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2020. 07. 17  

 この本を読んでいた4月、5月はちょうど、緊急事態宣言が出されて「これからどうなるのだろう」と不安で一杯の時期だった。特に下巻の内容や描写にはその頃の世の中の様子と被るような部分もあり、「タイムリーな」と思いながら読んだ(*個人的な感想です)。

(そして読書感想文を書くのをズルズルと先延ばしにしているあいだに、流行が再燃し、再び不安な日々を送るようになってしまったという…)

 舞台は、四国は讃岐の国の丸海藩という架空の小藩。時代は第11代将軍の頃というから、18世紀末から19世紀初頭の頃か。そこに、乱心して妻子や部下を惨殺したという加賀殿が流されてくることになる。この加賀殿の扱いをめぐって、藩のお偉方らの思惑が交錯する。そこにどうやら家老の家の跡目争いも絡んでいるようだ。加賀殿が藩入りされる前から、丸海では事故や食中毒が相次ぎ、下々の民はそれを「加賀殿の祟り」と恐れている。
 物語の主人公は、一人は、はるばる江戸からやってきて丸海に置き去りにされた少女ほう9歳。「ほうは阿呆のほう」と周りから言われ、自分でもそう信じ込んでいる。ほうの奉公先の匙(医家)の娘、何くれとなくほうの面倒を見てくれていた琴江様が毒殺されるところから、物語が動き出す。ほうの運命の歯車も。もう一人の主人公は、引手(岡っ引き)見習いの少女宇佐17歳。時には周りの人々のものの見方に引きずられもするが、曇りのない目で真実をみようと努力する(そして、常に曇りのない目でものごとをあるがままに見ていたのがほうなのではないかと思う)。
 雷害や火災など大きな災厄が藩を襲い、その災厄で、あるいは藩政に関わる者たちの思惑の犠牲となって、たくさんの登場人物が死んでいく。お偉方は、それを加賀殿という鬼のせいにしたがり、実際丸海の民はそれを信じるのだが、この物語には、実際の物の怪は登場しない。すべての死は、人の手や自然がもたらしたものだ。それが「荒神」など宮部さんの他の時代物と大きく違う点かなと思う。本作では、物の怪は人の心の中にしか棲んでいないのだ。
 ほうは、加賀殿が蟄居する涸滝の屋敷で下働きとして働くことになる。藩の思惑に疑いを抱かせないためには、がんぜない子ども「阿呆のほう」は都合がよかったのだろう。ほうとひとときを共に暮らした宇佐は、彼女が奉公に上がってからも、何かとこの少女のことを気にかける。そうする中で少しずつ真実に近づいていく。一方、ほうはひょんなことから加賀殿から読み書きを習うようになる。無垢で「阿呆」なりに正しいことをしようと努力するほうの中に、加賀殿は大切なものを見られたのではないか。最後にほうの奉公を解くことで彼女の命を救い、その名前に「宝」という漢字を下さるのだ。
 夏の終わりの大雷害が、こっそり避雷針が立てられていた涸滝の屋敷を襲い、(自分の運命を予感されていたに違いない)加賀殿は落命し屋敷は焼け落ちる。同じ雷害はたくさんの人々の命を奪った。子どもを救おうとして大木の下敷きになった宇佐もその一人だ。加賀殿の命に従い唐滝から逃げてきたほうに看取られて亡くなった。
 今や、加賀殿は(藩のお偉方の思惑通り)長年丸海藩を苦しめてきた雷獣と刺し違えて果て、領民を救った守護神となった。ただ、企みに荷担した者たちの心情も複雑であったようだ。荷担者の一人、匙の井上舷州(ほうの元の奉公先)は息子に「満足なさいましたか」と問われ、「おまえがこの家の当主となり、匙家を背負い、私の歳に至ったとき、おまえがおまえ自身に問うてくれ」と答えている。まつりごとというものは、そうしたもので、それは今も昔も変わらないのかもしれない。
 火災や雷害で町も領民も大きな被害を被った。災厄が「終わった」ことへの安堵と、この先の生活への不安が交錯する。そんな中、井上家に戻ったほうは、これからも、真実を見極め自分の頭でものごとを判断しようと努力しつつ、真っ直ぐに育っていくのではないか。確かな根拠はないのだけれど、宇佐や加賀殿が眠る場所に向かって「おはようございます」と挨拶する彼女の描写から、そんな風に感じられた。なんとも重苦しい風景に一条の光が差し込むような余韻と希望を与えて、物語は終わる。


付箋を貼った箇所をいくつか引用しておきます。

「『加賀殿のようなお方は、周囲にいる者どもが日頃は押し隠しているそういう黒いものを浮き上がらせる。加賀殿の毒気がどうだの、魅入られておかしくなるのだというのは、何のことはない、その者がもともと内に隠し持っていたものを、加賀殿を口実に外へ出すことができるようになるからこそ起こることだ。火元は己だ。闇は外にはありません。ましてや加賀殿が運んでこられたわけではない』」(下巻、P54)
(加賀殿をコロナ(ウイルス)と読み替えると、さもありなんと思えることがいくつもありました。私自身の心の中にも「黒いもの」は巣くっていたかもしれません)

「衆を頼んでことを起こすとき、人の心は光を失う。
どこが明るい場所なのかを見失う。暗くとも、淀んで騒がしくとも、衆の集まる方角へと雪崩を打って走ってしまう。走り集まれば肩がぶつかり、誰かが誰かの足を踏み、倒れた者の背中を踏み、怒号があがり拳が振り上げられる。相手の顔さえ見分けがつかない。
つかんで揺さぶり、殴り飛ばし、口汚く罵り、罵り返される。ただそれだけに没頭し、そもそも何が理由で争いが始まったのか、何が面白くなかったのか、どこに不満があるのか、大切なことが置き去りになる」(下巻、P408)
(感染症の大流行に限ったことではないけれど、特にきちんとした説明や勇気を与える言葉が欠けた状況で、受け取る側が「考える」ことを放棄してしまっていたら、簡単にこういうことが起こるよなあと)

「ついさっき、おさんたちがうずくまっていた木のてっぺんに、稲妻が降り立つ。宇佐はその様に魅せられた。何の考えもなく、何の意志もなく、邪気もなく、空を駆け巡るはずの稲妻。若先生にはそう教わった。天空に起こる事どもに、地上の者を害する意図などありはしないと」(下巻、P481)
(コロナウイルスは確かに、今私たちが戦い封じ込めるべき相手ではあるのでしょうが、ウイルスからすれば、「邪気もなく」「害する意図などありはしない」というのが本当のところではないかと思います。今回のコロナ禍が落ち着いたら、同じ地球に住まうものとして、どのように共存していくのが最善の道なのか――これまでの自分たちの行動も振り返りながら――一度しっかり考える方がよいのではないか、そんな風にも考える今日この頃です)

解説は児玉清さんだった。
コロナ禍の中にいる今このとき、児玉さんがご存命で『孤宿の人』の解説を書かれるとしたら、いったいどんな風に言葉を紡がれるだろうと、ちょっと考えた。
2020. 04. 20  

『泣き童子-三島屋変調百物語参之続』の感想文はコチラ

「四之続」とあるように、『三島屋変調百物語』の4巻目です。

主人公のおちかは、心に深い傷を負い、その傷を癒すことができればとの叔父夫婦の計らいで、夫婦の営む袋物屋「三島屋」の奥座敷で、不思議な話を語る客たちの聞き役を務めることになります。奥座敷「黒白の間」を訪れるのは一度にひとりきり。決まり事はただひとつ、「聞いて聞き捨て、語って語り捨て」。最初はただ話を聞くだけだったおちかでしたが、『あんじゅう』(事続)では人と交わることが増え、『泣き童子』(参之続)では外に「百物語」を聞きに行くなど、少しずつ外の世界に積極的に関わるようになっていきます。

この『三鬼』では、幼い語り手を上手に導いたり(「迷いの旅籠」)、こちらから語り手(候補)に声を掛けたり(「食客ひだる神」)と一層の積極性をみせるとともに、武士の訪問にも動じない(「三鬼」)など、さらなる成長が示唆されます。そして、最終話「おくらさま」は、舞台から去る人あり、新たに登場する人あり、さらには「自分たちと同じように生きてはいけない」と諭す老女ありで、今後の物語のあらたな展開を予感させます。

個人的には、クスッと笑えて、でもあとにしみじみとした淋しさが残る「食客ひだる神」が好みですが(「暗獣」に通じるものがあります)、「おくらさま」も面白かった。それまでの百物語は、「語り手が語る」が基本で、その後にちょっとした後日譚がつくという感じなのですが、「おくらさま」では、結構早い段階で語りが終わってしまい、その後「あの語り手は誰だったのか」の探索にかなりのページが割かれていました。新たな登場人物のお披露目の意味もあったのかなと思いますが、構成的に新鮮でしたし、謎解き小説を読んでいるような面白さもありました。語り手の老女は、いまわの際に「自分たちのように(自分で自分を閉じ込めて時を止めるようなことに)ならないで」と言い残して亡くなるのですが、この言葉を真剣に受け止められるようになった分、おちかも立ち直り、そして人間としても成長したということでしょうか。

本当に百話まで語られるんでしょうか。読者を飽きさせず、さまざまに趣向を凝らしながら、あとまだ七十数話を書き続けなければならないわけで。ゆっくりと追いかけていこうと思います(現在、連載では、六之続の物語が語られているようです)。


ちょうど、誰もが、肩の上に重石を載せられたような気分で過ごしているであろう今日この頃。「語ること」について、ちょっと考えさせられました。全部が全部というわけではないけれど、『三島屋百物語』では、「語って楽になりたい」「語って覚悟を決めたい」「語って決断したい」「誰かとこの話を分かち合いたい」という語り手が多い印象です。「語る」ことで、カタルシスとまでは言わないけれど、それに近いものが得られるのでしょう。そして、それは、物語の中だけには留まらず、実生活でもそうなんじゃないかなと思います。実際、自分の周囲には、(翻訳者の方もそうでない方も)饒舌になった方が多い印象です(含:自分)。
書いたり語ったりすることで、溜まったものをちょっと吐き出すことができる。そして、そこにちょっとだけ新鮮な空気を入れる余裕ができる。また溜まれば吐き出す。それを繰り返して、この時期をやり過ごしていくことになるのかもしれません。少なくとも、私はそんな感じかなあ。


他の作家の作品も手にとるべきなのでしょうが、「こんなときだし、溜めておいた好きな作家の作品を」ということで、次は『孤宿の人』(宮部みゆき)に手を出しました。ときどき音読しながら、一気に行きたいという気持ちを抑えて、大事に読んでいきたいと思います。
2020. 03. 30  


読了。

しばらく前から、文芸翻訳に関連する本をよく読むようになりました。

『創造する翻訳』(中村保男)、『翻訳の秘密』(小川高義)『翻訳教室』(柴田元幸)、『文芸翻訳教室』(越前敏弥)、『文芸翻訳入門』(藤井光)、『英語の発想』(安西徹雄)――ざっと、こんな感じ。

医療機器の翻訳にどっぷり浸かっていると、ときどき「本当に狭い範囲の語彙で仕事をしているな」「最後まできちんと考えていないな」「目の前の文やパラグラフしか追っていないな」と思うことがありまして。フと興味が湧いてフェローのノンフィクション講座(通信)を受けて以来、特にそう思うようになりました。それで、テキストや専門書などで分野特有の表現を身につけるだけではなく、翻訳そのもの、特に全体を俯瞰しながら翻訳する色合いの濃い書籍翻訳について書かれた本を、もう少し読んでみたいと思ったのが始まり。『21世紀×アメリカ小説×翻訳演習』も、その流れの延長で手にとったものです。目次の各章のタイトルに惹かれました。
http://books.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327-45290-2.html

上記の書籍を読んだり、翻訳フォーラムのシンポジウム*でお話を伺ったりするうちに、全体の流れをみながら訳すことや、俯瞰したり近づいたり、原文と訳文を行ったりきたりしながら訳すということが、少しずつ実感として分かってきて、自分の翻訳にも取り込めるようになりました。けれど、「英語でそんな風に書かれた意図を日本語に反映する」ということが、どうしても上手くできませんでした。「翻訳を勉強する会」の課題に取り組む中で、そのことを強く感じるようになりました。「そんな風に」とは、使われている(選択されている)単語や文体、一文の長さ、仕草(から推測される心情)などのすべてを指します。それらをどう読み取り、訳文全体のトーンを決め、実際の訳文に反映させていくのか――『21世紀×アメリカ小説×翻訳演習』には、「そんな風」を日本語の訳文にマッチさせていく過程が示されています。数パラグラフの英文(短編小説の一部)が提示され、それに対する考察がなされ、学生訳と講師訳が提示される。数回にわたって雑誌に連載された文芸翻訳コンテストの講評を加筆・修正したものだそうです。本書を読み、一部を自分でも訳してみると、どんな言葉やどんな部分に注意したらいいのかが、少しだけ分かったような気がしました(そう錯覚しただけかもしれませんが)。

思えば、以前は、仕事で扱う以外の文章(フィクションやエッセイなど)を読むときは、雰囲気で読み、力わざで訳していたような気がします。「文法少し不明な点があるけれど意味はこんな感じかな、(全体)こんな内容だからこんなトーンでいいのかな」という感じです。「勉強だから」という気の緩みがあったとはいえ、なんといい加減だったことでしょう。その頃は、仕事でも、「正しく意味をとる」ことに力点をおき、文法解釈については、分からない箇所をとことん突き詰めることはせず、最後は「こんな感じかな」で訳していたような気がします。文法的にそう難解な文章がなかった、つまり「こんな感じかな」も少なかったことが、せめてもの救いです。勉強会を始めて、文法の大切さを身に沁みて感じ、勉強会を続けるうちに、自分の読みの浅さに気づかされるようになりました(←今このあたり)。

文法はいずれにせよ、こうした読み方がいつも仕事で必要かと問われれば、正直「日々の仕事ではそこまでいらんかな」という気はします(取りあえず今のところは)。けれど、こうした読み方・訳し方を身につけておけば、将来必ずどこかで役に立つと信じています。そして、何より、訳していて(悩むことが多くて大変ではあるけれど)楽しい。

収載された短編(現代アメリカ小説)そのものは、自分からはあまり手に取らないかなというものが多かったです(逆にそういう作品に触れることができてよかったかも)。とはいえ、第III部の21世紀アメリカ文学の動向はなかなか興味深いものでした。総じて、今の自分には収穫の多い一冊でした。


* 翻訳フォーラム・シンポジウムについて
コロナウイルス感染の流行が近日中には収束しそうにないことから、今年のシンポジウムは中止になりました。代わりに、YouTubeによる配信が行われるそうです。
 チャンネルはこちら→
 https://www.youtube.com/watch?v=dmnv3Ju2nKc
 翻訳フォーラムのツイッター公式アカウントはこちら→
 @FHONYAKU

2020. 03. 18  

3月15日、10年以上ものあいだ(最初は姉のキャシー・リードさんと、その後は村元哉中さんと)日本のアイスダンスを支えてくれていたクリス・リードさんが、30歳の若さで急逝されました。心臓突然死とのことでした。
お姉さんと組んでおられたときは、(こちらも姉弟として見るせいでしょうか)遠慮がちに女性をリードしているという感じもありましたが、村元さんと組んでからは、もっとロマンティックな表現も可能になり、(素人なりに)新境地を開いたのではないかと思っていました。平昌五輪のFD、坂本龍一メドレーを覚えておられる方も多いでしょう。私も、あのプログラム、大好きでした。

村元さんとのペア解消が伝えられたときは本当に残念で、二人ともいいパートナーに巡り会えたらいいのにとずっと思っていました。ご存じのとおり、村元さんは高橋大輔さんとペアを組むことになりました。クリスさんの方は、残念ながら現役は引退されましたが、この春から日本でコーチとして新たな一歩を踏み出す予定だったようです。

本当に残念でなりません。
心からご冥福をお祈り致します。



「心臓突然死」という言葉を聞いて真っ先に思い出したのは、ペア・スケーターのセルゲイ・グリンコフでした。1995年11月のある日、新聞のスポーツ欄の片隅にグリンコフの訃報を見つけたときは、自分の目が信じられなかったのを、今でも覚えています(1995年11月20逝去、28歳)。
のちに妻となるエカテリーナ・ゴルデーワと組んで、カルガリー、リレハンメルと2回の五輪で金メダルを獲得しました。大好きなペアでした。大好き、と言っても、当時は五輪でのスケートしか知らなかったんですが(笑)。1997年に主人の転勤について渡米してから、TVやStars on Iceのカセット(!)でやっと昔のプログラムを見ることができました。今では、You Tubeでたくさんのプログラムを見ることができます。いい時代になったものです。

さて。
渡米した頃たまたま書店で目にしたのが、本書『My Sergei』

『My Sergei: A Love Story』(Ekaterina Gordeeva & White E. M. Swift)
https://www.amazon.co.jp/My-Sergei-Story-Ekaterina-Gordeeva/dp/0446605336

邦訳もあります(絶版で中古品しか手に入らないようですが)
『愛しのセルゲイ』(エカテリーナ・ゴルデーワ、石井苗子訳)

「& White E. M. Swift」とあるのは、おそらく、ゴルデーワの話をライターがまとめたのでしょう。まだ英語も堪能というほどではなかったと思いますので、一人称で書かれた英語はかなり平易。どちらかといえば、話し言葉よりの英語かと。
ゴルデーワの語りは、まずそれぞれの生い立ちから始まります。若いうちからペアを組み、五輪(カルガリー)で優勝、その後恋人同士から、結婚して愛娘をもうけ、再び五輪(リレハンメル)で優勝。その後完全にプロに転向し、Stars On Iceツアーなどに参加していたときに、二人を悲劇が襲います。グリンコフの死後、追悼ショーを企画した(おおむねStars on Iceのメンバーが中心でしたが、「セルゲイが尊敬していたスケーターも呼びたい」ということで、佐藤有香さんも呼ばれています)ゴルデーワが始めてひとりで滑り、娘と一緒に強く生きていくと決意するところで終わります(本書が書かれたのは、まだクーリックと出会う前です)。

二人のラブストーリーに力点が置かれているので、「フィギュアスケートの洋書を読みたい」という場合は、多少消化不良感が残るかもしれません。
フィギュアスケート関連の読みものとしては、先日「#そうだ洋書を読もう」で紹介した『The Second Mark』や、長野五輪に臨むミッシェル・クワンとタラ・リピンスキーを中心に据えた『Edge of Glory: The Inside Story of the Quest for Figure Skating's Olympic Gold Medals』(Chiristine Brennan)、フィギュアスケートの商業的側面を扱った『Frozen Asset』(Mark A. Lund)などの方が面白いかもしれません。

とはいえ、Happily ever afterで終わるはずの「その後の二人の人生」が、男性の急逝で突然絶たれてしまうというストーリーは、それが実際に起きたことであるだけに、涙なくしては読めません。ほら、私、ゴルデーワ&グリンコフが大好きだったから。

グリンコフが亡くなる場面はこんな風に描かれています。
(ここに登場するMarinaは、当時二人の振付師だったMarina Zueva。そういえば、Marinaはかなクリのコーチも務めていたんですよね。二人も若い生徒を失った彼女の気持ちは察するに余りあります)

当時アメリカはフィギュアスケートが大人気で、Stars on Iceツアーに先駆けて、レークプラシッドでその年のツアープログラムをお披露目するのが恒例になっていました。ツアーの一員として練習に参加していたゴルデーワとグリンコフが、全体練習を終え、小リンクでソロ・プログラムの練習をしていたときのことでした。


****(以下、引用)****

The full orchestra was just coming in, one of those high waves of music Marina liked so much. Sergei was gliding on the ice, but he didn't do the crossovers. His hand didn't go around my waist for the lift. I thought it was his back. He was bent over slightly, and I asked him, "Is it your back?" He shook his head a little. He couldn't control himself. He tried to stop, but he kept gliding into the boards. He tried to hold onto the boards. He was dizzy, but Sergei didn't tell me what was happening. Then he bent his knees and lay down on the ice very carefully. (Several sentences omitted by Sayo)

Marina stopped the music. When she came over to him, she knew right away it was something with his heart. It looked like he couldn't breathe anymore. She told me to call 911, and Marina started doing CPR on him. I was so scared. I was screaming, I don't know what. I forgot all the words in English. I couldn't remember the words for help. I ran to the other rink, crying, to get someone to call 911 for me.

****(引用、ここまで)****
『My Sergei』Paperback版 PP.292-293

本書(ハードカバー版)が出版されたのは1996年11月。
グリンコフが亡くなってから、やっと1年経とうという頃です。こうやって二人の人生を振り返り言葉にすることで、気持ちを整理し、自分を奮い立たせようとしたのかもしれません。
ペーパーバック版の出版に際して、Epilogueが付け加えられました(1997年夏)。悲しみが薄れた、ということはないでしょうが、それでも、周りの人たちとさまざまに関わりを持ちながら前を向こうとしている様子が描かれています。
2020. 03. 04  

絶版だった『エピデミック』(川端裕人)が、BookWarkerから電子書籍化されたという(3月3日より配信予定)。

そのタイトルに引かれた読者が多いのかなと思う。
もう何年も前に読んだので詳細はうろ覚えだけれど、東京近郊の都市で、インフルエンザ様の感染症が発生し、疫学者が保健所員らとともに、原因の特定と拡大の阻止に奮闘するという話だ。最終的に感染が終息する(OR 終息の目途が立つ)という終わり方だったと記憶している。疫学についてかなり詳しい描写がなされていた。
疫学的観点からみた本書の面白さは、「市民科学研究室」さんの書評に詳しい。
https://www.shiminkagaku.org/post_57/


その『エピデミック』よりさらに現状を彷彿とさせる小説として、小松左京さんの『復活の日』を挙げられる方も多いと思うが、私がまず思い出す小説は、この『βの悲劇』だ(初出1996年、2000年に加筆・訂正の上文庫化)。夏樹静子さんが、実兄の五十嵐均さんと共同執筆された、近未来シミュレーション(1996年の執筆時点でに2000年の近未来を想定)型の小説である。

2000年8月にスペインで流行が始まった新型インフルエンザウィルス(その形状からβウィルスと呼ばれる)が、瞬く間に全世界に広がり、ひと月と経たないうちに、人類の存亡を脅かすというストーリーだ。

最初に断っておくが、これはあくまでもフィクションであり、この世界の行く末を予言するものではない。

小説で描かれる新型ウィルスは、致死率100%という狂暴なウィルスだ。その致死率の高さはウィルス自身にとっても不都合なため(宿主が死んでしまうので、増殖を続けるには確実な感染手段が保たれなければならない)、頻繁に突然変異を繰り返し、宿主の生体や生態に適応しようとする。変異の頻度が高すぎて(当時の科学技術では)ワクチンの製造が追いつかない。空気感染で容易にヒトからヒトに感染するだけでなく、鳥類(特に渡り鳥)が運び屋になり、季節風にも乗って伝播するという恐ろしいシロモノだ。現在世界各地で流行している新型コロナウィルスとは、そもそも性質がまったく違う。
(ちなみに、この小説のウィルスは――実際に、生物学的にそういうことが可能かどうか分からないが――「人体でアポトーシス(自己細胞死)を発現させる作用を獲得し」、またごく微量であっても猛烈な勢いで増殖する、と定義されている)

特に五十嵐均さんが、第一線の専門家らに念入りにリサーチされたということで、ウィルスや変異に関する記述はよどみなく、「そんなウィルスいるわけない」と思いつつも話に引き込まれてしまう。ただ、登場人物が多いせいか、人物描写が(一部を除いて)多少表層的という印象なのは否めない。とはいえ、ストーリーでぐいぐい読ませてくれる。そして、怖い。致死率100%という恐ろしいウィルスにいつ感染するか分からないのだから(今回流行しているウィルスとは、その点からしてまったく違うということを、再度声を大にして言っておきたい)。

登場人物が多いのには理由がある。『βの悲劇』は『ドーム――終末への序曲――』(1989年)*の続編でもあるのだ。この「ドーム」が、現代のノアの方舟になる。
「ドーム」は、全面核戦争の脅威に備えるため、5年の歳月を費やして南太平洋の孤島につくられた巨大建造物だ(その顛末を綴ったのが『ドーム――終末への序曲――』)。通常ドームは開いた状態で、居住定員の6分の1ずつを定期的に入れ替えながら、常時1000名がそこで暮らしている。有事にはドームを閉じて外界との接触を完全に遮断できるようになっており、その閉じた生態系で1000名が数十年生活できるよう設計されている。完成から10年、冷戦が終結したこともあり、ドームは赤字を垂れ流すお荷物的存在になりつつあった。それが、致死性ウィルスという、まったく別の脅威の登場によって、再び脚光を浴びることになる。
* 2000年に、大幅加筆・訂正の上『ドーム――人類の箱船』と改題されて刊行。

「ドーム」には厳しいテストをパスした者しか入れない規定なのだが、ウィルスに対抗するすべがないことが明らかになると、どの国もなんとか自国の人間を「ドーム」に送り込もうと躍起になる。「ドーム」建設の主唱者が日本人で、統括本部が日本に置かれていることもあり、日本政府が「政府機能を一時的にドームに移したい」と行ってきたりもする。だが、どの国も、ゴリ押ししたり武力に訴えたりというところまではいかない(最後に、生き残るべく「ドーム」のある島を目指す多くの民間船との攻防戦が描かれるはするが)。夏樹さんは、あえてそういう汚い部分に触れない書き方をされたのかもしれないが、『ドーム――終末への序曲――』で、国や民族、権力者の思惑が何度となく「ドーム」建設の前に立ちはだかり、すったもんだの末に「ドーム憲章」がつくられた経緯があることを思えば、「どの国も『ドーム』を不可侵の領域としてとらえているのかもしれない」と思えなくもない。どの国にとっても、「ドーム」は希望の星なのだ。

小説は、建設以来はじめて「ドーム」の大屋根が閉じられるところで終わる。


中国でのコロナウィルス感染拡大のニュースを目にするようになってすぐに、この小説のことを思い出した。
けれど、記憶の中の『βの悲劇』は、現実とあまりにもシンクロしていて、しばらく怖くて手に取ることができなかった。今回『エピデミック』の電子書籍化が発表されたのを機に思い切って再読してみたら、思っていたより現実と違っていて、最後まで冷静に読み進めることができた。ウィルスがじわじわと人類を滅亡という河岸に追いやっていく様子は、やっぱり怖いけれど。

『βの悲劇』の登場人物は多くが、困難に毅然と立ち向かう、あるいは運命を受け入れる、あるいは他人(や国民や人類)のために何ができるかを考える人々だ。「自分だけが助かればいい」という人物は少ない。政府機能の疎開を打診した日本政府さえ、「有事」にはドームを守ることを示唆する。少し頼りない感さえあったフランス大統領は、最後に、疎開先のニューカレドニアから「ドーム」代表の吉田に、テレビ電話で「欠点だらけのどうしようもない人類がこの先も生き続けられるように、どうか頑張ってください」と呼びかける。
実際「そういう事態」が起きたらそんなきれいごとでは済まないのが現実なのかもしれず、そうした多くの登場人物たちは、夏樹さんの「祈り」そのものであったのかもしれない。

好みの分かれる小説かなという気もするが、興味が湧いた方は、できれば『ドーム』と併せて読んでいただければ。
プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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