屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

諸般の事情により、猛烈に進捗遅れ気味のSayoですが、勉強会の管理人さんが、Twitterで、
「クライアントは70点の訳文しか求めていないのだから70点でいい。それ以上は過剰品質」という考えがはびこるようになったこと(が哀しい)
と肩を落としておられましたので、つい出てきてしまいました(勝手に引用してスイマセン)。

その一文を読んだとき、私がぱっと頭に思い浮かべたのは、「美味礼讃」(海老沢泰久)の一節でした。
「九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」というその言葉は、主人公(辻静雄)の口から発せられたもので、以前、読書感想文(「美味礼讃」)を書いたときにも取り上げています。

ここでいう「九十点の味」は、辻に言わせれば、「べつにあれでもあのままどこへ出しても恥ずかしくない味なんです」ということですから、管理人さんの考える「70点の訳文」とは比べものにならない、質の高いものではなかったかかと思います。それでも、辻氏はその味を容赦なく「九十点」と評価し、それで満足していると「七十点の味に落ちるのはすぐ」だと一刀両断する。

「70点の訳文しか求めていないのだから70点でいい」は、日々の仕事を考えるとき、あながち間違った考えであるとはいいきれないかもしれません。もしかしたら、クライアントさんはそれで本当に満足なのかもしれません。だとすれば、クライアントが求めるものは提示できているのですから。
でも、70点を最終目標に仕事を続ければ、平均して70点のものを出せなくなるような気がします。そうでない方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも私はそうです。本来100点であるべきものを「70点でいい」と言われたら、「今の自分にできる最善・最高のものを作るぞ」という気持ちがもうそこで鈍ってしまうからです。すると、すべての工程が少しずついい加減になってしまう自分が容易に想像できます。
常に「自分にできる最高」を形にしていかなければ、レベルはキープできない。レベルを上げたければ、「自分にできる最高の少し上」を求めていかなければならないのではないか、と思っています。

でも、クライアントからは70点を求められる...万一、本当にそんな風に公言されるクライアントさんと出会ってしまったら、私はひっそりとその場から去るかなと思います。
もやもやしたものを抱えながら仕事を続けるより、頑張って、適正な料金の対価として100点を求めるクライアントをさがします。

...の前に納期を死守しなければならないので、とりあえず、ひっそりとこの場から去ります。
2018.05.09 19:29 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

言葉できちんと説明できる人は伸びる、という話をずいぶん前にどこかで読んだ。
翻訳に絡めた話、ではなかったような気がする。
似たような言葉を、最近、町田さんのインタビューの中に見つけた。別のアスリートに関する記事でも目にした。

言葉で説明できる人には、伸びないだけでなく、芯の部分がブレない人が多いような気がする。

...ワタシも割りと「考えて言葉にしたがる」ヒトである。
考えているうちに、書いてまとめているうちに、ごちゃ混ぜだったものが整理されていくのが分かる(ときもある)。

では、そんなワタシが伸び悩んでいるのはなぜだろう、と考えた。

色々理由はあるに違いないが、一番足りないのは、必死さというか貪欲さではないかと思う。
ワタシは、もう少しというところで「ま、えっか」と妥協してしまうのだ。

訳語を選ぶとき。
ぎりぎりあと1回通しで見直しできる時間が残ったとき。
参考書籍に目を通すのを明日に先送りするとき。
...等々、枚挙に暇がない。

だいたいは、仕事に差し障りがあってはいけないと「無理すまい」という理由で止めてしまうのだが、「無理できない身体だし」を言訳にしているところは確かにある。
でも、無駄に過ごしている時間も多いわけで、さまざまな場面でもう少しずつ貪欲になれるはずだと思うのだ。

色々考える分、「一見無駄なようだが長い目で見て身になるだろう努力」はしていても、「力任せだけの(無駄な)努力」はしていないと思う。
効率、ともちょっと違うけれど。
そんな自分に今一番必要なのは、さまざまな状況での「もう少しの貪欲さ」ではないかと思うのだ。


そんなことを考えたのは、勉強会の予習用資料がUPされたから(今週勉強会です)。
皆さんの要約文を読んで、「そういえば、最後『ま、えっか』できちんと読まなかったところあったな」と思ったのがきっかけ。

「他人の書いた文章を読む」ことについても、少し考えた。

名文と言われる文章もそうだけれど、「凄いな」で終わっては、進歩はそこで止るのではないかと思う。
「自分はまだまだ」とがっくりし、「ではどうすれば少しでもそこに近づけるのか」を考えることにこそ意味があるのではないか。

「まだまだ」と思うのは、自分の立ち位置をそれなりに冷静に把握しているから。
「ではどうすれば」と考えられるのは、彼我の差を埋める(埋められるかもしれない)方法に多少の心あたりがないでもないから。

「がっくり」と「どうすれば」の繰り返しの先に、少しの進歩があるのではないか。

というわけで、「もう少しの貪欲さ」を忘れず、彼我の差を少しでも埋める努力を続けようと誓って...
...「カーネーション」の再放送を見てしまいました(<そこがオチか<自分)。
2018.04.24 17:45 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |

販促資料との格闘に明け暮れる今日この頃です。

この種の原稿の翻訳、ジツは割りと好きなのですが、ぴったりの表現を探し当てるのに時間がかかり、定型表現の多い治験関連文書の翻訳のようにはいかない。
同じように出来上りまでの日数を見積もるとエラい目に遭います。

以前は、単語やフレーズ単位で「どう言い換えられるか」を考えていましたが、昨秋、「述語から読む・訳す」というワークショップに参加してからは、「どう言い換えられるか」を、文単位まで広げて考えることができるようになってきたような気がします。いったん文を解体して、同じ意味になるようにまた組み立て直す、を意識しながら訳せるようになってきた、みたいな(でも、それは気のせいかもしれなくて、さらに、たいして訳文が向上したようにも思えないところが悲しいのだった)。

ただ、そうすると今度は、「一度解体して日本語として読みやすく」を意識するあまり、「書いてある内容から逸脱する」方向に流れがちになる、という弊害が生じてきました。何ごとも、やると行きすぎてしまうきらいがある、という残念なヒトです>自分。
というわけで、読み直すときは、「内容がはみ出ていないか、何か落としていないか」、いわゆる「内容を足さない、引かない」に気をつけるようにしています。
「気をつけてするのだゾ」という自戒もこめて記事にしてみました。

ただ、販促資料の場合は、「日本人が日本語で理解して営業する」ことを念頭に置いて訳すので、自分の中で、翻訳の自由度が若干高まるような気がします。
その結果、まだまだ「ここまでなら足してない/引いてない」の限界を上手く定められない自分は、不注意に「振り切って」しまうのかもしれません。

試験報告書の場合は、以前、「元ナカの方」に、「そういう文書は英日を対にして確認することが多い」という話をお聞きしてから、「読みやすく」「理解しやすく」を意識しつつ、原文に寄せて、を心がけるようになりました(あくまで「心がけ」です<念のため)。若干語弊があるかもしれませんが、訳文の裏に原文がある程度見えるような、という感じ。
なので、翻訳していても、解釈を間違うことはあっても(いや、本当はあっちゃいけないんですが)、「振り切る」ことはほとんどないような気がします。

この頃やっと、「こんな文書なのでこうする」を考えることが少し楽しくなってきたような気がします。
もう少し若いうちに、ここまで辿り着きたかった(切実)。
2018.04.16 00:08 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

JTFセミナー(「脱・辞書の持ち腐れ」)からひと月が経過しました。

その間何をしたかと言えば...(今さら)「広辞苑」(LogoVista版)と「てにをは辞典」を購入し、EBWinのウェブ検索にいくつかのサイトを登録しました。
ただ、私はEBWinをメインの辞書検索ブラウザとして使っていないので、あまりこの機能を活用する機会はなく、現状、EBWinは翻訳訳語辞典とOneLookを見るためにしか使用していません。もう少し試行錯誤の余地があるかも。

セミナーで心に残った言葉に「使ったことのない言葉は使えない」(by F井さん)という言葉がありました。
この言葉は、セミナーから時間が経過しても色褪せず、逆にじわじわきています。

この頃、勉強会のために、いつもとは毛色の異なる文章を訳す機会がそこそこあるのですが、そんなときは、普段仕事では使用しない表現も探しにいかねばなりません。すぐに「これ」という訳語が頭に浮かばないときは、英英辞典で意味を確認したあと、各種類語辞典に当たることになります。それでも「コレジャナイ」感しか残らない場合は、たいてい「類語連想辞典」(http://renso-ruigo.com/)さんのお世話になります。正直関係ないものも多いですし、ピンとくるものがあっても、だいたいは再度国語辞典で裏取りするので手間っちゃ手間ですが、思いも寄らない訳語に行き当たることがあって、それなりに重宝しています。ノンフィクションの通信講座を受けていたときも、ずいぶんお世話になりました。

でも、そうやって探し当てた言葉の中には、「自分で使ったことのない言葉」も多いわけで。
そうした言葉は一瞬「これ」と思うのですが、いざ文脈の中に置いてみると、「決して間違いではないが、その言葉だけが浮いている」ということが少なくありません。それが、「使ったことのない言葉は使えない」ということなのでしょう。語彙ではなく、「自分が本当に使える語彙」を増やす、そういう意識を持つことが大切なのだと、この頃になってしみじみ思います。できれば老眼に出会う前にこの境地に達したかったですが...
(蛇足ですが、この頃、イマイチ使い方の難しい「てにをは連想表現辞典」をこの部分の強化に使えるのではないかという気がしています)

とはいえ、どんな言葉にも、「最初にその言葉を使用する」機会が必ずあるわけで。
そうした言葉が悪目立ちしないようにするには、出会ったときにきちんと意味を調べ、できれば(翻訳以外の場で)使用してみるようにすることが必要なのかなと思います。

F井さんは、いつでもどこでも何でも、気になったらとにかく調べる、ということをされているとか。きっと、きちんと文章を書かれる方はみなそうなのでしょう。
自分に欠けていてすぐに改善できそうなのはその点かな、と思い、この頃では、気になったら(PCから離れていてもスマホで)できるだけその場で調べるようにしています(いや、まだついそのままにしちゃうことが多いんですが、自分としては長足の進歩ってことで)。
あとは、対訳音読のやり方を少し変えました。
今は、「原文を1段落分音読→自分ならその部分をどんな風に訳すか考える→訳文を1段落分音読→汎用に耐える表現は書き留める→それぞれ1回分ずつ音読→訳文のみ味わって読む」というやり方を試しています。「ストーナー」(東江一紀訳)でやっているので、毎日「ひゃー!(そうくるか)」の繰り返しですワ。

身につく速度も遅くなっているに違いなく、自分では「翻訳力を上げる」積もりでやっていることが、「翻訳力を落とさない」にしかなっていないのかもしれませんが(その可能性は大なのだった)、亀の歩みでもう少し続けてみようと思います。
2018.03.29 22:19 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
2月13日付朝日新聞 「波聞風問」(多賀谷克彦編集委員)から
(「NEXT 5」HP:http://www.masushin.co.jp/next5.htmも参考)

後継者不足による中小企業の廃業や解散が相次ぐ中、秋田の5件の酒造蔵が、逆境を乗り越え成果を出している、という記事。

「NEXT 5」と呼ばれる5人の経営者はみな、先代から蔵を継いだものの、利益を出せず、市場は縮小する一方だった。秋田では杜氏を置く蔵元が一般的で、「蔵の技術は杜氏の技術であり、秘中の秘だった」が、5人は、自らも酒造りに加わり、「技術や生産データの公開、共有を始めた」。酒も、品質の高い純米酒に切り替えたという。「技術交流」「情報交換」を目的に頻繁に集まり、イベントを開き、消費者の声を聞いた。2010年には共同醸造も始めた。毎年、その年の当番蔵に集合し、各自自慢の素材にこだわり、テーマを変えて、最高品質の酒を醸したという。5軒の蔵を一巡し、今は二巡目だ。この共同醸造酒が人気となり、今では毎回予約時点で完売する状態になっている。取引を求める酒販店や飲食店も多いという。もちろん5軒とも、自身の蔵でもこだわりの酒を造り続けている。
多賀谷氏は、これを「量を追わず、質を求め続けた成果だ」とし、「彼らは業界の因習にとらわれず、緩やかにつながり、危機意識、事業リスクも共有した。だからこそできた復活劇ではないか」と考察している。


この記事を読んで、「緩やかにつながり、情報、危機意識、事業リスクを共有し、量を追わず、質を求める」を、これからの翻訳の1つのやり方として応用できないかと思った。この蔵元のように、各自がそれぞれの仕事を持ちながら。
とはいえ、ビジネスマインドのない私でも、(そのまま移植しないとしても)不可能とは言わないまでも、それがかなりの難題であろうことは何となく分かる。
まず「利き酒」という言葉は聞いたことがあるが(正確には蔵元での官能検査を言うようですが、ここでは「質のよさ」の分かる舌の持ち主による試飲など、もっと広い範囲の「利き酒」をイメージしています)、「利き翻訳」という言葉は聞いたことがない。誰が「利く」のか。どう判定するのか。発注者(元クラ)の中には「利き翻訳」のできる人がいるのか。必ずその人が「利いて」くれるのか。この先、「利き翻訳」のできる人間が減っていかないか。もちろん、NEXT 5もよい共同醸造酒をつくって手をこまねいて待っていたわけではなく、自ら宣伝に回っている。だが、そこに質のよさを見分ける舌の持ち主がいて、噂が広まっていった。同じことが翻訳でもできるのか。
考え出すときりがない。というか、違いばかりが浮き出てくる。

翻訳業界は今過渡期にある、と私には思える。過渡期がどのくらい続くか分からないけれど、これまでの翻訳者の働き方と少し違う働き方をする人は確実に増えるだろう。
私の周りには、「業界がどんなふうに変わろうと、何とかわたっていけるだけの最低限の力は蓄えておきたい」という考えの人が多い。使えるものは使うけれど、最後に頼るのは自分だ、という考えだ。そのために勉強もする。ともに切磋琢磨しようという話もある。それでも、力量を買い、そこそこの単価で発注してくれる発注者が減るのではないかという不安は(少なくとも私は)消えない。同年代が多いので、「私たちは逃げ切れるよね(仕事を辞めざるをえなくなる年齢まで今のような仕事ができるよね)」という話もする。そして、次世代を思い、多少の後ろめたさを感じたりもする。一番大事なのは自分であり、自分の生活であるのは当然なのだけれど。

そんなことを考えていたときに、ふとこの記事に目が留まった。
自分の仕事も持ちながら、「質を求め、緩やかにつながり、リスクを共有する」チームがいくつもでき(チームの人数が増えるほど協調が難しくなる、というのは経験してきた)、そのチームがまた緩やかにつながって協力し合うという形で、質の担保された翻訳を広げていくというやり方はできないものだろうか(こちらからの働きかけも必要になるので、決して楽な道ではないと思うけれど)。多くが手を携えて生き残るヒントにはなるのではないかと思える記事だった。


結局、「この新聞記事いい」な記事でして、いつものように考察も甘いので、あまり深く考えず、「NEXT 5」に的を絞って、あとはテキトーに読み流していただければ嬉しゅうございます。
2018.02.16 00:46 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |