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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「スイート・ホーム殺人事件」(クレイグ・ライス、1944年)
翻訳は、長谷川修二訳が1957年(ハヤカワ・ポケットミステリ)、羽田詩津子訳が2009年(ハヤカワ・ミステリ文庫、新訳版)。
私は、長谷川訳を、ハヤカワ・ミステリ文庫(1976年初版)で読みました。

14、12、10歳の3姉弟が、ミステリ作家の母に代わって殺人事件を解決するという、コージー・ミステリ。以前にも書いたとおり、「遊園地の移動サーカスで目一杯楽しみました」的な読後感が残ります。
羽田詩津子さんの新訳は未読。きっと素晴らしいものに違いないと思うのですが、なんだかこの長谷川訳が好きで、「スイート・ホーム殺人事件」はこれだけにしておこう、と思ってしまうのです(あくまで個人的な好みです<念のため)。

今読み返すと、言葉遣いは全体に古めかしい(古めかしすぎる)し、米国の暮らしや食べものなど、「それがどんなものなのかよく分からない/日本に入ってきていないので上手く説明できない」ゆえの「?」訳もあるのですが、そうした言葉遣いすら、「70年前ならこんな感じかな」と思えてしまいます。

ストーリーの方は、あまりにも登場人物が多くて(一応、登場人物一覧はあるのですが)最後まで頭の整理ができず、「意外な」というより「この人どんな人だっけ」という人が犯人で(でも、読み返してみると確かに小さな伏線が張られていたりする)、そういう意味で、分かりやすい(?)ミステリーではないのですが、それらの登場人物の多く、特に、3姉弟が「シングルマザーの母の相手に」と画策する独身の警部とその相棒の巡査部長は、魅力たっぷりに描かれています。最初に「殺人事件を解決する」と書きましたが、どちらかといえば「捜査を引っかき回す」に近く、そうしたたくらみや、母と警部をくっつけるために姉弟が繰り出すあの手この手は、読んでいて飽きません。

3姉弟の真ん中のエープリルは、一番賢いのですが、こまっしゃくれた子どもでもあります。彼女の台詞を現代風にしてしまうと、よほど上手く訳さないと「生意気なだけの嫌な子ども」になってしまうような気がします。上手く言えないのですが、古めかしい言葉遣いのゆえに、逆に「やなヤツ感」が緩和されているように感じられるのです。あくまで、個人的な感想ですが。古めかしさが、この作品の雰囲気ともピッタリ合っているような気がします。これも個人的な感想ですが。

ポケット・ミステリでの初版は1957年なので、「嬢や」や「彼女、シャンだわねえ」といった、1970年代後半にはすでに死語に近かった表現がそこここに散りばめられているのですが、そうした表現さえソコハカとなく郷愁を誘います。現代の若い読者には「古い」のひと言で片付けられてしまいそうですが。この小説をもう一度翻訳するとしたら、どんな口調で訳すのがベストなのかはむつかしいところなんじゃないかなあと思ったり。その前に、まず羽田訳を読めよって話ですし、そもそも「古い訳がいいなあ」と勝手に思っているワタクシが言っていることですので、適当にスルーしてください。

ラストの巡査部長の台詞は、長谷川訳では
「ああ、ずっと僕は知っていたさ。僕をだまそうったって無理だよ。僕は九人の子供を手塩にかけたんだもの――だからわかるさ!」
となっています。「手塩にかけた」って、最近はあまり使わないかなと思うのですが、でも、やっぱりこの作品にはぴったりだと思うのです。

そして、最後に原題の「Home Sweet Homicide」。洋書のタイトルは愛想のないものが多いな-、と思うことが多いのですが、これは原題の方に軍配を上げたい見事なタイトルだと思います。
2018.09.26 22:27 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

なんか、翻訳のいい話を想像してくださった方はごめんなさい。

「悲嘆の門」(宮部みゆき)の読書感想文というか、心に残った部分を取り出したらこうなったというか。
途中で、「苦手系」と気づいたので、後半はストーリーを追いながら、流しました。
こうやって、ストーリーを追う読み方をするから、自分の中に「使える語彙」がたまっていかないのかもしれません。

「苦手系」というのは、異世界(と行ったりきたり)ものです。
異世界ファンタジーすべてが苦手ということではなく、あくまで「宮部作品の中では」ということです。
(個人的な好みです、念のため)。

蛇足ですが、若い頃は、ファンタジーが好きでよく読んでました。
レイモンド・E・フィーストのリフトウォーサーガ(岩原明子訳)とか、アン・マキャフリィのパーンの竜騎士シリーズ(小尾芙紗訳)とか、ロビン・マッキンリィの「青い剣」(渡辺南都子訳)とか。
特に、フィーストの「魔術師の帝国」とマッキンリィの「青い剣」は、それぞれ、少年、少女の成長譚としても秀逸な内容だったと思います。てことで、今も手元にあります。

閑話休題。

「悲嘆の門」でしたね。

ネット社会の暗闇を抉るのか? みたいな感じで始まったのが、背中に翼を生やし大鎌を手にしたガーゴイルが現われたあたりから、どんどん現実離れしてしまって、ちょっとついていけませんでした(というのは、シツコいようですが個人的な感想です)。最後まで社会派ミステリとして読んでみたかったです。重い話になりそうですが。

現実の世界に異能者が登場したり(「クロスファイヤ」「魔術はささやく」「蒲生邸事件」など)、時代ものに妖怪や呪術者が登場したり(「荒神」「三島屋シリーズ」など)というお話は、ダイジョブ、というか好きなんですけどねー。おそらく、前者は、異能者が現実の枠組みの中で生きているから、後者は、そもそも昔の話なので「そういうこと」が起きてもおかしく思わないからだと思います。というわけで、現実世界と異世界が渾然一体となった感のある「悲嘆の門」は、個人的には苦手です。

そうは言っても、最後まで読ませてしまうのは、宮部さんの筆力のなせる技かと。随所に「こんなん思いつかんわ」という、ハッとさせられるような独特の表現があり、本当に上手いなあと思います。


タイトルは、サイバーパトロールのアルバイトをする主人公の大学生とアルバイト先の会社の女社長との会話に出てくる言葉。
本筋と関係あるような...それほどないような...くだりなのですが(駆け足で読みましたもので...)、言葉に係わる仕事をする者としてもひとりの人間としても、心に留めて置くべき内容なのではないかという気がしましたので、少し長くなりますが、引用しておきます。

以下、「悲嘆の門」(上)125~127頁より引用

 社長は頬杖をついてちょっと目を凝らした。
「よろずに攻撃的な人っているでしょ」
「炎上を起こすのが好きだとかですか」
「そこまでいかなくても、たとえば映画評とか芸能人の品定めでもいいけど、正鵠を射てはいるんだけど辛辣だったり、何でもかんでも批判するばっかりだったり」

(中略)

「わたしの友達にもいるの。本人はすごく常識的な人で、仕事もできるし家庭も円満。それでもやっぱりストレスは溜まるでしょ。それを、ネット上でキツい発言をして発散しているというのよ」
 大いにありそうな話だ。
「ネット人格は現実の自分とは違う。きちんと切り離しているから、ネット上ではどんなキツいことやえげつないこと、現実の生活では口にできないようなことを書き込んだって大丈夫よって、彼女は笑ってる。そういうネットの使い方は、確かにあると思う」
 孝太郎はうなずいた。
「でも、わたしはそれ、間違いだと思うの」
 言葉は残るから、と言った。
「わたしの友達みたいなスタンスでいろいろ書き込んでる人は、自分は言葉を発信してるだけだと思ってる。匿名なんだし、遠くへ投げて、それっきり。誰かの目にとまったとしても一時的なものだって。それはとんでもない勘違いよ」
「ネットに発信した情報は、ほとんどの場合、どこかに残りますからね」
「いいえ、そういう意味じゃない」
 きっぱりと否定された。
「書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句(へんげんせっく)でさえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。わたしが言ってるのは、そういう意味。つまり<蓄積する>」
 言葉は消えない。
「女性タレントの誰々なんか氏ね[Sayo注:「死ね」の意]。そう書き込んだ本人は、その日のストレスを、虫の好かない女性タレントの悪口を書いて発散しただけだと思ってる。でも、<氏ね>という言葉は、書き手のなかに残る。そう書いてかまわない、書いてやろうという感情と一緒に」
 そして、それは溜まってゆく。
「溜まり、積もった言葉の重みは、いつかその発信者自身を変えてゆく。言葉はそういうものなの。どんな形で発信しようと、本人と切り離すことなんか絶対にできない。本人に影響を与えずにはおかない。どれほどハンドルネームを使い分けようと、巧妙に正体を隠そうと、ほかの誰でもない発信者自身は、それが自分だって知ってる。誰も自分自身から逃げることはできないのよ」
2018.06.27 23:57 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「The Emperor of All Maladies - A Biography of Cancer」(Siddhartha Mukherjee)
「がん‐4000年の歴史」の邦題で訳書も出ています(シッダールタ ムカジー、田中文訳)。
(文庫化にあたり「病の皇帝『がん』に挑む ― 人類4000年の苦闘」から改題されたようです)

聴了。

本当は、かなり前に青息吐息で聴き終わったのですが、先日ふと思い立ってAmazonの訳書の書評を覗いてみたら、「ほとんど一気読み」とか「手に汗握るストーリー」とか「上巻・下巻3日で読みました」とか。
ええええー、息も絶え絶えにやっと完走したもので、とても「一気読み」はできなんだですが。ワ、ワタクシ、何かまずかった?

というわけで、もう一度聴き直してみました。

ストーリーの組立てにもできるかぎり注意を払いながら、聴き直してみると、え、なに、なかなか面白いやん。
文字なら一気読みいけるかもしらん(日本語なら、ですが)。

文字情報の場合は、興が乗ってくれば斜め読みして流れを追ったり、前に戻って確認したりできますが、聴読はそれができない。そのへんが、「硬いノンフィクションを耳から理解する」ことの限界のひとつかなと思いました。全体の長さにもよりますが、ストーリー性が強いものでないと、強弱の少ない平板な情報として頭の中に入ってくるような気がします(あくまでも自分の場合、それも特に英語の場合ですが)。そして、あまり長いと、最初の方で聴いた内容はかなり記憶から飛んでいる(本作は、16CD、全20.5時間です<記憶が飛ぶのは加齢のせいという説もある)。
今後は、そういう点にも気をつけて題材を選んだ方がいいかも、と思ったのでした。

で、何でしたっけ、「The Emperor of All Maladies」でしたね。

邦訳の副題にもあるとおり、本書は、人類とがんの戦いの「歴史」。人類は「敵がなにものなのか分からない」うちからこの難敵に立ち向かってきた。その実体は徐々に、というより19世紀以降飛躍的に明らかになり、今ではその発生の仕組みも解明され、さまざまな分子標的薬が開発されている。だが、がんとの戦いは決して平坦なものではなく、間違った治療法が試されたこともあり、国を動かすロビイングが奏功したことも、新たな治療法が経営的判断で葬り去られようとしたこともあった。また、予防についても研究されるようになった。

...といったことが、ときに著者自身が遭遇した患者の話を交えながら、おおむね時間軸に沿って語られていた...と思います(すでに記憶があやふや>ピンポイント的に読み返せないところも聴読の欠点なのだった)。

ワタクシは一応医療翻訳者の端くれなので(ホントに端くれですが)、用語や大意の理解にはあまり難渋しなかったのですが、そうでなければ少し難しい内容かもしれません(実際、「医師は読んでおくべし」的な書評も見かけました)。
けれど、医師、研究者、患者が主体でありつつも、政治や社会も巻き込んでがん治療が発展してきたこと、今や2人に1人はがんに罹患する(生涯リスク)と言われていることを考えれば、「がん」というものをきちんと把握するために読んでおいてもいいかなという1冊かと思います。長いけど。

同じ著者の手による「The Gene: An Intimate History」という書籍も刊行されていますが、これもたいがい長そうなので、「読む」方にしようと思います(いつになるか分かりませんが)。「遺伝子‐親密なる人類史」(シッダールタ ムカジー、田中文訳)という邦題で訳書も出ているので、図書館で借りて読むかも(いつになるか分かりませんが)。
2018.04.18 17:25 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

何となく、文体や言葉や言回しのリズムが、自分の体内リズム(?)と合っているような気がして気に入ってしまった熊谷達也さん。
本当は、「合ってない」小説もたくさん読まないと、語彙やら文体やらの幅は広がらんのでしょうけど。

舞台は架空の「宮城県北部に位置する人口が六万五千人ほどの港町」仙河海市(おそらく気仙沼市)。
1991年春、主人公の「僕」岩渕和也は、仙河海市の中学校で教師をしています。関東の中学から移ってきて2年。数学を教え、陸上部の顧問を務め、この春からは3年生を担当する予定です。
和也のクラスに、急遽、関東からの転校生がやってくることになるのですが、その少女、早坂希は、転校初日、いわゆるスケバンルックで登校し、先生や生徒の度肝を抜きます。
母子家庭に育ち、男にだらしない(希談)母親と暮らすうちに生活が荒れてしまったらしい希ですが、和也らとの関わりを通して、素直で頑張り屋の素が表に出るようになります。また、陸上選手として非凡な才能の片鱗を見せ、陸上部に加わることになります。

「さわやかな読後感」という言葉がぴったりの小説でした。
別に揶揄しているわけではありません。素直に気持ちよく読了しました。
突っ張っている希が、少しずつ素直になりながら変わろうと努力するという点では早坂希の成長物語だし、「生徒への信頼を失っていた」と自らの過ちに気づき、希らへの接し方を変えていく部分をみれば、和也の教師としての成長物語とも読めるかなと思います。

でも、若干の物足りなさを感じたのも事実でして。
ひとつは、和也がいったん希の心に「信頼できるヤツ」とインプットされると、(クラスの雰囲気も含めて)すべてがよい方向に一気に転がっていったこと。ただ、それは、あくまで懐疑心の強い自分基準で考えているからであって、根が素直な希からすれば、一度壁が取り払われてしまえば、担任教師にもクラスにも一気に馴染んでいくのはあたりまえのことなのかもしれません。てことで、ただ自分がヒネているだけなのかもしれない。

もうひとつは、本書の「僕」を客観的に見ている20年後の「僕」がいて、その視点がときどき顔を出すために、特に前半は話に入り込めなかったこと。「今でこそこうだが、1990年当時はこういう時代だった/中学校はこうだった」といった説明や、「このときの僕はそんな風には考えられなかった」的な文章が挟まれて、ときどき、「その『僕』はどちらの僕?」となるときがありました。特に、当時のワープロ・パソコン事情等には、20年後の「僕」視点で、「あの頃はこうだった」的説明があるのに、「スケバン」という言葉に説明がなかったのが、細かいですが個人的には一番尾を引きました(勝手にですが、「スケバン」はすでに死語と思っていたので)。そんな風に、ときどき「20年後の僕」が顔を出すので、最後に何らかの形で表に出てくるのかな、と思って読み進めていったら、普通に終わってしまって「あれ?」と思ったというのが、正直なところです。

・・・と、いろいろ書いていますが、何でしょうね、素直に心が洗われるような小説です。
教師側からみた中学校のあれこれもよく描かれていたのではないかと思います(著者自身、教師をされていた期間があるとか。自伝小説とは言わないまでも、和也の年齢から推して、自伝的要素もかなり含まれているのではないかと思いました)。
そして、この町や描かれた景色はもうもと通りではないのだと思うと、余計に切ないものがあります。

熊谷さんの、この「リアスの子」を含む仙河海市を舞台とする一連の小説は、「仙河海サーガ」と呼ばれ、今も書き続けられているとか。震災前を舞台とするものも、その後を描いたものもあるようです(また、蛇足ながら、震災前に書かれた作品に、和也の「その前」が描かれた「七夕しぐれ」「モラトリアムな季節」の2作があるようです)。
今度図書館に行ったら、探してみようと思います。
2018.03.24 21:40 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「一語一会-出会いで綴る昭和史」(保阪正康、清流出版、2000年)

青息吐息で音読了。
な、長かった...永遠に終わらんかと思った...

父の蔵書からかすめてきたもの。自分のフトコロなら、たぶん痛めなかったかな的な書物。

保阪さんが、それまで取材で出会った人々の人物像を綴ったもの。
軍人・政治家・元官僚などが多いですが、秩父宮妃殿下や佐藤千夜子らの名前も。

保阪さんは、それまでに、延べ四千人近くの人々の話を聞かれたそうですが、自分の出会った人々を、「どのような時代であれ筋のとおった考え(それはいつの時代にも普遍できるという意味である)をもつ人と、その時代しか通じない考え方に固執する人に分かれる」とし、後者は、1. 官位栄達を人生の目標に据え、それを恥じない人、2. 自らの能力や力𠈓を錯覚している人、3. 時代の論理しかなく、児孫の顔が見えない人、4. 巧言令色のみの人、5. 自らの言に責任をもたず、振幅の激しい人、6. 万象の不変を信じている人、 7. 虚言を弄し、責任感のない人、に分類できるとしています(なかなか手厳しいのです)。

本書に収められているのは、前者に相当する人々。
戦前戦後のいわゆる激動期を生き抜いた人々の言葉は、(発言者の思想がどうであれ)唸らされるものがあります(必ずしも全面的に共感するという意味ではありません)。

本書は、「内容をまとめる」という感じの書籍ではないので、そうした人々の言葉をいくつか挙げて、終わりにしたいと思います。

美濃部正
元海軍将校、昭和20年沖縄決戦時に131航空隊隊長として作戦参加。
「私には『死』しかない命令を下すことはできない」という理由を掲げ、軍令部の参謀も出席していた作戦会議の席で、公然と特攻作戦に反対したという。もちろん死刑も覚悟した。
「司令などの指揮官から率先して突っ込んでいくなら、私は反対はできないが、一億玉砕の名のもとに若いパイロットに命を賭して体当たり攻撃していけと命じるのなら、あまりにも残酷ではありませんか。戦争の時代ですから、死は怖くはない。でも、生存率ゼロの命令をだす権利は指揮官といえども持っていませんよ」

石井秋穂
陸軍に所属し、太平洋戦争開戦前の政策立案などにあたった。
「私はあのころ政策立案にあたったひとりです。ですから尋ねられればお答えする義務はあります。しかし、私は私の携わったこと、私の体験したこと、私の見たことは語りますが、それ以外は語れません。推測、噂などは私に尋ねないでください。それから人物観については、私の見聞した範囲内では答えます。それ以外は答えようがありません。私の知っている限り、事実はひとつですが、解釈は多様です」

新関欽哉
戦時下のドイツ駐在の外交官。
「外交官には、ひとつのことに熱中してはいけない、惚れこむな、という教えがあります。特定の人物や考えに溺れてしまったら、国益を損なう恐れがあります」

堀栄三
大本営情報参謀。
「私はあの戦争は、やはり問題はあったと思うが、それには<戦争指導を行った側>と<戦争指導を受けて戦わされた側>の責任は明確に分けなければならない。それを含んでの戦史こそ意味がある」
「人はいちどしか生きないのだから、ひとつのことである時代に生きたら、あとはそれを抱えて生きる姿勢が必要だ。どういう時代になっても小手先で、要領よく生きる姿というのは、ある意味では歴史への背信行為ともいえるのではないかと思う」

原子物理学者(匿名)
戦時下、日本の原爆製造計画に末端で関わった。
「これは誤解される言だから、決して私の発言とはしないでほしい。私たち物理学者の心底では、たとえ自分の肉親があの原爆で犠牲になったとしても-実際に縁者を失った学者もいるのだが-、奇妙な感動を覚えた。机の上の数式では想像もつかないような破壊エネルギーを生み出すということはわかっていたが、現実にはあのような結果になるのか、われわれの計算は正しかったのだ、という感動です。しかしすぐにもう二度とこんなことがあってはならないと恐怖感をもったのです。原子物理学者がもっとも先鋭的に核実験反対を叫ぶのは、感動と恐怖の振り子の揺れがあったからです」


カクカクした文章と格闘していたので、次は、向田邦子さんの「無名仮名人名簿」に移行。さらっと始まる書出しの1行が上手いなあ。
2018.03.19 00:13 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |