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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「ムギと王さま」(Eleanor Fargeon、石井桃子訳、岩波少年文庫2001年)

裏表紙には「『現代のアンデルセン』とも称されたファージョンの美しい自選短編集全27編」とあります。子どもの頃、大好きで何度も読み返しました。
私の手元にあったのは、おそらく1971年出版の単行本(ハードカバー)。今も実家の物置に保管されているはずなのですが、その物置だけは鍵が行方不明で、中のものを取り出すには鍵を壊して開けるしかありません。

ということで、図書館から借りてみました。とにかく分厚く重たく、その厚みがまた好ましかった記憶があるのですが、岩波少年「文庫」ということを差し引いても、薄い、軽い。嘘やろ――と思ったら、新版は「ムギと王さま」と「天国を出ていく」の2巻に分かれているのですね。それぞれに「本の小べや1」「本の小べや2」と副題がついています。

そう、この本の原題は"The Little Bookroom"。その原題の説明にもなっている「作者まえがき」が、私は大好きなのです。
ファージョンが子どもの頃に住んでいた家には、子どもたちが「本の小べや」と名づけた小さな部屋があったそうです。それ以外の部屋も本で占領されていて、「本を読まないでいることは、たべないでいるのとおなじくらい不自然に」思われるほどだったそうです。そうした部屋々々の本棚からあふれた本が流れつくのが「本の小べや」で、そこには選択も秩序もなく、雑多な本がところせましと積まれていて、「いろいろな種類の本でぎっしりつまっている、いくつかのせまい本棚は、壁の中ごろまでとどき、またその上には、ほとんど天井にとどくところまで、乱雑に本がつんでありました。床に山とつんであるのは、またがなければなりませんでしたし、まどによせかけてつみあげてあるのは、ちょっとさわれば、たおれおちました。おもしろそうな表紙の本をひきだせば、足もとには、まるで大波がおしよせたように本がひろがります」という状態だったとか。そして、子どもたちは日がな一日、そこで本に読みふけり、空想にふけったのです。

たとえば、屋根裏みたいに天井が低く天窓からひかりが差し込むような、秘密基地めいた小さな部屋に、こんな風に本が積まれていたら、嬉しくないですか。まあ、掃除も行き届かないでしょうから、ファージョン自身が言っているように、つねにほこりが舞っていて、のどを痛めてしまうに違いありませんが。

子どもの頃に住んでいた社宅では、せまいダイニングキッチンのダイニング部分を潰すような形で、天井まで父の蔵書が積まれていました。真ん中にあるせまい通路は、子ども一人やっと通れるほどの幅で、いつもうす暗く、奥はまるで穴蔵のよう。私はよくそこにもぐり込んでは、本の背表紙を飽かずながめたものです。そんな小さい頃の風景がファージョンの前書きとシンクロしたのかもしれません。(今は、本を処分することの大変さを身をもって知ってしまったので、自分では本に囲まれた生活はもういいやと思っていますが)。


再読すると、どれも「ああ、こんな話だったなあ」と懐かしくてたまりませんでした。何回も読み返しただけあって、少し読むと結末を言い当てられるお話がほとんどでした。
寓話や昔話、子どもの日常、神話に題材をとった話――とファージョンの語る話は多岐にわたります。『大学教授のように小説を読む方法』のフォスター先生なら、「こんな風に読み解ける」と仰るところかもしれませんが(注:決してThomas C. Foster氏に異を唱えているわけではありません。この本(私が読んでいるのは原書ですが)は小説をもう一歩踏み込んで深く読む読み方とその面白さを教えてくれます)、ここは、深読みは忘れ、童心にかえって楽しく読むのがいいかなと思います。石井桃子訳は、やわらかく暖かく、若衆だの駅夫だの、もう死語といってもよい言葉もたくさん登場しますが(初版は1959年)、それさえも古い不思議な世界に誘ってくれる合い言葉のようです。

中学生の頃は、王さまが小間使い(実はとなりの森の女王)と結婚なさったり、王女さまと木こりの青年が恋に落ちたりといった、"Happily ever after"系のお話に心惹かれましたが(そういうお年頃でした)、今は別のお話にもっと心を惹かれるのは、四十有余年という年月のなせる技でしょうか。再読して一番心に残ったのは『金魚』という掌編。むかしむかし金魚は海に住んでいたけれど、そこは金魚には広すぎると考えた海の王さまが、小さな金魚がほしいと泣いた世界(金魚鉢)と月(銀色の金魚)を金魚に与えてやるというだけの短いお話なのですけど、小さな金魚がなんだかとてもいとしくて。作者のお気に入りだったという、神話に題材をとった『パニュキス』も、初読時は別になんとも思わなかったのですが、(特に最後の大人になってからを描写した数行が)なんだかとても切なく感じられました。


というわけで、「本の小べや」が原点の女性が書いた物語に興味が湧いた、かつて少年少女だったみなさん。
図書館で見かけましたら、手に取ってみて頂ければと思います。
2019.08.23 23:25 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

先月の勉強会で、管理人さんに作品の重層構造についてのお話を伺ったとき(第12回勉強会-「考え方」の幅を広げる)、皮相的な読解しかできていなかったと身に沁みて感じたわたしは、管理人さんに、「読みを深めるために何かいい本はありませんか」と尋ねました。

そのとき「こんな本があります」と教えていただいたのが、『大学教授のように小説を読む方法』(トーマス・C. フォスター、矢倉尚子訳、白水社、2009年)。
調べてみると、別宅(図書館)に保管(所蔵)されていることが分かりました。なおも調べてみると、原著『How to Read Literature Like a Professor』(2008年)は、2014年に改訂版が出ている様子。Amazonでほしいものリストに放り込みまめにチェックしていると、あるとき30%近く値下がりしたので、思い切って購入して読み始めました(で、あとで『大学教授のように小説を読む方法』を読んで内容を再確認しようという作戦)。

わたしは、特に英文は、皆さんがよく口にされる「○○な(洒脱な/淡々とした/流麗な…まあなんでもいいですけど)文体で書かれている」的なことがまったく分からないヒトで、そこからしてもう特に文芸翻訳には向いてないよな~と思うのですが、本書については、平易な英語であることに加え、「面白く書かれた」文章であるということくらいは分かりました。小説の読み方指南書なのに、先へ先へと、どんどん読みたくなるのです(の割には、まだ四分の一くらいですが…音読なので…)。自分が英語ネイティブならば、フォスター先生の授業を聴いてみたいと思いました。きっと面白く楽しいに違いありません。

章タイトルの一部を挙げると…

● Now, Where Have I Seen Her Before?
● When in Doubt, It's from Shakespeare…
● …Or the Bible

…みたいな感じです。

Shakespeareの章を読んでいると、『Bartlett's Familiar Quotations』にはシェークスピアだけで47ページ分の引用がある、というくだりがありました。
『Bartlett's Familiar Quotations』? 出版翻訳をされる方はご存じなのかもしれませんが、わたしは初耳です。
あちらでは有名な引用辞典なのかと思って調べてみると(そんなことばかりしているので仕事が進まない説)、1855年に初版が発行された後改訂を繰り返し、現在18版(2012年)が発行されている息の長い引用辞典であることが分かりました。Wiki情報ですが、"most widely distributed collection of quotations"とされています。

もう少し調べていくと(<仕事しろ)、1911年発行の10版が著作権切れで、Freeで入手できることが分かりました。DLしてみると、非常に読みにくいですが、きちんと検索はできます。
(Freeで入手可能なものについてはhttps://openlibrary.org/works/OL4095484W/Familiar_Quotations を参照)
実は、1968年発行の14版のDLも可能なようなのですが、上記URLでは14版はOpenLibraryでの貸出しのみが可能になっており、著作権所有者がFreeでの入手を許可しているかどうか確認できませんでしたので、DLは止めておきました(あくまで個人的な考えですが、翻訳者がそれをやってはマズかろうと思うので)。

でも、できれば、もっと新しいBartlett'sが見たいよね~とさらに調べていくと(<仕事しろ)、App Storeで18版のアプリを購入できることが分かりました。
(www.bartlettsquotes.com/)
早速購入して(1コイン以下のお値段でしたし…)使ってみると、これがなかなか楽しい。
長いものは途中までしか見られなかったり、出典情報が略されていたり(例えば、書籍版では聖書○○書どこどこまで確認できるけれど、アプリでは出典The Holy Bibleまでしか確認できないなど)と、アプリだけでは不十分ではありますが、英語圏で頻用される引用かどうかを確認するとっかかりくらいにはなるかもしれません。Steve Jobsや、勉強会でとりあげたSawl Bellow、Ann Beattieらの引用もありました。ちなみに、シェイクスピアからのものは1900、聖書よりも多いのが驚きでした。ギリシャ・ローマの賢人や哲学者、詩人らの引用(English Translationのもの)もあります。
…という感じで、今のところ、開くたびに何かしら発見があって、ついつい毎日アプリを開いてしまうSayoなのでした(<仕事しろ)。
2019.06.22 21:05 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

PIXAR 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』(ローレンス・レビー、井口耕二訳、文響社)


 昨夏、本書の訳者の方と話をする機会があった。翻訳者数名のこぢんまりした飲み会で、ひたすら翻訳について語り合う贅沢な時間だった(私は幹事特権で末席に滑り込んだ)。
 その中で、訳者の方が今(つまり、その当時ということだが)翻訳に取り組んでおられる本の話になった。会話部分の訳し方についての話で、人間関係によって訳し分けるのはもちろんだが、同一人物との会話でも、関係が変化するにつれて口調が変わっていくのは当然で、微妙な変化をどう出していくか悩んでいる、というような話だったと思う。私は、すべてを吸収すべく全身を耳にして話に聞き入った。そうしながら、「訳書が出たら絶対買おう」と決心した。
 そして、今年の2月だったか、訳者のブログで『PIXAR』の訳者あとがきが先行公開され、私は「これがその本に違いない」と確信し、その足で(?)Amazonに予約に飛んだ。もともと買おうと決めていたから迷いはなかったが、そうでなくても読みたいと思わせるような、なかなか「そそられる」訳者あとがきだった。
 蛇足だが、私は、本はあとがきから読むタイプ。書店であとがきを立ち読みして購入を決めることもある。最近ではHONZなどで、解説やあとがきが公開されることも多く重宝している。ディオバンの臨床試験疑惑を扱った「偽りの薬」も、解説を読んで購入を決めた(そしてまだ階段に積ん読しているのはここだけの話)。

 閑話休題。
 『PIXAR』は「エッセー・随筆」や「映画ノンフィクション」に分類されているようだが、私の中では「ビジネス書」扱いだ。こうした書籍を自分から手に取ることは、まずない。PIXARは社名くらいしか知らなかったし、同社が製作した「トイストーリー」も未見である。それでも、本書のストーリーに引きつけられて、短期間で読破した。
 本書は、スティーブ・ジョブズが自腹を切って支えていた小さな映像製作会社が、「トイストーリー」というメガヒットを飛ばし、株式公開も実現して有名になっていく過程を描いた、いわばサクセスストーリーだ(実のところ、成功するか否かは本当に紙一重のところだったようだが)。ジョブズに請われて同社に入社し、立て直しを図った最高財務責任者(CFO)の視点でその過程が描かれている点が、これまでのPIXAR関連書とは一線を画している(らしい)。CFO視点と聞くと、地味で退屈な財務関連の話を想像しがちだが、どうしてどうして。「トイストーリー」の封切りとIPOに至る経緯を詳細に語りつつ、その2大クライマックスまで、徐々に加速しながら飽きさせず引っ張っていくストーリー展開と筆力はさすがだと思った。契約、株式公開に関する一般的な話、投資銀行の説明なども分かりやすい。著者の力量はもちろん、訳者の力量に負うところも大だと思う(決して面識のある方だから褒めているということはない<念のため)。昨夏の飲み会で話題になった内容を、「ここがそうかな」「もしかしてここもそうかな」などと考えながら読んでいくのも楽しかった。
 エンドロールの「種あかし」も心温まるものだった(その裏ではギリギリの攻防戦が繰り広げられたようだが)。著者は「ここを見るたび、私は涙ぐんでしまう」と書いており、訳者もあとがきを「そのエンドロールを見たら、私も、涙ぐんでしまうかもしれない」と結んでいる。
 今夏、「トイストーリー4」が公開される予定だそうだ。映画館にも足を運んだ本書の読者の何人かは、やはり「涙ぐんで」しまうのではないだろうか。私は――おそらく涙ぐむことはないだろうが、きっと思わずほほえんでしまうと思う(もともと映画館ではエンドロールまで見るタイプだ)。

 著者は、ジョブズと協調し、ときには宥め、そのわがまま(?)に付き合いながら、PIXARを成功に導いた。だからこそ、彼が、車でジョブズの家の前を通り過ぎながら、その家にジョブズがいて、もう一度「やあ、ローレンス、散歩に行くかい?」と声をかけてくれたならと願うラストシーンは、とても余韻の残るものになっていて、うるっとしてしまったのだった。


 翻訳の勉強にいいと言う声をよく耳にする「読み比べ」を私もやっている。『Stoner』(John Williams)と『ストーナー』(ジョン・ウィリアムス、東江一紀訳)を読み比べていて、いつ読み終えることができるか分からないくらい遅々として進んでいないのだが、この『PIXAR』の読み比べもやってみたくなった。『ストーナー』はまず英文を読み、対応する日本語訳を読むのだけれど、『PIXAR』は逆向き、つまり「どの英文がこの日本語になったのだろう」と考えながら日→英の順に読んでみたいと思っている。いつになるか分からないけれど。
2019.05.20 01:27 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「英語の発想」(安西徹雄、ちくま学芸文庫、第一刷2000年)

一昨年後半当たりからこのテの書籍がマイブームでして(今は、最後の五十か条だけ読んで積んでいた「悪文」をちまちま読んでます)。
「今まで読んでなかったんかい」て話ですが、スイマセン、読んでませんでした。

英語がモノ指向であるのに対し日本語はことを取り出して述べる傾向があり、このため関係代名詞が発達しなかったとか、日本語は動作主への働きかけを中心に概念化するのに対し英語は動作主中心にものごとを捉える(したがって無生物主語が多用される)とか、ウチソトの意識とか、受動態の訳し方(どう考えどのように日本語にするのが「日本語らしい」か)とか、興味深い話題が満載でした。

個人的にとてもtimelyだったのが、時制(視線)の移動。
例として川端康成の「山の音」(本書ではSeidenstickerの英訳と合わせて分析されています)が挙げられているのですが、(日本語の)文章中の過去形と現在形の混在を、安西さんは、「そのとき話の視点はどこにあるか」という点から、語り手の時制(過去形)と物語の主人公の時制(現在形)に分類されていました。

私はその少し前に、過去形と現在形が混在する訳文を作る機会がありまして(原文はすべて過去形)、訳しながら「その方がしっくりくる」という理由で過去形と現在形を混在させたのですが、本書を読んだあとで見直してみましたら、確かに「ナカの人視点になっている」と思える箇所を現在形で訳していました(過去形と現在形の混在が、必ずこの法則で説明される訳ではないと思いますが)。

大げさに言えば、自分の中で「何となく(結果として)適切にやった」ことが「裏づけをもって適切にやっている」に変わった瞬間でした(いや、だから、大げさでスイマセン)。「何となく適切にやっている」と「裏づけをもって適切にやっている」は、結果(生成される訳文)は同じでも、実はかなり違うのではないかという気がします。「何となく」の場合は、基本法則に則っていないので、応用や切り分け(「この場合もそれでよいのか」的な)ができず、どこかで壁に突き当たってしまうのではないかと、そんな風に思えます。

「英語の発想」のような書籍は、私にとっては、そのような「裏づけ的法則」に気づかせてくれる類いの本です。1冊読んで、新たな気づきがあるかもしれないし、ないかもしれない。でも、ともかく「あの人も別の言い方で同じことを言っていた」(だから大切なことなのだ)とピンとくる箇所はある。
さまざまな「なぜ」、「だからこうなる」が気になりだしたここ2、3年が、(自分の)こうした書籍の「読みどき」ではないかと思って努めて読むようにしているのですが、この「読みどき」は人によって違うと思っています(私は「読みどき」が遅く理解にも時間がかかった方かなと)。「読みどき」は、あえて言えば、こうした書籍を「読まなきゃ」ではなく「読んでみたい」と思ったとき、「裏づけ」が気になりだしたとき、読んでいて付箋を貼らずにいられないとき、でしょうか。「読みどき」を誤らなければ、得るものの多い、そんな1冊だと思います。他には、個人的には「翻訳の秘密」(小川高義)、「文芸翻訳入門」(藤井光)、「創造する翻訳」(中村保男)、「日本人のための日本語文法入門」(原沢伊都夫)などが、「読みどき」に読んだと思えた書籍でした。

たいして内容紹介になっていなくてすいません。m(_ _)m
2019.04.26 01:10 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

Max Tegmark
Life 3.0: Being Human in the Age of Artificial Intelligence(2017年)

著者は物理学者。
本書は、物理学者の視点から「人工知能の未来」を語ったもの。

かなり前に音読了していたのですが、読書感想文に載せずに闇に葬ろうかどうか、ずっと迷っていました。
英語はそう難解ではないものの、内容が難しい(特に、後半、宇宙的スケールでAIやAIに意識が存在するのか否かを論じた部分)。
付箋はいくつか貼りましたが、日本語の書籍と違って、「なぜその部分に付箋を貼ったんだっけ」もしばらく考えないと思い出せない始末(「年のせい」説あり)。

そうやって数ヵ月が経った先日、久しぶりにAmazonさんを訪ねたら、カスタマーレビューに素晴らしい要約が!(2018年12月7日付けのものです)

ということで、うろ覚えの記憶を辿って記事にしたいと思います。
全体の要旨は、↑ のアマゾンレビューをご参照ください。

ちなみに、Gizmodoに、軍事技術へのAIの応用について述べた部分(第3章の一部)の翻訳があります(こういう内容は、やはり読者の興味を惹きやすいのかも)。
https://www.gizmodo.jp/2017/10/life30-by-max-tegmark.html

上でも書いたとおり、英語自体はそう難解ではありません、専門家でなくても十分理解できる語彙で書かれていると思います。また、各章の末尾にまとめがあり、「読み返して大意確認」がしやすいつくりになっています。
けれど、知性、生命、意識とAIの関わりなど、一読しただけでは、正直どう解釈すればよいか途方に暮れてしまう部分が多く、そういう意味で、今の私には少し難しすぎる本でした。とはいえ、ここまで長いスパンでAI(と人類)の未来を見据え、「AIに意識は存在し得るか」「AIは生命体たり得るか」まで論じた書籍はあまりないような気がします(単に私が知らないだけ、という可能性は高いですが)。少し前に出版された「Superintelligence: Paths, Dangers, Strategies」(Nick Bostrom、邦訳「スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運」)が、近い視野からAIを見ているのかなと思います(未読)。

レビューでは割愛されたPreludeとEpilogue。
PreludeはThe Tale of the Omega Team、EpilogueはThe Tale of the FLI Teamとタイトルも対になっています。
Preludeは、Omega Teamという架空のプロジェクトチームが作り上げたPrometheusというAIが、どんどん自己発展していき、ついには...という仮想シナリオ。掴みとしても秀逸だと思います(←捕まれたヒト)
Epilogueは、著者がさまざまな分野の研究者に呼びかけて立ち上げた、AIのリスク(AIと共存するについての安全性)を研究する組織について。その設立過程、第1回会議、そこでコンセンサスが得られた項目などが語られます。上記のNick Bostromもこの会議にも参加していますし、Tesraの Elon Muskがぽんと研究資金を出すなど、世界の研究者たちは、AIの安全性という面に着目し始めているようです。

そして、私は、素人なりに、このEpilogueも重要な部分ではないかと思うのです。
もちろん本邦でも、研究者の方々の間では、こうした部分が話題に上っているには違いないのですが、ニュース等で目にする話題は「AIに何ができるか」が多く、「なぜそれをやらせるのか」(目的)と「それは本当に安全で人類の発展に寄与するのか」に関するものはないような気がします(「おまえが積極的に探しに行ってないだけだろ」説もあり)。もちろん「あんなことも、こんなこともできる」が技術の発展につながるのだとは思いますが、「何のために」「どんなリスクが」をしっかり押えずに進んでいくのは危険なことのように思えてしまうのです。そんなことを考えさせられた「Life 3.0」、たぶん、いつもどおり私の感想は少しズレていると思いますので、本当にご参考程度に。


原著にはAmazonで294件のレビューがあり(4月23日現在)、平均4.3 starsです。まあ、多けりゃ、高けりゃいいってもんでもありませんが、それだけ話題になった書籍なのは確かです。もしかしたら、今現在、どこかでどなたかが翻訳作業をされている最中かもしれません。
2019.04.23 17:31 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |