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2020. 05. 12  

遺言を認めた。

決してうつになっているわけじゃない。まあ、精神的な疲れは溜まっているし、毎日うつうつはしてるけど(笑)。


実は、遺言を書くのがこれが三通目。

一通目は、もう10年以上前、両親の介護、特に母親への対応でテンパっていたときに書いた。
とにかく母親から逃げたくてしかたなく、でも、「逃げたあとのことはきちんと頼んでおかなくちゃ」と考えていたところからして、もう若干(いやかなり)普通じゃない。
(これは当時も今も変わらずなのだけれど、「血縁」という意味で私は天涯孤独だ。実家は私で途絶える。だから、実家の始末はきちんとしなければ、という強迫観念のようなものがあるのは事実だ)

二通目は、両親を(無事に)送ったあとに書いた。
お願い事項の内容を書き換えないといけなかった。


今回、遺言のことが頭に浮かんだのは、コロナウイルス感染症が急激に重篤化し死に至る例が、何例も報道されたから。
そういえば、両親を送って10年近くになるけれど、実家はそのままだし、永代供養の話も全然できてないし(かろうじて実家の仏壇だけは始末した)。

というわけで、登記謄本の場所を確認し、生命保険証券の場所と内容を確認し、預貯金通帳、実印、年金手帳、現在の住いの賃貸契約書の類も確認し書き留めた(旦那は自分のものも含め、これらの在処を知らない)。
(この部分は、あまり変更がない)

連絡してほしい人をリストアップし、SNSへの投稿とアカウント削除の手順も書き留めた(旦那はSNSはまったくやらない<だから私が安心して呟けるわけなんだけど)。
(連絡してほしい人の内容が少し変わる。SNSへの言及は新規)

それから本文を書いた。いつも本文は最後だ。
25年も一緒にいると、むかつくこともあるけど(<でもたぶんそれは向こうも同じ)、「私がいなくなったあとに一人でこれを読むんだ」と考えたら、やっぱり出てくるのは感謝の言葉になる。特に、実親の介護は、旦那の有形無形の強力なしには乗り切れなかった。書きながら、翻訳や自分のしたいことを優先させて(まあ、それは向こうも一緒なんだけど)、一緒に過ごしたり話をしたりする時間が少なかったなと思えてくる。せめて、これからの時間をもう少し大切にしようと、殊勝なことを考えたりもする。もっとも、それが、あとまだ20年くらい続くかもしれないんだけど。

…という一種の正常性バイアス的なものが、これを書いた今も、自分の心のどこかにあるとは思う。「自分は、自分だけは大丈夫」という根拠のない自信。
ともあれ、これからの毎日を、自分のためだけではなく、二人のために大事にすごし、これからの世の中を、自分なりに生き抜きたいと思う。

書いたことで、ちょっとほっとし、少し自分を見つめ直し、周りの人々のことにも思いを馳せた。
「書きたい」「書かなければ」と思ったことを文字にするのは、私には一番の自浄作用のような気がする。
明日からまた、少し落ち着いて、日常のさまざまなことをこなしていこうと思う。

2020. 04. 03  

このところTVでも新聞でもネットでも「新型コロナ」という文字を目にしない日はありません。
私の住む地域は大都市ではありませんが、そのひとつの通勤圏内にあり、主人は(車通勤ではありますが)出勤MUSTという仕事のため、不安な日々を過ごしています。
昨日、そんな気持ちの吐露も含め、いくつかのサイトを紹介しましたら、今日はかなり精神の安定を取り戻しました。
とにかく「書きちらす」ことが大好きな私。文字にするという作業は、自分の精神を安定させるためにずいぶん役立っているのだなあと再認識した次第です。
そういえば、このところツイートも増えているような。特に、自分の心の奥を探るような文章を書くと落ち着くような気がします。

というわけで、昨晩、少々少し感情が高ぶった状態でFBに投稿した記事、(落ち着いて)加筆修正の上、こちらにも再掲しておきます。FB読んでくださった奇特な方は、読み流してください。

****

私の近況はと言いますと、2月以前の生活とは大きく変わっていません(笑)。もともと外出といえば、買い物と通院と勉強会くらいだったので。
けれど、「自ら望んでの引きこもり」と「無言圧による引きこもり」とでは、精神的に「くる」ものが全然違います。
特に、ここ1~2週間は、どうしても流行の様子が気になってしまって、なかなか仕事が手につきません。精神衛生によくないと分かってはいても、気づけば、情報を探して、あちこちさまよってしまっています(若しくはAmazonに現実逃避)。

そんななか、今日(4月2日)は二つの記事に心を動かされましたので、こちらでもシェアしようと思います。どちらも長い記事です。未読の方は、時間に余裕のあるときに読んでみていただければと思います。
(すでにFBやTwitterで見かけられた方も多いかなと思います)

一つはデータ分析による今後の展望。
新型コロナ、なぜ今こそ行動抑制に協力すべきなのか」(矢原 徹一:九州大学理学研究院教授、4月1日付記事)
矢原先生は、九州大学大学院理学研究院教授で、生態学・進化生物学がご専門です。

3月19日に「専門家の対策に根拠あり、新型コロナは制圧できる」という記事を書かれていますが、そこからさらに厳しい方向に展望を修正されました。
「状況がきわめて厳しい局面を迎えたことを、悲観も楽観もせず、冷静に受け止める必要があります」(P5)とした上で、今からでも強力な行動抑制措置をとれば、新規感染者数を減少に転換させることができる、という展望を示されています。とはいえ、今回の流行は、そこで一旦増加に歯止めがかかっても、そのまま終息に向かうとは思えません。長い期間、そこまで強力なものではないにせよ、一定の行動抑制措置を取らざるを得ないのではないかという気がします。その状態は、ワクチンなり罹患なりによって、ある程度の割合の人間が免疫をもつまで続くのではないでしょうか(注:自分の読んだ限りの情報に基づく個人的な見解です)。緊急支援が必要なのはもちろんですが、その先、どんな風に生活を戻し、経済を立て直していけばよいのか、識者の方にはきちんと未来を予想し、力強い展望を発信していただきたいと思います。また、私たち自身も、今後の自分の生き方(何を優先して生きるのかなど)を見直す必要に迫られているのかもしれません。それほど未曾有の危機に直面しているように感じられます。

矢原先生が文中で触れておられる、データサイエンスがご専門の佐藤彰洋教授のCOVID-19に関するページはこちら
気の滅入る予測もありますが、感染拡大の現状と展望を、データから理解しておくことも必要だと思っています。


もう一つは歴史研究者の視点からの記事。
パンデミックを生きる指針??歴史研究のアプローチ」(京都大学人文科学研究所准教授:藤原辰史)

ええと……現政権にも、マスコミにも、そして私たち一人一人にもかなり厳しい内容になっていますが、頑張って最後まで読んでみてください(読了時間は22分だそうですが、考えながら読んだらもっとかかるかもしれません)。

現実を観察する考察の中では、私もずっと気になっていた、自然災害に対する備えの必要性にも触れられています。
「現時点で、近年頻発する水害や地震のような大災害が起こったならば、地域の避難所は間違いなく感染の温床となってしまうだろう。ゆえに、現時点で各地方自治体は、災害時の避難の対応について早急にガイドラインを作成すべきである」
これは本当にそのとおりだと思うのです。「今はそれどころじゃない」が本音なのかもしれませんが、災害が起きてしまってから考えるようでは遅いに違いないのですから、政府・自治体も私たち自身も、「起こり得る可能性」として常にそれを頭の片隅に置き、どうするのが最善の道なのかをシミュレーションしておく必要があると思います(と自分に言い聞かせる)。

「新型コロナウィルスが鎮静化すれば危機が去ったと言うことはできない。実は、本当に怖いのはウィルスではなく、ウィルスに怯える人間だ」という言葉で始まる、最終章「6 クリオの審判」では、人間が個人として、そしてその集合体である国家としてどうあるべきかについての藤原先生の考えが述べられています。最後の3段落では、現政権のあり方とその展望のみならず、私たち一人一人の人間としてのあり方も問われています。こんな形で、人間の価値が問われるのだとしたら、私たちはなんと大きな代償を払わなければならないことでしょう。

それでも、おかしな話ですが、私は、情け容赦のないこの文章に、希望を感じ、心を揺さぶられました。
それは、この厳しい文章の裏に、この方の人間への愛、(現政権はひとまず置くとして)この国に住む同胞への愛、ひいては人類への愛が感じられたからではないかと思います(いやまあ、単に私がそう感じるというだけの話ですけどね)。

皆さんも同じではないかと思いますが、、私も不安の中で毎日を過ごしています。
そんな生活が長く続いても、言葉を扱う者として、「そのときのどす黒い感情に溺れず、きちんとした言葉で語る」ことを心がけたいと思っています。まあ、私も中身はけっこう黒いんで、あくまで希望ですが。もしも、この先、ブログやツイッターやFBで、私の汚い黒い言葉を見かけることがあれば、遠慮なく叱ってください。

長期戦になりそうな感じですが、気持ちを切らすことなく、けれど疲弊しないよう、ときどき涙活や自分なりのストレス発散(免疫UPにはよいそうですね)も挟みながら、毎日を過ごしていきたいと思います。皆さんもどうぞご自愛ください。

同業者の皆さまは、またFace to Faceでお目にかかれる日を楽しみにしております。
2019. 09. 10  

 テレビに釘付けの一日が終わり、次の日には日常が戻ってきた。学校に通い、ボランティアにでかけ、勉強し、家事をこなす日々。住んでいた国がテロの標的になったけれど、私の毎日の生活が直接影響を受けたわけではない。事件はわが事でもあり他人事でもあった。それでも、9.11が私の心を深く揺さぶり恐怖を植え付けたのは確かだった。
 
 学校は、地域住民ならだれでも格安でクラスをとれるCommunity Collegeで、中東系の面立ちの学生も少なくなかった。彼らがヘイトの対象になっている場面に遭遇したことはなかったし、クラスメイトが(一般的なものであれ)それらしき言葉を口にしたのを聞いたこともなかった。けれど、あとになって、いわれのないそしりを受けた学生がいたらしいという噂を聞いた。
 その年の暮れ、ボランティア先の図書館のエジプト人スタッフが、ひっそりと祖国に帰っていった。町なかで、兄が中東系の人間だというだけで通行人にからまれ、暴行され、けがを負い、「怖くてもうこの国には住めない」と思ったのだそうだ。「(アメリカ人の)友達もいるけれど」と寂しそうに言った顔が忘れられない。
 業務を縮小したり現地スタッフを増やして駐在員を減らしたりした日系企業も多く、テロ後1年ほどの間に、駐妻の知合いがひとりまたひとりと帰国していった。

 テロがあってから、私はキリスト教に興味をもった。信仰心が個人を支え、国としての団結をより強固なものにしているような印象を受けたのだ。当時師事していた英会話の先生(カトリック信者)に相談すると、”More Than a Carpenter” (Josh McDowell)* という書籍を紹介してくれた。100ページほどのペーパーバックだ。正直「理解が深まった」とは言えないが、いまだにこれ以上分かりやすい三位一体の説明はないと、個人的には思っている>ご参考まで。

 * 私が持っているのは1977年版ですが、2009年に、”new generation of seekers”を念頭に置いて、大幅な加筆が行われた新版が発行されているようです。

 「その日」でも書いたとおり、10月初旬にアフガニスタン侵攻が開始された。時を同じくして、炭疽菌入りの封筒が送られる「炭疽菌事件」が連日大きく報道されるようになった――というのが、私の記憶なのだが、記事を書くにあたって時系列に整理された情報を調べてみると、最初に炭疽菌入りの封筒が投函されたのは9月18日とある。人間の記憶はあてにならないものだ。テレビ局や出版社に宛てて投函された数通の炭疽菌入り封筒のうち、フロリダの出版社宛てに送られた封筒で犠牲者が出た。それが10月初旬だった。このあたりの経緯は、Richard Preston*の”The Demon in the Freezer”に詳しい。その後、上院議員宛てに再び炭疽菌入りの封筒が送られ、封筒が開封された建物は、除去作業のため数日間閉鎖された。封筒には9.11との関係を示唆するような紙片が入っており、生物兵器を使用した無差別テロかという報道もあったと記憶している。結局、テロとは無関係で、容疑者として浮上した米国人科学者の自殺で幕を閉じた、らしい(この頃にはもう日本に帰国していたので、「炭疽菌事件」の結末は、かなりあとになってから知った)。結局、数名が亡くなり、数十名が炭疽菌に感染した。
 この事件のもっとも恐ろしい部分は、封筒を扱った郵便局の職員が多数炭疽症を発症した――つまり、封筒紙の繊維をすり抜けるほど小さな炭疽菌芽胞が使用されたということだと思う。送付経路上にいて芽胞を吸入した者ならだれでも、炭疽症を発症する可能性があったのだ。
 そんなわけで、私たちはみな震え上がった。図書館の本のページに白い粉がついているのが発見され、専門家が出動したこともあった。宇宙服様のスーツを着用した人間が図書館に入っていくのは、想像するだけでもなかなかシュールな光景だが、当時はだれも笑ったりしなかった。予防用の抗生剤の名前と入手先情報が新聞に掲載されたりもした。私は、その記事を切り抜いて、かなり長いこと、冷蔵庫の扉にマグネットで貼っていた。

 *  Richard Prestonはエボラウィルス病(エボラ出血熱)を扱ったベストセラー”Hot Zone”(『ホットゾーン』高見浩訳)の著者。その恐怖を増幅するような臨場感あふれる描写や記載内容に批判的な文章を読んだこともありますが、Prestonが膨大な資料と関係者へのインタビューをもとに文章をまとめ上げているのは確かだと思います。2019年7月に新刊”Crisis in the Red Zone: The Story of the Deadliest Ebola Outbreak in History, and of the Outbreaks to Come”が出版されています。なお、「批判的文章」の方は”Ebola: The Natural and Human History”(David Quammen、『エボラの正体』山本光伸訳)。

 11月には、アメリカン航空の旅客機がJFK空港(NY)近くの住宅地に墜落し、乗員乗客全員と巻き添えになった住民数名が亡くなるという事件があった。のちに乱気流と操作ミスが重なった不幸な事故と判明するのだが、ブレーキングニュースが報道されたときは、だれもがテロを疑い、不安な数時間を過ごした。

 9.11は確かにおそろしい事件だった。旅客機を乗っ取っての自爆テロなど、それまでいったい誰が想像しただろう。だが、それは9月11日だけでは終わらなかった。表だっては、アフガニスタン侵攻を経て、イラク戦争へと向かった。水面下では、人々の心に恐怖を植え付けた。少なくとも私の心には、しばらくのあいだいつも恐怖という火種があり、なにか起こるたびに「またテロかも」という思いが頭をもたげた。理性的に「そんなはずはない」と打ち消すことができれば一番いいのだろうけれど、そうした原始的な恐怖を克服するのはなかなかむつかしい。憎しみに転化される(あるいは憎しみを煽ることに利用される)こともあるんじゃないかと思う。

 9月11日は、無駄に恐怖に支配されてはならないという(あたりまえの)ことを改めて思い出させてくれる日だ。
2019. 09. 01  

 2001年9月11日。
 洗車しようと思ったくらいだから、その日は朝からいい天気だったと思う(ともかく、テレビ画面越しに見たNYの空は青かった)。
当時、私たちはシカゴ郊外に住んでいた。ダウンタウンから車で40分ほどの場所だ。
 その日、私は朝からクリニックの予約があり、新聞に目を通しただけで慌ただしく家を出た。いつもCNNでニュースをチェックするのに、その日はしなかった。NYとの間には1時間の時差があるから、テレビをつければ、もう「ツインタワーに飛行機が突っ込んだ」というブレーキングニュースが流れていたはずだ。
 クリニックにテレビはなかった。インターネットはダイヤルアップ接続、携帯電話の機能は通話とカメラだけという時代だ。その時刻クリニックに居合わせた人たちはだれも、東海岸で起こっていることを知らなかったと思う。
 診察は問題なく終わり、久しぶりに車を洗って帰ろうと、帰宅途中に機械洗車場に寄った。10時を少し回った頃だった。そこは、車を預けレジで精算をすませて洗車が終わるのを待つシステムになっている。レジの上に天井からテレビが吊してあるのだが、その日は、その前に人だかりができていた。テレビには、黒煙をあげる建物が映っている。画面にWashington, D.C.と字幕が出ていた。周囲の人にどうしたのかと聞くと、「ペンタゴンに飛行機が墜落した」と言う。「ツインタワーにも突っ込んだ。これはテロだ」と。
 そう聞いてもあまり実感は湧かなかった。その時点でまだツインタワーの映像を見ていないというのもあったかもしれない。
 帰宅すると、留守番電話が何本も入っていた。双方の母、主人、主人の同僚、直属の上司、NJ本社の主人の上司―― 
 その二、三日前から、主人はワシントン州に出張していた。私は、前夜本人からの電話で翌朝(9月11日)の移動はないことを聞いていたが、会社では詳しい移動予定を把握していなかったらしく、「飛行機に乗っているかも」という話になったらしい。会社からの電話はすべて「ご主人は無事ですので安心してください」というものだった。
 (余談だが、テロ発覚後、米国内の空港はすべて閉鎖され、運航が再開されたのは14日になってからだった。主人は帯同していた日本からの出張者を無事に帰国便に乗せるまで帰ることができず、結局1週間ほどポートランドに滞在することになった。)
 テレビをつけると、ちょうどツインタワーが崩落した直後で、画面では、崩落の瞬間や2機目の飛行機がタワーに激突した瞬間の映像が繰り返し流された。ことここに至って、私ははじめて、尋常ならざる事態が起こっているのだということを認識した。
 その時点ではまだ、あまり怖いという気持ちはなかった。乗客乗員がハイジャック犯に立ち向かったユナイテッド航空93便が、ピッツバーグ郊外に墜落したことが分かるのはもう少しあとだ。ダウンタウンならいざしらず、郊外の住宅地に住む自分の身に差し迫った危険があるとは思えなかった。だが、世界で一番忙しい空港と言われるシカゴ・オヘア空港を離陸した5機目のハイジャック機があって、シアーズタワー*を目指して果たせず、郊外に墜落するというシナリオだってあり得たかもしれないのだ。
 その日は何も手につかず、終日テレビを見ながらすごした。

 *シカゴダウンタウンの高層ビル。現在はウィリスタワーと呼ばれる。2001年当時、世界一の高さを誇っていた。

 それからしばらくの間、報道はTerrorist Attack一色だった。ニュースを見ながら、言葉が完全に聞き取れないことをもどかしく思い、また幸いにも思った。地元の新聞を購読していたので、新聞記事は丹念に読んだ。93便の反撃を主導した乗客のひとりが地元出身者だったことが明らかになり、新聞でも大きく扱われた。反撃の直前に彼が発したと言われる”Let’s roll”というフレーが広く知られるようになり、しばらくの間、何かことをなすさいの「決め」言葉的に用いられたと記憶している。
 1週間ほど経過した頃、ブッシュ大統領が議会で演説をおこなった。「テロには屈しない」と国民を鼓舞する内容だったと思うが、ほぼ1フレーズ毎に起こる異様なまでに熱狂的なstanding ovationを愛国心の発露と少しうらやましく思いつつ、この高揚した状態のままこの国はどこにいくのだろうと、一抹の不安を感じた。

 10月7日、やはりブレーキングニュースが、有志連合のアフガニスタン侵攻を伝えた(タリバーン政権は、9.11テロの首謀者と目される、アルカイダのビン・ラディンをかくまっているとも支援しているとも伝えられていた)。攻撃の様子をテレビで見るのははじめてではない。だが、遠い異国のできごとだった湾岸戦争(1991年)と違い、今自分は当事国にいる。相手国に攻撃されることはないとしても、またいつどこで、どんな形でテロが起こるかわからない。とにかく早く収束してほしいと、それだけを願った。
 タリバーン政権は倒れたが、ビン・ラディンの行方はわからずじまいで(のちに発見・殺害)、テロの脅威は消えず、2003年には対イラク戦争が始まることになる。その頃になると、庭木に黄色いリボン(家族が戦争に行っているというシンボル)を巻いた民家が増えていった。車で走っているときなど、リボンを目にするたびに「戦争をしている国にいる」ということを実感した。


 生活環境というものは、おそろしいものだ。私のような、よくも悪くも周りに感化されやすい人間にとっては特に。テロ以前、私は国防ということを真剣に考えたことはなかった。だが、テロ以降、現地の報道や周囲の人間の意見・行動などに接するうちに、「日本も有事に自分たちで国を守れるだけの軍事力を持たねばならない、それが衝突の抑止力にもなる」と考えるようになった。ひとつにまとまった(ように見える)アメリカがうらやましかった。他人事として扱う日本の報道(当時、読売新聞衛星版を購読していた)に不安が募ったということもあったと思う。
 帰国後、日本でさまざまな情報に接し、また外からアメリカという国を見るうちに、私の考えはまた変化した。今は軍事力で「一線」は越えるべきではないと思っている。自分のためにもこれからの世代のためにもそうあってほしい。
 もう一度、私の考えは変わるだろうか。絶対に変わらないとは言いきれない。けれど、あのとき雰囲気に流されて自分の考えを形づくってしまったことは、忘れないようにしたいと思う。自分の目や耳に入ってきやすい、狭い範囲のかたよった報道のみに頼って、自分の考えを変えることだけはするまい――そう自戒している。日本とアメリカを内から、そして外から見ることができたのは、本当に貴重な経験だったと思っている。


 事件から6ヵ月後の2002年3月11日、未公開のビデオを編集した特別番組が放送された。偶然消防隊だか警察だかに同行してツインタワーに入ることのできた記者が撮影した映像だ(記者も同行者も生還している)。途中何度も、建物の外からドカン、ドカンと大きな音が聞こえた。近くで自動車事故が起きたときに耳にするような音、とでも言えばいいだろうか。それが「炎と熱に耐えきれず高層階から地上にダイブした人体が地上に激突した音」だと教えてくれたのは、撮影者自身だったか番組のナレーションだったか――記憶はもうあいまいだが、私は一生その音を忘れないだろう。

2018. 12. 25  
この頃、勉強会やセミナーの告知や報告など、情報提供系の記事が多くなってきた。

...ちょっと偏ってるなあと思う今日この頃。

そうした記事は、確かに「伝えたいことがきちんと伝わるように書く」練習にはなっている。書き始める前に、箇条書きの形で下書きし、ストーリーを考えることも多い。
また、ちょっと迷ったら必ず、「その表現は適切か」を確認するために国語辞典、てにをは辞典、ウエブサイトなどを確認するという姿勢は、翻訳する際にも役に立っていると思う。
けれど、テーマや内容が限られてくるので、今ひとつ表現の幅が広がらないような。

...といろいろ考えていて、それは、自分が普段あまりきちんと自分の周囲の物ごとを観察していないせいもあるかもしれないと思うようになった。

わたしが「いいなあ」と思う文章を書かれる同業者の方は、みなさん、とてもバランスがとれている。
実に明解な、論理的な文章を書かれる一方で、何気ない日常を切り取り、そこから連想を広げたりもなさる。

今の自分に足りないのは、そういう、日常をきちんと観察し適切な言葉で描写し自分の考えをのせる、という訓練なのかもしれない。
訓練だけで文芸作品を書けるようにはならないけれど、自分の周りのものに向けるアンテナの感度を上げることで、考えの幅も広がり、その結果、表現の幅も広がるかもしれない(そのためにはまず、さまざまな種類の文章をインプットしなければならないけれど)。
わたしは、これまで「いろいろ考えるヒト」ではあったけれど、意識が内を向きすぎていたような気がする。そのために、興味の幅が狭くなってしまっていた。

来年は、もっと「外」にも目を向け、そこで感じたこと・考えたことも文章にしていきたい。

あ、もちろん、希望的観測です<念のため。
プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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