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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


 テレビに釘付けの一日が終わり、次の日には日常が戻ってきた。学校に通い、ボランティアにでかけ、勉強し、家事をこなす日々。住んでいた国がテロの標的になったけれど、私の毎日の生活が直接影響を受けたわけではない。事件はわが事でもあり他人事でもあった。それでも、9.11が私の心を深く揺さぶり恐怖を植え付けたのは確かだった。
 
 学校は、地域住民ならだれでも格安でクラスをとれるCommunity Collegeで、中東系の面立ちの学生も少なくなかった。彼らがヘイトの対象になっている場面に遭遇したことはなかったし、クラスメイトが(一般的なものであれ)それらしき言葉を口にしたのを聞いたこともなかった。けれど、あとになって、いわれのないそしりを受けた学生がいたらしいという噂を聞いた。
 その年の暮れ、ボランティア先の図書館のエジプト人スタッフが、ひっそりと祖国に帰っていった。町なかで、兄が中東系の人間だというだけで通行人にからまれ、暴行され、けがを負い、「怖くてもうこの国には住めない」と思ったのだそうだ。「(アメリカ人の)友達もいるけれど」と寂しそうに言った顔が忘れられない。
 業務を縮小したり現地スタッフを増やして駐在員を減らしたりした日系企業も多く、テロ後1年ほどの間に、駐妻の知合いがひとりまたひとりと帰国していった。

 テロがあってから、私はキリスト教に興味をもった。信仰心が個人を支え、国としての団結をより強固なものにしているような印象を受けたのだ。当時師事していた英会話の先生(カトリック信者)に相談すると、”More Than a Carpenter” (Josh McDowell)* という書籍を紹介してくれた。100ページほどのペーパーバックだ。正直「理解が深まった」とは言えないが、いまだにこれ以上分かりやすい三位一体の説明はないと、個人的には思っている>ご参考まで。

 * 私が持っているのは1977年版ですが、2009年に、”new generation of seekers”を念頭に置いて、大幅な加筆が行われた新版が発行されているようです。

 「その日」でも書いたとおり、10月初旬にアフガニスタン侵攻が開始された。時を同じくして、炭疽菌入りの封筒が送られる「炭疽菌事件」が連日大きく報道されるようになった――というのが、私の記憶なのだが、記事を書くにあたって時系列に整理された情報を調べてみると、最初に炭疽菌入りの封筒が投函されたのは9月18日とある。人間の記憶はあてにならないものだ。テレビ局や出版社に宛てて投函された数通の炭疽菌入り封筒のうち、フロリダの出版社宛てに送られた封筒で犠牲者が出た。それが10月初旬だった。このあたりの経緯は、Richard Preston*の”The Demon in the Freezer”に詳しい。その後、上院議員宛てに再び炭疽菌入りの封筒が送られ、封筒が開封された建物は、除去作業のため数日間閉鎖された。封筒には9.11との関係を示唆するような紙片が入っており、生物兵器を使用した無差別テロかという報道もあったと記憶している。結局、テロとは無関係で、容疑者として浮上した米国人科学者の自殺で幕を閉じた、らしい(この頃にはもう日本に帰国していたので、「炭疽菌事件」の結末は、かなりあとになってから知った)。結局、数名が亡くなり、数十名が炭疽菌に感染した。
 この事件のもっとも恐ろしい部分は、封筒を扱った郵便局の職員が多数炭疽症を発症した――つまり、封筒紙の繊維をすり抜けるほど小さな炭疽菌芽胞が使用されたということだと思う。送付経路上にいて芽胞を吸入した者ならだれでも、炭疽症を発症する可能性があったのだ。
 そんなわけで、私たちはみな震え上がった。図書館の本のページに白い粉がついているのが発見され、専門家が出動したこともあった。宇宙服様のスーツを着用した人間が図書館に入っていくのは、想像するだけでもなかなかシュールな光景だが、当時はだれも笑ったりしなかった。予防用の抗生剤の名前と入手先情報が新聞に掲載されたりもした。私は、その記事を切り抜いて、かなり長いこと、冷蔵庫の扉にマグネットで貼っていた。

 *  Richard Prestonはエボラウィルス病(エボラ出血熱)を扱ったベストセラー”Hot Zone”(『ホットゾーン』高見浩訳)の著者。その恐怖を増幅するような臨場感あふれる描写や記載内容に批判的な文章を読んだこともありますが、Prestonが膨大な資料と関係者へのインタビューをもとに文章をまとめ上げているのは確かだと思います。2019年7月に新刊”Crisis in the Red Zone: The Story of the Deadliest Ebola Outbreak in History, and of the Outbreaks to Come”が出版されています。なお、「批判的文章」の方は”Ebola: The Natural and Human History”(David Quammen、『エボラの正体』山本光伸訳)。

 11月には、アメリカン航空の旅客機がJFK空港(NY)近くの住宅地に墜落し、乗員乗客全員と巻き添えになった住民数名が亡くなるという事件があった。のちに乱気流と操作ミスが重なった不幸な事故と判明するのだが、ブレーキングニュースが報道されたときは、だれもがテロを疑い、不安な数時間を過ごした。

 9.11は確かにおそろしい事件だった。旅客機を乗っ取っての自爆テロなど、それまでいったい誰が想像しただろう。だが、それは9月11日だけでは終わらなかった。表だっては、アフガニスタン侵攻を経て、イラク戦争へと向かった。水面下では、人々の心に恐怖を植え付けた。少なくとも私の心には、しばらくのあいだいつも恐怖という火種があり、なにか起こるたびに「またテロかも」という思いが頭をもたげた。理性的に「そんなはずはない」と打ち消すことができれば一番いいのだろうけれど、そうした原始的な恐怖を克服するのはなかなかむつかしい。憎しみに転化される(あるいは憎しみを煽ることに利用される)こともあるんじゃないかと思う。

 9月11日は、無駄に恐怖に支配されてはならないという(あたりまえの)ことを改めて思い出させてくれる日だ。
2019.09.10 19:08 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |

 2001年9月11日。
 洗車しようと思ったくらいだから、その日は朝からいい天気だったと思う(ともかく、テレビ画面越しに見たNYの空は青かった)。
当時、私たちはシカゴ郊外に住んでいた。ダウンタウンから車で40分ほどの場所だ。
 その日、私は朝からクリニックの予約があり、新聞に目を通しただけで慌ただしく家を出た。いつもCNNでニュースをチェックするのに、その日はしなかった。NYとの間には1時間の時差があるから、テレビをつければ、もう「ツインタワーに飛行機が突っ込んだ」というブレーキングニュースが流れていたはずだ。
 クリニックにテレビはなかった。インターネットはダイヤルアップ接続、携帯電話の機能は通話とカメラだけという時代だ。その時刻クリニックに居合わせた人たちはだれも、東海岸で起こっていることを知らなかったと思う。
 診察は問題なく終わり、久しぶりに車を洗って帰ろうと、帰宅途中に機械洗車場に寄った。10時を少し回った頃だった。そこは、車を預けレジで精算をすませて洗車が終わるのを待つシステムになっている。レジの上に天井からテレビが吊してあるのだが、その日は、その前に人だかりができていた。テレビには、黒煙をあげる建物が映っている。画面にWashington, D.C.と字幕が出ていた。周囲の人にどうしたのかと聞くと、「ペンタゴンに飛行機が墜落した」と言う。「ツインタワーにも突っ込んだ。これはテロだ」と。
 そう聞いてもあまり実感は湧かなかった。その時点でまだツインタワーの映像を見ていないというのもあったかもしれない。
 帰宅すると、留守番電話が何本も入っていた。双方の母、主人、主人の同僚、直属の上司、NJ本社の主人の上司―― 
 その二、三日前から、主人はワシントン州に出張していた。私は、前夜本人からの電話で翌朝(9月11日)の移動はないことを聞いていたが、会社では詳しい移動予定を把握していなかったらしく、「飛行機に乗っているかも」という話になったらしい。会社からの電話はすべて「ご主人は無事ですので安心してください」というものだった。
 (余談だが、テロ発覚後、米国内の空港はすべて閉鎖され、運航が再開されたのは14日になってからだった。主人は帯同していた日本からの出張者を無事に帰国便に乗せるまで帰ることができず、結局1週間ほどポートランドに滞在することになった。)
 テレビをつけると、ちょうどツインタワーが崩落した直後で、画面では、崩落の瞬間や2機目の飛行機がタワーに激突した瞬間の映像が繰り返し流された。ことここに至って、私ははじめて、尋常ならざる事態が起こっているのだということを認識した。
 その時点ではまだ、あまり怖いという気持ちはなかった。乗客乗員がハイジャック犯に立ち向かったユナイテッド航空93便が、ピッツバーグ郊外に墜落したことが分かるのはもう少しあとだ。ダウンタウンならいざしらず、郊外の住宅地に住む自分の身に差し迫った危険があるとは思えなかった。だが、世界で一番忙しい空港と言われるシカゴ・オヘア空港を離陸した5機目のハイジャック機があって、シアーズタワー*を目指して果たせず、郊外に墜落するというシナリオだってあり得たかもしれないのだ。
 その日は何も手につかず、終日テレビを見ながらすごした。

 *シカゴダウンタウンの高層ビル。現在はウィリスタワーと呼ばれる。2001年当時、世界一の高さを誇っていた。

 それからしばらくの間、報道はTerrorist Attack一色だった。ニュースを見ながら、言葉が完全に聞き取れないことをもどかしく思い、また幸いにも思った。地元の新聞を購読していたので、新聞記事は丹念に読んだ。93便の反撃を主導した乗客のひとりが地元出身者だったことが明らかになり、新聞でも大きく扱われた。反撃の直前に彼が発したと言われる”Let’s roll”というフレーが広く知られるようになり、しばらくの間、何かことをなすさいの「決め」言葉的に用いられたと記憶している。
 1週間ほど経過した頃、ブッシュ大統領が議会で演説をおこなった。「テロには屈しない」と国民を鼓舞する内容だったと思うが、ほぼ1フレーズ毎に起こる異様なまでに熱狂的なstanding ovationを愛国心の発露と少しうらやましく思いつつ、この高揚した状態のままこの国はどこにいくのだろうと、一抹の不安を感じた。

 10月7日、やはりブレーキングニュースが、有志連合のアフガニスタン侵攻を伝えた(タリバーン政権は、9.11テロの首謀者と目される、アルカイダのビン・ラディンをかくまっているとも支援しているとも伝えられていた)。攻撃の様子をテレビで見るのははじめてではない。だが、遠い異国のできごとだった湾岸戦争(1991年)と違い、今自分は当事国にいる。相手国に攻撃されることはないとしても、またいつどこで、どんな形でテロが起こるかわからない。とにかく早く収束してほしいと、それだけを願った。
 タリバーン政権は倒れたが、ビン・ラディンの行方はわからずじまいで(のちに発見・殺害)、テロの脅威は消えず、2003年には対イラク戦争が始まることになる。その頃になると、庭木に黄色いリボン(家族が戦争に行っているというシンボル)を巻いた民家が増えていった。車で走っているときなど、リボンを目にするたびに「戦争をしている国にいる」ということを実感した。


 生活環境というものは、おそろしいものだ。私のような、よくも悪くも周りに感化されやすい人間にとっては特に。テロ以前、私は国防ということを真剣に考えたことはなかった。だが、テロ以降、現地の報道や周囲の人間の意見・行動などに接するうちに、「日本も有事に自分たちで国を守れるだけの軍事力を持たねばならない、それが衝突の抑止力にもなる」と考えるようになった。ひとつにまとまった(ように見える)アメリカがうらやましかった。他人事として扱う日本の報道(当時、読売新聞衛星版を購読していた)に不安が募ったということもあったと思う。
 帰国後、日本でさまざまな情報に接し、また外からアメリカという国を見るうちに、私の考えはまた変化した。今は軍事力で「一線」は越えるべきではないと思っている。自分のためにもこれからの世代のためにもそうあってほしい。
 もう一度、私の考えは変わるだろうか。絶対に変わらないとは言いきれない。けれど、あのとき雰囲気に流されて自分の考えを形づくってしまったことは、忘れないようにしたいと思う。自分の目や耳に入ってきやすい、狭い範囲のかたよった報道のみに頼って、自分の考えを変えることだけはするまい――そう自戒している。日本とアメリカを内から、そして外から見ることができたのは、本当に貴重な経験だったと思っている。


 事件から6ヵ月後の2002年3月11日、未公開のビデオを編集した特別番組が放送された。偶然消防隊だか警察だかに同行してツインタワーに入ることのできた記者が撮影した映像だ(記者も同行者も生還している)。途中何度も、建物の外からドカン、ドカンと大きな音が聞こえた。近くで自動車事故が起きたときに耳にするような音、とでも言えばいいだろうか。それが「炎と熱に耐えきれず高層階から地上にダイブした人体が地上に激突した音」だと教えてくれたのは、撮影者自身だったか番組のナレーションだったか――記憶はもうあいまいだが、私は一生その音を忘れないだろう。

2019.09.01 00:44 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |
この頃、勉強会やセミナーの告知や報告など、情報提供系の記事が多くなってきた。

...ちょっと偏ってるなあと思う今日この頃。

そうした記事は、確かに「伝えたいことがきちんと伝わるように書く」練習にはなっている。書き始める前に、箇条書きの形で下書きし、ストーリーを考えることも多い。
また、ちょっと迷ったら必ず、「その表現は適切か」を確認するために国語辞典、てにをは辞典、ウエブサイトなどを確認するという姿勢は、翻訳する際にも役に立っていると思う。
けれど、テーマや内容が限られてくるので、今ひとつ表現の幅が広がらないような。

...といろいろ考えていて、それは、自分が普段あまりきちんと自分の周囲の物ごとを観察していないせいもあるかもしれないと思うようになった。

わたしが「いいなあ」と思う文章を書かれる同業者の方は、みなさん、とてもバランスがとれている。
実に明解な、論理的な文章を書かれる一方で、何気ない日常を切り取り、そこから連想を広げたりもなさる。

今の自分に足りないのは、そういう、日常をきちんと観察し適切な言葉で描写し自分の考えをのせる、という訓練なのかもしれない。
訓練だけで文芸作品を書けるようにはならないけれど、自分の周りのものに向けるアンテナの感度を上げることで、考えの幅も広がり、その結果、表現の幅も広がるかもしれない(そのためにはまず、さまざまな種類の文章をインプットしなければならないけれど)。
わたしは、これまで「いろいろ考えるヒト」ではあったけれど、意識が内を向きすぎていたような気がする。そのために、興味の幅が狭くなってしまっていた。

来年は、もっと「外」にも目を向け、そこで感じたこと・考えたことも文章にしていきたい。

あ、もちろん、希望的観測です<念のため。
2018.12.25 23:50 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |
2月末頃からちょっとバタバタし、ここ数年のうちに自分を取りまく状況が変わる予感がします。
3~4年のうちには、実家と田舎の墓(まだ山の中にあるという...)をきちんと処分し、旦那の実家に帰ることになるでしょう。

以前はそれをこの仕事からの引退の時期と考えていましたが、旦那が仕事を辞めたりと少し状況も変わり、何より、自分にとって「最後まで残したいものの筆頭」である翻訳を何らかの形で継続すべくもう少し足掻いてみようと、考えが変わりつつあります。まあ、「自分の考えるレベルの翻訳が指定納期に出せない」と自分で自分の衰えを認めざるを得ないときがくれば引退すると思いますが。

収入ということではもう頭打ちかなと思います。生活が変わっても現状を維持しようと思えば単位時間当たりの生産性を大幅に上げる必要がありますが、正直、もうそこまでしたいという気持ちはありません。そういうときが来るだろうということはかなり早いうちから考えていて、コツコツへそくってきたので(子どもがいなかったからできたということはあるかもしれません)ある程度の心の支え(=先立つもの)はできました。とはいえ、「心の支え」だけでは心許ないですから、先日取引先と単価交渉をして、期待以上の回答を頂きました(この件については、他にも理由がありますし、暫くはこの先の受注状況もみていく必要があるかなと思いますので、後日、書ける範囲で別立ての記事を書きたいと思っています)。
そうして、この先、緩やかに「年間収入のことはあまり考えず好きな仕事をする」方向にシフトしていけたら理想です。

そうして、翻訳と翻訳以外の生活のバランスを取りながら、そのときどきの一過性ストレス源に自分の心が無理をし過ぎないように対処し、自分の力ではどうにもならないことにはくよくよせず毎日を過ごすことができれば(そういう時間が少しでも長く続けば)、もうそれだけでいいかなあと思っています。
あとは読書と大人の塗り絵とピアノの再開(旦那の実家には電子ピアノ置けそうです<その前に指が動かないという説もある、というか動きませんが...)くらいできれば。
まあ、思い描いたとおりに行かないのが人生、でもありますが。なので、「置かれた場所で、やりたいことをできる範囲で」をモットーに、これからも生きていきたいと思っています。

状況が変われば遠出は難しくなると思うので、できる間はせいぜい遠出もし、たくさんの方とお話したいと思う今日この頃なのでした。
2017.04.12 12:42 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |
わたしはこの世に交流のある血縁者はもう誰もいない。
旦那と、旦那の気のいい人たちだがやはり気を使う義父母と病気の義妹は健在だ。
だから、わたしは、最初に旦那を失うことをとても恐れている。常日頃は考えないがいつも心の底にある。
そして、いつか自分を取り巻く事情が変わり、あるいは自分の限界を悟って、翻訳から離れなければならない日が来ることも恐れている。訳文を考える作業がとても好きだから。
(だからEveryday is giftという言葉も常に心のどこかにある)

でも、翻訳を離れ、つらいことが続き、ため息ばかりの毎日になっても、頭がそれなりにしっかりしていて、見たもの、読んだ本、聞いた話、感じたことを文章にすることができるなら、そのあとの人生もそれなりに生きていけそうな気がする。
わたしにとって、パンドラの箱に最後に残った希望は「書くこと」なのかもしれない。たとえ、素人のそれであっても。だから、書くための力はまだまだつけていきたいし、もっとたくさんのものを見、本を読み、考えたいとも思う。この先何か別のものに心惹かれるかもしれないけれど、それもやはりどこかで「書くこと」に関係するものなのではないかと何となく思っている。
何もない何も残らない平凡な人生だけれど、わたしにとっては捨てたものじゃない人生かもしれないとも思うのだ。
2017.01.23 12:34 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(-) |