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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


...になります。このブログを始めてから。こんなに長く続くとは...

...思ってました。何か書いてないと気がすまないヒトなので(注:文章のヘタウマはここでは忘れてください)。


この8年を振り返って、ほんの少し「成長したかも」と思える点があるとすれば、それは、「自分はこういうふうに翻訳したい」「ここは譲れない」という部分が固まってきたということでしょうか。

3年目くらいから、SNSやFace-to-faceで、同業の方々と少しずつ交流するようになりました。
そうした交流は私にとっては諸刃の剣で、とにかくどんな情報も仕入れておかないと置いて行かれると焦り、キャリアの長い方が勧める方法はよく考えずとりあえず試そうとした時期もありました。
今も、焦ったり「これをやらなきゃ」と思ったりすることも多々ありますが、実行に移す前に「それは本当に私に必要なのか」を(前より少しだけ)考えられるようになったような気がします。
そうした交流のきっかけになったのはこのブログなのですが、同じブログが、書くことで考えをまとめる場にもなりました。流されやすい自分を、少しだけ流されにくくする助けになってくれたように思います。

2年ほど前に若干の心境の変化がありました。
将来義父母(+義妹)と同居する覚悟を決めたことで、それまでの間、翻訳で「やりたい」「やってみたい」と思ったことは全部やってみようと思うようになりました。
そして今、翻訳に関わること(翻訳やらリーディングやら勉強会やらセミナーの裏方とやら)と家事以外はほとんど何もしていない状態です。
たまに、そういう生活って外から見たらつまらない生活と思われるのかなと思うこともありますが、死ぬときにはそれなりに満足して死ぬんじゃないかという気がしますので(そのときが来てみないと分からないですが)、変化の少ない幅の狭い生活、自分にはあっているのかもしれません。ただ、さまざまな意味で視野狭窄にはならないように気をつけなければならないと思いますが。

不思議なことに、きちんと自分の方向を決めて進めば進むほど、翻訳すればするほど、自分の力のなさを痛感し、翻訳に対する畏怖の念のようなものが湧いてきます。
それなのに、翻訳することは楽しい。年とともに長時間机に向かうのがしんどくなり、納期に追われて胃が痛い思いをすることもあるのですが、それでもやはり、訳語候補と格闘し、椅子にもたれて天井を見上げ、最適の言葉が「降りて」きてくれるのを待つ時間は、至福の時間なのです。あとから思い返せば、ですが。

そんなわけで、このブログは、この先、ますます「翻訳オンリー」化(セミナー・勉強会関連記事多め?)していく可能性が大です(+ときどき読書感想文)。
自分にツッコミいれるのも、文章の性質上なかなか難しくなりました。それだけが無念です。
そんなブログでも、ときどき覗いてやっていただければ幸甚です。
2018.10.17 23:22 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

届きました~。
業界の動向はやはり気になりますから、毎回購入するようにしています。

2年前の号とあまり変わらないつくりですが、その時点で「これから」の方を主な読者とする雑誌としては、これはこれでいいのかなと思います。
それなりに勉強してきたハズの私も参考になる部分はまだまだたくさんあります。

医療機器の扱いが小さいのは、ちょっと悲しいですが、まあ毎度のこと。
法律は「医薬品医療機器等法」に変わっても、メディカル翻訳の分野では、まだまだ添えもの的扱いなのだと感じます。
電気機械やITが絡んでくるので「メディカル」で括りにくいということはあるかもしれません。それで、どうしても包括的な説明だけになってしまうのでしょうが、いつか、少し違った切り口からの医療機器翻訳に関する説明を読んでみたいものです。今後需要が増えこそすれ、減ることはない分野だと思います。

今回、一番興味深く読んだのは、メディカル専門の翻訳会社の方による「AIの時代がやってくる-メディカル翻訳におけるMTの可能性」という記事でした。巻頭特別企画のひとつです。
短納期で言い回しが決まっている(定型書式)文書にSMTを利用する、という考え方には頷けるものがあります。
今後、メディカルの分野でも、人手による翻訳と機械翻訳が併存するという流れは避けられないのかなと思います。寄稿者の方も「MTは確実に普及する」と言っておられます。

ひとつ気になったのは、「MTをツールとして上手に活用していくためには、より高い専門性、翻訳スキルが求められる」「MTを仕事を奪う競争相手と考えるのではなく、効率化のツールと考えていただければ」と書いておられること。(間違っていたら申し訳ないのですが)これは、「知識の豊富なスキルの高い翻訳者にこそPEをしてほしい」とも読めます。
文書の性質にもよるでしょうが、確かに、アウトプットされた訳文に(内容的に)間違いがないかどうかをチェックするには、特にメディカルの分野では、かなりの専門知識が必要になると思います。専門的正確性を担保しつつ、読むに耐える訳文にeditするには、高い翻訳スキルも必要でしょう。
けれど、PEという作業は、翻訳者をアウトプットされた訳文の範囲でしか翻訳できなくしてしまうのではないかと思うのです。自分で一から考えるからこそ、さまざまな方向から翻訳に取り組むことも可能です。でも、どんなに優秀な方でも、「すでにある訳文の範囲で直す」という作業ばかりしていると、その範囲で考えることしかしなくなり、最終的には、その訳文のレベルの翻訳しかできなくなってしまうのではないでしょうか。それは言いすぎとしても、本来の翻訳力がある程度低下するのは否めないと思います。少なくとも、何かと流されやすい私はそうなってしまうと思います。

とはいえ、PEが、高い専門性とスキルを必要とする作業であるのも確か。
ですから、翻訳会社には、優秀な方は、その技術に対して、金銭的に正当な報酬で報いてほしいと思います。
そして、もしも自社登録の優秀な翻訳者の方をPEに抜擢しようと考えているのであれば、そうすることで――人によっては――その方本来の翻訳能力を低下させてしまうおそれがある(翻訳会社的にみれば、優秀な翻訳者を失うリスクがある)のではないか、という点も今一度考えてみて頂ければ嬉しいなと思います。


*「翻訳能力の低下」に関しては、周りの影響を受けやすい自分の目線で「こうではないか」と考えているものです。「そういう可能性もあるかも」と捉えて頂ければ。
それはそれとして、翻訳者自身も「この先自分はどうしたいか、何をしたいか」をきちんと考える時期にきているのではないかと思いました。
2018.10.05 01:03 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |

8月が終わっても、まだまだ三島由紀夫の『文章読本』が終わらないSayoです(音読なので、と言訳など)
それでも、やっと「文章の実際-結語」まできました(感涙)。

この章には、作家の書く文章に対する三島の考えが書かれているのですが、翻訳者としても考えさせられる部分がいくつもある。その一部を書き留めておきます。

(文章のスピード――枚数/月――は作家によって千差万別という話から)
「文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。問題は密度とスピードの関係であります。文章を早く書けば密度は粗くなり、読む側から言えばその文章のスピードは落ちて見えます。ゆっくり書けば当然文章は圧縮され、読む側から言えば文章のスピードが強く感じられます」

文学はあまりよく分からないSayoですが、翻訳で考えてみれば、時間をかけてアレコレ考えたり試したりした訳文は、削ぎ落とされた「しまった」訳文になっている場合が多いように感じます。そこが「スピーディな文章」と似ているかなと。翻訳では、「大急ぎで訳した」文章をゆっくりと推敲できるケースは少ないような気がします。特に実務翻訳では。とすれば、やはり「大急ぎで訳さなければならない状況を作り出さない」ということが、まず重要なのかなと思います。やり方は人それぞれだと思いますが。そうやって(推敲も含めて時間を掛けて――と言っても、納期との兼合いがありますが――)「苦心惨憺」した結果が、伝わりやすく「しまった訳文」になるのではないかと。
*蛇足ですが、「大急ぎで訳す」と「翻訳スピードが速い」とは別もので、「速くても大急ぎでは訳していない」という翻訳者の方もおられると思います(ワタクシ自身は、ゆっくりしか訳せないヤツですが)。

「去年書いた文章はすべて不満であり、いま書いている文章も、また来年見れば不満でありましょう。それが進歩の証拠だと思うなら楽天的な話であって、不満のうちに停滞し、不満のうちに退歩することもあるのは、自分の顔が見えない人間の宿命でもあります」

勉強を続けていても、過去より現在、現在より未来の自分は確実に進歩しているというのは、100%事実ではないかも。この言葉は、心の隅に置いておこうと思いました。
だからこそ、長く翻訳を続けていても、折々に「それなりの判断ができる相手に客観的な目で見てもらう」ということが必要なのかもしれません。

(文章が生活環境に左右されるかどうかという文脈で、文章を書くには長い修練と専門的な道程を要する、とした上で)
「われわれの生活環境は、ますます現代(=1973年)の機械化に追いこまれて粗雑な文章の生まれやすいようになってゆきます(中略)しかしそれは文章が生活環境に左右されるかどうかという問題よりも、文章を作るという決意と理想の問題であります」

翻訳も、まず「どんな訳文を作りたいのか」ありきで、「そういう訳文を作りたい」という気持ちがあって、「そのためにはどうすれば」と続くのが理想ではないかと思うのです。


「夏から夏へ」(佐藤多佳子)の感想文を書いたときに、「とにかく何とかして翻訳に結び付けたい病」を発病してしまったSayoです。
「あ、また症状出たね」と、生暖かく見守ってやっていただけると有難く存じます。
2018.09.01 18:20 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

今さら、三島由紀夫の『文章読本』を読んでいるSayoです。

この本には「翻訳の文章」という章があります。
三島は、「読者としてどう読むか」ということを書いているのですが、翻訳者としてもじわじわくる文章が多い。
小説や戯曲、詩などの文章が対象ですが、実務翻訳や広く翻訳一般にも当てはまるように思えます。

その中に
「このように読者が翻訳の文章を読むときにも、日本語および日本文学に対する教養と訓練が必要なのであります。その教養と訓練が失われたときに、翻訳の文章と水準は低下し、悪文がはびこり、かつ悪貨が良貨を駆逐します」
という一文がありまして、なんか、ぐさっときたのでした。


読者として「日本語を読む」ことを考えるとき、この頃では、特にウェブ上で、何だかもやもやする文章に触れる機会が増えたような気がします(たぶん、私もときどきそういう文章を書いていると思います、スイマセン)。
原因はさまざまあると思うのですが、「とにかく早く」が求められ(OR よしとされ)、十分な校正がなされないまま文章がひと目に触れる機会が増え、読み手もそれに慣れてきたたというのも一因かもしれません。
そういう文章に多く触れ、「この表現おかしくないか」と立ち止まって考えることをしないでいると、知らず知らずのうちに、自分の中の「きちんとした文章」(という表現は非常に曖昧なのですが、ワタクシ的には、論理が破綻せず、読者が、内容を読み取る以上の無駄な努力をすることなく理解できる文章、のように考えています)の基準がだんだん低くなっていくような気がします(周りの影響を受けやすい自分を基準に考えているので、そうでない方も多数おられると思います。そのあたりは、割り引いて読んでやってください)。

そうすると、書く方でも、きちんとした文章が書けなくなる。でも、読者の方もそうした文章を日常的に目にしているので「まあこんなものかな」ですまされる。そうやって受け入れられてしまうと、「これでいいんだ」となって、次からはそのビミョーにもやもやする文章がその書き手のデフォルトとなる。でも、読者の方もそうした文章を日常的に目にしているので...(永遠に続きそうなので以下略)

翻訳でも同じではないかという気がします。
納期が短いためにそこそこの訳文しか提出できない。でも、読者の方も若干もやっとしながら「この納期だしね、意味は分かるしね、しょうがない」と受け入れる。そうすると翻訳者も「このレベルで仕事をすればいいんだ」となって、それがデフォルトになる。でも、読者の方も...(しつこいので以下略)
仕事としては、それが「合格点」と言えるのかもしれません。でも、私は、どうしても、辻静雄さんの「九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」という言葉を思い浮かべずにはいられないのです。
本来は、読者が訳者を育て、訳者が読者を育て――の好循環が理想のはずなのに、今は(あくまでも耳にする範囲ですが)その逆の循環が優勢になってしまっているように思えて、少し残念です。

自分としては、これからも「きちんとした文章を書く力」を養う努力を続けていきたいです。そうやって自分の中に蓄積したものは、きっと私を裏切らないはず。
読者としては、きちんとした文章とそうでない文章を見分けることができ、訳者としては、常にきちんとした文章を書く。
地味にあたりまえのことなのかもしれませんが、これからも、そういう風に翻訳と向き合っていきたいです。

...てなことを、「文章読本」を読んで考えたりしたのでした。

最近、オチもツッコミも少ない文章でスイマセン。次は頑張ります(何を?<自分)
2018.08.07 23:58 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

ごぶさたしました。
7月は(当社比)超絶忙しくしておりました。

まだしばらく修羅場は続きますが、タイトルにある「シノプシス」を提出して、一瞬気を抜いている今しかブログは書けん! ということで、こんな時間ですが机に向かっています。

そんなわけで、7月は原書を1冊リーディングし、シノプシスを書きました。

詳細は書けないのですが、こちらからの持込みで、とりあえず出版企画会議までは連れて行ってもらえそうな雰囲気です。

今春、初めてざっと読みしたときから、「この本は日本でもいけるかも」と思っていた本でした(ちなみに、これまで聴き流したり読んだりした「これは」という原書が、ジツは翻訳中だった/すでに訳書が出ていた、ということは何回かあったので、嗅覚は悪くないかもしれません)。

ある方に「この本いいです!」と熱く語った結果、その方が、とある出版社につないでくださり、「シノプシスを」という話になりました。
結構急に話が進んで怖くなり、恩師に相談して、「紹介したい本なら、とにかくやってみなさい」と背中を押して頂きました。
(ワタクシは、これからも軸足は医療機器でいくと思いますが、一生に1回は本を訳してみたい、という気持ちはあったりします<貯金のあるうちに)

リーディング講座」を受講したときも、ここまで想定していたわけではなく、ノンフィクション講座を受講したときも、「考え方や表現の幅が広がれば」くらいの気持ちでしたが、本当に、いつ何がどんなかたちで役に立つか分からないものです。(やり方として無駄なやり方というのはあるとしても)無駄な勉強などないのだなと、しみじみ思いました。

シノプシスを書くにあたっては、リーディング講座のレジュメと返却された赤入りシノプシス、それから「文芸翻訳教室」(越前敏弥)の該当部分を参考にしました。

講座では、5日で2冊分のシノプシスを書き上げていましたので、「3日もあれば」と考えていましたが、甘かったです。
週初からぼちぼち書き始め、木曜日から仕事は休み、最後の2日は仮眠を挟みながら、よれよれになって、先ほどやっと書き上げましたです。
章毎に、適切な長さで、必要情報を落とさず要約することの何と難しいことか(まあ、内容にもよるのかもしれませんが)。
パラグラフ毎とはいえ、勉強会で要約をやっていたのが、少しは役に立ったかもしれません(本当に、無駄な勉強などないのだった<しみじみ)。

「リーディング講座」では、私はいつも「あらすじが短すぎる」と指摘を受けていました。
自分では「あまり長いと読んでもらえないし」と考えていたのですが、実際に仕事としてやってみると、「内容の全貌を知ってもらうには、それなりの情報を盛り込まなければならない」ということが分かりました。やはり、講座受講時は、「(シノプシスの)読者が内容を知るにはどこまで書かなければならないか」という意識が甘かったような気がします。
とりあえず、今の自分にできるベストは尽くしました。

今後の流れとしては、

1. 企画会議でボツる
2. 企画会議を通るが、別の方が翻訳する
3. 共訳する

のいずれかになると思います。1か2止まりかな~。
「シノプシス」を書く前は、「力のある訳者さんの翻訳で、この本が世に出てほしい」という清らかな(?)気持ちでしたが、書き上げた今は、何だかこの本が本当に可愛くなってしまって(苦労させられた子ほど可愛いと申します)、自分も訳したいというヨコシマかつ大それた欲も出てきたりしています。
とはいえ、それはワタクシの一存でどうなることでもないですし、万一そうなったらなったで、毎日の仕事との兼合いに悩むことになると思いますので、今は考えずにおこうと思います。
相談したとき、恩師が、「たとえ翻訳できなかったとしても、(シノプシスを書いたことは)Sayoさんの力になるでしょう」と仰ってくださいました。その言葉を忘れず、また日々の仕事に精進します。

疲れた~、明日はまず寝坊するよー。
2018.07.30 02:37 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |