、できれば翻訳者にとっての常識となってほしい。実務翻訳が今の日本を作り、支えてきたことを踏まえれば、翻訳者は今以上に誇りをもって翻訳という仕事に取り組めるようになるのではないかと感じます」

「(翻訳祭のセッションのひとつ『質を守る翻訳者の工夫~原稿受領の時点から』の)資料に出てきた『リスペクトされる仕事 プライドをもてる仕事』というフレーズが印象に残りました」


これらの力強い言葉の数々を読みながら、けれど私は、「実務翻訳者ということに私は誇りを持てるだろうか」と自問自答していました。

(注記)
*以下でいう「実務翻訳」は、あくまでも日々自分が仕事で接する翻訳業務で、世間(主に業界)で用いられる「実務翻訳」をすべて包含するものではありません。
私が主に対応している翻訳は、分野は医療機器(もう少し範囲をせばめるなら、循環器系の体内植込み機器や手術用具)、文書は報告書や試験実施計画書が多く、これらは、主にPMDAに提出される申請書類の一部となります。それ以外に、論文・照会事項・社員教育資料・パンフレットなども扱いますが、報告書と計画書が半分以上を占めています。定型表現が頻出するものもあり、改訂版や同種製品の報告書の場合は、差分翻訳を求められることも増えました。



「誇りを持てない」というのが、正直な気持ちでした。少なくとも、ブログ記事を読んでしばらくのあいだは、ということですが。

心のどこかに、「文芸翻訳の方が格上ではないか」という気持ちがありました。

(注記)
* どこまでを文芸に含めるのかという問題もあるかと思いますが、ここでは、「日々の実務に使用される文書」の対極にあるものを連想しています。文芸に含めてよいのかどうか迷うところであるノンフィクションなども含めて考えています。その意味では「出版翻訳」や「書籍翻訳」という言葉を使った方が近いと言えるかもしれませんが、便宜上「文芸」という言葉で統一しています。


そして、確かに、普段の報告書系の仕事より、もっと自由度の高い案件や課題の翻訳の方が、格段に難しい。難しい、という言い方は語弊があるかもしれません。報告書でも、正しい動作やグラフの読み方を求めて、ネットや参考書を何時間も、ときには日をまたいで調べることだってあります。ただ、実際の訳文作りにかける時間は、課題エッセイなどの方がはるかに長い。

また、文芸翻訳は(共訳や翻訳協力という形になることはあるにしても)、全体を俯瞰しながら、一人でまとまった量を訳すことができる。もちろん、報告書などでも、ある程度時間をかけて1件まるまる1本の文書を訳すこともありますが、「納期が短いので数人で分担」「納期と予算の関係で最低限の差分翻訳」ということが増えました。
「これに合わせてほしい」と同時に参考文書を渡されることが多いのも報告書の特徴のように思いますが、文書によっては表記や用語の統一が取れていないものもあります。さすがに修正すべきと思う箇所にコメントを入れながら「(おおむね多忙が理由かと思いますが)どうせきちんと読まれないのだろう」と空しくなることもあります。
けれども、そういう仕事は、それなりに繰り返しの多い、あまり頭を使わずに既訳をベースに訳文をつくれる「美味しい」仕事だったりもするのです。心の中でため息をつきながらも、お金がほしくて、ついつい受けてしまう。いくら早めに仕上げて納期の残りの時間を勉強や別のもう少しやり甲斐の感じられる仕事に当てようとも、自分の中でもやもやする気持ちがなくなることはありません。


自分が弱い、と言ってしまえばそれまでなのでしょう。
意に沿わない仕事が多いのであれば、もっと積極的に、そうでない仕事を与えてくれる翻訳会社(クライアント)を探せばいい。そのためには実力をつけよと人から言われ、自分でも自分をそう鼓舞しているけれど、実際は、理想と現実のはざまで揺れる日々なのです。
実務翻訳が、今の日本をつくった。そして、今もあらゆる活動の基礎になっている――確かにそう、なのでしょう。でも、「だから重要なのだ」という言葉は今は心に空しい。

そんな自分は、いったい何に誇りをもてばいいのだろう。


そんな風に悶々としていたとき、私はある文章に出会いました。
それは、『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル)の中の一節でした。

(蛇足)
* この書籍は、タイトルどおり、キャンベル氏による井上陽水の歌詞の英訳を対訳形式で収めたものですが、前半部分には、氏の英訳時の姿勢や、歌詞の解釈、英語の表現を求めての呻吟、陽水氏との対談なども収められていて、大変興味深い。この本については、いつか改めてブログ記事にしたいと思っています。



「白なのか黒なのか、ではなく、白でもあり黒でもあるのではないか。はては、白でもなく黒でもないのではないか。そういう、ある種測れない形のぼんやりしたものが文学的なのではと思うのです」
「(日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、『雪国』英訳時に川端康成に『多くの部分が曖昧でとても困っている』というような質問を投げかけたときの川端の答えとして『余白と言おうか、余情とでも言おうか、曖昧だからこそ、逆に表情を豊かに受け止める力が生まれる。その可能性を私は信じたいのです』」


訳文に余白を持ち込む、と言っても、翻訳者は、自分の頭の中にきちんとひとつの解釈をもって(=確固たる絵を描いて)いなければなりません。その上で、原文が曖昧さを残した文章であれば、どこか読者に解釈を委ねる余地を残した訳文をつくるのが文芸翻訳だということができるのかもしれません(もちろん、曖昧さを排さなければならない場面もあるには違いないのですが)。

それなら、実務翻訳は「余白を徹底的に潰す」翻訳と言ってもいいのかもしれない。少なくとも自分が扱うような文書においては。
私は、そのとき、ふとそんな風に感じたのです。「そこに書かれている解釈が唯一の正しい解釈である」訳文をつくる――これは、あたりまえと言えばあたりまえのことですが、実はとても難しいことではないかと思います。日々「余白のない訳文をつくる」という意識をもって翻訳に向かうことが、実務翻訳者として自分がすべきことであり、常にそういう訳文がつくれる翻訳者であるということが、実務翻訳者の誇りだと言えるのではないか。


結局は、ただの心の持ちようでしかないのかもしれません。
けれど、「重要な仕事を担っている」という少し抽象的な理想より、「余白を排除する」という考え方は私の心に響いたのです。
そして、余白について考えたとき、自分の中の悶々とした気持ちが確かに少し楽になったのでした。

この考え方(翻訳に対する姿勢)は、これまで培ってきたもの、やってきたことから外れるものではないと思っています。
ただ、「余白」という言葉が最適のものなのかどうかについては、正直まだ少し迷うところがあります。もしかしたら、自分の考えをきちんと伝えきれていないかもしれない。

それでも、(少し大げさな物言いをするなら)「実務翻訳者であることに誇りをもつ」心の拠り所が得られたということを文章にしたく、現時点の認識で記事にしました(あくまで自分の拠り所ということです――ただ、こういうことは、自分の心が納得するということも大事かなと思っています)。
2019. 11. 01  

最近、新聞で「無知がおそれを生む」という言葉を見かけました。
それは、病気(難病)に対して使われていた言葉だったと思うのですが、それ以外の多くのものに対して言えることだと思いました。今話題になっている機械翻訳(MT)に対しても。

これもわりと最近、こちらはTwitterだったと思いますが、MTの出力について「95%の精度」という言葉を見かけました。学生時代95点などという点数はなかなか取れなかった私などは、この数字を見ただけでドキッとしてしまいます。

でも、何をもって「精度」「100%」と言っているのか、「95%」とはどんなレベルをいうのか、ということは、もう少しMTについて学んでみなければ分からないはずだし、そうやって学んでからでなければ、「精度95%のMT」を本当にその特定の現場に持ち込んでいいのかどうか、持ち込んでよいとした場合、現場できちんと運用するためにどんなことに気をつけなければならないか、は正しく判断できないんじゃないかと思います。
だから、多くの方が言っておられるように、翻訳者も、使う使わないは別として、適切な判断が下せるよう、MTの基本的な仕組みや強み・弱み、出力結果について、ある程度きちんと知っておく必要があると思っています(その割に勉強できていないことには、今日は突っ込まないでいただけるとありがたく)。

もうひとつ多くの方が(私もですけど)おそれているのは、今後、クライアントや翻訳会社のあいだで、(数字だけをもとに)「MT主体」の方向への動きが加速するのではないか、ということではないかと思います。(確かに、訳文出力が人力と比べものにならないほど早いというのは事実だと。翻訳祭でお話した翻訳会社の方も、「文書によっては『最初の入力の手間が省ける』のが大きな強み」と仰っていて、この話にはナルホドと思う部分がありました)
確かにそんな流れを感じますが、第2セッションに登壇された翻訳会社の方や、私が個人的にお話した翻訳会社の方は、MTを使用しながらも、できること・できないことを冷静にきちんと見極めようとしておられ、使用拡大には懐疑的でいらっしゃるように見受けられました。PEはやらないと決めた場合は、そうした会社を探していくことになりますが、よく探せば意外にあるのではないかと感じました。

そうやって、「相手を知る」と同時に、自分をよく知っておくことも大事だと思います。
何度も書いていますが、私は、よくも悪くも周りの影響を受けやすい人間です。しばらく前、医薬翻訳分野にCATツールの波(のようなもの)が来たときは、「皆がその方向にいくから」という理由だけで導入しようと考えたこともありました。そういう主体性のなさってとても危険ですよね。それに「影響を受けやすい」が加わったら、もう「逆鬼に金棒」なわけで。ツールは便利だとは思いますが、この性格から考えて使用に走るのは(自分&自分の頭の中の翻訳作業&自分の訳文生成には)危険だと考えて、距離を置いています。私の場合、その延長上にMT-PEがあるという感じです。

今も、流されやすい本質は変わりませんが、立ち止まって「自分は何をしたいのか」を考えるようになりました。

そのように、「相手を知り、自分を知る」ことで、(たとえおそれるとしても)闇雲におそれることもなく、前向きな判断ができるのではないかと。考えてばかりもだめだけれど「自分できちんと考える」ことは必要。そのためには、相手を知り、自分を知ることが欠かせない。そう、自分にもう一度言い聞かせるべく、記事にしました。
プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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