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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


PIXAR 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』(ローレンス・レビー、井口耕二訳、文響社)


 昨夏、本書の訳者の方と話をする機会があった。翻訳者数名のこぢんまりした飲み会で、ひたすら翻訳について語り合う贅沢な時間だった(私は幹事特権で末席に滑り込んだ)。
 その中で、訳者の方が今(つまり、その当時ということだが)翻訳に取り組んでおられる本の話になった。会話部分の訳し方についての話で、人間関係によって訳し分けるのはもちろんだが、同一人物との会話でも、関係が変化するにつれて口調が変わっていくのは当然で、微妙な変化をどう出していくか悩んでいる、というような話だったと思う。私は、すべてを吸収すべく全身を耳にして話に聞き入った。そうしながら、「訳書が出たら絶対買おう」と決心した。
 そして、今年の2月だったか、訳者のブログで『PIXAR』の訳者あとがきが先行公開され、私は「これがその本に違いない」と確信し、その足で(?)Amazonに予約に飛んだ。もともと買おうと決めていたから迷いはなかったが、そうでなくても読みたいと思わせるような、なかなか「そそられる」訳者あとがきだった。
 蛇足だが、私は、本はあとがきから読むタイプ。書店であとがきを立ち読みして購入を決めることもある。最近ではHONZなどで、解説やあとがきが公開されることも多く重宝している。ディオバンの臨床試験疑惑を扱った「偽りの薬」も、解説を読んで購入を決めた(そしてまだ階段に積ん読しているのはここだけの話)。

 閑話休題。
 『PIXAR』は「エッセー・随筆」や「映画ノンフィクション」に分類されているようだが、私の中では「ビジネス書」扱いだ。こうした書籍を自分から手に取ることは、まずない。PIXARは社名くらいしか知らなかったし、同社が製作した「トイストーリー」も未見である。それでも、本書のストーリーに引きつけられて、短期間で読破した。
 本書は、スティーブ・ジョブズが自腹を切って支えていた小さな映像製作会社が、「トイストーリー」というメガヒットを飛ばし、株式公開も実現して有名になっていく過程を描いた、いわばサクセスストーリーだ(実のところ、成功するか否かは本当に紙一重のところだったようだが)。ジョブズに請われて同社に入社し、立て直しを図った最高財務責任者(CFO)の視点でその過程が描かれている点が、これまでのPIXAR関連書とは一線を画している(らしい)。CFO視点と聞くと、地味で退屈な財務関連の話を想像しがちだが、どうしてどうして。「トイストーリー」の封切りとIPOに至る経緯を詳細に語りつつ、その2大クライマックスまで、徐々に加速しながら飽きさせず引っ張っていくストーリー展開と筆力はさすがだと思った。契約、株式公開に関する一般的な話、投資銀行の説明なども分かりやすい。著者の力量はもちろん、訳者の力量に負うところも大だと思う(決して面識のある方だから褒めているということはない<念のため)。昨夏の飲み会で話題になった内容を、「ここがそうかな」「もしかしてここもそうかな」などと考えながら読んでいくのも楽しかった。
 エンドロールの「種あかし」も心温まるものだった(その裏ではギリギリの攻防戦が繰り広げられたようだが)。著者は「ここを見るたび、私は涙ぐんでしまう」と書いており、訳者もあとがきを「そのエンドロールを見たら、私も、涙ぐんでしまうかもしれない」と結んでいる。
 今夏、「トイストーリー4」が公開される予定だそうだ。映画館にも足を運んだ本書の読者の何人かは、やはり「涙ぐんで」しまうのではないだろうか。私は――おそらく涙ぐむことはないだろうが、きっと思わずほほえんでしまうと思う(もともと映画館ではエンドロールまで見るタイプだ)。

 著者は、ジョブズと協調し、ときには宥め、そのわがまま(?)に付き合いながら、PIXARを成功に導いた。だからこそ、彼が、車でジョブズの家の前を通り過ぎながら、その家にジョブズがいて、もう一度「やあ、ローレンス、散歩に行くかい?」と声をかけてくれたならと願うラストシーンは、とても余韻の残るものになっていて、うるっとしてしまったのだった。


 翻訳の勉強にいいと言う声をよく耳にする「読み比べ」を私もやっている。『Stoner』(John Williams)と『ストーナー』(ジョン・ウィリアムス、東江一紀訳)を読み比べていて、いつ読み終えることができるか分からないくらい遅々として進んでいないのだが、この『PIXAR』の読み比べもやってみたくなった。『ストーナー』はまず英文を読み、対応する日本語訳を読むのだけれど、『PIXAR』は逆向き、つまり「どの英文がこの日本語になったのだろう」と考えながら日→英の順に読んでみたいと思っている。いつになるか分からないけれど。
2019.05.20 01:27 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「英語の発想」(安西徹雄、ちくま学芸文庫、第一刷2000年)

一昨年後半当たりからこのテの書籍がマイブームでして(今は、最後の五十か条だけ読んで積んでいた「悪文」をちまちま読んでます)。
「今まで読んでなかったんかい」て話ですが、スイマセン、読んでませんでした。

英語がモノ指向であるのに対し日本語はことを取り出して述べる傾向があり、このため関係代名詞が発達しなかったとか、日本語は動作主への働きかけを中心に概念化するのに対し英語は動作主中心にものごとを捉える(したがって無生物主語が多用される)とか、ウチソトの意識とか、受動態の訳し方(どう考えどのように日本語にするのが「日本語らしい」か)とか、興味深い話題が満載でした。

個人的にとてもtimelyだったのが、時制(視線)の移動。
例として川端康成の「山の音」(本書ではSeidenstickerの英訳と合わせて分析されています)が挙げられているのですが、(日本語の)文章中の過去形と現在形の混在を、安西さんは、「そのとき話の視点はどこにあるか」という点から、語り手の時制(過去形)と物語の主人公の時制(現在形)に分類されていました。

私はその少し前に、過去形と現在形が混在する訳文を作る機会がありまして(原文はすべて過去形)、訳しながら「その方がしっくりくる」という理由で過去形と現在形を混在させたのですが、本書を読んだあとで見直してみましたら、確かに「ナカの人視点になっている」と思える箇所を現在形で訳していました(過去形と現在形の混在が、必ずこの法則で説明される訳ではないと思いますが)。

大げさに言えば、自分の中で「何となく(結果として)適切にやった」ことが「裏づけをもって適切にやっている」に変わった瞬間でした(いや、だから、大げさでスイマセン)。「何となく適切にやっている」と「裏づけをもって適切にやっている」は、結果(生成される訳文)は同じでも、実はかなり違うのではないかという気がします。「何となく」の場合は、基本法則に則っていないので、応用や切り分け(「この場合もそれでよいのか」的な)ができず、どこかで壁に突き当たってしまうのではないかと、そんな風に思えます。

「英語の発想」のような書籍は、私にとっては、そのような「裏づけ的法則」に気づかせてくれる類いの本です。1冊読んで、新たな気づきがあるかもしれないし、ないかもしれない。でも、ともかく「あの人も別の言い方で同じことを言っていた」(だから大切なことなのだ)とピンとくる箇所はある。
さまざまな「なぜ」、「だからこうなる」が気になりだしたここ2、3年が、(自分の)こうした書籍の「読みどき」ではないかと思って努めて読むようにしているのですが、この「読みどき」は人によって違うと思っています(私は「読みどき」が遅く理解にも時間がかかった方かなと)。「読みどき」は、あえて言えば、こうした書籍を「読まなきゃ」ではなく「読んでみたい」と思ったとき、「裏づけ」が気になりだしたとき、読んでいて付箋を貼らずにいられないとき、でしょうか。「読みどき」を誤らなければ、得るものの多い、そんな1冊だと思います。他には、個人的には「翻訳の秘密」(小川高義)、「文芸翻訳入門」(藤井光)、「創造する翻訳」(中村保男)、「日本人のための日本語文法入門」(原沢伊都夫)などが、「読みどき」に読んだと思えた書籍でした。

たいして内容紹介になっていなくてすいません。m(_ _)m
2019.04.26 01:10 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

Max Tegmark
Life 3.0: Being Human in the Age of Artificial Intelligence(2017年)

著者は物理学者。
本書は、物理学者の視点から「人工知能の未来」を語ったもの。

かなり前に音読了していたのですが、読書感想文に載せずに闇に葬ろうかどうか、ずっと迷っていました。
英語はそう難解ではないものの、内容が難しい(特に、後半、宇宙的スケールでAIやAIに意識が存在するのか否かを論じた部分)。
付箋はいくつか貼りましたが、日本語の書籍と違って、「なぜその部分に付箋を貼ったんだっけ」もしばらく考えないと思い出せない始末(「年のせい」説あり)。

そうやって数ヵ月が経った先日、久しぶりにAmazonさんを訪ねたら、カスタマーレビューに素晴らしい要約が!(2018年12月7日付けのものです)

ということで、うろ覚えの記憶を辿って記事にしたいと思います。
全体の要旨は、↑ のアマゾンレビューをご参照ください。

ちなみに、Gizmodoに、軍事技術へのAIの応用について述べた部分(第3章の一部)の翻訳があります(こういう内容は、やはり読者の興味を惹きやすいのかも)。
https://www.gizmodo.jp/2017/10/life30-by-max-tegmark.html

上でも書いたとおり、英語自体はそう難解ではありません、専門家でなくても十分理解できる語彙で書かれていると思います。また、各章の末尾にまとめがあり、「読み返して大意確認」がしやすいつくりになっています。
けれど、知性、生命、意識とAIの関わりなど、一読しただけでは、正直どう解釈すればよいか途方に暮れてしまう部分が多く、そういう意味で、今の私には少し難しすぎる本でした。とはいえ、ここまで長いスパンでAI(と人類)の未来を見据え、「AIに意識は存在し得るか」「AIは生命体たり得るか」まで論じた書籍はあまりないような気がします(単に私が知らないだけ、という可能性は高いですが)。少し前に出版された「Superintelligence: Paths, Dangers, Strategies」(Nick Bostrom、邦訳「スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運」)が、近い視野からAIを見ているのかなと思います(未読)。

レビューでは割愛されたPreludeとEpilogue。
PreludeはThe Tale of the Omega Team、EpilogueはThe Tale of the FLI Teamとタイトルも対になっています。
Preludeは、Omega Teamという架空のプロジェクトチームが作り上げたPrometheusというAIが、どんどん自己発展していき、ついには...という仮想シナリオ。掴みとしても秀逸だと思います(←捕まれたヒト)
Epilogueは、著者がさまざまな分野の研究者に呼びかけて立ち上げた、AIのリスク(AIと共存するについての安全性)を研究する組織について。その設立過程、第1回会議、そこでコンセンサスが得られた項目などが語られます。上記のNick Bostromもこの会議にも参加していますし、Tesraの Elon Muskがぽんと研究資金を出すなど、世界の研究者たちは、AIの安全性という面に着目し始めているようです。

そして、私は、素人なりに、このEpilogueも重要な部分ではないかと思うのです。
もちろん本邦でも、研究者の方々の間では、こうした部分が話題に上っているには違いないのですが、ニュース等で目にする話題は「AIに何ができるか」が多く、「なぜそれをやらせるのか」(目的)と「それは本当に安全で人類の発展に寄与するのか」に関するものはないような気がします(「おまえが積極的に探しに行ってないだけだろ」説もあり)。もちろん「あんなことも、こんなこともできる」が技術の発展につながるのだとは思いますが、「何のために」「どんなリスクが」をしっかり押えずに進んでいくのは危険なことのように思えてしまうのです。そんなことを考えさせられた「Life 3.0」、たぶん、いつもどおり私の感想は少しズレていると思いますので、本当にご参考程度に。


原著にはAmazonで294件のレビューがあり(4月23日現在)、平均4.3 starsです。まあ、多けりゃ、高けりゃいいってもんでもありませんが、それだけ話題になった書籍なのは確かです。もしかしたら、今現在、どこかでどなたかが翻訳作業をされている最中かもしれません。
2019.04.23 17:31 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「エッセイの贈りもの2」(岩波書店編集部編、岩波書店)収載
この書籍は、次の音読本を探していて、図書館でたまたま目に留めたもの。5巻まで全巻そろって並んでいたが、ドナルド・キーンという名前に惹かれて2巻を借りてみた。5巻で1938年から1998年までの60年間を網羅するのだが、2巻には1961年から1970年までに書かれた文筆家のエッセイが収められている。

「近松を英訳して」は1962年7月に「図書」という雑誌に掲載された短いエッセイ。訳者の名前はないので、ご本人が日本語で書かれたものだと思う。ここは省略できるという「私(主語)」、副詞の使い方がもやっとする箇所、日本語なら「それ」とするだろう「それら」が数カ所あり、若干かっちりしすぎている印象を受ける以外は、実に美しい日本語の文章だった。

けれど、私が一番興味を惹かれたのは、「英訳」に対する彼の考察だ。
近松の浄瑠璃を英訳するにあたり、キーン氏は、日本語では省かれる主語を英語では補って訳さなければならなかったと述べている。日本語の曖昧さはときに日本人をも当惑させるものだが、英訳することで「現代語訳を読むよりも原作の意味をよく掴むこともあろう。私の英訳を更に日本語に直したら面白いかもしれない」。

蛇足ながら、この「英訳を日本語に訳し直」したものに「A・ウェイリー版 源氏物語」がある。これは1925年から9年の歳月をかけて現代英語訳された「The Tale of Genji」(Arthur Waley)を、もう一度日本語に訳し戻したものだ。平凡社から「ウェイリー版 源氏物語」が刊行されているが(これは知らなかった)、昨年、左右社から新たな訳し戻し訳(全4巻)の刊行が始まり、現在第3巻まで刊行されているようだ(第1巻をずっとほしいものリストに入れたままのワタクシをお許しください)。訳者の毬矢まりえ氏は俳人、森山恵氏は詩人とのことだ。この書籍の装幀がまた、ため息が出るほど美しい。

閑話休題。

キーン氏は、曖昧さを排除し、単複を区別することに時間を掛けたが、一番苦労したのは「翻訳に一種の統一を与えること」だったと書いている。「文句が一つ一つの独立した表現として終わらないで、統一した意義のある文章になるように相当努力した(中略)これ(「冥途の飛脚」中之巻のある箇所の解釈)は言うまでもなく大胆な解釈であるが、たとえこの解釈が誤っていても全体の意味を掴もうとする努力によったもので、、無難なちぎれちぎれの解釈に不満を抱いたためである」。
そして、「もし外人の読者が『心中天の網島』などを読んで、『なるほど、日本人には面白いだろうが、日本のことを余り知らないわれわれには十分その意味が理解できない』と言ったら、私の英訳は失敗だといわねばなるまい。日本独特のもの(障子、下駄など)や独特の考え方(義理人情関係等々)があっても、何か普遍性のあるテーマが西洋の読者たちの心にうったえるだろう」とも。
この文章から、氏が、日本語と英語(そして日本独特の文化と英語圏の文化)の違いを理解した上で、近松の物語を貫くエッセンスのようなものを、正しく読者に伝えようと努力なさっていることが伝わってくる。これは英訳の話だが、和訳についても同じことが言えるのではないかと思う。「どんな形で」「どんな風に」「どこまで原文から離れていいのか」という問題は一筋縄ではいかず、作品や文書の種類によっても力点を置くべきところは違ってくると思うが、彼我の違いを理解・意識し、エッセンス(著者の言いたいこと)を汲み取ろうとする姿勢は同じではないか。

最後に、氏は、「近松浄瑠璃集」があまり読まれていないとしたら、それは、現代の読者に興味を持たせる力がなくなっているからではないかと推測している。もしも、「自由自在に生きている現代語で近松の文章を生かす」現代語訳が発行されたら案外読まれるのではないかと。なぜなら、近松の登場人物はどこにでもいるような人間が多く、誰しも彼らの中に自分自身の姿をみるからだというのが氏の考えで、「そう信じているので近松の英訳をやることにした」とエッセイを結んでいる。

「 」内はキーン氏の文章からの引用だ。1962年の時点で、氏がどれほどきちんと日本語を理解しておられたかお分かり頂けるのではないかと思う。氏の文章がもっと読んでみたくなって著書を一冊注文した(「源氏物語」はまだほしいものリストに入ったままであることは、今日のところはスルーしてやってください)。
2019.03.15 01:46 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「ネバーホーム」(Laird Hunt、柴田元幸訳)

柴田先生訳を読むのは始めて。
(正確には、柴田先生訳を読んでみたくてたまたま手に取ったのがこの「ネバーホーム」)

男装して南北戦争に参加した女性のひとり語り。
…なんだけど、物語自体は、主人公の女性の視点からしか語られておらず、途中に回想やら幻覚やら混じっているので、とても分かりにくい。おそらく、自分の都合がいいように改変して語っている部分もあるだろうと思う。農場に残した夫との夫婦関係はどうだったのかもよく分からない。私は、破綻しかかっていたんじゃないかと思うけれど根拠はない。
「ネバーホーム」の意味も分からなかった。柴田先生も訳者あとがきにそう書いておられる。もしかしたら「結局どこも自分が本当に錨をおろすべき場所ではなかった」ということなのかも。私は実家にいたときからずっとそんな感じで「今いる場所が私の居場所」で特に帰るべき(帰りたい)場所はないヒトなので、そういう気持ちならちょっとは分かるような気がする。でもそれはまた別のはなし。

内容については、そんな感じでよく分からなかったので、ここまで。
あとは、柴田元幸という翻訳家に度肝を抜かれた話。

この主人公は、頭はいいけどたぶんそんなに学はない。そういう英語で語られているのだと思う。だから、通常より漢字が少なく平仮名が多い。でも、主人公の観察眼は鋭いし情況描写は分かりやすい。だから「そこそこ頭がいい」という設定ではないかと思う。最初のうちは「平仮名が多いのに読みやすいな」と思いながら読んでいた。そうしたら、3ページ目に「それってかんがえてしまう」という一文があって、私は「やられて」しまったのだった。なぜかは説明できないのだけど、これは自分では絶対出てこないし、他の方もなかなかこういう文にはできないんじゃないかという気がした。たった12文字なんだけど。

それから、この小説を音読した。どこかで、柴田先生はご自分で朗読もなさるという話を聞いたことがあったので。
そしてまたまた、平仮名が多く句点も少なく一文がかなり長い(これは原文がそうなのだと思う)のに、何て音読しやすいんだろうと舌を巻いた。語順や平仮名とカタカナの配置具合、少ない句点の位置が絶妙。けれど、やはりリズムが素晴らしいのだと思う。そして擬音語が効果的に多用されていることも、読みやすさの一因なんじゃないかと思う。最後まで気持ちよく音読した。

しばらく翻訳書から離れていたのだけど、少し思うところがあって、また色々な方の訳書を読んでみようと手に取った1冊がこれ。不用意に開いて、アッパーカットを喰らった、そんな感じ。気持ちよくノックアウトされた。そして、そんな方の翻訳書が同時代に読めることを幸せに思った。
以下に、書き留めた表現を少し書いておきます。興味が湧いた方は、まずは図書館へGOで。

「こぎれいな日ざしの毛布をアゴまでかぶっている死者」
「何かめまいみたいな気分が早足でかけてきてわたしを追いぬいていった」
「年月のげんっこつがかれの顔をさがしあてて、たしかな一撃を食わせたみたいに」
2019.02.14 00:20 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |