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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


ツイッターに、「#そうだ洋書を読もう」というハッシュタグを作ってみました。
1本目のツイートに書いたとおり、自分が読んだり聴いたりして面白かったものを、独断と偏見で紹介していこうと思います(1冊につき1~2ツイート、不定期)。「勉強もかねて」とは書きましたけれど、「面白そう」と思うものが見つかって、手にとってみていただけたら嬉しいな、くらいの気持ちです。1998年から2020年の間に読んだり聴いたりしたものなので、1990年代から2010年代の作品が多めです(特に医療系ノンフィクション)。フィクションは少なく、しかも偏ると思うので(笑)、もしフィクション系で参入して下さる方がいらっしゃったら嬉しいです。ノンフィクションを紹介したいという方も歓迎。


私が洋書を多(聴/音)読するようになったきっかけは、旦那の米国転勤帯同です。そのときにはもう多少の翻訳経験があったので、自分の英語力にはそこそこ自信がありました。確かに、文章を読むことにさほど苦労はしませんでしたが、相手の言うことが聞き取れないことには愕然としました。
そのとき、アドバイスを求めたボランティア先図書館の部門チーフ(東欧からの移民、ほとんど喋れない状態で来米し(本人談)、5年ほどでパートタイムながら部門チーフの職を得た)の助言が「好きなジャンルのカセットブック(当時Audio Bookの主流はカセットテープだった)をたくさん聴くこと」でした。ありがたいことに、図書館には、様々なジャンルのカセットブックが多数所蔵されていました。
シドニー・シェルダン、メアリー・H・クラーク、ジェフリー・アーチャーなど、邦訳を読んだことのある作家の作品から始め、徐々に、当時の興味の中心であった医療ミステリーや医療ノンフィクションに移っていきました。ウォークマンをエプロンのポケットに入れさえすれば、家事をしながら聴くことができます。調理や後片付け、拭き掃除、洗濯物畳みなど、それぞれは短くとも、塵も積もればでトータルではかなりの時間になりました。内容にもよりますが、ひとつの作品を5~10回繰り返して聴きました(それくらいリピートしないと、きちんとストーリーを追えない)。

そのうち、借り出した本を音読することも始めました。こちらは「英語を喋る」ことが目的です。聞き取る力は向上しましたが、話す力はなかなか上達しません。英語でパッと考えをまとめられないというのが一番の理由には違いないのですが、瞬間的に「英語口」にならない、ということも関係しているのではないかと思いました。「英語口」というのは造語ですが、口の周りの筋肉や舌の使い方、喋り方のリズムなどさまざまなものを含む「英語を喋るモード」で、これに瞬間的にスイッチできないために、間投詞や感動詞を適切に挟みながら、相手に上手く伝わるように話すことができないのかなと思ったのです。

この聴読(これも造語)と音読は、2004年に帰国してからも(時間こそ短くなりましたが)ずっと続けています。音読はいずれにせよ、聴読は、家事に上乗せという形で、毎日特に「聴く」ための時間をつくらなかったことが、長続きしている秘訣かなと思います。
そして、時間があれば黙読も。音読しているものが面白くなったり本腰を入れて読みたくなったりして、黙読に切り替えることもあります。基本的にその場で辞書は引きません。
こう書くと、すごい冊数の本を読んでいるように誤解されるかもしれませんが、聴読も音読も1冊読破するのに結構時間がかかりますから、年間10冊+くらいではないかと思います。


聴/音読を続けて(個人的に)よかったと思うことは、
・ そこそこ長い文章の大意を掴むのが速くなった(仕事で、必要情報を探しながら英文資料を読むときに役立つ)
・ 単語と発音がマッチするようになった(ときどき動画に関係する翻訳の仕事があるが、自信をもって音声チェックできる)
・ 英語のリズムが身につく(自分が音読するときも、区切りや情報の重要性を考えながら、メリハリをつけて音読できるようになる)
などなど。
でも、これらは、後付けで考えてみたら「そうかな」と思うこと。私は、Amazonで「読んでみたい本」を探すのが大好きなんですよね。読者評価や商品紹介、ときにはなか身!検索も参考にしながら、ああでもない、こうでもないと悩んだ末に手に入れた本を読み進めていくのは、本当に楽しみです。こちらを読んでくださる方が、1冊でもそんな本に巡り会ってくだされば嬉しいなと思います。

でもだがしかし。

「そうだ、洋書を読もう」と言ったその口がそれ言うのか?と言われてしまいそうですが、翻訳者としては、洋書をたくさん読むだけでは不十分だということも申し添えておきます。
多読の読み方は、精読(文法を押さえながら、細部まで気を配ってきちんと読むこと)ではありません。つまり、「翻訳するための読み方」ではないのです(少なくとも私はそう思います)。
数年前までは、私も「たくさん読めばそれだけ身につく」と思っていました。けれど、翻訳フォーラム・シンポジウムや勉強会を通して、それだけでは不十分で、多読できる能力があり、その上に精読を積み重ねてはじめて翻訳する力を伸ばすことができるのだということに思い至りました(それを、日本語で表現する力ももちろん必要なのですが、主題から外れますので、ここでは割愛します)。

そのことを、『翻訳とは何か 職業としての翻訳』の「外国語を読む技術」(p125~)で、山岡洋一さんも指摘されています。
外国語を読む力には、
1 「外国語を学ぶために読む段階」(第一段階=英文解釈)
2 「外国語を道具として使いこなす段階」(第二段階、「外国語を外国語として意識せず、内容を読み取れる」)
3 「以上の二つの力を一段と高い水準で組み合わせた段階」(第三段階=翻訳のために読む段階)
の三つの段階があると分類された上で、1、2の技術を身につけていることが、翻訳に取り組む際の前提だと仰っています。外国語という意識をもたずに内容を読めるようになっていることが前提だが、「翻訳にあたっては、もう一度外国語を外国語として意識しなくてはならない。(中略)翻訳という観点で外国語を読む技術とは、外国語と日本語の違いをあらゆる面でとらえる技術である。文法構造の違いをとらえ、語の意味範囲の違いをとらえ、外国語の語や表現のニュアンスをつかんでいく」(P131)。さらに、(一般論としてことわって)こうしたことに気を配りながら、何年も大量に翻訳を続けていけば、第三段階の「外国語を読む技術」は自然に、飛躍的に高まっていくとも仰っています。

多読で身につくものもあるけれど、それだけでは不十分、それとは別に「翻訳するための読み方」があるということを常に念頭におきながら、洋書を楽しんでいただけたらなと思います。
2020.02.20 21:22 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

日本語タイトルは、ワタクシがその場のノリでつけてみました。
英語だけだと、「?」なタイトルですよね。

原書タイトルは、
『The Big Ones - How Natural Disasters Have Shaped Humanity (and what we can do about them)』 (Lucy Jones)

私が購入したのはコチラのペーパーバックですが、いくつか版があるようです。ペーパーバックはこれが一番安価。Kindle版は721円、Audibleは今なら0円です、0円ですよ、奥さま(2020年1月11日)。

原書は、勉強会のテキストや「これ読まな」(MUST)以外は、ヨコシマな下心(て何やねん<自分)を胸に(笑)、興味の持てそうな内容で、かつ翻訳書が出ていなさそうなもの(探し得るかぎり、ということですが)を選んで読むようにしています。原書を探すときは、必ず「なか見!検索」を斜め読みし、Amazon.comの書評を参考にします。医療系のノンフィクションを選ぶことが多いのですが(仕事柄、もあるけれど、もともと好きなジャンル)、これは、珍しく災害系(?)。「なか見!検索」で確認した目次に、関東大震災と東日本大震災が含まれていて、「外国人専門家の目からどのように見られているのだろう」と興味を持ちました。

著者Lucy Jonesは、カリフォルニア在住の地震学者。多数の論文を発表していますが、著作はこれが一冊目のようです。2016年にUnited States Geological Survey(USGS)を退いたとありますので(Wikipedia)、その後に書き上げたものだと思われます。原書を選ぶさいは、Referencesの充実具合も参考にするのですが、本書末尾のNotesやBibliographyも、しっかりしたものという印象を受けました(NotesとBibliographyは「なか見!検索」で確認できます)。

全12章の構成で、ヴェスヴィオ山の噴火による古代ローマ都市ポンペイの消滅から、東北大震災まで11の自然災害を年代順に取り上げ、その特徴、発生までの経緯、災害に際して人々がどのように行動したか、その災害やそのときの行動はその後どう活かされたのか(OR活かすべきか)を論じています。そして、最終章で、地震多発地帯(特にアメリカ西海岸)の住民や地震学者に何ができるかを考察するという全体の流れです。11の自然災害は、ヴェスヴィオス山の噴火、関東大震災、東北大震災の他に、ラキ火山の噴火(アイスランド)、アメリカの二つの大水害、ハリケーン・カトリーナによる水害など。

関東大震災の章では、震災以前、特に明治以前、日本で地震がどのように捉えられていたか(大ナマズが暴れているんだとか…)、明治時代に日本で地震学がどのように発展したか、当時の日本国民(特にもろに被害を受けた東京・横浜の人々)がこの天変地異をどのように捉え、また責任転嫁したかが、外国人視点ということもあるのか、淡々と書かれていてとても興味深いです。そして、(どの章もですが)ストーリーとして面白く読める。

また、ミシシッピー河畔の水害の章(だったと思う<付箋を貼り忘れた)には、大地震に比べて地味で世の耳目を引きにくいが、被害は膨大だというような記述があって、ここ数年の台風による災害を思い返してみると、本当にそのとおりだと思わずにはいられません。近年の災害の章には、地震学で予知できること・できないことについての記述もあって、これも興味深い。英語ですし専門用語もたくさん出てくるので、地震や堤防決壊などに関する記述は「なんとなく分かる」程度なのですが、文自体はそう難解ではなく、ワタクシのような地震学初心者も十分楽しめるものでした。
音読したので時間が掛かりましたが、黙読で読んだら、結構一気にいったんじゃないかと思います。

Amazon.comの評価は(高けりゃいいというものでもないとは思いますが)全89件、平均4.7とかなり高いものです(2020年1月11日)。

各地で災害が多発している現状を考えると、「日本でもそこそこ売れる本」ではないかと思います(もうどなたか翻訳中でしたらゴメンナサイ)。
万一、こちらを読んでおられる出版関係の方がおられたら、是非ご検討ください(この分野に強い方の翻訳、若しくは自然災害専門家の方の監修付きだと嬉しいかも>生意気言ってスイマセン>言うのはタダなので言うてみた)。
2020.01.12 00:13 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル、講談社 2019年)

 
 タイトルどおり、歌詞の対訳集なのだけれど、陽水さんとの対談を含む訳詞の過程も書かれているということで、興味を持った。
 (私は陽水さんの曲は有名なヒット曲くらいしか知らない)

 本題に入る前の「はじめに」に、キャンベルさんがどんな英訳を目指したかが書かれている(ちなみに「はじめに」には「井上陽水はうなぎだ」という副題がついているのだけれど、ここではスルーするので、「うなぎ?」と興味を持たれた方は、購入するなり書店で立ち読みするなり図書館で借りるなりしていただければと思う)。

***(引用ここから)***

 難しいと思うのはまずそのまま「歌える英訳」を目指すのか、目指すなら言葉のひとつひとつが楽譜どおりに拍子(ルビ:リズム)に乗り、英語歌詞として破綻がないことを担保しなければならないけれど、そのためには、大切なことを切り捨てなければならないのです。
 一度素人なりに「氷の世界」を「歌える英語歌詞」として訳し音に乗せてみましたが、日本語に打ち込まれたもともとの陰影がことごとく網の目から抜け落ちてゆくばかりでした。そこで、なんとか歌詞のエッセンスを一滴もこぼさず読者に届けたいと考え、歌うのではなくまず読むための英訳=「読詞」を仕立てることにしました。

***(引用ここまで、P11)***

 私は(「著者の言っている(言いたい)ことを正確に読者に伝える」を基本として)、まず誰が何のために読むかを考え、文体や言葉遣いその他細かなスタンスなどをそれに合わせていく(仕事柄ということもあるかもしれない)。キャンベルさんの、原作を尊重しつつ、それを「自分はどんな風に届けたいのか」を考えるというアプローチは、最初に読んだとき「おお、自由だな」(読者どこいった?)と感じた。けれど、よく考えてみれば、歌詞という特殊性の強い原文の翻訳では、最初に「どういう形で読者に届けるか」ということをキチンと決めなければ先に進めない。キャンベルさんは、原作のもつ微妙なニュアンスを余すところなく伝えたい(そのために歌えない訳詞となってもしょうがない)、というスタンスをとられた。そして「(英語で歌えないということで、陽水ファンからは叱られるかもしれないが)ここではまず『読む詞』として味わっていただきたい」と読者に断っている。決して読者の存在を忘れているわけではない。そういう「翻訳する態度」を好ましく感じた。

 本書は3章構成になっている。
 第1章では、キャンベルさんがなぜ英訳を思い立ったかが語られ、第2章では、実際の訳詞の過程が語られる(二つの章のところどころに、陽水さんとの対談が散りばめられている)。そして第3章は実際の対訳集だ。

 第1章で、一番心に残ったのは、余白という言葉だった。
 当時私は、仕事のことで悶々とした日を送っていたので、よけいその部分に「感応」したのかもしれない。SNSへの言及に始まり、「文学」の役割について考察し、ドナルド・キーン氏による『雪国』(川端康成)の英訳へと続く文章を読んで感じたことを、そのとき私は「余白」という記事にした。

 自分の頭の中に確固たる(原文の)絵を描いた上で(←ここはすべての翻訳の出発点かと)、「余白を徹底的に潰す」のが実務翻訳なら、(原文の曖昧さに応じて)読者に解釈を委ねる余地を残す、つまり余白を感じさせる訳文をつくるのが文芸翻訳だといえるのではないかと、私は考えた(ちなみに、そのどちらとも少し違うように思えるノンフィクション翻訳では、大切にすべきは事実と著者の主張ではないかと思う。そこをしっかり踏まえた上で、まず訳文に余白を反映させるべき文章なのかどうかを判断し、その上でどこまで反映させるかを考えるということになるのではないか……と思ってみたりするのだが、まだ上手く考えをまとめきれていない)。
 キャンベルさんは、陽水さんの歌詞について、「聴き手に対するさりげない気遣いというか絶妙な距離感に深くうなずくしかありませんでした。この距離感こそが、日本文学でたびたび感じる『余白』だと思ったのです」(P51)と感想を述べている。そして、その「余白」を英詞でも表現しようと悪戦苦闘する。

 だからだろう、第2章のタイトルは「余白にきをつけろ」だ。
 第2章では、キャンベルさんは、個々の例を挙げながら、歌詞に、ときには陽水さんの視点にも、深い考察を加えていく。冒頭、「初めて聴く歌詞をすべて理解しなくてもさわりから大ざっぱにつかんでおけば、感情移入は十分にできます。逆に、全部わかったつもりの歌詞を一度音楽から突き放して読んでみると、いい詞ほど、意味不明な部分が現れます」と書いている。この「大ざっぱに掴んでわかったつもりになる」は、私も普段の仕事でやりがちだ。ざっと読んで大意を掴んだ「つもり」で訳し進めると、どうもきちんとつながらない箇所が出てくることがある。そんなときは、思い込みによる解釈間違いであることが多い。翻訳では「思い込み」を取っ払って読むことが大事だというのは、どんな翻訳でも同じだ。
 
 この第2章は、興味を引かれた箇所を挙げるとキリがないので(付箋だらけになっております)、二点だけ挙げておく。
 一つは、日本語詞中に現れる英語の処理。「なぜ英語を使ったのか」に関する考察も含めて、ナルホドという解釈をなさっている。
 もう一つは、「音」に関する考察――音合わせ的な言葉遣いを英語に置きかえるとき、どこまで配慮できるか――だ(昔Puffyが歌ってヒットした「アジアの純真」は、ナンセンスな言葉遊びの最たるものではないかと思う)。英語の頭韻や脚韻、単語の音合わせを日本語にどう反映するかはときどき考えることだが、逆方向については正直考えたことがなかったので、新鮮な気持ちで面白く読んだ。
 最後の部分で、キャンベルさんは、「英語で読む陽水さんの詞には、日本語だけで聴き、あるいは読む場合に思い浮かべる景色と異なるものがあります。総じて翻訳とはそういうもので、言語を前提にした文化の境を越えようとする時点で置いていかなければならない荷物と、理解を得るために肩の上に積まなければならない荷物とがあって、そのやり取りの過程で大切な旅人=原文が無事に向こう側へ渡れるかどうかが決まります」(P175)と書いている。渡し方はさまざまあれど、「必ず持って渡らなければならない荷物」というのもあるわけで、本書の訳詞においては(無意識か意識的かを問わず)陽水さんが歌詞に乗せて伝えようとしているものと、その結果原詞からかもしだされる微妙な空気(のようなもの)がそれではないかと思う。少なくとも、キャンベルさんは、それを大事にして翻訳に挑戦されたのだと、私は思っている。

 「翻訳は本業ではない」と仰るキャンベルさん。その翻訳との向き合い方に、翻訳者の私もさまざまに考えさせられるところがあった。

 そして今、私は、毎日少しずつ第3章の対訳を音読している。そして思うのは「陽水さんは、自分の主張をもった『詩人』だなあ」ということ。あらためて、日本語の音の面白さに、言葉選びの妙に「おおっ」と思ってしまう。それが、こういう英語になるのかという面白さもある。それらを読んでいくのは、中身のわからないおもちゃ箱の中から、ひとつひとつおもちゃを取り出すような、そんな感じだ。
2019.12.14 00:38 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

『人の匂ひ '85年版ベスト・エッセイ集』(日本エッセイスト・クラブ編 文春文庫)
『ベスト・エッセイ2017』(日本文藝家協会編 光村図書)

この二冊を手に取ったのは、あるときふと「30年前と今とで、エッセイの傾向に違いのようなものはあるだろうか」と思ったから。この二冊を選んだのに、特に深い理由はありません。

比べてみると、『人の匂ひ '85年版ベスト・エッセイ集』(以下『'85年版』)の方が、『ベスト・エッセイ2017』(以下『2017』)より、総じて1本のエッセイの長さが長いようです。「30年の間に長いエッセイは好まれなくなったのか」と、もう少し調べてみましたが、そういうことではなく、単に掲載媒体の違いによるもののようでした(編者が異なるので、そのへんも関係しているかもしれません)。『'85年版』は雑誌に掲載された作品が多いのですが、『2017』は新聞掲載のものが大半を占めていました。どちらの編者によるものも2000年代のものまでざっと確認しましたが、この傾向は変わらないようでした。ということで、仮説はあっけなく崩れ去ったのでした。
しいて違いを挙げるとすれば、『'85年版』の方が固い文章が多く、戦争について書かれたものも散見されるということくらいでしょうか(男女の役割に関し『'85年版』には、個人的に「それは時代遅れでは」と感じるような内容もありましたが、それは時代を反映したものかと思います)

以下に、それぞれのエッセイ集の中で心に残ったものを、いくつか挙げてみます(あくまで個人的な好みです)。

『'85年版』

「左遷・珠恵さんの死」(早瀬圭一 初出『文藝春秋』)
新聞記者だった著者は、左遷(少なくとも本人はそう思っている)先の高松で知り合った女性(行きつけの割烹「高はし」の同年輩の娘)に、あけすけな物言いで説教されたり励まされたりするが、不思議に腹が立たない。その後また転勤してからも、毎年高松に「帰り」、「高はし」で「珠恵さんの歯に衣きせぬ、そのくせじんとあたたかい苦言を」聞くのを楽しみにしていた。だが、ある年、突然珠恵さんの訃報が届く。胃がんだった。著者は、その春珠恵さんから届いた手紙を読み直し、便箋の上に涙を落とす。訃報に接した著者の感情が垣間見られる部分はここだけだ。そのあとは改行が入り、「『高はし』は、のれんを降ろし、店を閉じた」とエッセイは終わる。でも、私は、この愛想のない一文に著者(そして珠恵さんの両親)の深い悲しみを感じるのだ。こんな風に文章を締めくくることができたならと思うのだけれど、いつも言葉数の多い私には無理そうである。

「日本人と桜」(ドナルド・キーン 初出「リーダーズ・ダイジェスト」)
タイトルどおり日本人と桜の関係を考察したエッセイ。ところどころ堅さを感じる表現もないではないけれど、なんと端正な文章だろう。「外から」の視点を追加した考察はとても深い。


『2017』

「美しい声とは」(三宮麻由子 初出「考える人」)
著者は幼い頃視力を失ったエッセイスト。「歴史上の人物の肖像画や骨格をもとに声を復元した合成音声」の話から始めて、読者を「お?」と引きつける。その復元音声から、人物の風貌が浮かび驚いた、「『声は人を表す』なのかもしれない」と言う。それから、最近の日本人の声の変化に話題が移る。「躓(つまず)いた声」が多くなった気がするというのだ。それも三十代以下の年齢の人々に。著者は、この「躓いた声」からその人の様子を想像するのに苦労する。著者にとっての美声は、人となりが伝わってくるような声で、じぶんも「そういうまっすぐな声を目指したいものである」と、エッセイは締めくくられる。字数の関係でこういう内容になったのだろうが、話題が面白いものだっただけに、「躓いた声」でもう少し話を展開してほしかったなと思う(<オマエがエラそーに言うなという話ですが)。この人の文章は好きである。

「役に真摯に向き合い」(行定勲 初出「毎日新聞」)
著者は映画監督・演出家。平幹二朗の訃報に接しての寄稿。「黙ったまま中央に置かれた椅子に座り、そこから一歩も動くことなくその存在感だけで7、8ページある長台詞を一気に魅せ切ってしまう気魄を」見せ、著者に「本物の瞬間に出会う喜びに触れられたことは私の一生の財産である」と言わしめた平幹二朗だが、ジーパンでファッション談義に花を咲かせるような無邪気な一面もあった。そんな平の「いまだ見ぬ芝居を探求し続けたその孤高にひれ伏したい想いである」という最後の一文からは、著者の畏敬の念が伝わってくる。本当に特別な人だったのだなということがよく分かる。全体、見事な弔辞だ(蛇足ですが、平岳大さんの弔辞も心打つものでした)。


それぞれ二編ずつ紹介しましたが、心に残ったエッセイはまだまだあります。様々な方々の文章やアプローチの仕方を知ることができるというのも、こうしたエッセイ集ならではだと。エッセイスト・クラブ編の方はもう新しいものは出ないようですが、日本文藝家協会編の方は、今も毎年新しいものが刊行されているようです。
2019.12.11 00:48 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「ムギと王さま」(Eleanor Fargeon、石井桃子訳、岩波少年文庫2001年)

裏表紙には「『現代のアンデルセン』とも称されたファージョンの美しい自選短編集全27編」とあります。子どもの頃、大好きで何度も読み返しました。
私の手元にあったのは、おそらく1971年出版の単行本(ハードカバー)。今も実家の物置に保管されているはずなのですが、その物置だけは鍵が行方不明で、中のものを取り出すには鍵を壊して開けるしかありません。

ということで、図書館から借りてみました。とにかく分厚く重たく、その厚みがまた好ましかった記憶があるのですが、岩波少年「文庫」ということを差し引いても、薄い、軽い。嘘やろ――と思ったら、新版は「ムギと王さま」と「天国を出ていく」の2巻に分かれているのですね。それぞれに「本の小べや1」「本の小べや2」と副題がついています。

そう、この本の原題は"The Little Bookroom"。その原題の説明にもなっている「作者まえがき」が、私は大好きなのです。
ファージョンが子どもの頃に住んでいた家には、子どもたちが「本の小べや」と名づけた小さな部屋があったそうです。それ以外の部屋も本で占領されていて、「本を読まないでいることは、たべないでいるのとおなじくらい不自然に」思われるほどだったそうです。そうした部屋々々の本棚からあふれた本が流れつくのが「本の小べや」で、そこには選択も秩序もなく、雑多な本がところせましと積まれていて、「いろいろな種類の本でぎっしりつまっている、いくつかのせまい本棚は、壁の中ごろまでとどき、またその上には、ほとんど天井にとどくところまで、乱雑に本がつんでありました。床に山とつんであるのは、またがなければなりませんでしたし、まどによせかけてつみあげてあるのは、ちょっとさわれば、たおれおちました。おもしろそうな表紙の本をひきだせば、足もとには、まるで大波がおしよせたように本がひろがります」という状態だったとか。そして、子どもたちは日がな一日、そこで本に読みふけり、空想にふけったのです。

たとえば、屋根裏みたいに天井が低く天窓からひかりが差し込むような、秘密基地めいた小さな部屋に、こんな風に本が積まれていたら、嬉しくないですか。まあ、掃除も行き届かないでしょうから、ファージョン自身が言っているように、つねにほこりが舞っていて、のどを痛めてしまうに違いありませんが。

子どもの頃に住んでいた社宅では、せまいダイニングキッチンのダイニング部分を潰すような形で、天井まで父の蔵書が積まれていました。真ん中にあるせまい通路は、子ども一人やっと通れるほどの幅で、いつもうす暗く、奥はまるで穴蔵のよう。私はよくそこにもぐり込んでは、本の背表紙を飽かずながめたものです。そんな小さい頃の風景がファージョンの前書きとシンクロしたのかもしれません。(今は、本を処分することの大変さを身をもって知ってしまったので、自分では本に囲まれた生活はもういいやと思っていますが)。


再読すると、どれも「ああ、こんな話だったなあ」と懐かしくてたまりませんでした。何回も読み返しただけあって、少し読むと結末を言い当てられるお話がほとんどでした。
寓話や昔話、子どもの日常、神話に題材をとった話――とファージョンの語る話は多岐にわたります。『大学教授のように小説を読む方法』のフォスター先生なら、「こんな風に読み解ける」と仰るところかもしれませんが(注:決してThomas C. Foster氏に異を唱えているわけではありません。この本(私が読んでいるのは原書ですが)は小説をもう一歩踏み込んで深く読む読み方とその面白さを教えてくれます)、ここは、深読みは忘れ、童心にかえって楽しく読むのがいいかなと思います。石井桃子訳は、やわらかく暖かく、若衆だの駅夫だの、もう死語といってもよい言葉もたくさん登場しますが(初版は1959年)、それさえも古い不思議な世界に誘ってくれる合い言葉のようです。

中学生の頃は、王さまが小間使い(実はとなりの森の女王)と結婚なさったり、王女さまと木こりの青年が恋に落ちたりといった、"Happily ever after"系のお話に心惹かれましたが(そういうお年頃でした)、今は別のお話にもっと心を惹かれるのは、四十有余年という年月のなせる技でしょうか。再読して一番心に残ったのは『金魚』という掌編。むかしむかし金魚は海に住んでいたけれど、そこは金魚には広すぎると考えた海の王さまが、小さな金魚がほしいと泣いた世界(金魚鉢)と月(銀色の金魚)を金魚に与えてやるというだけの短いお話なのですけど、小さな金魚がなんだかとてもいとしくて。作者のお気に入りだったという、神話に題材をとった『パニュキス』も、初読時は別になんとも思わなかったのですが、(特に最後の大人になってからを描写した数行が)なんだかとても切なく感じられました。


というわけで、「本の小べや」が原点の女性が書いた物語に興味が湧いた、かつて少年少女だったみなさん。
図書館で見かけましたら、手に取ってみて頂ければと思います。
2019.08.23 23:25 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |