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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

この頃、勉強会やセミナーの告知や報告など、情報提供系の記事が多くなってきた。

...ちょっと偏ってるなあと思う今日この頃。

そうした記事は、確かに「伝えたいことがきちんと伝わるように書く」練習にはなっている。書き始める前に、箇条書きの形で下書きし、ストーリーを考えることも多い。
また、ちょっと迷ったら必ず、「その表現は適切か」を確認するために国語辞典、てにをは辞典、ウエブサイトなどを確認するという姿勢は、翻訳する際にも役に立っていると思う。
けれど、テーマや内容が限られてくるので、今ひとつ表現の幅が広がらないような。

...といろいろ考えていて、それは、自分が普段あまりきちんと自分の周囲の物ごとを観察していないせいもあるかもしれないと思うようになった。

わたしが「いいなあ」と思う文章を書かれる同業者の方は、みなさん、とてもバランスがとれている。
実に明解な、論理的な文章を書かれる一方で、何気ない日常を切り取り、そこから連想を広げたりもなさる。

今の自分に足りないのは、そういう、日常をきちんと観察し適切な言葉で描写し自分の考えをのせる、という訓練なのかもしれない。
訓練だけで文芸作品を書けるようにはならないけれど、自分の周りのものに向けるアンテナの感度を上げることで、考えの幅も広がり、その結果、表現の幅も広がるかもしれない(そのためにはまず、さまざまな種類の文章をインプットしなければならないけれど)。
わたしは、これまで「いろいろ考えるヒト」ではあったけれど、意識が内を向きすぎていたような気がする。そのために、興味の幅が狭くなってしまっていた。

来年は、もっと「外」にも目を向け、そこで感じたこと・考えたことも文章にしていきたい。

あ、もちろん、希望的観測です<念のため。
2018.12.25 23:50 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |
2月末頃からちょっとバタバタし、ここ数年のうちに自分を取りまく状況が変わる予感がします。
3~4年のうちには、実家と田舎の墓(まだ山の中にあるという...)をきちんと処分し、旦那の実家に帰ることになるでしょう。

以前はそれをこの仕事からの引退の時期と考えていましたが、旦那が仕事を辞めたりと少し状況も変わり、何より、自分にとって「最後まで残したいものの筆頭」である翻訳を何らかの形で継続すべくもう少し足掻いてみようと、考えが変わりつつあります。まあ、「自分の考えるレベルの翻訳が指定納期に出せない」と自分で自分の衰えを認めざるを得ないときがくれば引退すると思いますが。

収入ということではもう頭打ちかなと思います。生活が変わっても現状を維持しようと思えば単位時間当たりの生産性を大幅に上げる必要がありますが、正直、もうそこまでしたいという気持ちはありません。そういうときが来るだろうということはかなり早いうちから考えていて、コツコツへそくってきたので(子どもがいなかったからできたということはあるかもしれません)ある程度の心の支え(=先立つもの)はできました。とはいえ、「心の支え」だけでは心許ないですから、先日取引先と単価交渉をして、期待以上の回答を頂きました(この件については、他にも理由がありますし、暫くはこの先の受注状況もみていく必要があるかなと思いますので、後日、書ける範囲で別立ての記事を書きたいと思っています)。
そうして、この先、緩やかに「年間収入のことはあまり考えず好きな仕事をする」方向にシフトしていけたら理想です。

そうして、翻訳と翻訳以外の生活のバランスを取りながら、そのときどきの一過性ストレス源に自分の心が無理をし過ぎないように対処し、自分の力ではどうにもならないことにはくよくよせず毎日を過ごすことができれば(そういう時間が少しでも長く続けば)、もうそれだけでいいかなあと思っています。
あとは読書と大人の塗り絵とピアノの再開(旦那の実家には電子ピアノ置けそうです<その前に指が動かないという説もある、というか動きませんが...)くらいできれば。
まあ、思い描いたとおりに行かないのが人生、でもありますが。なので、「置かれた場所で、やりたいことをできる範囲で」をモットーに、これからも生きていきたいと思っています。

状況が変われば遠出は難しくなると思うので、できる間はせいぜい遠出もし、たくさんの方とお話したいと思う今日この頃なのでした。
2017.04.12 12:42 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |
わたしはこの世に交流のある血縁者はもう誰もいない。
旦那と、旦那の気のいい人たちだがやはり気を使う義父母と病気の義妹は健在だ。
だから、わたしは、最初に旦那を失うことをとても恐れている。常日頃は考えないがいつも心の底にある。
そして、いつか自分を取り巻く事情が変わり、あるいは自分の限界を悟って、翻訳から離れなければならない日が来ることも恐れている。訳文を考える作業がとても好きだから。
(だからEveryday is giftという言葉も常に心のどこかにある)

でも、翻訳を離れ、つらいことが続き、ため息ばかりの毎日になっても、頭がそれなりにしっかりしていて、見たもの、読んだ本、聞いた話、感じたことを文章にすることができるなら、そのあとの人生もそれなりに生きていけそうな気がする。
わたしにとって、パンドラの箱に最後に残った希望は「書くこと」なのかもしれない。たとえ、素人のそれであっても。だから、書くための力はまだまだつけていきたいし、もっとたくさんのものを見、本を読み、考えたいとも思う。この先何か別のものに心惹かれるかもしれないけれど、それもやはりどこかで「書くこと」に関係するものなのではないかと何となく思っている。
何もない何も残らない平凡な人生だけれど、わたしにとっては捨てたものじゃない人生かもしれないとも思うのだ。
2017.01.23 12:34 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(-) |
どの時点に戻りたいか、という話です。

ワタクシは、こちらでもときどき語っているように、現状に不安はあっても大きな不満があるわけではなく、これまで節目の判断はおおむね自分ひとりで下してきたことを思えば、総じて恵まれた人生だったなと思っています。
なので、「戻りたい」は、「そこに戻って人生をやり直したい」ではなく、「別の道を選んでいたら、どんな人生を歩んでいたかな」という純粋な興味という感じ。

ワタクシにとっての「その時点」は、高校1年の3学期の進路提出時点です。

ワタクシの出身校は地元ではそれなりの進学校でしたので、2年生から理系と文系に分かれます。そのための「理系か文系か」申告書類を提出するとき、ということです。
そのとき、ワタクシは、文系を選びました。理由はいくつかあります。

理系科目に苦手意識があった→2年生で選択科目となった物理では赤点も取りましたので、この苦手意識はあながち根拠のないものではなかったのですが、そのワタクシが今、「医療系のための物理」をせっせと勉強しているわけですから、人生ホント分からないものです。さらに言えば、共通一次で一番成績がよかったのは数学でした...

大勢の異性の中で過ごすのが苦手だった→理系は40名近い男子生徒+女子生徒7~8名という構成が普通でした。「そこで2年も過ごすのは、つ、辛すぎる」...と考えていたそのワタクシが、就職先ではお局様となり、若い男性社員をアゴでこき使うようになるわけですから、人生ホント分からないものです。

歴史の勉強がしたかった→中高で出会った先生がたの授業のおかげなのですが、特に世界史に興味がありました。大学は文学部史学地理学科で中世西洋史を専攻しました。そのワタクシが現在医療機器の翻訳をしているわけですから、人生ホント分からないものです。

当時、地方公立大の文学部出身者の就職先(?)は公務員か教師がほとんどで、一般企業の就職先と言えば、その頃からSE候補として女子学生を大量採用し始めた「ナントカ情報システム」系くらいでした。そんなわけで、ワタクシは、友人たちから「そんな会社知らんし。ダイジョブなん?」と心配された、株式・金融情報提供系の中堅企業に就職することになります(蛇足ですが、決してアヤしい会社ではありません<念のため)。

その後の紆余曲折(?)については、以前にも一度記事にしていますので、そちらに譲ります。6年前の記事で、その後、ワタクシ自身もワタクシを取り巻く環境も若干変化しましたが、翻訳をするに至った経緯に変更はないので、お時間のある方は覗いてみてくださいませ。

でも。
そうやって文系を選んだワタクシですが、理系の進学先にも興味がなかった訳ではありません。薬学部に進みたいという気持ちもありました。「面白そうだな」くらいで、特に深い理由はなかったと思うんですけど。ただ、上で書いた3つの大きな理由を乗り越えて理系に進んでもいいかな、という気持ちはあり、申告書を出す前は結構悩んだのを覚えています。

結局、史学科に進み歴史を勉強したわけですが、のめり込むほどではなく、学んだこととは無関係の一般企業に就職。そこでは「女性社員のまとめ役」的に重宝されましたが、先が見えなくて「それなら」と勉強を始めた翻訳を仕事にするようになって今に至ります

でも。
もしもあのとき理系に進み、薬学部に進学していたら? たぶん、ですけど、今翻訳の仕事はしていなかったような気がします(とか言いながら、製薬関連の翻訳に勤しんでいたりして...)

とはいえ、性格は同じわけですから、何らかの決定が必要なときは自分で判断して決めていったに相違なく、今とは全然違う立ち位置にいながらも、「まあ自分で選んで決めてきた人生だから(こんなものかな)」とか言ってそうな気はします。

というわけで、何十年も前のあのとき、確かに枝分かれしたに違いないもう1つの人生も、早送りで見てみたいな~、と思ったりするSayoなのでした。
2017.01.13 18:01 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(3) |
ある日の夜中、特にあてもなくTVリモコンの選局上下ボタンを押していると、「あの日」の光景に出くわした。

撮影者が走っているのだろう、カメラは激しく上下にぶれ、灰らしきものが厚く積もった路面を、窓の割れた車を、建物の壁を、くもった空を映し出す。
撮影者の激しい呼吸と「水はどこだ」という声が聞こえる。

場面が変わる。ひときわ高くそびえ立つビルが炎上している。旅客機が激突したツインタワー。1棟だけだ。南棟が崩落した直後と思われた。

・・・そうか、あれからもう15年経つのか。

何人かが記録した映像を編集したドキュメンタリーらしかった。

場面が変わる。大スクリーンに炎上する北棟が大きく映し出され(CNNのBreaking Newsのようだった) 、人々が見入っている。背広姿の男性たちが「目には目を」「すぐにアルカイダ攻撃を」と、マイクに向かってまくし立てる。女性の多くは泣いている。故意か偶然か、カメラは一瞬中東出身らしい風貌の男性の姿を捉えた。彼もまた大きなショックを受けているようだった。

また、別の場面。消防士たちが装備の点検をしている。撮影者(記者と思われる)の「どんな指示が」との質問には「言えない」と手を横に振った。カメラが、粛々とツインタワー方向に向かう消防士たちの後ろ姿を捉え続ける。その時点ではまだ「消火に当たれ」との指示があったのか。十数分後にはもう1棟のビルも崩落することなど、誰も考えていないに違いない。

10時28分、北棟が崩落する。

わたしは、その日、病院の予約があって朝から外出していたので、旅客機の激突もビルの崩落もリアルタイムでは見ていない。その後、何度もReplay映像を見たけれど、それは、やはり「メディアに切り取られた一部分」の映像だった。
ドキュメンタリーを見ながら、撮影者のカメラを通して、はじめて連続的な時間軸の中の出来事として、ビルの崩落を見たような気がする。思わず「Oh My God」と呟いていた。

撮影者のマイクも、たくさんの「Oh My God」を拾う。日本語では、文脈によってさまざまに訳される言葉だけれど、こういうときの「Oh My God」は、「何、これ」+「信じられない」+「神様(そこにいるなら助けて)」などいくつもの感情が混じったもののように思う。それだけの感情をひと言で表す日本語は、いくら考えても思い浮かばない。番組でも、いくつもの「Oh My God」が「何だ」「ひどいわ」など、さまざまな言葉に訳されていたと記憶している(←日本語訳はうろ覚えです)。

あたりは、枯草色の灰に覆われている。ところどころ色のついたものが散乱しているのは、紙類なのか、それとも、何か別のものなのか。
爆撃を受けたあと、というのはこういう状態なのかもしれない、とぼーっと考えていた。

カメラがパンする。灰の積もった路面から、割れたショーウィンドウへ、建物の壁面へ、空へ。弧を描くように。灰色の世界に少しずつ色が戻ってくる。そして、青空。そうだ、あの日は本当はとてもよい天気だった。カメラは、最後に、哀しくなるほど青い空を映して静止する。

場面が変わる。ハドソン川を渡るフェリーの上だ。乗客の肩越しに、カメラはマンハッタン島を映し出す。まだ、灰で霞んでいる。そこにツインタワーはもうない。クレジットが重なる。


途中からだったので40分ほどでしたが、息を詰めて見てしまいました。
番組は淡々とした作りで、個人的にはかえって好感が持てました(あくまで個人的な感想です)。
あれから今までを思い返してみると、「憎しみは憎しみを生み、終わりはない」ような気がします。理想論かもしれませんが、争いのない世の中がきてほしいと願わずにはおれません。

*ウチは地元のケーブルTVに加入しています。History CHの番組だったと思います。

過去記事を探してみたら、5年前にも記事を書いていました。
あれから10年・上
あれから10年・下

5年前もこのブログやっとったんか・・・

・・・年取ったな<自分
2016.09.09 19:23 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(4) |