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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


といっても、書籍の記述からの連想なので、実用的な記事ではありません、念のため。
(でもって、綺麗に着地できないまま終わっています、念には念のため)


最近、「日本人なら必ず誤訳する英文」(越前敏弥)に挑戦して、毎日ズタボロにされ、凹んでおります。
(購入したとき少し読んだきりそのままにしていたものです)

この本には、ところどころに「ちょっとひと息」というコラムがあります。越前さんがインタビュアーの質問に答える形になっています。その中に「資格試験というものは満点に近い点数をとれる実力をつけてから受けるべきですね。ギリギリで受かるぐらいなら、むしろ受からない方がいい」という一節がありました。英検についての話の中で出てきた言葉ですが、あとの方で、ご自分の大学受験にも触れ(2浪して東大に入学されています)、1浪目はおそらくギリギリのところで落ちたが、2浪目はかなり高いレベルで合格したはずだとも仰っています(1浪時は「わかった気になって実はよくわかっていなかった」伊藤和夫先生の授業の内容が、2浪することで「深く完全に理解できるように」なったと)。

このコラムを読んで、十分な実力をつけてから受けるべきという部分は、トライアルにも当てはまるんじゃないかと思いました。
(実力というのは曖昧な言葉で、実力の程度の自己評価は人によって違うとは思うのですが)
学校の試験でいえば、赤点ギリギリの点数をとっているような状態では、早すぎるんじゃないかと思うのです。

トライアルに関しては、「勉強ばかりしていないで、早くトライアルを受け、仕事をする中で学んでいくのがよい」といったアドバイスをよく見かけます。
このアドバイスには、納得できる点もあります。仕事と勉強では必死度が違いますし(少なくとも私は「だらだら度」は全然違います)、長時間集中すること、ミスをしないこと、効率を上げることなど、仕事をしなければその大切さを実感しにくいことも多く、さまざまな案件を受けることで知識の幅も広がります。
実際、私も、仕事を始めてから(おもに参考資料という形で)たくさんの業界用語・表現を身につけましたし、案件をこなす中で(付け焼き刃的なものも多いとはいえ)さまざまな知識を身につけました。それは、勉強ばかりしていては、なかなか身につかなかったものだと思います。

というものの、それらは、そうしたものを適切に訳文に反映できるだけの基礎力があったからこそ身についたものだとも思うのです。
英語読解力・日本語表現力・専門知識(の基本)・きちんとした調べ方と辞書の読み方――最低限こうしたことが身についた状態でトライアルを受けなければ、すぐに仕事がとれるレベルの評価は得られないのではないかと思います(英検のでんでいけば圧倒的実力がついてから、ということになるのでしょうが、それはやはり現実的ではないのではないかと)。
少なくとも、これからは、単価交渉で心理的に劣勢に立たず、自分を安売りしないだけの力がついたと思えてからトライアルに臨んだ方がよいのではないかという気がします。本当は翻訳がやりたいのに、PEに誘導されることがないようにするためにも。

力がついたかどうかを図るひとつの目安は、雑誌の誌上トライアルやアXXXの定例トライアルかなと思います。時間と資金が許せば、短期講座を受けて感触を掴む…という方法もありかもしれません。

ただ、そうやって勉強を続けた場合、「勉強することが目的になる」という落とし穴があるのですよね(←落ちたことがあるヒト)。ズルズル勉強ばかり続けないように、1年なり2年なり期限を切って勉強することも必要かと。越前さんは「性格的にコツコツ地道にやるタイプではないらしく、やるときとやらないときの差がかなり激しい」と書いていらっしゃいますが、「やるとき」にされたことを読むと、常人にはなかなか真似のできない量/質の勉強をされています。

期限を決めて(可能であれば)高負荷の勉強を、ということになると、そのあいだ、仕事との両立をどうするかということも考えないわけにはいきません。
(結婚してからのほとんどの期間を、旦那の安定したサラリーマン収入の下で、明日の生活の心配をすることなく生きてきた私に、偉そうなことは言えないのですが…)
今仕事に就いている方は、可能であれば仕事を続けた方がいいと思います。さまざまな理由で辞める方を選ぶ場合は、勉強期間+1年程度は無収入で暮らしていけるだけの資金を貯めてから辞める方がいいのではと思います(←私は後者のタイプでした>>翻訳を志したときはまだ未婚だった>>結局「辞めよう」から「辞める」まで2年掛かりました)。

トントン拍子に仕事を得ていく方もいらっしゃいますが(でも、そういう方の多くは、たいてい見えないところでとんでもない努力をされていると思います)、コンスタントに仕事をとれるようになるまでは、それなりの時間が掛かるのが普通。好き、面白そうという気持ちがあり、長い期間続けたいと思える仕事なら、長期計画で進めた方が、結局は長く続けられるのではないかと思います。

この頃、目を疑うような単価を目にすることが多くなりました。
楽して短期間で翻訳者になろうといった講座についての話も耳に入ってきます。

翻訳は決して楽な仕事でもオイシイ仕事でもありません――そもそも翻訳に限らず、オイシイ楽な、それでいてきちんとした仕事など、本当に存在するのでしょうか。
これから仕事を、と考えておられる方は、雑誌を読む、(ツイッター→ブログ→書籍などの順に)さまざまな立場の方の意見を読むなどして現状を知り、十分な力をつけてからトライアルに挑戦していただけたらと思います。結局はそれが、仕事を始めてからも搾取されず、知らないあいだに波にのまれることもなく、自分の進みたい方向に進むための早道ではないかと思うのです。
そして、一度コンスタントに仕事がくるようになっても、その状態がいつまでも続くとはかぎらない。勉強(というのは、原文読解力を高め、日本語文章力を磨き、必要な専門知識を学び、対応する分野の今後の動向を注視する…などになるでしょうか)を続けなければ置いていかれてしまう、厳しいけれどやりがいのある仕事だと思っています。

着地点が見えないので(?)このへんで失礼します。
2019.11.20 23:15 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

少し前、YasukoHoshinoさんが、先月終了した翻訳祭の感想をブログ記事にされました。

「第29回 JTF翻訳祭2019【後編】~”翻訳の日”キャンペーンに思うこと/ 職業翻訳者としての誇り~」

職業翻訳者に誇りをもとうと呼びかける素晴らしい内容でした。
まずは、その一部を抜粋します。

「翻訳は、文芸翻訳だけではありません。同業者なら当たり前に思われるでしょうが、一般の人にとっては文学以外の実務翻訳の世界があまりよく知られていない面もあります。また、当の実務翻訳者自身にも、自分の仕事の価値を宣伝しきれていない面があるのではないかと感じました」

「実務翻訳によって日本の国家や社会、文化が有形無形に形作られてきた長い歴史があるという事実がもっと広く知られてほしいし、できれば翻訳者にとっての常識となってほしい。実務翻訳が今の日本を作り、支えてきたことを踏まえれば、翻訳者は今以上に誇りをもって翻訳という仕事に取り組めるようになるのではないかと感じます」

「(翻訳祭のセッションのひとつ『質を守る翻訳者の工夫~原稿受領の時点から』の)資料に出てきた『リスペクトされる仕事 プライドをもてる仕事』というフレーズが印象に残りました」


これらの力強い言葉の数々を読みながら、けれど私は、「実務翻訳者ということに私は誇りを持てるだろうか」と自問自答していました。

(注記)
*以下でいう「実務翻訳」は、あくまでも日々自分が仕事で接する翻訳業務で、世間(主に業界)で用いられる「実務翻訳」をすべて包含するものではありません。
私が主に対応している翻訳は、分野は医療機器(もう少し範囲をせばめるなら、循環器系の体内植込み機器や手術用具)、文書は報告書や試験実施計画書が多く、これらは、主にPMDAに提出される申請書類の一部となります。それ以外に、論文・照会事項・社員教育資料・パンフレットなども扱いますが、報告書と計画書が半分以上を占めています。定型表現が頻出するものもあり、改訂版や同種製品の報告書の場合は、差分翻訳を求められることも増えました。



「誇りを持てない」というのが、正直な気持ちでした。少なくとも、ブログ記事を読んでしばらくのあいだは、ということですが。

心のどこかに、「文芸翻訳の方が格上ではないか」という気持ちがありました。

(注記)
* どこまでを文芸に含めるのかという問題もあるかと思いますが、ここでは、「日々の実務に使用される文書」の対極にあるものを連想しています。文芸に含めてよいのかどうか迷うところであるノンフィクションなども含めて考えています。その意味では「出版翻訳」や「書籍翻訳」という言葉を使った方が近いと言えるかもしれませんが、便宜上「文芸」という言葉で統一しています。


そして、確かに、普段の報告書系の仕事より、もっと自由度の高い案件や課題の翻訳の方が、格段に難しい。難しい、という言い方は語弊があるかもしれません。報告書でも、正しい動作やグラフの読み方を求めて、ネットや参考書を何時間も、ときには日をまたいで調べることだってあります。ただ、実際の訳文作りにかける時間は、課題エッセイなどの方がはるかに長い。

また、文芸翻訳は(共訳や翻訳協力という形になることはあるにしても)、全体を俯瞰しながら、一人でまとまった量を訳すことができる。もちろん、報告書などでも、ある程度時間をかけて1件まるまる1本の文書を訳すこともありますが、「納期が短いので数人で分担」「納期と予算の関係で最低限の差分翻訳」ということが増えました。
「これに合わせてほしい」と同時に参考文書を渡されることが多いのも報告書の特徴のように思いますが、文書によっては表記や用語の統一が取れていないものもあります。さすがに修正すべきと思う箇所にコメントを入れながら「(おおむね多忙が理由かと思いますが)どうせきちんと読まれないのだろう」と空しくなることもあります。
けれども、そういう仕事は、それなりに繰り返しの多い、あまり頭を使わずに既訳をベースに訳文をつくれる「美味しい」仕事だったりもするのです。心の中でため息をつきながらも、お金がほしくて、ついつい受けてしまう。いくら早めに仕上げて納期の残りの時間を勉強や別のもう少しやり甲斐の感じられる仕事に当てようとも、自分の中でもやもやする気持ちがなくなることはありません。


自分が弱い、と言ってしまえばそれまでなのでしょう。
意に沿わない仕事が多いのであれば、もっと積極的に、そうでない仕事を与えてくれる翻訳会社(クライアント)を探せばいい。そのためには実力をつけよと人から言われ、自分でも自分をそう鼓舞しているけれど、実際は、理想と現実のはざまで揺れる日々なのです。
実務翻訳が、今の日本をつくった。そして、今もあらゆる活動の基礎になっている――確かにそう、なのでしょう。でも、「だから重要なのだ」という言葉は今は心に空しい。

そんな自分は、いったい何に誇りをもてばいいのだろう。


そんな風に悶々としていたとき、私はある文章に出会いました。
それは、『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル)の中の一節でした。

(蛇足)
* この書籍は、タイトルどおり、キャンベル氏による井上陽水の歌詞の英訳を対訳形式で収めたものですが、前半部分には、氏の英訳時の姿勢や、歌詞の解釈、英語の表現を求めての呻吟、陽水氏との対談なども収められていて、大変興味深い。この本については、いつか改めてブログ記事にしたいと思っています。



「白なのか黒なのか、ではなく、白でもあり黒でもあるのではないか。はては、白でもなく黒でもないのではないか。そういう、ある種測れない形のぼんやりしたものが文学的なのではと思うのです」
「(日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、『雪国』英訳時に川端康成に『多くの部分が曖昧でとても困っている』というような質問を投げかけたときの川端の答えとして『余白と言おうか、余情とでも言おうか、曖昧だからこそ、逆に表情を豊かに受け止める力が生まれる。その可能性を私は信じたいのです』」


訳文に余白を持ち込む、と言っても、翻訳者は、自分の頭の中にきちんとひとつの解釈をもって(=確固たる絵を描いて)いなければなりません。その上で、原文が曖昧さを残した文章であれば、どこか読者に解釈を委ねる余地を残した訳文をつくるのが文芸翻訳だということができるのかもしれません(もちろん、曖昧さを排さなければならない場面もあるには違いないのですが)。

それなら、実務翻訳は「余白を徹底的に潰す」翻訳と言ってもいいのかもしれない。少なくとも自分が扱うような文書においては。
私は、そのとき、ふとそんな風に感じたのです。「そこに書かれている解釈が唯一の正しい解釈である」訳文をつくる――これは、あたりまえと言えばあたりまえのことですが、実はとても難しいことではないかと思います。日々「余白のない訳文をつくる」という意識をもって翻訳に向かうことが、実務翻訳者として自分がすべきことであり、常にそういう訳文がつくれる翻訳者であるということが、実務翻訳者の誇りだと言えるのではないか。


結局は、ただの心の持ちようでしかないのかもしれません。
けれど、「重要な仕事を担っている」という少し抽象的な理想より、「余白を排除する」という考え方は私の心に響いたのです。
そして、余白について考えたとき、自分の中の悶々とした気持ちが確かに少し楽になったのでした。

この考え方(翻訳に対する姿勢)は、これまで培ってきたもの、やってきたことから外れるものではないと思っています。
ただ、「余白」という言葉が最適のものなのかどうかについては、正直まだ少し迷うところがあります。もしかしたら、自分の考えをきちんと伝えきれていないかもしれない。

それでも、(少し大げさな物言いをするなら)「実務翻訳者であることに誇りをもつ」心の拠り所が得られたということを文章にしたく、現時点の認識で記事にしました(あくまで自分の拠り所ということです――ただ、こういうことは、自分の心が納得するということも大事かなと思っています)。
2019.11.11 01:06 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

最近、新聞で「無知がおそれを生む」という言葉を見かけました。
それは、病気(難病)に対して使われていた言葉だったと思うのですが、それ以外の多くのものに対して言えることだと思いました。今話題になっている機械翻訳(MT)に対しても。

これもわりと最近、こちらはTwitterだったと思いますが、MTの出力について「95%の精度」という言葉を見かけました。学生時代95点などという点数はなかなか取れなかった私などは、この数字を見ただけでドキッとしてしまいます。

でも、何をもって「精度」「100%」と言っているのか、「95%」とはどんなレベルをいうのか、ということは、もう少しMTについて学んでみなければ分からないはずだし、そうやって学んでからでなければ、「精度95%のMT」を本当にその特定の現場に持ち込んでいいのかどうか、持ち込んでよいとした場合、現場できちんと運用するためにどんなことに気をつけなければならないか、は正しく判断できないんじゃないかと思います。
だから、多くの方が言っておられるように、翻訳者も、使う使わないは別として、適切な判断が下せるよう、MTの基本的な仕組みや強み・弱み、出力結果について、ある程度きちんと知っておく必要があると思っています(その割に勉強できていないことには、今日は突っ込まないでいただけるとありがたく)。

もうひとつ多くの方が(私もですけど)おそれているのは、今後、クライアントや翻訳会社のあいだで、(数字だけをもとに)「MT主体」の方向への動きが加速するのではないか、ということではないかと思います。(確かに、訳文出力が人力と比べものにならないほど早いというのは事実だと。翻訳祭でお話した翻訳会社の方も、「文書によっては『最初の入力の手間が省ける』のが大きな強み」と仰っていて、この話にはナルホドと思う部分がありました)
確かにそんな流れを感じますが、第2セッションに登壇された翻訳会社の方や、私が個人的にお話した翻訳会社の方は、MTを使用しながらも、できること・できないことを冷静にきちんと見極めようとしておられ、使用拡大には懐疑的でいらっしゃるように見受けられました。PEはやらないと決めた場合は、そうした会社を探していくことになりますが、よく探せば意外にあるのではないかと感じました。

そうやって、「相手を知る」と同時に、自分をよく知っておくことも大事だと思います。
何度も書いていますが、私は、よくも悪くも周りの影響を受けやすい人間です。しばらく前、医薬翻訳分野にCATツールの波(のようなもの)が来たときは、「皆がその方向にいくから」という理由だけで導入しようと考えたこともありました。そういう主体性のなさってとても危険ですよね。それに「影響を受けやすい」が加わったら、もう「逆鬼に金棒」なわけで。ツールは便利だとは思いますが、この性格から考えて使用に走るのは(自分&自分の頭の中の翻訳作業&自分の訳文生成には)危険だと考えて、距離を置いています。私の場合、その延長上にMT-PEがあるという感じです。

今も、流されやすい本質は変わりませんが、立ち止まって「自分は何をしたいのか」を考えるようになりました。

そのように、「相手を知り、自分を知る」ことで、(たとえおそれるとしても)闇雲におそれることもなく、前向きな判断ができるのではないかと。考えてばかりもだめだけれど「自分できちんと考える」ことは必要。そのためには、相手を知り、自分を知ることが欠かせない。そう、自分にもう一度言い聞かせるべく、記事にしました。
2019.11.01 23:31 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

はじめて名刺をつくったのは2013年。
http://sayo0911.blog103.fc2.com/blog-entry-215.html

2度目の増刷(100枚)までは長かった―3代目の名刺
http://sayo0911.blog103.fc2.com/blog-entry-520.html

3度目の増刷(200枚)までは早かった―4代目の名刺
http://sayo0911.blog103.fc2.com/blog-entry-583.html


というわけで、今私の手元には4代目の名刺があります。
200枚つくったのは、いつもワガママな微調整をお願いしてきた馴染みの文房具屋さんが、店を閉められることになったため。
つくったときから、心境や方向性の小さな変化はあったものの、改めて作り直そうと思うほどではないので、手持ちがなくなるまでこの名刺を使おうと思っています。

仕事でも勉強会やセミナーでお会いする同業者の方にも、この名刺をお渡ししています。
なので基本は仕事に比重をおいた真面目なものです(ちょっとだけ遊んだり)。

私は自分は「名刺は1枚」派ですが、仕事用とSNS上でお付き合いする同業者の方用に分けるのも悪くないなあという気はします。少し目的が違うような気もしますので。

(以下の記載には、もしかしたら過去の名刺関連記事の記載と整合しない部分があるかもしれませんが、6年の年月を経て、若干の心境の変化があったのかもということで、ご理解いただけたらと思います。また、これは、あくまでも個人的な名刺考であることもご了承ください)

仕事用の名刺

若干の「下心」をまぶした(ここはウリたいという部分を地味に目立たせた<どんな日本語やねん)、きちんとした人物であるという印象を与えるものがいいのかなと思います。
以前「薄化粧」という言葉を使いましたが、薄化粧の範囲は「少し頑張れば必ずできる」にとどまるようにしました。名刺は等身大(若干背伸び)のものにしたかったのです。それ以上に伝えたいことがある方には、余白に手書きでコメントを書き加えたものをお渡ししています――とはいえ、実際にそれをやったことはほとんどありません(小心者なので勇気がなくて)。


SNS用の名刺

仕事用の名刺が「私は何ができるか」をきちんと示すものだとするなら、SNS用の名刺は「お」と目を留めてもらい、話のきっかけにし、その結果相手に覚えてもらうというのが一番の目的ではないかと思います。
一般的に、名刺交換から実際に紹介の仕事につながるかどうかは…何とも言えません(どうなんだろう、よく分からない)。
自分の場合で言えば、紹介する場合は(…たぶんないと思いますが…)少なくとも相手の方のお人柄や仕事に対する姿勢は知っておきたいと思いますし、紹介される場合は(…それもたぶんないと思いますが…)できれば私の書いた訳文を読んだ上でしていただきたいなと思いますので、初対面の名刺交換がその後の親しいお付き合いに発展することはあっても、いきなり仕事の紹介につながることはないかなと思います。

私自身は、ひととおりの挨拶がすんでしまうと、あとは「何を話題にしたらいいだろう」と焦ってパニクってしまうので、いただいた名刺に話を発展させられそうな記載があれば嬉しいです。そういう方はわりとお名前とお顔が一致してあとあとまで覚えていることが多いです(あくまで個人的な感想ですし、私に覚えられてもメリットはないですが…)。

たとえば、
「趣味:読書」より「趣味:読書(宮部みゆき、ガワンデ、ハインライン、深町眞理子など)」
「医薬翻訳」より「医学・医療機器(特に循環器体内植え込み系の翻訳が好物)」
「文学部史学地理学科卒」より「文学部史学地理学科西洋史専攻・中世修道院における書写システムを研究」
の方が、話を広げやすいですよね。
(最後のは黒歴史だし、単に卒論のテーマというだけなので、本人の前では触れないように)

SNS用名刺については、そんな風に感じています。
では、実際にどんなことを書けばいいのかについては、きちんとブログ記事にしておられる方が何人かおられて、翻訳祭が近づくと、Twitterにもリツイートなどでリンクが何度も流れてくるでしょうから、そちらを参考にしていただければと思います。

たとえば、
こちらとか、
https://terrysaito.com/2013/10/01/sns_card/
こちらとか。
https://chiakiyano.blog.so-net.ne.jp/2014-05-12

これから名刺をつくられるという方は、もちろん、ご紹介したサイトの方を参考にしてください(私の記事はあくまでも個人的な感想なので)。
2019.09.26 00:24 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

ツイッターを意識して下書きをしていたら、連投するにしても長くなりすぎてしまいましたので、独り言的に。

「翻訳を勉強する会・番外編」について書かれた井口さんのブログ記事に、「普通に訳してから相互検討を通じて仕上げたあと、方向性を変え、たとえばかた~く訳す、柔らかく訳す、人間中心に訳す、人のにじみを極力抑えて訳すなど、何種類も訳文を仕上げてみる」という一節がありました。
http://buckeye.way-nifty.com/translator/2019/07/post-622beb.html

はじめて読んだときは、「ああ、これスタイルの違う訳文をつくる勉強になるな」と思ったのですが、何度か読み直したり自分でも考えたりするあいだに、こうした「違うタイプの訳文」をつくるとき、「なぜその方向で訳すのか、そこではどんな読者をイメージしているのか」も併せて考える必要があるんじゃないかと思えてきました。「いや、それ、考えるのあたりまえでしょ」と言われればそれまでなんですけど。

たぶん、「スタイルを変えて」という指示があると、私はきっとそのことだけを意識してしまうと思うんですよね。だいたい、言われたこと(だけ)に意識が向いてしまうヤツなので。見た目「かたく」とか「やわらかく」というのは、選択する語(句)を変えるという小手先の技術だけでも、それなりの形にはできるような気がします。でも「なぜそれをするのか」を考えながらやると、もう少し大きく変える必要のある部分がでてくるかもしれない。さまざまな訳文をつくるという練習も、そこまで考えて取り組んではじめて上達できるんじゃないかと思ったわけです。「や、それ、当然でしょ」と思われた方は、たぶん、私の2倍速、3倍速で成長していかれる方なんだろうなと思います(うらやましいです)。

そんな私ですが、数年前は、文体とか著者の意図などを、もっとふわっと考えて、ふわっと訳していたと思うんですよね。仕事以外の一般的な文章(エッセイなど)ということですが。その頃から考えれば、さまざまな視点からいろいろなことを考えられるようになった分、小さな進歩かなと思うことにします(←自分に甘い)。考えたことを結果として出すのは、本当に、とてつもなくむずかしいんですけど。
2019.08.08 14:13 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |