屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

調律師が主人公の7編の連作短編集。
一種の「お仕事小説」と言えなくもないです。
内容バレバレの読書感想文なので、続きはお好みで。
(全部読んでから手に取られても、十分楽しめると思いますが)

主人公鳴瀬(文中「私」)は30代半ばの調律師。若い頃は将来を嘱望された新進ピアニストでしたが、10年前に交通事故で重傷を負い(その事故で、調律師だった妻・絵梨子を失います)、調律師に転身した過去があります。妻の死に対し、常に罪の意識を感じているようです。現在は義父が経営する鷹栖調律事務所に籍を置いています。
鳴瀬はもともと共感覚の持ち主で、ピアノの音を聴くと同時にさまざまな匂いを感じます。ピアニストだった頃は、音に呼応して色が見える「色聴」の持ち主でしたが、事故を境に「色聴」は消え、妻・絵梨子が持っていた「嗅聴」を持つようになっています。鳴瀬は、この匂いを頼りにピアノの調律を行います。
全体、ちょっとハードボイルドっぽい感じ。個人的にはこういう感じ好きです。

調律作業がかなり詳しく書かれているのですが、専門用語が多い上、素人には「こうなるようにこういうことをする」という説明そのものが難しく、頭の中をハテナマークが飛び交う箇所も少なくありません。それでも面白く読めてしまうのは、嗅覚を頼りにピアノを「気持ちのよい匂い」に戻していく過程(の描写)に、謎解きに通じる部分があるからなのかなと思います。
「共感覚」という言葉は初めて聞きましたが、Google Scholarをググってみると、かなりの数の論文がヒットしました。分かっていないことも多いようですが、きちんと研究されている分野でもあるのですね。

どの話も捨てがたいのですが、私は「朝日のようにやわらかに」という1編が好き。
ジャズバーのオーナーの「全体的に、少しだけタッチを柔らかくしてもらえないですかね。このピアノ、タッチを硬めにしてあるんで、不特定多数のピアニストに弾いてもらうには、ちょっと癖が強いかもしれないんで」(86頁)「前はそうでもなかったのでこのホールのせいだと思うんだけど、音に角がでちゃっているというか、樽で寝かせた時間が短いスコッチみたいな感じがするんですよねえ。決して不味くはないんだけど、できればあと五年は寝かせてほしい、みたいな。そのニュアンス、わかります?」(87頁)という要請に応じて、「どうすればそんな音になるか」を考えながら少しずつ調律を行っていくんですけど、作業内容にハテナマークは飛びものの、「こうすればこうなるだろう」という仮定の下に、目的の音に少しずつ近づけていく過程の描写には、こちらの胸をドキドキさせるものがあります。ラストでは、オーナーと鳴瀬が過去に出会っていたことも明らかになります。

第6話「超絶なる鐘のロンド」で、鳴瀬は、仙台市のコンサートホールでコンサート用のピアノの調律作業中に、東日本大震災に遭遇します。その地震の描写が「体験した者でなければこうは書けまい」と思えるほど真に迫ったものだったのですが、あとで調べてみると、著者は仙台の出身で、当時も現在も仙台市在住でした。地震の最中、ステージ上を自走し始めたグランドピアノを、演奏家と2人でステージ中央に押し戻そうとする描写があります。「迫ってくるピアノから一目散に逃げるべきところ、なにも考えずにピアノを押さえようとしており、それは隣の成澤も一緒だった。私も成澤も、素晴らしい音を奏でる高価なピアノを、無意識のうちに守ろうとしたのかもしれない」(186頁)。常に心の中にある仕事(職業)に対する姿勢の本能的な表出の描写のように思われ、自分もそうありたいと、何となく心に残った場面です。

震災の経験をきっかけに、鳴瀬は「嗅聴」を感じることができなくなります。音だけに頼って調律しなければならないことに不安を感じる鳴瀬ですが、ある夜、絵梨子(の幽霊というか、鳴瀬自身の心の声というか気づきというか...)が彼のもとを訪れ、「いつまでも自分を責め続け苦しんでいないで新たな一歩を踏み出してほしい」と語りかけます。
6か月後、被災地にピアノを届けるボランティアとして、純粋に音や演奏を楽しむ鳴瀬の描写で本作は終わります。
正直、ちょっともの足りない感が残ったのも事実。ハードボイルドできて、そう着地しますか、的な。

あとがきで、著者自身が、連載途中で震災を体験したため、それまでと同じように書くことができず、第6話で「(大きく)転調せざるを得なかった」と書いておられます。確かに、震災→共感覚を失う→妻の幽霊(?)に遭遇という流れには、若干の違和感というか唐突感を感じますし、私が感じた「ちょっともの足りない感」も、それに起因するものなのかもしれません。
あとがきには「作品の底辺に流れるテーマをも、当初のものからちがうものへと変更した」(244頁)ともありました。「妻の死についてひたすらに自分を責める」いう鳴瀬の人物造形も、そうした変更によるものなのかもしれません(最初の1、2話には、あまりそういう描写は出てこなかったので)。
最終話が書かれたのは、震災の2年後。震災を過去のものにできるだけの時間が経過したとはいえない時期ではありますが、著者は、鳴瀬の再生を描くことで、「時間は掛かるだろうけれど、残った自分を責めずに生きてほしい」ということも伝えたかったのかもしれないと思いました(いつものように的外れの深読みかもしれませんが)。

別にメッセージ色の濃い小説というわけではなく、「調律師」という仕事について興味深く読める1冊です。
表紙デザインも素敵なのだ。
2017.05.05 20:24 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
福島正実訳/小尾芙佐訳

初読は多感な高校生の頃(...遠い目)。
原書も翻訳書も永久保存版として所持していたのですが、20年ほど前に諸般の事情により行方不明になってしまいました。

先日、図書館で偶然小尾芙佐訳を見つけ、「ならば旧訳も」と両方借り出しました。

「夏への扉」はSFです。
舞台は(原作時点からみた)近未来。
主人公である発明家ダンは、親友と婚約者の裏切りによって(愛猫ピート以外の)すべてを失い、失意のままピートとともに人工冬眠で30年の眠りにつく決意をします。直前で考えを変え友人と婚約者に一矢報いようとするのですが、逆に麻酔を打たれ、2人の奸計によって人工冬眠に送り込まれてしまいます。
30年後に覚醒したダンは、自分が原型を試作した万能ロボットや頭の中に思い描いていた機械が広く普及しているのを知り、その謎を解くために、タイムマシンでふたたび30年前の世界に戻ります。そこで、自分が目にした未来が現実のものとなるよう手を尽くし、今度は、救出したピートを連れて再び30年の眠りにつくのです。

冬になるとピートが「どれかは暖かい夏に通じているに違いない」と固く信じて探し続ける「夏への扉」。夏は、ざっくりいうなら明るく希望に満ちた未来の象徴かと思います。
冒頭と結びに「夏への扉」への言及があります。

本作のあらすじを短くまとめるのはとても難しい。てことで、興味を持たれた方は、まずはWikipediaさんあたりでもう少し詳しいあらすじを仕入れてくださいと逃げるSayoなのだった。
その上で、お好みで旧訳/新訳いずれかの訳書に進んで頂ければと思います。

最初に年代を整理しておきます。

原作発表:1956年
福島訳初版:1963年
福島訳文庫化:1979年
小尾訳初版:2009年

作中の「現在」:1970年
作中の「未来」:2000年~2001年

20年以上のときを経ての再読ですので、忘れているところも多々ありました。
何より、ワタクシも多感でナイーブな高校生ではなく、世の中のあんなこともこんなことも見てきた50代ですから、当時とは違う感想もあり、主人公に思わず回し蹴りを喰らわしてしまった箇所もありました。

1 「万能ロボットを発明して女性を家事から解放してやりたい」とのたまう主人公ですが、「まずはお前も家事をやらんかあああい」と、まずそこで回し蹴り。
2 最終的に辿りつく2000年の未来で、主人公は、自分ともピートとも大の仲良しである、親友の継娘リッキーと結ばれてメデタシメデタシの結末となります。1970年にはダンは29歳、リッキーは11歳、約20歳の年齢差があるのですが、タイムトラベルで戻ってきた2度目の1970年を去る前に、ダンは、リッキーに「10年経ってもまだおじさん(=自分)に会いたかったら、2000年まで人工冬眠しなさい」と言い聞かせて人工冬眠に入り、2000年に再会して結婚します(てことで、その時点で2人の年齢差は10歳弱まで縮まっています)。しかし、しかしですよ、ダンは、手ひどい裏切りにあうまでナイスバディの悪女ベルに首ったけだったわけで。ところどころに「ずっと自分を慕ってくれた誠実なリッキーがいい」という心境の変化が描かれていたような気もしますが、ラブストーリーにはほど遠く。初読時には「眠り姫みたい♪」とロマンチックに思ったわけですが、恋愛は遠い記憶の彼方、結婚の実態を知った今となっては、「いやいやいや、そこおとぎ話すぎるっしょ」とツッコミを入れずにはおれません。
3 タイムマシンが介在したことで若干力技で話が解決してしまった感は否めません。

そうは言っても。
ワタクシは、この作品好きです。旧訳も新訳も、勢いがついてからは一気読みでした。

特に旧訳と新訳を付き合わせながら読んだわけではありませんが(2つの作品を楽しむのが目的なので)、同じ箇所を比べてみると、小尾訳の方が読みやすい訳になっているように思われました。とはいえ、福島訳にはごつごつとした力強さがあり、それはそれで、「未来は必ずよくなる」と信じて疑わなかった時代背景に合っているような気がします。どちらもそれぞれの味わいがあり、結局、原作がPage turnerの秀作であれば(上では細かいところに文句を付けていますが、「夏への扉」はやはり圧倒的に面白いSF作品だと思います)、力のある訳者の方が訳せば、それぞれ趣の異なる優れた訳書に仕上がるのかなあと思いました。
以上はあくまでも個人的な読書感想文です>念のため。

新訳を読むにあたって、旧訳と比べてみたいと思っていた訳語(訳文)が3つありました。

1 Hired Girl
2 Flexible Frank
3 You know, I think he is right.

1はルンバのまだ上をいく自動床掃除機。床の状態を見極めて、掃いたり、拭いたり、磨いたり、異物を拾ったりとさまざまな動作が可能です。福島訳は「文化女中器」、小尾訳は「おそうじガール」でした(どちらもルビつき)。「文化」はここではたぶん、昭和初期の最新の洋風住宅「文化住宅」を念頭においた「最先端」を意味する訳語だと思います。「文化住宅」も「女中」も死語となった今、Hired Girlはどう訳されているのだろうと。素直な訳になっていました。全体のトーンからすれば、これはこれでいいのかなと。1950年代にすでにルンバの登場を予見していたハインラインは凄いなと思います(蛇足ながら、彼はCADにつながる「製図工ダン」という自動製図機も”発明”しています)。

2は、皿洗いから猫ののどかきまで学習させたことは(ほぼ)何でもできるという万能型ロボット。福島訳は「万能フランク」、小尾訳は「ばんのうフランク」(どちらもルビつき)。「万能」という訳は、このロボットにぴったりの訳語だと思うのですが、個人的には絶対出てこない訳語だな~と思います。

3は本書の最後の1文。エピローグ的にダンとリッキーの「幸せな今」が描かれたあと、

ただし、ピートは、どの猫でもそうなように、どうしても戸外へ出たがって仕方がない。彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。
(福島訳)

でもピートはまともな猫なので、外に行くほうが好きだし、家じゅうのドアを開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず”夏への扉”なのだという信念をぜったい曲げようとはしない。
そう、ピートが正しいのだとぼくは思う。
(小尾訳)

「ぼくはピートの肩を持つ」という力強い賛同の言葉が未来賛歌のようにも聞こえて、初読当時大好きでした(お忘れかもしれませんが、うぶでナイーブな高校生でしたんで>念のため)。「名訳」と呼ばれることもあるこの1文を小尾芙佐さんはどう訳されているのか、とても興味がありました。

あっさりしとるな、というのが第一印象。
でも、読み直すうち、ところどころ読み比べるうち、いろいろ考えるうちに、2009年の新訳はこれでいいのかなと思うようになりました。
作中の未来である2000年が過去のものとなってすでに久しく、わたしたちは「明るい未来はくるのか」と自信が持てない「現在」を生きています(少なくともワタクシはあまり楽観的ではありません)。「そう、ピートが正しいのだとぼくは思う」には、原作を尊重した上での、小尾さんの「わたしたちは本当は2000年代が素晴らしいばかりの時代ではないことを知っています。でも(未来は明るいと信じる)ピートは正しいと私は思います。あなたもそう信じてみませんか」という思いがこめられているような気がするのです。そう、今ならやっぱりこっちかな。

しつこいようですが、あくまで個人的な感想です>念のため。
2017.04.27 22:58 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
「シンプル病理学」と相前後して、他の日本語書籍の音読も終了しました。
(昨年末時点のラインナップはコチラ

「潮騒」(三島由紀夫)
...スイマセン、初三島です。
ストーリー的なことをいえば、「べたな純愛小説」と言えばいいんでしょうか。
音読的観点からいえば、とても読みやすかったです。無駄を省いて推敲を重ねた文章なのだと思います(もちろん、出版される文章というのは、本来すべてそうあるべきものなのでしょうが)。そうした無駄のない文章ながら、情景描写の部分では、地形や景色や天候、あるいは登場人物の佇まいが目の前にありありと浮かんでくるのは、この文章がそれだけ「読ませる」文章ということなのかなと思います。

「実戦・日本語の作文技術」(本多勝一)
...スイマセン、今さらの「日本語の作文技術」です。
この本の後半部分は、著者の主張がちょっと強く出すぎているような気がして、少々辟易する部分もありましたが、前半の「日本語の作文技術」の、直結の原則、修飾の順序、テンの二大原則などの部分は、「ナルホド」と納得する内容ばかりでした。実際、この本を読んだあとは、訳文を作る際も、今挙げたようなことを意識しています。「裁判の判決文を分析する」で、不明瞭この上ない判決文が(そのように書き直すことの是非は取りあえず置くとして)見事に料理され、分かりやすい文章になっていくさまは見事だと思いました。

の2冊を終え、現在、専門分野系の「異常値の出るメカニズム」の他に「文章読本」(谷崎潤一郎)と「かくれ里」(白州正子)を読んでいます。

このうち「かくれ里」は、実家の父の蔵書から「音読用に」と発掘してきた数冊のうちの1冊。
白州さんの本は初めてですけど、ひと目で...じゃなくて冒頭の数行で気に入りました。

「かくれ里」と題したのは、別に深い意味があるわけではない。字引をひいてみると、世を避けて隠れ忍ぶ村里、とあり、民俗学の方では、山に住む神人が、冬の祭りなどに里へ現われ、鎮魂の舞を舞った後、いずこともなく去って行く山間の僻地をいう。謡曲で「行くへも知らずなりにけり」とか「失せにけり」というのは、皆そういう風習の名残であろう(「油日の古面」冒頭部分)

自分の文章のリズムと関係している部分もあると思いますので、他の方はまた別の感想を持たれるかもしれないのですが、ワタクシは、こういう文章、好きです。凜として清々しくて品がある文章だなあと思います(あくまで個人的な感想です)。というわけで、楽しく読んでいます。

これらの書籍を音読してきて(「かくれ里」は現在進行形ですが)思うのは、何気なく書かれた文章のように見えて、あるべき順序で書かれ、必要な箇所に読点が打たれているということ。
自分の書いた訳文を音読していて、続けるべきではないところまで続けてしまって「あれれ」となっているワタクシは(つまり、分かりにくい書き方をしているということなのですが)まだまだ修行が足りないようです。トホホ。
2017.03.31 21:00 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(2) |
...どうやってつなげるというのか<自分

「文章の書き方」(辰濃和男)

ジャケット見返しには「わかりやすい文章を書くためには、何に気をつけたらよいか。日頃から心がけるべきことは何なのか。『朝日新聞』のコラム『天声人語』の元筆者が、福沢諭吉から沢木耕太郎にいたる様々な名文を引きながら『文は心である』ことを強調するとともに、読む人の側に立つこと、細部へのこだわり、先入観の恐ろしさ等のポイントをていねいに説く」とあります。

何となく手に取った本なんですけど、「文章を書く」という意味で「ナルホド」と思う点が多々あり(...あたりまえか...)、「翻訳も同じ」と思う点も多々ありの1冊でした。
謳い文句のとおり、様々な文筆家の文章が例文として記載されており、「おお、このヒトの文章をもっと読んでみたい」と思ったときに原典が手に取れるよう、巻末に出典一覧が記載されているのがありがたいです。個人的には、門田勲(元朝日新聞記者)、国分一太郎(作文指導者の方とか)、北村薫、疋田桂一郎(ジャーナリスト),谷崎潤一郎(「文章読本」)らの文章が心に残りました。半数以上がこれまで名前も知らなかった方々です。

目次の一部を記しておきますので、興味の湧いた方は参考に(括弧内はワタクシ的ひと言説明です)。

広い円(様々な素材や資料を集めてから書く-100を集め1の文章にするというような意味かと)
現場(とにかく自分の目で見る)
無心(先入観にとらわれない)
感覚(感じる、感じたことを言葉で表現する)
平明(分かりやすく、読み手のことを考えて書く)
均衡(一方向ではなく様々な方向から、自分の文章や社会を見る)
品格(技術ではなく心の持ちようや人としてのありようが大事)
新鮮(紋切り型の常套句ばかり使わない-そのためには言葉に対する嗅覚を磨くことが大事)
選ぶ(余分なものを削る<ぐさっ<自分)
流れ(全体の流れを俯瞰する、しかるのちに「冷やす」)


で、この本を読みながら、基本引き籠もり系のワタクシは、「やっぱり、もう少し外に出で自分の五感で様々なものを感じることが大事よね」と思ったりしたのですが、そのときフと仁木悦子という作家のことを思い出したのです。脊椎カリエスを患って寝たきりとなり学校にも通えず、本を友として日々の生活を送り、のちに江戸川乱歩から「日本のクリスティ」と賞されるまでの推理作家になられた方です。実際に自分の目で見ることが叶わぬ広い世界を本を通して正しく想像する「誠実な想像力」と、窓から見える狭い世界から多くのものを吸収するだけの鋭い五感を備えた方だったのでしょう。のちに数度の手術を経て、車椅子で生活できるまでに回復されたそうです。

その仁木悦子の処女作が「猫は知っていた」(1957年)。
とうに絶版だよなと調べてみたら、ポプラ文庫ピュアルとして復刊していました。会話部分や事物の描写など、現代からすれば相当にレトロなものに違いありませんが、逆にその「レトロ」感がよいのか。主役の兄妹の掛け合いはテンポよく楽しいものだったような気がしますが、内容は本格推理で決して明るいコージー・ミステリではなかったように記憶しています。


その「レトロ」「コージーミステリ」というキーワードから記憶に蘇ったのが、「スイート・ホーム殺人事件」(クレイグ・ライス、長谷川修二訳、1944年/日本語版1976年)。
14、12、10歳の3姉弟が、ミステリ作家の母に代わって殺人事件を解決するという、コージー・ミステリ...になるんでしょうか。「遊園地の移動サーカスで目一杯楽しみました」的な読後感が残ります。
2009年に羽田詩津子さんの新訳版が 出ています。羽田訳ですから素晴らしいものに違いないのですが(未読)、ワタクシは、この作品はやはり長谷川訳で読みたいなと思うのです。あくまで個人的な好みですが。少し古めかしい言葉遣いがこの小説にピッタリ合っているような気がするのです。「相好を崩す」という表現はこの小説に教えてもらいましたし、羽田訳にはきっと「嬢や」「手塩にかけた」「彼女、シャンだわねえ」等々の表現はないに違いありません(いや、もっとスゴい表現になっているかもしれないのですが)。原題は「Home Sweet Homicide」。洋書のタイトルは愛想のないものが多いよな~と思うことが多いのですが、これは原題の方に軍配を上げたいです。

というわけで、「文章の書き方」から「猫は知っていた」から「スイート・ホーム殺人事件」に無事につながったのだった(こじつけとも言う)。
2017.03.10 14:20 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
昨晩から通常営業の屋根裏です。


昨年1年間に音読・リスニングした書籍をまとめてみました。

リスニング

スマホで聴いておられる方が大勢を占める昨今、未だにCDウォークマンとヘッドホンのお世話になっているという20世紀の化石Sayoです。
でも、予算と相談しながらAmazonさんでCDブックを探すのは至福のひとときなので、今暫くこの状態が続きそう。

「County - Life, Death, and Politics at Chicago's Public Hospital」(David Ansell)
「Working Stiff - Two Years, 262 bodies, and the Making of a Medical Examiner」(Judy Melinek, MD and T.J. Mitchell」
「The Emperor of All Maladies - A Biography of Cancer」(Siddhartha MukhaerJee)
「Geography of Genius - A Search for the World's Most Creative Places, from Ancient Athens to Silicon Valley」(Eric Weiner)

下の2冊は邦訳が出版されています。
「がん‐4000年の歴史」(シッダールタ・ムカジー/田中文訳)
「世界天才紀行――ソクラテスからスティーブ・ジョブズまで」(エリック・ワイナー/関根光弘訳)

この他に過去に購入したCDブックの再読も含め、昨年は330日程度の「1日30分超ながらリスニング」を達成(ていうか、掃除したり洗濯物を干したり畳んだり、洗い物をしたりし「ながら」聴いているだけなので、あとの35日は何しとってんて話なんですが<そこ、あんまり突っ込まんといて)。

今年は「Geography of Genius」の聴き直しから始めて、「The Wright Brothers」(David McCllough)に進む予定。


音読

和訳者としては、日本語にももう少し気を配りたいということで、昨年から日本語の文章の音読も開始しました。全体音読時間は15~20分と変わっていないので、英文音読量が減少。その代わり、という訳でもないですが、英文は冠詞(の有無)、名詞の単複などに気を配りながら読むよう心掛けています(あくまで「心掛け」なので、しばしば「心ここにあらず」状態になってます)。昨年は320日程度の音読を達成(あとの45日は何しとってんて話なんですが<そこ、あんまり突っ込まんといて)。

「Alpha Docs - The Making of A Cardiologist」(Daniel Munoz, MD and James M. Dale)
「Touch」(David J. Linden)
 邦訳「触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか 」(デイビッド・J・リンデン/岩坂彰訳)
「Immunobiology - The Immune System in Health and Disease」(5th Edition, 2001)
 アメリカから連れ帰って以来、ずっと「読んでくれんのか」という恨めしげな目で見つめられていたのでした。昨年、意を決して挑戦。まだ20頁は残っていて、あと2週間くらいは掛かると思いますが、1年読み続けていたので、気分は晴れ晴れと読了♪ 15年前に出版された書籍ですので、内容的に古い部分があるという問題はあるのですが、免疫の基本は大きく変わっていないはずなので、医療機器翻訳者としては「調べものの基本となる最低限の知識」という意味では十分かなと思っています。
「基礎日本語文法-改訂版-」(益岡隆志、田窪行則)
「文章添削の教科書」(渡辺知明)
「文章の書き方」(辰濃和男)


ということで、現在のラインナップ。

リスニング
「Geography of Genius」

音読
「実戦・日本語の作文技術」(本多勝一)
「潮騒」(三島由紀夫)
「シンプル病理学」(改訂第6版)
「Basic & Clinical Pharmacology」(12th Edition) ・・・いや、ジツはまだ「Immunobiology」なんですが(汗)

 和書の音読は、「文章、文法、語の使い分けに関する書籍」「小説や紀行文」「医療分野の文体(?)で書かれた書籍」の3本立てを基本としていますが、その日の気分と時間によって、1種類だけ読んだり3種類全部読んだりしています。「小説や紀行文」は12月から取り入れたもので、まずは、以前業界の某大先輩が「全文筆写した」とどこかに書かれていた「潮騒」から始めてみることにしました。日本語の音読は始めて1年未満なので、自分の書く日本語の文章に某かの効果をもたらしてくれるのか、そもそも効果があるかどうか未知数ですが、とりあえず、あと最低1年は続けてみたいと思っています。
2017.01.02 14:25 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |