屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


 原書と翻訳書の対訳音読を翻訳ストレッチに追えようと思ったとき、「ストーナー」(ジョン・ウィリアムズ/東江一紀訳)以外にも、何名かの翻訳家の名前を頭に思い浮かべました。
 そのお一人が小川高義さん。名前に聞き覚えがなくても、「『さゆり』を翻訳された方」と言えば、思い当たられる方も多いのでは。「さゆり」は描かれる世界が少し異色なので(京都花柳界)、対訳音読候補からは外しましたが、「他にどんな小説を訳されているのだろう」とAmazonで検索して見つけたのが、「翻訳の秘密」(研究社、2009年)というエッセイ集でした。副題は「翻訳小説を『書く』ために」。なかなか蠱惑的な副題ではないか...と、積ん読はこうやって積み上がっていくのだよ。


 そんなわけで、今日は主に、この「翻訳の秘密」(小川高義)の読書感想文です。

 まえがきにいきなり「翻訳は教えたり教わったりするものではない」とあります。「翻訳の出発点は『読む』段階にある(中略)初心者への指導があり得るとしたら、うまく読めるようになるための技術支援である。プロの翻訳家にとっても、一生ずっと、読み方の試行錯誤は続くだろう」(5-6頁)。だから、これから書くことはすべて読み方のヒントです、と続きます。

 第1章「翻訳の手順」では、冠詞や単複の差からイメージを膨らませ、「まず文法に基づいて考えてから、イメージや気分について自分が納得する、それから書き始める」(30頁)ことが大事と述べられます。とはいえ、細かいところばかりに気を取られすぎても駄目で、「先へ先へと読ませる推進力」も大事だとも。そして、章の末尾を「原文から思い描いたことを、どうにか日本語でひねり出す、絞り出す、ということで、せいぜい一つしか出ないと思います。だからこそ『意訳・直訳』という発想法に不信感があるのです」(50-51頁)という言葉で締められています。 
 とはいえ、その先の章では、翻訳の仕事は「書いてある英語がわかること」と「わかった内容を日本語で書くこと」の二つに大きく分けることができる(55頁)、翻訳の品質は「入口」と「出口」で決まる(92頁、ただし「入口」を無視して「出口」の議論はあり得ないとも述べられていますが)、などと「訳す(書く)」ことの重要性についても言及されています。

  「原文をきちんと読み、イメージ(絵)を描く」「細かいところばかりに気を取られすぎても駄目(寄ったり引いたりしながら訳す)」「『意訳・直訳』という発想には違和感」というあたりは、翻訳フォーラムで聞いた話と、基本は同じだなと。( )内はフォーラムで使われていた(とワタクシが記憶している)言葉です。
 前にも書いたことがあるかもしれませんが、やはり、「一流」と言われる訳文を書かれる方々が「(自分の考える)翻訳とは」として口にされることは、表現の仕方は違っても、最終的に「内容を正確に読み取り、イメージ(絵)を思い浮かべ、それを別の言語で表現する」ことに尽きるのかなという気がします。本書はどちらかといえば「読む」ことに力点が置かれていますが、それでもやはり、翻訳を「読むこと」と「書くこと」として捉えています。
 ただ、実務翻訳の文書が、事実に基づいて書かれているのに対し、文芸翻訳(小説)では作者の解釈の上にストーリーが組み立てられていることを踏まえると、(あくまで個人的な感想ですが)文芸作品の方が読みも解釈も難しいということはあるような気がします(以前、「The Best American」シリーズの「The Best American Mystery Stories」を音読に使ったことがあるのですが、2/3近くの作品は一読しただけでは「よく分からない」という悲惨な結果に終わったのでした<それはおまえの読みの力が足りんだけだろう、という説も根強い)。
 それでも、どんなジャンルのものであれ、原文の内容を正確に読み取り、(頭の中に)絵を描き、(文化や言語間の違いにも気を配りながら)日本語で的確に伝える、というのが翻訳の基本ではないかと、今のところそんな風に思っています(「思う」と「きちんとできる」はまた別なんですが(^^ゞ)。


 小川さんは、よく使用するウェブ辞書(2009年当時)としてOneLook.comという英々辞書まとめサイト(でいいのかしら)を挙げておられます。
 語句(単語やフレーズ)を入力すると、説明が記載されている辞書の(該当語句への)リンクが一覧で表示されます。語句入力→リンク先に飛ぶというひと手間が必要なのですが、語句によっては、Websterの1828年版もヒットしたりするので、特に文芸翻訳をされる方には便利なまとめサイトかもしれません。Generalカテゴリの他に、Art、Computing、Medical、Business、Tech、Slangなど、分野別のヒット辞書も表示されます。最近、コテコテの医療機器ではない一般的な案件を頂いたときに、使い勝手を試してみたりしています。


 また「さゆり」パート(?)では、ハードカバーと文庫版両方の「訳者あとがき」に加え、「アメリカ産花柳小説」をどのように翻訳するかを決めていく経緯が例とともに語られており、詳細な注も含めて興味深く読みました。少し長いですが、参考までに引用しておきます。

 (本作はプロットを重視したもので、必ずしも祇園のスケッチを意図したものではないという記述のあと)「しかしながら、そのプロットをささえているのが、アメリカの読者はもちろん、日本の読者さえ驚くだろう細部だということも確かである。その基盤が脆弱になることは、何としても防がねばならない(中略)それを大事にしたいと思えばこそ、あらさがしにも似た裏付け調査をした。祇園という場所の感覚を充分に伝えながら、なお日本の読者に抵抗感を抱かせないようにすることが訳者の任務と考えたが、その結果として、フィクションとしての本質が見えてきたようにも思う。個々のディテールとしては、見てきたような嘘をついている箇所もあるのだが、現実と非現実が入り乱れた中から、まるで細かな事実を積み重ねたかのような総体をつくってしまった作者の芸に、評価の基準をおくべきなのである」(134頁)


 この他に、小川さんが訳した他の作家の作品についての考察や、古典新訳についての話が続くのですが、長くなりましたので割愛します。
 現在は絶版のようですが(たぶん)、Amazonで容易に入手できますので、お気が向かれた方はAmazonさんを訪ねてみてください。
 あとがきの最後に、青山ブックセンターで人気の翻訳教室を主宰されている研究社のK子靖さんへの感謝の言葉があり、「おお、こんなところに」となりました。
 
 翻訳ではやはりこれがキモなのではないか、ということで、タイトルは「読み、描き、書く」としました。
2018.02.10 22:47 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

聴了。

医師でライターでもあるGawandeの著作は、以下の3冊を読みました。
読みやすい英語だし、話の展開も上手い。ついつい「もう少し」と読んでしまいます。

「Complications」(2003年 邦訳「予期せぬ瞬間」)
「Better:A Sugreon's Notes on Performance」(2008年 邦訳「医師は最善を尽くしているか――医療現場の常識を変えた11のエピソード 」)
「Being Mortal」(2015年 邦訳「死すべき定め」)

「Being Mortal」の読書感想文はコチラ
「死すべき定め」の読書感想文はコチラ

「Complications」は発売された頃に読んだので、すでに記憶の彼方ですが、たぶん、著者が研修医時代に遭遇した症例やそこから考えたことなどが書かれていたと思います。
次に読んだのが「Being Motal」。これは、邦訳書の副題にもあるとおり「医師は死にゆく人に何ができるのか」について、父親を看取った自身の体験も交えながら考えた、ちょっと覚悟のいる(<若干大げさ)1冊。
「Better」はそのちょうど中間に位置する書籍です。医師としてさまざまな現実に直面し、でも理想は失わず、医師としても一人の人間としても「脂が乗ってきた」時期なのかなと想像します。

だから、「Better」では、「もっとこうしたらよいのに」という思いや情熱が、外へ外へと溢れ出ていくような感じです。
対して、「Being Mortal」は、「こうしていくべきではないのか」という静かな情熱が感じられる作品でした。

どちらがいいとかそういうことではなく、「さまざまな経験を経て、人はこんな風にちょっとずつものごとへの接し方や表出の仕方が変わっていくんやなあ」と少ししみじみしたのでした。まあ、でも、Gawandeさんなんですけど。

で、何でしたっけ、「Better」の話でしたね。

「さまざまな状況でよりよいPerformanceを行うには、医師は何に努めたらよのか」を、副題にあるように、11のエピソードを通して考えていくという内容です。ビジネスや日々の生活に通じるものも感じます。

Gawandeは、知識を得たり技術を向上させたりするより大切なことがあるといい、diligence(勤勉さ)、do it right(正しく行うこと)、ingenuity(工夫)の3つを挙げています。その具体例として11のエピソードが語られます。Do it rightのParticipating in executing prisnorsでは、「薬剤による処刑に医師はどこまで関わることができるか」という、かなり controversial な問題を扱っており、またhow and when to stop (treatments)では、「Being mortal」の萌芽が感じられるなど、考えさせられる部分も多々ありました。

その他の詳しい内容は、「興味の湧かれた方は読んでみてね」(福岡でE田先生も推薦されたみたいだし)と逃げるとして、最後に、「ポジティブに現状から逸脱する」ためには「こうすればいいのでは」と(特にこれから医療を担う医学生に)Gawandeが提案している5 suggestionsを挙げておきます(*書き取りミスしている場合もありますので、項目名以外の部分は割り引いて読んでやってくださいませ)。

1 Ask unscripted questions(筋書きにない質問をする) Just let (patients) know you have a human connection とし、これは対患者のみならず nurses やmedical staff の場合も当てはまるとしています。
2 Don't complain(不平を言わない) 医師が不平を口にするのを聞くことほどdiscourage なことはないとし、ランチやミーティングの場などで、誰かが不平を口にしたら話題を逸らせられるよう、be prepared to have something to be discussed と提案します。
3 Count something(数える) 数えることで問題がより明確になり、改善につながる(only technologial solutions, not punishing people, can eliminate the problem) とし、たとえば、治療によって合併症を併発した患者数など、何でもよいから興味があるもの(こと)の数を数えるよう提案します。
4 Write something(書く) perfect な書きものである必要はないとし、書くことで客観的になり think through problem することができるとしています。また、書くことで自身をlarger world(communityなど)の一部とすることができるとも。
5 Change(変わる) lazy, doubtful skepticsではなく(全部を受け入れろというわけではないが)early adaptorになるべしとし、他人の命がかかっている医療の場では、責任を持ってリスクを負う必要もあると述べています。

1は置くとしても、2~5は、日々の生活態度にも当てはまることだよなと。
Gawandeの視野の広さに驚かされます。

でも、やっぱり「Being Mortal」の方が好きかな-。
2018.01.21 23:27 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

朝日新聞1月15日夕刊
コラム「季節の地図」
必要なこと(柴崎友香)

(トークイベントで「他の人の本も読むのか」と尋ねられ、「もちろん読む。読むのが好きだし、書く時間の何倍も読まないと書けない」と答えると、意外だという声が上がった、という前段を受けて)
「...作家を職業にしたときの矛盾の一つは、ありがたいことに仕事が増えると、本を読む時間が減ってしまうことだ。作家同士でも、ときどきそのことを話す。特に年齢が近い人とは、仕事を少しセーブしてでも読む時間を確保しないと、と肯き合った。本を読むにも体力がいるし、この先どれだけ読めるだろうと、そろそろ考え始めるからだ。
たぶん自分が書く量の何百倍くらい読んでやっと書けるのだと思う(中略)高校で美術の時間に先生が『見て見て見て・・・・・・、ちょっと描いて、また見て見て、十見て、一描け。それでもえがきすぎなぐらいや』と言った。二十五年経っても、それを何度も思い出す」


作家と翻訳者とでは少し違うかもしれないけれど、「書く」ためには、たくさんのものを読み、自分の中に言葉を蓄えていかなければならないのだなとしみじみ思う今日この頃。
結婚してからの20有余年、日本語の少ない環境に放り込まれ(その代わりに英語は読んだから、それなりによしとするかな)、両親の老いに翻弄され、その後は仕事に悩殺されて、(仕事で必要な以外の)本をあまり読んでこなかったことを、今後悔している。50代も半ばをすぎると、長編を読み通す体力が衰え、何より「目」が衰えてくる。耳から届く日本語と、目で味わう日本語は、やはり少し違う、ような気がする。なので、衰えた「目」を労りながら、そして自分の好みに偏らないように気をつけながら、今年は昨年より多くの本を読んでいきたいと思うのだ。



「ストーナー」(ジョン・ウィリアムズ/東江一紀訳)
訳者あとがきに代えて(布施由紀子)
(原書「Stoner」は、1965年の刊だが、一部の愛好家に支持された他は細々と読み継がれるのみで、著者亡きあと、その存在は世間からほぼ忘れ去られていた。ところが、2006年に復刊されると、欧州市場から逆輸入される形で人気に火がつき、本国アメリカでもベストセラーとなった。刊行当時注目されなかったのは、受動的で地味な主人公ストーナー(の一生)が、成功物語を好むアメリカ人に受けなかったためと言われている。あとがきの中に、著者のインタビューの翻訳が引用されている)
「...この小説を読んだ人の多くは、ストーナーがとても悲しい不幸な生涯を送ったと感じるようですが、わたしは、じつに幸福な人生だったと思います。間違いなく、たいていの人よりはよい人生だったはずです。やりたいことをやり、自分のしていることにいくらか適性があり、みずからの仕事が重要であるという認識をいくらか持てたのですから」(331頁)

まだざっと読んだだけなので(図書館で借りたので<やっと購入しました)、もう一度丹念に読んだら、また少し考えも変わってくるかもしれないが、ストーナー自身も、自分の人生を「悪くない人生だった」と考えていたのではないか(そういう記述があったらスイマセン、読み飛ばしてます<「予約のヒトがおるからはよ返して」と言われてあせったのだった)。この年になって、私も、「結局やりたいことをやっている自分はそこそこ幸せ」と思うようになったので、どうしてもそんな風に考えてしまう。
東江一紀さんも、著者の語る「幸福なストーナー」に多少なりとも自分を重ね合わせておられたのではないか。弟子の布施さんに「平凡な男の平凡な日常を淡々と綴った地味な小説なんです。そこがなんとも言えずいいんですよ」と仰ったそうだ。だからこそ訳したいと。布施さんはこうも書いておられる。
「...先生がもっとも共感されていたのは、生きづらさをかかえた不器用な男を見つめる著者のまなざしだったのではないかと思う。精緻な文体で綴られるがゆえに、ストーリーを語る声に温かさがにじむ。東江先生は本書を生涯最後の仕事として選び、その文体に挑まれたのである」(332頁)
「人は誰しも、思うにまかせぬ人生を懸命に生きている。人がひとり生きるのは、それ自体がすごいことなのだ。非凡も平凡も関係ない。がんばれよと、この小説を通じて著者と訳者に励まされたような気持ちになるのは、わたしだけだろうか」(332-333頁)

涙なくしては読めないあとがきで、50代の今になってこの本に出会ってよかったとしみじみ思うのだ。
2018.01.17 00:04 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

先日「泣き童子」を読んで、宮部さんの描く怪獣に心をわしづかみにされてしまい(「まぐる笛」)、これはもう、この勢いで「荒神」を読まねばなるまいと思ったのでした。
某紙連載中はちらちら横目で眺めてましたが、コワくて読めなかったのでした。ええ、なかなか凄惨な場面も続きましたので。脳内アニメ変換は得意です。

宮部さんは、書籍紹介&インタビューの中で、「特撮時代劇を書きました!」「60年代の映画『大魔神』のような、昔の特撮時代劇の持つレトロな雰囲気を楽しんでもらえたら」と書いておられますが、いやいやいや、なかなか凄惨な怪獣大暴れシーンでした。
https://publications.asahi.com/original/shoseki/koujin/(物語世界の紹介)
https://dot.asahi.com/dot/2014081400045.html?page=1(インタビュー)


舞台は、「物語世界の紹介」にあるとおり、主藩と支藩の関係にある東北の架空の2藩。その藩境近くの支藩(香山藩)側の小村(仁谷村)から一夜のうちに村民が消えた。
当初「逃散」と呼ばれる集団逃亡かと思われたものの、徐々に怪獣に襲われたらしいことが分かってくる。怪獣は人の臭いに引かれ、次に主藩(永津野藩)の砦を、続いて同藩の小村(名賀村)を襲う。
人間しか襲わない、がまとも蛙ともトカゲとも蛇とも見えるその怪獣は、呪術によって生み出された土塊で、百年余の間山中に眠っていたのがこの春目覚めたものであることが分かる。
その怪獣「つちみかどさま」を鎮めることができるのは、術者の血を引く者だけだ。自ら喰われることでその心となり、怨念の塊ともいえる怪獣を鎮めることができるのである。


今回は、ネタばれは止めておきます(いや、すでにかなりバラしてるんですが)。
怪獣が砦を襲うあたりまでは、説明も多く、若干もどかしい感がありますが、そこから先は、凄惨シーンも含めて一気にラストまで突っ走った感じでした。宮部さんは、アクションシーンが難しかったと仰っていましたが、いやいやいや、ワタクシは、「クロスファイア」を読んだときから、いつかこんな日がやってくることを予感していました。

「で、主人公は誰なん?(ワタクシの中ではやはり朱音様)」状態で話が進行していくのですが、宮部さんは、群像劇が書きたかったそうで、そう言われてみれば確かに群像劇でした。
そういう視点で読んでみると、「今誰の視点でものを見ているか」によって、その人物が使いそうな言葉遣いで情景が語られていて、微妙な書き分けが見事だと思いました(でも、正直にいえば、それが、読み進める際に若干の引っかかりになったのも事実なのですが)。

さて。
宮部さんは、「特撮時代劇エンタテイメント」的なことを仰っていますが、本当にそれだけ? と思うのはうがち過ぎでしょうか。
「物語世界の紹介」を見て頂ければ分かるとおり、舞台は上州(福島県)の山中です。新聞連載は2013年から2014年でした。

作中の
-戦が起これば、敵も味方も等しく傷つく。武器は、それ自体の意志で敵と味方を見分けることはできない。
-人の都合で作り、うち捨てたもの。忘れ去ってきたものが起き上がり、今、その怒りを滾らせている。あの怪物は、人の咎だ。
-「こうしたことをみんな、誰も悪いと思ってしているのではない。よかれと思ってやっているのだ」
 呪詛にしろ、お山の怪物にしろ、(中略)我が藩を富ませるため。我が藩の領民のため。大事な家族のため。この地に生きる民を守るため。
といった記述を読むと、宮部さんは、連載開始2年前の厄災、特に人の手になる厄災の方を多少なりとも念頭に置いておられたような気がしてなりません。あくまで想像ですが。

怪獣のために、多くの善良な民が命を落としますが、それでも残った者たちは生きていかなければならない。
物語は、残された少女が、ほんの少し前を向くことができたところで終わります。

宮部さんは、上記のインタビューの中で、「近年は、ミステリー味を多少薄くしても――作中の全部の謎が解決するわけではなくても、ともかくこの件は片付いた、そして物語の中の人物はこれからも生きていくんだ、という風に小説を作りたいと思うようになっています」と書いています。そういう風に舵を切ったのは、2001年の「模倣犯」以降だとか。確かに、この頃では、宮部さんの書く(特に)現代ものに、「そこでそう終わる?」という若干もやっとした気持ちを感じることが多かったのですが、そのような作風の変化は意図したものだったのですね。

最後に。
この「特撮時代劇エンタテイメント」、来年早々、NHKでドラマ化されるようです。
ドラマでは朱音様(内田有紀)が主人公になるらしい。双子の兄、曽谷弾正は平岳大さん。「真田丸」でも少ないシーンで強い印象を残した方ですから、復讐心に凝り固まった悪役、楽しみです。絵師圓秀に柳沢慎吾さんは、なんとなく小説中の圓秀さまの3倍くらい煩そうな予感が。浪人榊田宗栄は平岡祐太さんですが、うーむ、ビミョー。平岡祐太さんがどうこうということではなく、内田有紀さんの相手役ということで考えた場合、ここは西島英俊さんあたりを持ってきてほしかったところです。あくまで好みの話ですが。
特撮はCGなのでしょうけど、個人的には、小説の怖さを上回るものは描けないんじゃないかと危惧しています。
恐ろしく辛く哀しく心に残る物語でした。
2017.12.17 21:19 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(2) |

宮部みゆきさんの怪談時代物(と乱暴に括っておきます)連作短編集。

「参之続」とあるとおり、これが3作目。現在は四之続まで単行本化されているようです。

主人公は、叔父夫婦が営む袋物屋に身を寄せている(シリーズ開始時)17歳のおちか。
川崎の実家で彼女自身の身に起こったある事件がもとで心を閉ざしてしまったため、江戸の叔父夫婦の元に預けられることになったものです。
このおちかが、叔父の計らいで、三島屋を訪う客たちの語る不思議な話の数々を聞くことになるのですが、その中で、目を背け逃げてきた自身の「事件」とも対峙することになり、少し心が回復し前向きになるところまでを描いたのが「事始」の「おそろし」。事続(2作目)の「あんじゅう」では、さらに登場人物が増えて、おちかの身辺も少し賑やかになります。

3作目の本作でも、心温まる話やおそろしい話が語られます。おちかが他所の怪談語りの会に出掛けていくなんてことも。表題の「泣き童子」も心が冷え冷えとする「おそろし系」ですが、ワタクシが個人的にぶっ飛んだのは「まぐる笛」という作品。その感想は最後に取っておきましょう。

ワタクシが宮部さんの時代物作品を好きなのは、最後にきちんとカタルシスが得られるからではないかと思っています。現代物は、何というか、わりと救いがない状態で終わることが多い(それでも、「そんな世の中でも、もしかしたらまだ捨てたものじゃないかもしれない」とちらと思わせてくれるような終わり方ではあるので、ついつい手にとってしまうのですが)。

それから、これは、あくまでとても個人的な感想なのですが、時代物の方が、描写や表現でも遊んでいらっしゃるような気がします。もしかしたら、無意識のものなのかもしれませんが。

宮部さんの表現の仕方は独特だなあと思うことがあります(どの作家さんにも、ちょっとした「クセ」のようなものはあるのでしょうが)。
ワタクシが初めてそれを感じたのは「天狗風」でした(蛇足ですが、「天狗風」では、人間の言葉を喋る生意気な子猫の「鉄(てつ)」が大活躍します。猫好きの方は手にとってみてくださいませ)。
「天狗風」の中では、猫が苦手な、主人公はつの相棒右京之介さまが、猫と相対したときの様子が、「たった今満月が井戸端に降りてきて顔を洗っているのを見た、とでもいうような顔をしている」だの「満月が手ぬぐいをさげて湯屋ののれんをくぐってゆくのを見たというような顔をした」だのと、突拍子のない表現で語られています。
とはいえ、ワタクシが、未だに覚えているくらい目立っていたわけなので、表現としては若干行き過ぎではあったのかもしれません。

「三島屋変調百物語」では、そうした表現が、ストーリーの中に上手く溶け込んでいて、ワタクシはやはり「円熟」という言葉を思い浮かべずにはいられないのです。

宮部さんは、オノマトペというのでしょうか、重ね言葉の使い方も独特です。このあたりは好き嫌いの話にもなってくるかもしれないのですが、ワタクシは割りと宮部表現が好きで、新しい表現に行き当たると嬉しくなってしまいます(あくまで、自分の語彙の範囲の外にあるということなので、もしかしたら、他の方にとっては「独特」でも何でもないのかもしれませんが)。

参考までに、少し挙げておきますね。

***
「その笑いがしおしおと消えて、また震えるような吐息だ」
「いたって人の好いふくふくとした笑い方をするが、お上の御用となればぴりりと辛い山椒で」
「つるつると舌を滑らせながら」
「二人がけんけんと言い合っている間も」
「雲は動かず、風のない夏の夜に、鐘撞き堂を見下ろす山の森が、ぞわりぞわりと身動きしている」
***

という感じです。

この最後の表現は「まぐる笛」からのものなのですが、これは「怪談・妖怪もの」ではなく、あえて言うなら「怪獣もの」になります(とはいえ、ヒトの怨念が怪獣の形を取ったものではあるのですが)。「まぐる」というこの怪獣を指笛で退治する話なのですが、「まぐる」が人を喰らう様子や指笛に操られて自身を喰らう様子は(宮部さんの表現に手加減はありません)、ワタクシの中の「原始的な恐怖」を呼び覚まします。まるで、初めて「ジュラシックパーク」の恐竜と戦う場面の描写を読んだときのよう(こ、この先に「荒神」があるのかな<ドキドキ)。まさか、「三島屋変調百物語」で怪獣に出会うとは思っていなかったので、心の準備ができていなかったのでした。

とはいえ、そういうおそろしい話ばかりではありません。ちょっと切ない話や心温まる話も収められています。
「四之続」はウチの図書館ではまだ予約が10人を下回らないので、もちっと待つかなー。
2017.11.21 00:03 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(4) |