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2012. 03. 07  
てことで、タイトルから想像するまでもなく、
今日は翻訳とは何の関係もない記事なので、
お好みによりスルーしてやってください。


四十九日も無事に済みましたので、
思うところなどまとめてみたりなどしました。
というか、ただただ雑感。


意思の疎通のほぼ不可能な親を前にして、
「元気な頃の親が今の自分の姿を見たら、
果たしてこんな姿で生きていたいと思うだろうか」
「生きていてほしいと願うのは、
子供の自己満足ではないのか」
というのは、たぶん誰もが一度は胸に抱く問いかと思うのですが。

先日も、私が時々ブログにお邪魔する介護の先輩が
記事の中で自問されておられました。
その方は、私よりも長い間、ずっと大変な思いをされてきた方で、
それでも、いつも、冷静な目で、でも優しい眼差しでユーモア混じりに、
様々なことを綴られる方なのですけれど、
そのような方でも(いや、そんな方だからこそ、なのかな?)
時に、この不毛な(だって正解ないし)
問いかけをせずにはいられないってことなのでしょうか。

私、時々こっそりコメントさせて頂いているので、
今回も(生意気に)こっそりコメント致しました(アンタ何様?<自分)。

(一部抜粋&ちょろっと改稿)
もし、両親の「しっかりしていた頃」の魂が、最後の頃の自分の姿を見ることができたとしたら、どうしたろうって考えます。言いたいことも言葉にできない、下の世話も人任せ、食事を摂ることさえできない自分の姿を見たらたぶん、「早くあの世に送って」と思うとは思うのですが、「少しでも長く生きてほしい」と思う娘の心の中を覗き込むことができたとしたら、諦めの気持ちとともに、そんな自分の姿もそのまま受け入れてくれるのではないかと。「娘がそう願うのなら、このままこの姿で最後まで生を全うしよう」って。親とか連れ合いとかって、究極的にはそういうものではないでしょうか。
多くの人は、特に、その一生の最後の数時間、数日、数ヶ月あるいは数年を、自分自身のためというより、誰かのために生きるのではないかと思います。たとえ、それが時に自分の意に染まぬ形であったとしても、です。本来、人の「死」とか「死に様」とかいうものは、そのようにして次の世代に申し送られていくものなのではないかと。
(抜粋ここまで)

いや~、母の場合は分かりませんけどね~。
「こんな姿は死んでも嫌、何とかして」とか激怒して夢枕に立ちそうですが・・・とか言うくらい色々あった母ですが、胃婁でほぼ傾眠状態となってしまった最後の1年間、状態が改善されないことは分かっていても、やはり心のどこかでいつも「死なないでほしい」と思っていました。

とりあえず、今のところ、こうやって自分を納得させていますが(まあね、そう思わないとちょっと哀し過ぎるかな? という部分も正直ありますしね)、これはもともと1人1人答えの違う問いではあるし、その時々の身体/精神/生活の状態によっても変わってくるものかなと思いますので、来年の今頃はまたちょっと違ったことを言っているかも。
これまで、たくさんの方の意見をお聞きしたり、たくさんの方に助けて頂いたり。その方たちの存在がなければ、今この同じ自分はいないかなとも思いますが、この問いについては、最終的に自分を納得させられるのは自分しかないのかなと思う今日この頃です。

と、今日もちょっと哲学的になってみましたが、
実はそんな風にまったり考え事に耽ったりしている場合ではなく、
本来、ここは化学分析と格闘中のはずのSayoなのでした。
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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