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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

はるか昔。
まだOLをやっていた頃のこと(そんな時代もあったわけです)。

小所帯の支社勤務でしたので、あれもこれも、色んなお仕事をちょっとずつ、広く浅くかじらなければならない、そんな毎日でした。
そのお仕事のひとつにヘルプデスクというのがありまして。
製品に関する質問や苦情を受け付け、機器障害の場合は、同じフロアのお隣さんだった保守サービス会社に転送し、苦情は営業につなぎ、操作や表示内容に関する質問に返答するという、こう書いてしまうと難しそうですが、20年以上前のこととて、製品もそう複雑なものではなく、慣れてしまえば、たいていの場合はどうということのない(たまにお客様に怒られましたけど)お仕事です。
その業務に付随して、ヘルプデスクの月次報告書作成というお仕事があり、これは、私を含む、4名ほどの平社員が持ち回りで担当していました。大規模障害の内容の報告とその月の質問の傾向のまとめが中心です。

その月次報告書の1st draftを作成し、上司の承認を貰いに行くのですが、1発OKが出たことはまずなく、必ず1箇所2箇所つっこまれ、「自分の分からないことは書かない」「担当者レベル用語は使わない」と差し戻されるのが常だったのでした。

確かに、特に機器障害については、内容も対策も(保守サービス会社の担当者に取材するのですけど)難しくてよく理解できないことも多く、報告書作成の締切りが迫ってくると、ついつい、「ま、いっか」ととりあえず聞いたままを書くことも多かったのです。でも、そうやって中途半端な理解で書いた文章というのは、確かに、あとで読み直してみると、自分でもよく分からなかったりするのです。書いた自分が分からんもんは、他人には分からんわなあ。
担当者レベル用語というのは、ヘルプデスク(と一部営業&保守サービス担当者)内だけで通じる略語や隠語です。他部署に回る月次報告書には、もちろん使わないのが基本なのですが、普段馴染んでいる言葉ですので、何の気なしに使ってしまっていたりするのです。

この上司の下で働いた5年の間に、社内報告書の書き方の基本(読み手を意識し、読み手が理解できるように書くということ)を叩き込んで頂いたような気がします。


そうやって身体に馴染んだ感のある「分からないことは書かない」ですが、よく考えてみれば、翻訳にも通じるところがあるわけで。普段ソレと意識することはないのですが、翻訳作業をする上でのベースになっているような気がします。

たとえば和訳の場合。
書いてある内容が理解できなくても、辞書に訳語も掲載されていて、文法的にもそう難解ではなくて、何となく訳せてしまう文章ってあります。たとえば、定訳のある試験の手法についての文章とか。
でも、その手法について、たとえ表面的にせよ理解できていなければ、前後の文章がしっくりこなかったり、選択する動詞が適切ではなかったり、ということが往々にしてあるのです。あ、とりあえず、コレ、自分の場合ですが。
そういう時って、知識をお持ちの読み手さんが一読すると、「間違ってはないけど、分からんと訳しとるな、コイツ」ということが透けて見えるような文章になっているのでしょうねえ、きっと。なので、訳文には直接現れない部分も理解してから、訳文を作るように心掛けています。
とはいえ、納期との兼ね合いもあって、特にタイトな案件の場合は、調べものにもどこかでキリをつけなければならなくて、悩ましいところです。

たとえば英訳の場合
意味不明な日本語の文章に出くわすことも少なくはなく。そうでなくとも、いくつも並ぶ形容詞の相互関係が不明だったり、「Aであり、Bであり、Cである」という文章のAとBの関係は、実は「しかし」でつながる逆説じゃないのか、なんてことは日常茶飯事(最近は和訳が多いので、ある意味平和な毎日です)。
調べた結果、疑問が解決することもありますが(たとえば形容詞の掛かりとか)、個人的には、英訳の方が、原稿作成者の意図(真意)が分からなければ先に進めない、つまり、調査だけではどうしようもない場合が多いような気がします(というか、そういう英訳に当たる自分が不運なんだろうか)。そういう時でも、英文としてとりあえず意味をなす文章にしなければならないわけで。
そんな時は、前後の文章や全体の流れや調べた結果から、「たぶんこういうことが言いたいんやろ」とまず(時にはかなり強引に)自分的結論を下し、文章を解体・再構成します。そういう箇所には、念入りに「こう解釈してこう訳しました」とコメントを付けますけど。もちろん、完全な見当違いの理解だったというフィードバックを頂いて、赤面することもありますが。
これも、「分からないことは書かない」とつながっているような気がします。


ということで、Sayoは、今日も、一見簡単そうに見えたのに、実は落とし穴が掘ってあった英文を理解すべく、Googleの樹海をさまようのでありました(で、ちょっと気分転換に来てみたりなんかしてみたりなんかしました)。


最後になりましたが。
その、報告書に厳しかった上司ですけれど。
決して、苦手で仲が悪かった訳ではないです。
冗談を言い合ったりもして(普段はフランク)、うまくやっていたと思います。

バルセロナ五輪の200メートル平泳ぎで、当時14歳の岩崎恭子さんが金メダルをとった次の朝には、「ごめん、一生懸命岩崎恭子ちゃんを応援して疲れたんで、寝過ごしてしもた」と「遅刻します」コールを掛けてくるなど、お茶目な方でもありました(ちなみに、他の多くの社員も、頑張って恭子ちゃんを応援しましたが、皆、這って定時に出勤しています、ご参考まで)。
そうして、ご本人は、「いや~、感動したよね~」と扇子をぱたぱたさせながら、悪びれる様子もなく(部長の前では多少悪びれてましたけど、部長も苦笑いしてました<平和な時代と職場です)重役出勤され、応援し疲れた私たちがへろへろで息も絶え絶えに働く横で、涼しげにお仕事をこなされるのでありました。
それもまた、懐かしい思い出です。


SayoのBackgroundについては「はじめに」カテゴリの記事をご参照ください。
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2011.08.12 13:37 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
フィギュアスケートのペアは、たとえば、カワグチ&スミルノフというように、女性の姓&男性の姓で呼ばれ知られるのが普通なのですが、かつて、(特に北米)フィギュアスケートファンの間で「G&G」として知られたペアがいました。彼らの後、たくさんのペアを見てまいりまして、カワグチさん達を始め、お気に入りのペアも何組もできたのですが、私の中では、今でもG&Gことゴルデーワ&グリンコフが不動の1位です。

フィギュアスケート的にはoffなこの時期、彼ら、特にグリンコフのことを思い出したのは、サッカーの松田直樹選手の訃報に接したからです(心からご冥福をお祈りいたします)。

1995年11月、セルゲイ・グリンコフは、Stars on Iceツアーの練習中にリンクの上で倒れ、そのまま、on-and-off-the-ice partnerであったエカテリーナ・ゴルデーワと幼い女の子を残して、帰らぬ人となりました。まだ28才の若さでした。

G&Gは、オリンピックで2度金メダルを取っています。
一度目(カルガリー/1998年)の時、グリンコフは21歳、ゴルデーワは17歳で、技術的には目を見張るものがありましたけれど、ゴルデーワの方がまだまだ女性というより少女という印象でした。それが、2年も経たない内に綺麗な(というより、「可憐」という言葉の方がぴったりですが)大人の女性に成長したのは、きっと2人の関係が、on-the-ice partnerからon-and-off-the-ice partnerに変化したせいもあったのでしょうね。
「まだまだ現役で」という年齢でしたが、五輪後2年ほどでプロ転向。翌1991年、祖国ロシアで結婚し、アメリカに移り住みます。翌年女の子も生まれ、プロが(一度だけ)復帰できる大会となったリレハンメル五輪で2度目の金メダルを手にし、まさに順風満帆であった時期の突然の死でした。新聞のスポーツ欄の片隅に、危うく見逃してしまうほど小さくその記事が掲載された時は、本当にびっくりしました。

リレハンメル五輪前後の2人の滑りは、この2人だから出せるオーラのようなものが漂っていて、ただもうため息がでるほど優雅で綺麗でした。ソルトレークシティ五輪でカナダペアと金メダルを分け合ったべレズナヤ&シハルリドゼの滑りも、どこか雰囲気が似ていて大好きだったのですが、やはり、本家G&Gには敵わないような気がします。個人的見解ですけど。

さて。
残されたゴルデーワが、グリンコフとの日々を綴った”My Sergei”(日本でも「愛しのセルゲイ」として邦訳が出版されました)が、アメリカで初めて手にした原書でした。作者がEkaterina Gordeeva with E.M. Swiftとなっており、当時、まだ英語がそう流暢ではなかったに違いないゴルデーワの話の聞き書きではないかと思われます。そのせいもあるかもしれませんが、とても分かり易い英語で、最初の1冊としてはぴったりだったなあと思うSayoです。

グリンコフが亡くなった年の冬、スコット・ハミルトンを中心とする、当時のStars on Iceツアーのメンバーだったスケーター達が音頭を取って、追悼アイスショーが開かれました。ツアーメンバーの他に、友人や生前グリンコフがrespectしていたスケーター達も招かれ、その中には、佐藤有香さんの名前もあります。
その中で、ゴルデーワが初めて一人で滑るシーンがあるのですね。
ペアの選手がプログラムを滑り始める前、リンクの端で男性が掌を上にして女性に手を差し出し、女性がその上に自分の手を重ね、手を取り合って、センターポジションに出ていくシーンをTV放映でご覧になった方も多いと思います。
氷上に登場したゴルデーワが、想像上のグリンコフの掌の位置に自分の掌を置いてセンターまで出て行き、そこで、手を放す仕草をして、1人で滑り始める、という感じで始まるプログラムです。何度見ても泣ける。

My Sergeiを読んだ印象は、「おとぎ話のようなラブストーリー」でした。ゴルデーワ自身が外見的に華奢で可憐ないかにも守られる存在的雰囲気を持った女性であったこと、グリンコフが年上だったこと、本の中で(ゴルデーワ目線ですが)いつも頼りになる大人の男性という感じで描かれていたことなどが相まって、特に結婚までは、「可憐な少女は憧れの白馬の騎士と結ばれました」という感じです(←再び、個人的見解です)。おとぎ話ならば、「そうして2人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」となるはずですが、現実はそうではなく。
「でもその現実の世界を、これから一人頑張って歩いて行くからね」というゴルデーワの決意表明のようにも見えるマーラーの交響曲#5であります。

懐かしくなって、ついついYoutubeを散策してしまいました。
興味のある方は、Gordeeva & Grinkov, Olympic, tribute, 1988, 1994などをキーワードに検索してみてください。ついでに他の選手の滑りも堪能しておりまして、帰ってくるのが(?)遅くなりました。

さて、その後ゴルデーワはどうなったかといいますと。
暫くsingles skaterとしてStars on Tourなどで滑っていましたが、2002年にイリヤ・クーリックと再婚し、1女に恵まれました。長野五輪の男子シングルで優勝した、あのクーリックさんです(少し年下です)。今、2人がどうしているかは分からないのですが、2~3年前の記事では、前夫の娘と4人、仲良く写真に納まっていました。
おとぎ話は終わったけれど、現実の世界でもう一度幸せを手に入れた。で、精一杯頑張ってます・・・という感じの、美しくも逞しいゴルデーワ母さんの笑顔でした。


ああ、また語ってしまったよ
(しかもシーズンオフだというのに)
(しかも「翻訳通訳」カテゴリだというのに)。
というわけで、今日もこそこそっと去るSayoさんです。


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2011.08.08 22:08 | フィギュアスケート(~13-14 season)  | トラックバック(-) | コメント(0) |
雑草引き

昨年の春には、それまで1年以上草引きがされていなくて(庭木の剪定だけは、懇意の植木屋さんにお願いしています)無法地帯だった実家の庭ですが、昨シーズン、ほぼ毎週通ってせっせと引き引きしたので、今年は、今のところ無法地帯3歩手前くらいの状態での攻防です。

ムヒスプレー、携帯型虫除け、首回り保冷剤入り手拭い、垂れつき帽子で武装した自分の姿は、どの角度から見ても、「これから野良仕事に行きますねんおばさん」以外の何者でもなく、ちょっと悲しかったりもするのですが、背に腹は変えられません。昨年は、ヤブ蚊にエラい目に遭いましたからね。
雑草引きという行為自体は決して嫌いではないんですが、あの蚊だけは何とかならんか~(怒)
とはいえ、雑草の何と生命力旺盛で逞しいこと。昔、「雑草のように強く逞しくありたい」とか何とか、分かったような口をきいていた時期もあったような気がしますが、訂正。もう、暫く雑草いらんし(←とりあえず、ウチの実家の庭)。

というわけで、雑草&ヤブ蚊との攻防は9月末頃まで続きます。


実家を片付ける

自分の実家ではありますが、もともと、残念ながら、あまり「帰りたい」と思える場所ではなかったのでした。それに、私は嫁いだ人間ですし、将来は旦那実家で暮らす予定の身。何年か先のことにはなろうかと思いますが、実家は処分するつもりです。
というわけで。
昨年の秋頃から、少しずつ片付けてはいるのですが、狭い家なのに、やたらモノが多い。
亡くなって久しい祖母や伯母のものまで、新品に近い下着から古い通帳や手紙(←どう見ても戦前のものらしきシロモノもアリ<それはそれで、歴史的価値は・・・ないやろなあ)まで、それこそ何から何まで残してある。
ということで、捨てても捨てても減りません。
「いつになったら片付くねん(それ以前に片付く日は来るのか??)」とため息の出る今日この頃。最終的には、たとえばKeepersさんのような遺品処理業者にお願いして大物を片付けることになろうかと思うのですが、Privateなものは、できるだけ自分の手で処分したい。
ということで、Sayo、悩める夏であります。

・祖母、伯母、両親が若い頃から今までの写真
「自分の写真ではない」ということで、最初の1枚を破り捨てるまでは勇気(?)がいりましたが、その後は、結構さくさく処分致しました。「残しておいても最後は誰かに処分してもらわなあかんしな~」と思うと、手も進むのでありました。「他人の写真を処分するのはあまり気持ちのいいものではない」ということも実感しましたので、実家に残してあった自分の写真もかなり処分しました。それでも、「記念に」「思い出に」と100枚超の写真が手元に残りました。

・手紙関係
とりあえず、年賀状・暑中見舞い等時候の挨拶的なものはすべて処分。それ以外の私信は、まだ何となく手を付けられずにいます。未使用の切手は貰ったぜっ(ただし62円切手とか金額が中途半端)。

・その場の書類
古い領収証類はほぼ処分。実家の購入に係る各種書類はひとまとめにしてとりあえず保管。

・書籍
殆どが本好きだった父の蔵書。本人とまだ細かな意思の疎通が出来ていた頃、「図書館に寄贈するように」との指令を貰っているのですが、図書館(府/県立、大学付属など)の返事は、どこも「スペースに限りがありますので、目録を作成して貰えれば、内容を確認し、ウチが所蔵していないものは引き取ります」と、納得できる内容とはいえつれないもの。つか、1万冊超の書籍の目録作れってかよ(怒)。仕事関係(労働災害、安全衛生)だったり、趣味関係(考古学)だったり、第二次大戦時の様々な記録だったりと、あまりBookOff的な古書店向きではない本が殆どです。個人的にも、できれば、図書館とか専門の古書店とかに引き取ってほしいと思っているのですが・・・ということで、現在、鋭意放置中(確信犯)。

・趣味の品々
これらの品々の処分に、実は一番頭を悩ませていたりします。
「好きでやっていたこと」だと思うと、たとえ他人の目から見て無価値に見えるものでも、ちゃっちゃと処分するのは(心情的に)難しい。
たとえば、伯母は長く書道をやっていたので、額装された作品がいくつも残っている。ソレ全部、旦那の実家には持っていけません。母の場合は洋裁が趣味だったので、布地だの端切れだの完成済み/作りかけの小物だのエプロンだのが、至るところに散乱しています。
父は茶道の師範の資格を持っていて(!)、私が幼い頃は、ボランティア感覚で、近所の悪ガキどもにお点前を教えていたそうな(お茶そのものより、行儀作法を教えてやってほしいと頼まれたようです)。なので、茶道具やらお茶椀やらがそれなりにあるのですが、およそがさつな私には、それらの価値が全く分からない。いや、「何でも鑑定団」(関西ローカル番組でしたっけ?)に出品するほどのものではないのは確かなんですが。
てことで。
どおおおしたらいいいいんだあああっ、これらの品々。 

「趣味のあれこれはこう処分して」という指示がひと言でもあればなあと切実に思います。まあ、気持ちの問題なんですけど。
そんなわけで、友人からは笑われるのですが、そろそろ自分も身辺整理について考えなあかんなあと思ったりなんかしている、ばばくさいSayoなのでした(決して、持ち物を処分していくということではありませんが、「不測の事態が発生したら、こうしてほしい」ということを書きつけておく必要はあるかなあと思っています)。

てことで、明日も実家で草引きなSayoであります。


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2011.08.05 19:10 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
あっという間に7月が終わってしまったよ。
てことは、1年も半分以上が余裕で過ぎたってことで。
1日1日はたいして長くは感じないのですが、
1週間、ひと月が過ぎるのは何と早いのでしょう。

こんな調子では、あっという間に(知らない間に)
「50代」に乗っかってしまっていそうです(来年ですけど)。
でも、30代から40代に昇格(?)した時も、
過ぎてしまえば何てことなかったので、
40代から50代もたぶん同じでしょう。
体力面については、10年前に戻りたいと思いますが。
何やかやと身体にガタが来たのは、40代に入ってからでしたので。
30代後半の体力と健康、Come baaaaaaaaack!(切実)

で、何でしたっけ。
そうそう、7月の総括でしたね。

終わってみれば、ぼちぼち働いた7月でした。
今後も、この状態を維持したいですが、
それには、何よりまず、
「全てのお仕事を、1件1件丁寧に、いつも一発勝負であることを忘れずに」
てことだよなと、ちょっと気を引き締めたりなんかして、8月に臨みます。

案件数で5件。
例によって小さな案件ばかりでした。

医薬分野のお仕事もありましたが、
1件はウエブページの翻訳、その他は医療機器がらみでした(やっぱしね~)。

とはいえ、医療機器とはいっても、専門用語や解剖学的な知識は必要だし、ネットだけでは解決できそうにない&少し時間的に余裕がある案件については、図書館に走り(←大きな図書館にチャリで5分という絶好のロケーションに住んでます<図書館の方が引っ越してきてくれた)、どれも青息吐息で納品致しました。
調べまくっての訳文作成でしたが、これは、今までもそうでしたので、これまでと特に変わったことはありません。ただ、「本当にこれでいいのか??」と悩んだ単語(フレーズ)は多かったです。これは、今後、調査&文献多読を通して学んで&慣れて行くしかないのかなあと思います(引き続きお仕事が頂ければ、の話ですが)。

今後も、自分はこの路線(=医薬翻訳分野の医療機器の「ニッチ」)かなあという気が致しますが、人体に係ることは、ずっと興味があったことですし、少しでもソコに近い場所でお仕事ができるのは、やはり嬉しいです。
工業分野の翻訳ともバランスを取りながら、今後も、いつもの「来るものは(内容&納期的にいかにも無理そうなもの以外は)拒まず、その時の自分の(体調も含めて)できそうと思う範囲で」というスタンスで、暫くやってみようと思います。おやじ様も、その後、低空飛行ながら状態は安定してくれておりますので(今は、実家の片付けと草引きと水遣りが大変でございます~←そのうち記事にします)。

私は、医薬翻訳に関しては、「そのうち、できればいつか、できればいいな♪」的だらだら勉強を10年超に渡って続けてきたわけなんですが、おかげというか何というか、解剖生理を様々なorgan systemsを関連付けながら、きちんと勉強する時間を持つことができました(その経緯は軽くコチラ)。そのほとんどは、今では普段は記憶の彼方ですが、お仕事を頂いて調査を始めると、「あ、これやった」「この英語あのtextで見たかも」ということが多々あり、たとえ直接的ではなくとも、少なからず、そうした過去の勉強に助けて貰ったと思います。同時に、あのゼイタクな時間の間に、どうして有機化学の授業を取らなかったんだろうと、結構後悔していたり致します。
10年の間には、「勉強のための勉強してるのか~自分」と思ったこともありましたが、やっぱり、頑張って報われないことはあっても(←旦那を見ていてそう思うことがあります)、頑張って無駄になることはないんだわ~と、しみじみ思ったりなんかして・・・いたら、セミが飛び込んできて(網戸のないただの回転窓ですから)、ちょっと大変だったりしたのでした。

やはり、しみじみ感慨に浸っていると、ロクなことはないようです。
てことで、気を取り直して、体調に気をつけて、今月もぼちぼち頑張ります。


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2011.08.01 14:37 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |