屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


そして2年の時を経て、「チームII」に辿り着いたSayoです。
(「チーム」の感想文はコチラ

前回は「箱根駅伝予習」として「陸上もの」を読み始めたにも関わらず、2月の声を聞いた頃やっと山登りの5区まで辿り着くという「どんだけ遅れてんねん」な状態でした。
同じ失敗はしないもんね-、もっと早くから読み始めるもんねー(入手したのはGWなんですが...)
ちょうど秋のドラマ「陸王」も始まるではありませんか。おお、なんとタイムリー。そして、なぜ仕事が絡まない本はさくさく読めるのだろう。

ということで、「チームII」を読破したわけですが、今回は逆に「どんだけ早すぎるねん」な状態で、箱根駅伝の号砲を聞く頃にはすべてが記憶の彼方に飛んでいそうです(結局、どこまでもタイミングを外すヤツなのだった)。


で、「チームII」です。

「チーム」で学連選抜のメンバーとして箱根駅伝を走ってから7年、天才ランナー山城は、東海道マラソンで日本記録を樹立(「ヒート」)後は、故障に悩まされ、2年間レースを走ることができず、焦燥を募らせていた。折りしも、所属する実業団チーム、タキタの廃部が決まる。「唯我独尊わが道を行く」山城は、誰かに頼ることをよしとせず、心密かに五輪記念マラソンを引退レースに決める。とはいうものの、練習環境の確保さえままならない。
山城の真意を察したかつての学連選抜メンバー浦や監督の吉池、さらには東海道マラソンで最後まで山城とデッドヒートを繰り広げた甲本(「ヒート」)らが、「チーム山城」を結成し、故障明けの山城をバックアップしようとする。

というのが粗筋。
これに、学生連合(以前の学連選抜)の監督として浦が寄せ集めチームをまとめていく過程がサイドストーリー的に挟まれます。「走る」場面は、主に、箱根駅伝と(チームタキタとしての最後の出場となる)全日本実業団対抗駅伝(全実)。全実でからくも勝利しながら、自分らしくない無様な姿に失望し、五輪記念マラソンへの出場を断念するかどうかで揺れる山城が、当日、スタート・ゴール地点に姿を現すところで「チームII」は終わります。

なので、「チーム」や「ヒート」に比べると、レースの場面は若干少な目。
「チーム」や「ヒート」では、(特に山城の)心の動きがあまり読めない状態でいきなりレースに場面転換した感があったので、小説的にはこれくらいの方がよいのかも。もっとも、前2作ほどのド迫力は感じられず、どちらがいいとも言い難いです。まあ、好みかな。
延々とレースの場面が続くのですが、視点が走者と(伴走車からのものも含め)応援者の間を行ったりきたりするので、退屈することはありません。走者の心理や走者同士の駆引きの描写が続くと、ふと自分もレースを走っているような感覚に捕らわれたりします。そう、持久力皆無のワタクシでもマラソンだの駅伝だのを走れちゃったりするのだよ。堂場さんのレース描写の場面は秀逸だと思います(あくまで、個人的意見です)。

本書の(たぶん)主人公、山城悟は、ホント傲慢なヤツなんですよね。
故障するまでは、国内ではぶっちぎりの強さを発揮してきたので、そんな態度でもすべてが「山城だから」で許されてきたわけなんですが、故障で結果は残せない、練習環境が奪われるなど「走ること」以外の部分で悩まなければならなくなると、弱さも垣間見られるようになってくる。本人も、すべて自分一人でできると思っていたのがそうではないことが分かってくる。
浦たちがそれぞれに忙しい時間を割いて山城を援助しようとしたのは、甲本が言ったとおり「あいつが何をやるか見てみたかった」というのが大きいと思うのですが(それほど規格外の選手ではありました)、学連選抜でのレースを通じて、弱さや「実は自分のためだけでなく他人のためにも走れる男だ」ということも何となく分かっていたからかもしれません。

その孤高の選手山城が、浦のペースに巻き込まれて、学生連合の一員として箱根を走ることになった浦の教え子の荒井にアドバイスする場面があります。「誰のために、何のために走るのか」が分からずモチベーションが上がらずにいた荒井ですが、「全員が自己ベストを更新することだけを考えて次のランナーにつなげばいい」という山城の言葉に、何か掴んだものがあったようで(発想を転換することで、悶々としていた気持ちが楽になり、新たな目標ができたって感じでしょうか)、このアドバイスを期に、バラバラだった学生連合のメンバーは何となく緩くまとまっていきます(「チームII」は「チーム山城」の話なので、このあたりは軽く語られるだけですが)。何とも山城らしいアドバイスに、ワタクシも、浦じゃないですが、ハッとさせられました。


全実の前に、タキタ監督の須田が、山城に「日本の長距離を何とかしたい」と夢を語る場面がありました。山城は何とも思わなかったみたいですけど。
でも、読み流していたこの部分を再読したとき、これまでとは形を変えた「チームIII」があるかもとちらっと思いました(とにかく、堂場さんは多作の方だし)。それまで、「チーム」シリーズはここで終わりかなと思ってたんですけど。まあ、山城が指導者になっている姿は想像できませんが...


てことで、箱根駅伝の(早すぎる)予習は無事終了したのだった。
2017.10.11 23:29 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

ジツは、私はこのような「翻訳について語る本」(?)はほとんど読んでいません。
文芸翻訳ってどうも苦手意識があって、それで敬遠してしまう部分があるのかも。
なので、越前敏弥さんの「日本人なら必ず誤訳する...」も、狭い我が家のどこかで積ん読されてます(たぶん階段)。

「翻訳教室」は図書館から借りて延長し、返してその場で借りという裏技も使って(そしてまた延長し)、結局1ヵ月半くらい手元に置いていました。

最初の頃は、課題の文章が(ワタクシには)難解すぎて(「よく分からない(←乱暴なまとめでスイマセン)」系の小説は苦手です)、何度も挫折しそうになりましたが、村上春樹の「かえるくん、東京を救う」の英訳「Super-Frog Saves Tokyo」のバックトランスレーションあたりから面白くなり、「Invisible Cities」で始めて「よく分からない系の翻訳も面白いかも」と思い、その勢いで最後まで読みました。

ご存じの方も多いと思いますが、この書籍は、柴田先生による東大文学部の「翻訳演習」の講義を、ほぼそのまま文字化したもの、ということです。
ときどき見かける「課題→講師による解説→訳例提示」形式ではなく、「課題→学生の訳例をめぐる講師と学生のやり取り→講師訳例提示」形式となっており、どんどん話題が広がっていくのが面白く、だから、途中で投げ出さず、最後まで読めたのかもしれません。柴田先生は、学生のどんな質問にも丁寧に答え、自分の訳例よりよいと思うものはよいと認めて採用されました。実務翻訳でも尊敬できる先輩方はみなそんな感じです(てか、だから尊敬されるのか)。

「翻訳演習」をとるような東大の学生さんは、目の付け所も鋭く、「おお」と思うような訳文が出てくるのですが、それでも、最初の頃は、課題文やその中の単語だけをみている発言が多い。それに対して、柴田先生は、引いたり(著者の性格や文章の癖、作品全体のトーンをもとに最適な訳語を考える)、寄ったり(全体をベースにその文や語句の意味を考える)を繰返しながら、学生の質問に答えていきます。
「Super-Frog Saves Tokyo」(蛇足ですが、この回の講義には、途中から、英訳者であるJay Rubin先生も加わります)の回のあと、村上春樹を迎えての特別講座があるのですが、そのあたりから、(あくまでワタクシの感じたところですが)学生の原文への向合い方にも変化が生じ、「引いた」視点からの発言も多く混じるようになった気がします。柴田先生スゴいというか、村上春樹スゴいというか、東大生スゴいというか...たぶん、そのすべてなんでしょう。

村上春樹の語る翻訳はとても興味深かったですし(ワタクシはどちらかというと彼が苦手で、村上作品は、ノンフィクションの「アンダーグラウンド」と英訳された「Kafka on the Shore」(Philip Gabriel訳)しか読んで(正確には「聴いて」)いないのですが)、柴田先生の発言の中には、訳出時の語句選びに際しての実際的なノウハウもてんこ盛りされていて、途中から付箋付けまくりました。でも、返す前には全部取らないといけないですから、心を入れ替えてAmazonさんに注文しましたよ。手元に置いておきたい一冊です。


付箋部分は以下のような感じ(ごく一部を抜き出しました)。

「翻訳は語彙の豊かさが肝腎などと言いますが、むしろ、似合わない言葉を取り除いていく作業だと思います」(柴田)

「英語は動詞がものすごく強い。日本語はだいたい副詞プラス動詞を使うと強さが出るけど、そのまま英語にするとせっかくの強さがなくなる。だからなるべく強い動詞を使って、副詞を使わないようにしています」(Rubin)

(レイモンド・カーヴァーの翻訳が一段落したことで、翻訳にエネルギーを費やさなくなるのではないかと問われて「...やればやるほど技術っていうのは上がっていく...そうするともっともっと訳したくなるんですよ。やればやるほどやりたくなる。おもしろくなってくる...最初の頃より最後のほうが明らかに翻訳スキルが上がっている。それが自分でも分かる。だから、やはり死ぬまでやるんじゃないかな」(村上)

「ものを書くというのは体力がすべてなんですよ...いくら能力があったとしても歯が痛かったらものなんて書けない。肩が凝ったり腰が痛かったりしたら机に向かって仕事なんてできない。そういう意味で体力は必須条件なんです」(村上)

「文章を志す人はほかの人とは違う言葉を探さないといけないんですよ。プロになるにはそれはすごく大事なことです」(村上)

「ヘミングウェイはIceburg theory(氷山の理論)ということを自分でも言っていて、語らないで伝えるというのが彼の文章の最大の特徴だと僕は思います。だから訳す上で、何をやってもたいてい、小さな親切大きなお世話になっちゃうのね」(柴田)

「neverは『決して』と訳したくなったらまずその気持ちを抑えて、なるべく文章の中に盛り込むような形で訳すのがいい」(柴田)

「...原文を見てさんざん考えた我々はそういう訳し方にある程度共感するだろうけど、英文を見ていない読者が読むと、『なんでこんなに「そして」が多いんだ?』と思うだろうね。andと『そして』は重さが一緒じゃないから」(柴田)
2017.08.26 18:28 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(2) |
実家から救出したものを音読了。
初版は昭和46年(手元にあるのは昭和54年の12刷)、40年以上も前に書かれたものです。

白洲正子さんについては、「白洲次郎の奥さんである」「美術や骨董に造詣が深い(らしい)」というくらいの知識しかありませんでした。
その状態で読んでみて、読了後も、書評や本人評などにも目を通さない状態で感想文を書いています(いつもそうしたものに目を通して多少なりとも影響を受けてしまうので、今回は敢えてそのようにしてみました)。

「『かくれ里』と題したのは、別に深い意味があるわけではない。字引をひいてみると、世を避けて隠れ忍ぶ村里、とあり、民俗学の方では、山に住む神人が、冬の祭りなどに里へ現われ、鎮魂の舞を舞った後、いずこともなく去って行く山間の僻地をいう。謡曲で『行くへも知らずなりにけり』とか『失せにけり』というのは、皆そういう風習の名残であろう」という第一章「油日の古面」の冒頭部分を読んだときから、「このヒトの文章好きかも」と思いました。
以前、「凜として清々しくて品がある」文章だと感じたと書きましたが、その印象は最後まで変わりませんでした。自分とリズムが合うらしく、音読もしやすかったです。女性の手になる柔らかさは感じられるのだけれど、どこか中性的な感じ。

知識に裏打ちされ、その地を歩き作品を鑑賞した上での、半伝説上の人物などに対するこの方なりの解釈も、「なるほど」と思えるものが多く、とても興味深いものでした。

とはいうものの、自分は便利な都会に住んで気が向いたときに「かくれ里」を訪ね、古来の風習を肌で感じ、そうした古き良き伝統が失われていくのを嘆きつつ「いつまでもこのままでいてほしいものだ」というのは、若干勝手ではないかと思ったりもしました。そうした暮らしは不便と隣り合わせだし、若い人たちはどんどん外に出て行ってしまったでしょうから(そういう時代ではなかったかと思います)、残された方々が老いと向き合いつつ伝統を守っていくのは並大抵のことではないに違いありません。でも、白洲は、どこまでも「外からの観察者」目線で「よい伝統を守ってほしい」というのです。ちょっと、その大変さまで思いを馳せていない感じ。少なくとも、私はそのような印象を受けました。
観察者の目線がなければ、文章は独りよがりのものになってしまいがちなので、これはこれでよいのかもしれませんが。

とはいえ、この方の飽くなき好奇心は素晴らしいし、目の前に光景が浮かぶようなその土地土地の描写は見事だと思いました。

てことで、「文章は好きなんだけど」という若干もやっとした気持ちで音読を終えたのでした(「かくれ里」のみの、あくまでも個人的な感想です<念のため)。


次は、これも実家から救出した、まったく文体の異なる「一期一会-出会いで綴る昭和史」(保阪正康、2000年)に進みます(*文庫化にあたり、「昭和史 忘れ得ぬ証言者たち」と改題)。時間がかかりそうな厚さです...
2017.08.20 22:49 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
調律師が主人公の7編の連作短編集。
一種の「お仕事小説」と言えなくもないです。
内容バレバレの読書感想文なので、続きはお好みで。
(全部読んでから手に取られても、十分楽しめると思いますが)

主人公鳴瀬(文中「私」)は30代半ばの調律師。若い頃は将来を嘱望された新進ピアニストでしたが、10年前に交通事故で重傷を負い(その事故で、調律師だった妻・絵梨子を失います)、調律師に転身した過去があります。妻の死に対し、常に罪の意識を感じているようです。現在は義父が経営する鷹栖調律事務所に籍を置いています。
鳴瀬はもともと共感覚の持ち主で、ピアノの音を聴くと同時にさまざまな匂いを感じます。ピアニストだった頃は、音に呼応して色が見える「色聴」の持ち主でしたが、事故を境に「色聴」は消え、妻・絵梨子が持っていた「嗅聴」を持つようになっています。鳴瀬は、この匂いを頼りにピアノの調律を行います。
全体、ちょっとハードボイルドっぽい感じ。個人的にはこういう感じ好きです。

調律作業がかなり詳しく書かれているのですが、専門用語が多い上、素人には「こうなるようにこういうことをする」という説明そのものが難しく、頭の中をハテナマークが飛び交う箇所も少なくありません。それでも面白く読めてしまうのは、嗅覚を頼りにピアノを「気持ちのよい匂い」に戻していく過程(の描写)に、謎解きに通じる部分があるからなのかなと思います。
「共感覚」という言葉は初めて聞きましたが、Google Scholarをググってみると、かなりの数の論文がヒットしました。分かっていないことも多いようですが、きちんと研究されている分野でもあるのですね。

どの話も捨てがたいのですが、私は「朝日のようにやわらかに」という1編が好き。
ジャズバーのオーナーの「全体的に、少しだけタッチを柔らかくしてもらえないですかね。このピアノ、タッチを硬めにしてあるんで、不特定多数のピアニストに弾いてもらうには、ちょっと癖が強いかもしれないんで」(86頁)「前はそうでもなかったのでこのホールのせいだと思うんだけど、音に角がでちゃっているというか、樽で寝かせた時間が短いスコッチみたいな感じがするんですよねえ。決して不味くはないんだけど、できればあと五年は寝かせてほしい、みたいな。そのニュアンス、わかります?」(87頁)という要請に応じて、「どうすればそんな音になるか」を考えながら少しずつ調律を行っていくんですけど、作業内容にハテナマークは飛びものの、「こうすればこうなるだろう」という仮定の下に、目的の音に少しずつ近づけていく過程の描写には、こちらの胸をドキドキさせるものがあります。ラストでは、オーナーと鳴瀬が過去に出会っていたことも明らかになります。

第6話「超絶なる鐘のロンド」で、鳴瀬は、仙台市のコンサートホールでコンサート用のピアノの調律作業中に、東日本大震災に遭遇します。その地震の描写が「体験した者でなければこうは書けまい」と思えるほど真に迫ったものだったのですが、あとで調べてみると、著者は仙台の出身で、当時も現在も仙台市在住でした。地震の最中、ステージ上を自走し始めたグランドピアノを、演奏家と2人でステージ中央に押し戻そうとする描写があります。「迫ってくるピアノから一目散に逃げるべきところ、なにも考えずにピアノを押さえようとしており、それは隣の成澤も一緒だった。私も成澤も、素晴らしい音を奏でる高価なピアノを、無意識のうちに守ろうとしたのかもしれない」(186頁)。常に心の中にある仕事(職業)に対する姿勢の本能的な表出の描写のように思われ、自分もそうありたいと、何となく心に残った場面です。

震災の経験をきっかけに、鳴瀬は「嗅聴」を感じることができなくなります。音だけに頼って調律しなければならないことに不安を感じる鳴瀬ですが、ある夜、絵梨子(の幽霊というか、鳴瀬自身の心の声というか気づきというか...)が彼のもとを訪れ、「いつまでも自分を責め続け苦しんでいないで新たな一歩を踏み出してほしい」と語りかけます。
6か月後、被災地にピアノを届けるボランティアとして、純粋に音や演奏を楽しむ鳴瀬の描写で本作は終わります。
正直、ちょっともの足りない感が残ったのも事実。ハードボイルドできて、そう着地しますか、的な。

あとがきで、著者自身が、連載途中で震災を体験したため、それまでと同じように書くことができず、第6話で「(大きく)転調せざるを得なかった」と書いておられます。確かに、震災→共感覚を失う→妻の幽霊(?)に遭遇という流れには、若干の違和感というか唐突感を感じますし、私が感じた「ちょっともの足りない感」も、それに起因するものなのかもしれません。
あとがきには「作品の底辺に流れるテーマをも、当初のものからちがうものへと変更した」(244頁)ともありました。「妻の死についてひたすらに自分を責める」いう鳴瀬の人物造形も、そうした変更によるものなのかもしれません(最初の1、2話には、あまりそういう描写は出てこなかったので)。
最終話が書かれたのは、震災の2年後。震災を過去のものにできるだけの時間が経過したとはいえない時期ではありますが、著者は、鳴瀬の再生を描くことで、「時間は掛かるだろうけれど、残った自分を責めずに生きてほしい」ということも伝えたかったのかもしれないと思いました(いつものように的外れの深読みかもしれませんが)。

別にメッセージ色の濃い小説というわけではなく、「調律師」という仕事について興味深く読める1冊です。
表紙デザインも素敵なのだ。
2017.05.05 20:24 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
福島正実訳/小尾芙佐訳

初読は多感な高校生の頃(...遠い目)。
原書も翻訳書も永久保存版として所持していたのですが、20年ほど前に諸般の事情により行方不明になってしまいました。

先日、図書館で偶然小尾芙佐訳を見つけ、「ならば旧訳も」と両方借り出しました。

「夏への扉」はSFです。
舞台は(原作時点からみた)近未来。
主人公である発明家ダンは、親友と婚約者の裏切りによって(愛猫ピート以外の)すべてを失い、失意のままピートとともに人工冬眠で30年の眠りにつく決意をします。直前で考えを変え友人と婚約者に一矢報いようとするのですが、逆に麻酔を打たれ、2人の奸計によって人工冬眠に送り込まれてしまいます。
30年後に覚醒したダンは、自分が原型を試作した万能ロボットや頭の中に思い描いていた機械が広く普及しているのを知り、その謎を解くために、タイムマシンでふたたび30年前の世界に戻ります。そこで、自分が目にした未来が現実のものとなるよう手を尽くし、今度は、救出したピートを連れて再び30年の眠りにつくのです。

冬になるとピートが「どれかは暖かい夏に通じているに違いない」と固く信じて探し続ける「夏への扉」。夏は、ざっくりいうなら明るく希望に満ちた未来の象徴かと思います。
冒頭と結びに「夏への扉」への言及があります。

本作のあらすじを短くまとめるのはとても難しい。てことで、興味を持たれた方は、まずはWikipediaさんあたりでもう少し詳しいあらすじを仕入れてくださいと逃げるSayoなのだった。
その上で、お好みで旧訳/新訳いずれかの訳書に進んで頂ければと思います。

最初に年代を整理しておきます。

原作発表:1956年
福島訳初版:1963年
福島訳文庫化:1979年
小尾訳初版:2009年

作中の「現在」:1970年
作中の「未来」:2000年~2001年

20年以上のときを経ての再読ですので、忘れているところも多々ありました。
何より、ワタクシも多感でナイーブな高校生ではなく、世の中のあんなこともこんなことも見てきた50代ですから、当時とは違う感想もあり、主人公に思わず回し蹴りを喰らわしてしまった箇所もありました。

1 「万能ロボットを発明して女性を家事から解放してやりたい」とのたまう主人公ですが、「まずはお前も家事をやらんかあああい」と、まずそこで回し蹴り。
2 最終的に辿りつく2000年の未来で、主人公は、自分ともピートとも大の仲良しである、親友の継娘リッキーと結ばれてメデタシメデタシの結末となります。1970年にはダンは29歳、リッキーは11歳、約20歳の年齢差があるのですが、タイムトラベルで戻ってきた2度目の1970年を去る前に、ダンは、リッキーに「10年経ってもまだおじさん(=自分)に会いたかったら、2000年まで人工冬眠しなさい」と言い聞かせて人工冬眠に入り、2000年に再会して結婚します(てことで、その時点で2人の年齢差は10歳弱まで縮まっています)。しかし、しかしですよ、ダンは、手ひどい裏切りにあうまでナイスバディの悪女ベルに首ったけだったわけで。ところどころに「ずっと自分を慕ってくれた誠実なリッキーがいい」という心境の変化が描かれていたような気もしますが、ラブストーリーにはほど遠く。初読時には「眠り姫みたい♪」とロマンチックに思ったわけですが、恋愛は遠い記憶の彼方、結婚の実態を知った今となっては、「いやいやいや、そこおとぎ話すぎるっしょ」とツッコミを入れずにはおれません。
3 タイムマシンが介在したことで若干力技で話が解決してしまった感は否めません。

そうは言っても。
ワタクシは、この作品好きです。旧訳も新訳も、勢いがついてからは一気読みでした。

特に旧訳と新訳を付き合わせながら読んだわけではありませんが(2つの作品を楽しむのが目的なので)、同じ箇所を比べてみると、小尾訳の方が読みやすい訳になっているように思われました。とはいえ、福島訳にはごつごつとした力強さがあり、それはそれで、「未来は必ずよくなる」と信じて疑わなかった時代背景に合っているような気がします。どちらもそれぞれの味わいがあり、結局、原作がPage turnerの秀作であれば(上では細かいところに文句を付けていますが、「夏への扉」はやはり圧倒的に面白いSF作品だと思います)、力のある訳者の方が訳せば、それぞれ趣の異なる優れた訳書に仕上がるのかなあと思いました。
以上はあくまでも個人的な読書感想文です>念のため。

新訳を読むにあたって、旧訳と比べてみたいと思っていた訳語(訳文)が3つありました。

1 Hired Girl
2 Flexible Frank
3 You know, I think he is right.

1はルンバのまだ上をいく自動床掃除機。床の状態を見極めて、掃いたり、拭いたり、磨いたり、異物を拾ったりとさまざまな動作が可能です。福島訳は「文化女中器」、小尾訳は「おそうじガール」でした(どちらもルビつき)。「文化」はここではたぶん、昭和初期の最新の洋風住宅「文化住宅」を念頭においた「最先端」を意味する訳語だと思います。「文化住宅」も「女中」も死語となった今、Hired Girlはどう訳されているのだろうと。素直な訳になっていました。全体のトーンからすれば、これはこれでいいのかなと。1950年代にすでにルンバの登場を予見していたハインラインは凄いなと思います(蛇足ながら、彼はCADにつながる「製図工ダン」という自動製図機も”発明”しています)。

2は、皿洗いから猫ののどかきまで学習させたことは(ほぼ)何でもできるという万能型ロボット。福島訳は「万能フランク」、小尾訳は「ばんのうフランク」(どちらもルビつき)。「万能」という訳は、このロボットにぴったりの訳語だと思うのですが、個人的には絶対出てこない訳語だな~と思います。

3は本書の最後の1文。エピローグ的にダンとリッキーの「幸せな今」が描かれたあと、

ただし、ピートは、どの猫でもそうなように、どうしても戸外へ出たがって仕方がない。彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。
(福島訳)

でもピートはまともな猫なので、外に行くほうが好きだし、家じゅうのドアを開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず”夏への扉”なのだという信念をぜったい曲げようとはしない。
そう、ピートが正しいのだとぼくは思う。
(小尾訳)

「ぼくはピートの肩を持つ」という力強い賛同の言葉が未来賛歌のようにも聞こえて、初読当時大好きでした(お忘れかもしれませんが、うぶでナイーブな高校生でしたんで>念のため)。「名訳」と呼ばれることもあるこの1文を小尾芙佐さんはどう訳されているのか、とても興味がありました。

あっさりしとるな、というのが第一印象。
でも、読み直すうち、ところどころ読み比べるうち、いろいろ考えるうちに、2009年の新訳はこれでいいのかなと思うようになりました。
作中の未来である2000年が過去のものとなってすでに久しく、わたしたちは「明るい未来はくるのか」と自信が持てない「現在」を生きています(少なくともワタクシはあまり楽観的ではありません)。「そう、ピートが正しいのだとぼくは思う」には、原作を尊重した上での、小尾さんの「わたしたちは本当は2000年代が素晴らしいばかりの時代ではないことを知っています。でも(未来は明るいと信じる)ピートは正しいと私は思います。あなたもそう信じてみませんか」という思いがこめられているような気がするのです。そう、今ならやっぱりこっちかな。

しつこいようですが、あくまで個人的な感想です>念のため。
2017.04.27 22:58 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |