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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


今年購入して未読の書籍を積んでみました。

...こんなにあったんかい...
(いちおー、パラパラめくりながら拾い読みしたものも含めましたが<苦しい言い訳など)

ある程度消化できるまで買わずに我慢すればいいのでしょうが、SNSなどで「いいよ」と紹介されると、どうしても気になってしまうんですよね。
シンポジウムやセミナーのあとは、特に「遅れをとってはならぬ(とにかく手元に置いておかなくちゃ)」モードが全開になってしまって、ヤバいです。
そして、「手元にあることで安心する」、本当はこれが一番いけないと思っています。

懺悔の気持ちをこめてリストアップしました。
もしかしたら他にもあるかもしれません。洋書系は別腹...じゃなくて別場所なので、確実にあります。
「翻訳ストレッチ」に組み込んだりしながら(特に「読む辞典」系)、少しずつ消化していこうと思います。


「英文和訳・要約法」(中村保男・谷田貝常夫 文字文化協會 2018年)
「日本人のための日本語文法入門」(原沢伊都夫 講談社現代新書 2012年第1刷)
「『接続詞』の技術」(石黒圭 実務教育出版 2016年第1刷)
「究極の英語ライティング」(遠田和子 研究者 2018年)
*勉強会で管理人さんから紹介いただいた書籍。ブログで紹介しようと読み始めて他に目移りし、を繰り返すこと2回。そのたびに、既読部分もざっくり読み直す(←忘れている)という無駄を繰り返すこと2回。東京雛祭りまでには必ず(握拳)。どれも、それほど難しい内容ではないのです。でも、記事にするとなると、勉強会の要約と関連付けたり考えたり比較したりしなければならず、たぶんそこで躓いてしまうと思います。「記事にすること」は、自分にとってなにがしかのトレーニングにはなるに違いありませんが。まあ、気長に待ってやってください。

「グルメな辞書」(西練馬 緑陽社 2016年第1刷)
「マザー・グースの唄」(平野敬一 中公新書 1972年第1刷)
「シェイクスピア名言集」(小田島雄志 岩波ジュニア新書 1985年第1刷)
*シンポジウム中/後にまとめて。「グルメ」は外出のおともに、「シェイクスピア」は息抜きに、「マザーグース」はどこかにねじ込んで(希望的観測)。

「ねみみにみみず」(東江一紀/越前敏弥編 作品社 2018年)
「翻訳百景」(越前敏弥 角川新書 2016年)
*ところどころ拾い読みして放置。どこかで時間作ります。「ストーナー」(東江一紀訳)の原書・訳書比較読みは、亀の歩みですが頑張って続けています。

「創造する翻訳」(中村保男 研究社出版 2001年第1刷) やっと半分まで来ました!
「英語の発想」(安西徹雄 ちくま学芸文庫 2000年第1刷)

「擬音語・擬態語辞典」(山口仲美編 講談社学術文庫 2015年第1刷)
「日英語表現辞典(最所フミ編著 ちくま学芸文庫 2001年第1刷)
*「翻訳ストレッチ」に組み込んで少しずつ読んでいこうかなと思っています。

おまけの子ら
「人体の冒険者たち-解剖図に描ききれないからだの話」(ギャヴィン・フランシス/鎌田彷月訳・原井宏明監修 みすず書房 2018年)
「偽りの薬-降圧剤ディオバン臨床試験疑惑を追う」(河内敏康・八田浩輔 新潮文庫 2018年)
「孤宿の人」(宮部みゆき 新潮文庫 2009年第1刷)
「千年樹」(荻原浩 集英社文庫 2010年第1刷)
「負けんとき-ヴォーリズ満喜子の種まく日々」(玉岡かおる 新潮文庫 2014年第1刷)
*正月にはこれらを手にどこかに籠もりたいものです。「偽りの薬」は「解説」買い(柳田邦男)。そういえば、途中で頓挫している柳田邦男さんの「『死の医学』への日記」もどこかにあるはず。12月には「チーム」「チームII}(堂場瞬一)を再読して正月の箱根駅伝に備えなければ。読破は遠い道のりかも(遠い目)。


加齢で目が疲れやすくなったというのもあるかもしれませんが、20代・30代に比べて圧倒的に読書量が減りました。外に出ることが減り、通勤も含めた「待ち」の時間が少なくなったというのも、理由の一つかもしれません。「最後に書籍をどう処分するか」を考えると、もっと図書館を利用したいところなのですが、図書館に出向くのもなかなか億劫でして(<どんだけ面倒くさがりやねん<自分)。
まずは少しずつ積ん読を片付けながら、来年はもう少し本を読みたいなーと思っています。
2018.11.26 22:39 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「スイート・ホーム殺人事件」(クレイグ・ライス、1944年)
翻訳は、長谷川修二訳が1957年(ハヤカワ・ポケットミステリ)、羽田詩津子訳が2009年(ハヤカワ・ミステリ文庫、新訳版)。
私は、長谷川訳を、ハヤカワ・ミステリ文庫(1976年初版)で読みました。

14、12、10歳の3姉弟が、ミステリ作家の母に代わって殺人事件を解決するという、コージー・ミステリ。以前にも書いたとおり、「遊園地の移動サーカスで目一杯楽しみました」的な読後感が残ります。
羽田詩津子さんの新訳は未読。きっと素晴らしいものに違いないと思うのですが、なんだかこの長谷川訳が好きで、「スイート・ホーム殺人事件」はこれだけにしておこう、と思ってしまうのです(あくまで個人的な好みです<念のため)。

今読み返すと、言葉遣いは全体に古めかしい(古めかしすぎる)し、米国の暮らしや食べものなど、「それがどんなものなのかよく分からない/日本に入ってきていないので上手く説明できない」ゆえの「?」訳もあるのですが、そうした言葉遣いすら、「70年前ならこんな感じかな」と思えてしまいます。

ストーリーの方は、あまりにも登場人物が多くて(一応、登場人物一覧はあるのですが)最後まで頭の整理ができず、「意外な」というより「この人どんな人だっけ」という人が犯人で(でも、読み返してみると確かに小さな伏線が張られていたりする)、そういう意味で、分かりやすい(?)ミステリーではないのですが、それらの登場人物の多く、特に、3姉弟が「シングルマザーの母の相手に」と画策する独身の警部とその相棒の巡査部長は、魅力たっぷりに描かれています。最初に「殺人事件を解決する」と書きましたが、どちらかといえば「捜査を引っかき回す」に近く、そうしたたくらみや、母と警部をくっつけるために姉弟が繰り出すあの手この手は、読んでいて飽きません。

3姉弟の真ん中のエープリルは、一番賢いのですが、こまっしゃくれた子どもでもあります。彼女の台詞を現代風にしてしまうと、よほど上手く訳さないと「生意気なだけの嫌な子ども」になってしまうような気がします。上手く言えないのですが、古めかしい言葉遣いのゆえに、逆に「やなヤツ感」が緩和されているように感じられるのです。あくまで、個人的な感想ですが。古めかしさが、この作品の雰囲気ともピッタリ合っているような気がします。これも個人的な感想ですが。

ポケット・ミステリでの初版は1957年なので、「嬢や」や「彼女、シャンだわねえ」といった、1970年代後半にはすでに死語に近かった表現がそこここに散りばめられているのですが、そうした表現さえソコハカとなく郷愁を誘います。現代の若い読者には「古い」のひと言で片付けられてしまいそうですが。この小説をもう一度翻訳するとしたら、どんな口調で訳すのがベストなのかはむつかしいところなんじゃないかなあと思ったり。その前に、まず羽田訳を読めよって話ですし、そもそも「古い訳がいいなあ」と勝手に思っているワタクシが言っていることですので、適当にスルーしてください。

ラストの巡査部長の台詞は、長谷川訳では
「ああ、ずっと僕は知っていたさ。僕をだまそうったって無理だよ。僕は九人の子供を手塩にかけたんだもの――だからわかるさ!」
となっています。「手塩にかけた」って、最近はあまり使わないかなと思うのですが、でも、やっぱりこの作品にはぴったりだと思うのです。

そして、最後に原題の「Home Sweet Homicide」。洋書のタイトルは愛想のないものが多いな-、と思うことが多いのですが、これは原題の方に軍配を上げたい見事なタイトルだと思います。
2018.09.26 22:27 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

なんか、翻訳のいい話を想像してくださった方はごめんなさい。

「悲嘆の門」(宮部みゆき)の読書感想文というか、心に残った部分を取り出したらこうなったというか。
途中で、「苦手系」と気づいたので、後半はストーリーを追いながら、流しました。
こうやって、ストーリーを追う読み方をするから、自分の中に「使える語彙」がたまっていかないのかもしれません。

「苦手系」というのは、異世界(と行ったりきたり)ものです。
異世界ファンタジーすべてが苦手ということではなく、あくまで「宮部作品の中では」ということです。
(個人的な好みです、念のため)。

蛇足ですが、若い頃は、ファンタジーが好きでよく読んでました。
レイモンド・E・フィーストのリフトウォーサーガ(岩原明子訳)とか、アン・マキャフリィのパーンの竜騎士シリーズ(小尾芙紗訳)とか、ロビン・マッキンリィの「青い剣」(渡辺南都子訳)とか。
特に、フィーストの「魔術師の帝国」とマッキンリィの「青い剣」は、それぞれ、少年、少女の成長譚としても秀逸な内容だったと思います。てことで、今も手元にあります。

閑話休題。

「悲嘆の門」でしたね。

ネット社会の暗闇を抉るのか? みたいな感じで始まったのが、背中に翼を生やし大鎌を手にしたガーゴイルが現われたあたりから、どんどん現実離れしてしまって、ちょっとついていけませんでした(というのは、シツコいようですが個人的な感想です)。最後まで社会派ミステリとして読んでみたかったです。重い話になりそうですが。

現実の世界に異能者が登場したり(「クロスファイヤ」「魔術はささやく」「蒲生邸事件」など)、時代ものに妖怪や呪術者が登場したり(「荒神」「三島屋シリーズ」など)というお話は、ダイジョブ、というか好きなんですけどねー。おそらく、前者は、異能者が現実の枠組みの中で生きているから、後者は、そもそも昔の話なので「そういうこと」が起きてもおかしく思わないからだと思います。というわけで、現実世界と異世界が渾然一体となった感のある「悲嘆の門」は、個人的には苦手です。

そうは言っても、最後まで読ませてしまうのは、宮部さんの筆力のなせる技かと。随所に「こんなん思いつかんわ」という、ハッとさせられるような独特の表現があり、本当に上手いなあと思います。


タイトルは、サイバーパトロールのアルバイトをする主人公の大学生とアルバイト先の会社の女社長との会話に出てくる言葉。
本筋と関係あるような...それほどないような...くだりなのですが(駆け足で読みましたもので...)、言葉に係わる仕事をする者としてもひとりの人間としても、心に留めて置くべき内容なのではないかという気がしましたので、少し長くなりますが、引用しておきます。

以下、「悲嘆の門」(上)125~127頁より引用

 社長は頬杖をついてちょっと目を凝らした。
「よろずに攻撃的な人っているでしょ」
「炎上を起こすのが好きだとかですか」
「そこまでいかなくても、たとえば映画評とか芸能人の品定めでもいいけど、正鵠を射てはいるんだけど辛辣だったり、何でもかんでも批判するばっかりだったり」

(中略)

「わたしの友達にもいるの。本人はすごく常識的な人で、仕事もできるし家庭も円満。それでもやっぱりストレスは溜まるでしょ。それを、ネット上でキツい発言をして発散しているというのよ」
 大いにありそうな話だ。
「ネット人格は現実の自分とは違う。きちんと切り離しているから、ネット上ではどんなキツいことやえげつないこと、現実の生活では口にできないようなことを書き込んだって大丈夫よって、彼女は笑ってる。そういうネットの使い方は、確かにあると思う」
 孝太郎はうなずいた。
「でも、わたしはそれ、間違いだと思うの」
 言葉は残るから、と言った。
「わたしの友達みたいなスタンスでいろいろ書き込んでる人は、自分は言葉を発信してるだけだと思ってる。匿名なんだし、遠くへ投げて、それっきり。誰かの目にとまったとしても一時的なものだって。それはとんでもない勘違いよ」
「ネットに発信した情報は、ほとんどの場合、どこかに残りますからね」
「いいえ、そういう意味じゃない」
 きっぱりと否定された。
「書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句(へんげんせっく)でさえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。わたしが言ってるのは、そういう意味。つまり<蓄積する>」
 言葉は消えない。
「女性タレントの誰々なんか氏ね[Sayo注:「死ね」の意]。そう書き込んだ本人は、その日のストレスを、虫の好かない女性タレントの悪口を書いて発散しただけだと思ってる。でも、<氏ね>という言葉は、書き手のなかに残る。そう書いてかまわない、書いてやろうという感情と一緒に」
 そして、それは溜まってゆく。
「溜まり、積もった言葉の重みは、いつかその発信者自身を変えてゆく。言葉はそういうものなの。どんな形で発信しようと、本人と切り離すことなんか絶対にできない。本人に影響を与えずにはおかない。どれほどハンドルネームを使い分けようと、巧妙に正体を隠そうと、ほかの誰でもない発信者自身は、それが自分だって知ってる。誰も自分自身から逃げることはできないのよ」
2018.06.27 23:57 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「The Emperor of All Maladies - A Biography of Cancer」(Siddhartha Mukherjee)
「がん‐4000年の歴史」の邦題で訳書も出ています(シッダールタ ムカジー、田中文訳)。
(文庫化にあたり「病の皇帝『がん』に挑む ― 人類4000年の苦闘」から改題されたようです)

聴了。

本当は、かなり前に青息吐息で聴き終わったのですが、先日ふと思い立ってAmazonの訳書の書評を覗いてみたら、「ほとんど一気読み」とか「手に汗握るストーリー」とか「上巻・下巻3日で読みました」とか。
ええええー、息も絶え絶えにやっと完走したもので、とても「一気読み」はできなんだですが。ワ、ワタクシ、何かまずかった?

というわけで、もう一度聴き直してみました。

ストーリーの組立てにもできるかぎり注意を払いながら、聴き直してみると、え、なに、なかなか面白いやん。
文字なら一気読みいけるかもしらん(日本語なら、ですが)。

文字情報の場合は、興が乗ってくれば斜め読みして流れを追ったり、前に戻って確認したりできますが、聴読はそれができない。そのへんが、「硬いノンフィクションを耳から理解する」ことの限界のひとつかなと思いました。全体の長さにもよりますが、ストーリー性が強いものでないと、強弱の少ない平板な情報として頭の中に入ってくるような気がします(あくまでも自分の場合、それも特に英語の場合ですが)。そして、あまり長いと、最初の方で聴いた内容はかなり記憶から飛んでいる(本作は、16CD、全20.5時間です<記憶が飛ぶのは加齢のせいという説もある)。
今後は、そういう点にも気をつけて題材を選んだ方がいいかも、と思ったのでした。

で、何でしたっけ、「The Emperor of All Maladies」でしたね。

邦訳の副題にもあるとおり、本書は、人類とがんの戦いの「歴史」。人類は「敵がなにものなのか分からない」うちからこの難敵に立ち向かってきた。その実体は徐々に、というより19世紀以降飛躍的に明らかになり、今ではその発生の仕組みも解明され、さまざまな分子標的薬が開発されている。だが、がんとの戦いは決して平坦なものではなく、間違った治療法が試されたこともあり、国を動かすロビイングが奏功したことも、新たな治療法が経営的判断で葬り去られようとしたこともあった。また、予防についても研究されるようになった。

...といったことが、ときに著者自身が遭遇した患者の話を交えながら、おおむね時間軸に沿って語られていた...と思います(すでに記憶があやふや>ピンポイント的に読み返せないところも聴読の欠点なのだった)。

ワタクシは一応医療翻訳者の端くれなので(ホントに端くれですが)、用語や大意の理解にはあまり難渋しなかったのですが、そうでなければ少し難しい内容かもしれません(実際、「医師は読んでおくべし」的な書評も見かけました)。
けれど、医師、研究者、患者が主体でありつつも、政治や社会も巻き込んでがん治療が発展してきたこと、今や2人に1人はがんに罹患する(生涯リスク)と言われていることを考えれば、「がん」というものをきちんと把握するために読んでおいてもいいかなという1冊かと思います。長いけど。

同じ著者の手による「The Gene: An Intimate History」という書籍も刊行されていますが、これもたいがい長そうなので、「読む」方にしようと思います(いつになるか分かりませんが)。「遺伝子‐親密なる人類史」(シッダールタ ムカジー、田中文訳)という邦題で訳書も出ているので、図書館で借りて読むかも(いつになるか分かりませんが)。
2018.04.18 17:25 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

何となく、文体や言葉や言回しのリズムが、自分の体内リズム(?)と合っているような気がして気に入ってしまった熊谷達也さん。
本当は、「合ってない」小説もたくさん読まないと、語彙やら文体やらの幅は広がらんのでしょうけど。

舞台は架空の「宮城県北部に位置する人口が六万五千人ほどの港町」仙河海市(おそらく気仙沼市)。
1991年春、主人公の「僕」岩渕和也は、仙河海市の中学校で教師をしています。関東の中学から移ってきて2年。数学を教え、陸上部の顧問を務め、この春からは3年生を担当する予定です。
和也のクラスに、急遽、関東からの転校生がやってくることになるのですが、その少女、早坂希は、転校初日、いわゆるスケバンルックで登校し、先生や生徒の度肝を抜きます。
母子家庭に育ち、男にだらしない(希談)母親と暮らすうちに生活が荒れてしまったらしい希ですが、和也らとの関わりを通して、素直で頑張り屋の素が表に出るようになります。また、陸上選手として非凡な才能の片鱗を見せ、陸上部に加わることになります。

「さわやかな読後感」という言葉がぴったりの小説でした。
別に揶揄しているわけではありません。素直に気持ちよく読了しました。
突っ張っている希が、少しずつ素直になりながら変わろうと努力するという点では早坂希の成長物語だし、「生徒への信頼を失っていた」と自らの過ちに気づき、希らへの接し方を変えていく部分をみれば、和也の教師としての成長物語とも読めるかなと思います。

でも、若干の物足りなさを感じたのも事実でして。
ひとつは、和也がいったん希の心に「信頼できるヤツ」とインプットされると、(クラスの雰囲気も含めて)すべてがよい方向に一気に転がっていったこと。ただ、それは、あくまで懐疑心の強い自分基準で考えているからであって、根が素直な希からすれば、一度壁が取り払われてしまえば、担任教師にもクラスにも一気に馴染んでいくのはあたりまえのことなのかもしれません。てことで、ただ自分がヒネているだけなのかもしれない。

もうひとつは、本書の「僕」を客観的に見ている20年後の「僕」がいて、その視点がときどき顔を出すために、特に前半は話に入り込めなかったこと。「今でこそこうだが、1990年当時はこういう時代だった/中学校はこうだった」といった説明や、「このときの僕はそんな風には考えられなかった」的な文章が挟まれて、ときどき、「その『僕』はどちらの僕?」となるときがありました。特に、当時のワープロ・パソコン事情等には、20年後の「僕」視点で、「あの頃はこうだった」的説明があるのに、「スケバン」という言葉に説明がなかったのが、細かいですが個人的には一番尾を引きました(勝手にですが、「スケバン」はすでに死語と思っていたので)。そんな風に、ときどき「20年後の僕」が顔を出すので、最後に何らかの形で表に出てくるのかな、と思って読み進めていったら、普通に終わってしまって「あれ?」と思ったというのが、正直なところです。

・・・と、いろいろ書いていますが、何でしょうね、素直に心が洗われるような小説です。
教師側からみた中学校のあれこれもよく描かれていたのではないかと思います(著者自身、教師をされていた期間があるとか。自伝小説とは言わないまでも、和也の年齢から推して、自伝的要素もかなり含まれているのではないかと思いました)。
そして、この町や描かれた景色はもうもと通りではないのだと思うと、余計に切ないものがあります。

熊谷さんの、この「リアスの子」を含む仙河海市を舞台とする一連の小説は、「仙河海サーガ」と呼ばれ、今も書き続けられているとか。震災前を舞台とするものも、その後を描いたものもあるようです(また、蛇足ながら、震災前に書かれた作品に、和也の「その前」が描かれた「七夕しぐれ」「モラトリアムな季節」の2作があるようです)。
今度図書館に行ったら、探してみようと思います。
2018.03.24 21:40 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |