屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

という硬いタイトルの割にはユルい記事です。


「自宅で翻訳の仕事をしています」と言った時、さすがにひと昔前のように「優雅な仕事やね」と言われることは(ほぼ)なくなりましたが、「家にいて好きな時にできるからいいわね」と言われることは多いです。「毎日出勤の必要がなく、嫌いな人と上手く付き合う必要もなく、自分の采配で時間配分をして都合のいい時間に仕事ができて、それなりの収入がある」という感じで捉えられる方が多いようです。でもって、日当たりのよい雑然と片付いた(?)部屋で、お洒落な部屋着を着てお洒落な老眼鏡(??)を掛けお洒落なBGMの下きりっと仕事に励み、夕方にはその日の仕事を終えて夜は優雅に自分の時間を楽しむ毎日を送り・・・って、これは私の願望というか妄想ですが。

パソコン椅子の上に胡坐かいて仕事してますが、それが何か?(その姿勢が一番楽なので)
くたびれたジャージの上下の上にくたびれたカーディガンを羽織って(もっと寒くなると旦那の古いコートが登場する)仕事してますが、それが何か?(<いい加減に買えよ<自分)
冷暖房完備(冬、夏の順です、念のため)の屋根裏で、翻訳とは無関係な様々なモノたちに囲まれ、肩身狭く働いてますが、それが何か?(小さい回転窓ではなくもちっと風の通る普通の窓がほしい<それ以上多くは望みません)
外出の必要がないというより買い物に出る時間もない時がありますが、それが何か?(道を渡ったところにLAWSON、200mほど先に小さなスーパーがあるのでホント助かってます)
忙しい時は昼も夕方も夜も、ついでに深夜も働きますが、それが何か?(なので午前中は使い物にならない<何の罪もない宅配便のお兄さんにもメンチ切る)

現実とのギャップに凄い違和感を感じて、「全然違うんですよ~」とムキになって説明していた時期もありましたが、この頃では、「そうですね~、へへへ~」で済ますことも多くなりました。年を取って面倒臭くなった+何言われても大して気にならなくなったようです(それは、ある意味「暴走老人」への道を突き進んでいる訳で、危険っちゃあ危険なのですが)。

そんな私の「翻訳をする人」との始めての遭遇は、曾野綾子さんの「太郎物語」。太郎君のお母さんが翻訳者で。詳しい内容はもう忘れてしまいましたが、太郎君のお母さんは、決して格好よくはなく、膏薬貼ったり息子に肩を揉んでもらったりしつつ時には文句かましながら、でかい英英辞典を傍らに地味に頑張っておられたような気がする。そんなわけで、私の「翻訳者」のイメージは「地味に黙々と(文句垂れながら)仕事に励む太郎君のお母さん」。夢見る必要とかなかったわけです。

そんな私のこの頃の「翻訳をする人」の淡いイメージは、こんな↓感じです。

実はそれなりにうまく人付き合いができる。
人付き合いが好きかどうかはまた別として、翻訳者として仕事をしていくために、相手ときちんとお付き合いできることは必要だと思うのです。だって、「会社」という後ろ盾がないわけですし。殆どの場合、メールと電話だけで関係を築いていかなければならない訳ですし。「きちんとした人だが、多少ユーモアを介し、メールなり電話なりで相談しやすい」ということは大事だと思うのですね。ということで、それなりの期間それなりに翻訳のお仕事をされている方は、それなりに人付き合いがうまい人ではないかなと思ったりするわけです。私はですね、上手いは「?」ですが下手でもないかなと思います。(ごく)たまにはユーモアもかまします。普段のブログがこんな感じですので。と言っても、こちらから広く積極的にお付き合いを広げていくことは苦手なんですが(小心者なので)。

それなりに自分を律することができる。
いやいやいや、と仰る方も、皆さん、計画を立ててそれなりに自分を律してお仕事していらっしゃると思うのです。だって、ある程度まとまったお仕事を頂いたら、どれくらいのペースで働かないと納期に間に合わないかざくっと計算しないといけないし。そこに子供さん関連の用事とか実家関連の用事とかその他の雑用+不測の事態+NHK杯(??)が入ってくるわけで。それらをこなしながら仕事をするには、「計画を立て自分を律する」ことが不可欠だと思うのです。立てた計画に対して、夏休みの宿題のように、「毎日少しずつ進めて行く型」「基本ラストスパート型」という違いはあるかなとは思いますが。

運動不足の可能性はあるが健康にはそれなりに気を使う。
・・・というのは、まあ私の場合ですが。だって身体が資本だし。身体を壊して休むほどに収入が減るし。旦那さんのように休業補償はないし。自分の身体は自分で守るしかないわけで、運動不足・体力不足のSayoとしては、とにかく疲れを溜めないようにするしかないわけです。なので、暇があれば寝ます(でも不眠症)。夏の終わり頃は、気候がよくなったらウォーキングでもしよーかなー、とか思ったりしていた訳ですが、そうこうする間に世間はまたまた宜しくない気候になりつつあるようなのでした。

どうやら腰痛持ちが多いらしい。
統計を取ったわけではないので間違っている可能性もありますが(根拠のない狭い身の回り情報)。座り仕事ですから、実際に「多い」と聞いても納得はできます。50過ぎると朝起きる時辛くなってまいりますので、どうぞくれぐれも腰にはご注意ください(まあ、私には数度の「ぎっくり」前科があるんですが<背筋鍛えろよって話です<自分)


そんなこんな、優雅とは程多い毎日のSayoなのであった。
今日はこれからお歳暮を贈りに行って、夜は「相棒」みながら喪中葉書書くぞ~。
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2012.11.28 12:50 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(6) |

そんなわけで。
すでに翻訳ブログとしてのidentityを捨てたと思われる「屋根裏」でございます。
本記事は、昨年の「フィギュアNHK杯(見れなかった)話」と併せて読んで頂くのが宜しいかと。

仕事の関係で金・土と悲しく在宅しておりましたので、「今年こそ、(せめて)日本人選手の滑りを見るぞー(LIVEで)」と、ウエブ上のLIVE結果更新に目を光らせ(そんなことをしているから、もちろん仕事は捗らないのであった)、今年は時間計算を間違えず、羽生・高橋両選手のSP&FP、浅田選手のSP、鈴木・浅田両選手のFP、デイビス・ホワイト組のショートダンス(アイスダンス)を見ることができたのでした(鈴木選手のSP、デイビス・ホワイト組のフリーダンスは失敗したので、今井選手の滑りと一緒にNHKのウエブサイトで確認しました<でも頻繁に動画が止まるのだった<それは、ウチのPCのせいかもしれません)。

その根性薄い動画たちはコチラ↓です。
http://www1.nhk.or.jp/figure/movies/index.html

日本人選手の頑張り&パフォーマンスについては、
Sayoの講釈ではなく、八木沼さん・本田君の解説でお楽しみください。
途中で何度も画像が止まりやがりますけど(たぶん)。


さて。
今、日本男子は「最強男子」と呼ばれているようで、
本田君が1人で頑張っている背中(?)を見てきたSayoとしては、
4名がGPファイナルに出場するという事実に感慨深いものがありました。
私の目が黒いうちに、こんな時代がやって来ようとは~。
(大袈裟です<でも、たぶん、解説者席で本田君も感慨深かったと思う)

そんな私のこの頃のお気に入りは、やはり高橋・鈴木選手なのでした。
(町田選手のパフォーマンスにもくらっときて、今期ビミョーに浮気中)

技術的なことは殆ど分からないSayoが、自分の中で「よいプログラムなのかそうでもないのか、(ジャンプの失敗は別として)よい演技なのかそうでないのか」を決める基準は、「早く終わったかどうか」です。「え、もう終わりなの?」という時は、世間的評価は別として、自分の中では「よいプログラム、よいパフォーマンス」に(勝手に)分類しています(「よい」と言うより「好きな」の方が妥当かも)。
両選手のプログラムは、私的にはまず間違いなく、この「よい(好きな)」に分類されます。
(もちろん個人的好みもありますので、「おばはんが勝手なこと言うとる」くらいに思って読んでやってください)
今シーズンはどんなプログラムで来るのか? というのが毎期楽しみなのです。
「戦う用」のプログラムでありながら、ショーナンバーを楽しませて貰っているような、そんな感じです。ノーミスで滑ってほしいけど、失敗しても転んでも何度でも見たい、みたいな?

それがですね。
今回の鈴木選手のFP「シルクドソレイユ」は、「終わらないで~」と思いました。「もう終わりやん(残念)」ではなく、「もっと滑り続けて~」と(いや、それはさすがに体力的に無理でしょうが)。ストーリーを作って滑る選手は多いですが、鈴木選手の「シルクドソレイユ」は滑っている背景に色んな物語が見えるような、そんな感じだったのでした。で、不覚にも涙してしまったのでした。

だから、何度も見たいわけで、お願いですから、途中でがしがし画像を止めないでやってくださいまし(泣)。
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2012.11.24 22:55 | フィギュアスケート(~13-14 season)  | トラックバック(-) | コメント(9) |
本当は、ここは、一生懸命働いているべき時間帯なのですが、「新・翻訳者つれづれ日記」のKYOKOさんが「『人生後半戦の生き方』(I)-諦めること」という不定期連載(たぶん)を初められ、1個前の「翻訳者になりたいんですけど」の記事のコメントで、「私も『後半戦』についてまとめてみます」などとほざいてしまった手前、KYOKOさんより年齢的には少し上の私としては、このままスルーしては失礼に当たるよな~(?)と、勝手に思ったりしてしまったわけです。

私にとっては、「50歳からの人生」ではなく「親を看取ってからの人生」なのですが。

それは、たぶん、人様とはちょっと変わっているかもという気もしますので、その話をする前に、ちょっと自分のバックグラウンドに触れておきます。
私の祖母は、地主のお嬢さんでした(らしい)。女系家族で跡継ぎがなく、隣村から婿養子を迎えたのですが、祖父は気弱で優しく、どうもそれが一家の凋落の原因となってしまったようです。祖母は、そんな祖父を追い出し自分が戸主に収まったほど気の強い人でした。その頃には、我が家は一文無しだったようですが。とにかく、そんな訳で、祖母にとって大事なことは、**家の名前を絶やさないことで、わたしも子供の頃から、そのように言われて育ちました。父は寡黙な人で、心の中では同じように思っていたようですが、決してそれを私に強要したことはありませんでした。母は、それらの全てが気に入らなかったようですが、かといって気の強い祖母や年の離れた夫に楯突くだけの度胸はなく、私がそのはけ口になった感じはあります。ま、私は、(決して反抗心からではありませんが)「そんなの関係ないも~ん!」と旦那と出会って結婚し旦那姓になった訳ですけど、心の中にはいつも、「きちんと両親を送り、最後は実家の墓を永代供養にし、きちんと実家を処分する」ことが**家の最後1人になった自分の最低なすべき仕事である、という思いがありました(でもって、本当に最後の1人なんです)。

そうして、無事に(?)両親を送り、自分の身体が思うように動かなくなる頃にはお寺に永代供養をお願いできるだけの(たぶん)資金もでき(ていうか父から相続しただけですけど)、時間は掛かると思いますが、あとは実家を処分するだけとなった今、これからの私の人生は「余生」です。…て、別に隠遁するわけじゃありませんが、気分はそんな感じってことです。これからの人生で、たぶん義父母を送り旦那を送り、義妹の行く末を安泰にし、持ち物はとことん減らし(本だけは残したいところですが、最後のお別れでお棺に本を入れるのは、葬儀屋さんにあまりいい顔されませんしね<焼いた後で灰が舞い上がるので、あんまりヨロシくないんだって)最後は、旦那実家の隣に住む遠い親戚に「最後だけお願いね」とお願いして自分の人生を終えることになるでしょう。もちろん、できる限り仕事は続けるでしょうし、数は少ないですがお友達とのお付き合いもぼちぼち続けるでしょうし、気の合う新しいお友達もできるでしょうし、たまには近場に出掛けたりもするでしょうが、それも自分的には「余生」のうちです。だって、色々あって大変なこともあったけど、今までそれなりに好きに生きてきたも~ん。

それって、淋しい人生ですか?

日々「あれもほしい、これもほしい」の物欲の塊な旦那にはこの「もう余生だよ~ん」な感覚が分からないようで、「淋しい人生やな」と言われますが(とどとか呼んでますが、決して仲が悪いわけじゃないですよ)、私にとっては、とても私らしい人生だなという気がします。人生の終わりを意識し出した50代からの生き方、「本当に止めたくないこと、続けたいこと、これだけはやってみたいこと」を取捨選択して3つくらい残し、時には介護だったり病気だったりと、様々な障害に悩まされつつも、ゆるゆるとそれらを続けていくのが理想です。それは海外旅行だったりスポーツだったり人によって様々でしょうし、私みたいに、「翻訳、書く、読む」と極めて地味~なものである場合もあるでしょう。まあ、スポーツとは行かないまでも、ある程度、特に足腰とバランス感覚を維持する必要はあるよね。これは両親を見ていてしみじみと思いました。50からの人生、「あれもしたい」「これもやってみたかった」とやりたいことを増やしていくのではなく、「本当にこれだけはやりたいこと」と引き算的にやりたいことを絞っていくのは、決してネガティブではないと思うのです。
まあ、そういう考え方もありってことで。要は、「これからどう生きたいんだろう」とちょっと整理してみることが大事なのかな、と。親なし子なし、ある意味気楽(お気楽ばっかでもないですが)な身分だから言えることかも、ですが。そうして、自分がある程度満足できればそれでいいのかも。どんな人生でも。

役に立たない記事ですいませんです。
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2012.11.21 15:52 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(4) |
が大切と仰ったのは、医薬翻訳者の間では知る人ぞ知るM先生。

「わからない文章をわからないまま訳しても、商品にはなりません。『この訳文の意味するところは自分には理解できないけれども、文法的にみて原文は反映している。プロなら理解できる』ということは決してありません。訳者にわからない訳文は、誰が読んでもわかりません」
(「新版・医薬・薬学の翻訳・通訳完全ガイドブック」62ページ)

私は、この先生のマスターコースを受講してこてんぱんにされた過去があるので(←決してイジめられたという意味ではありません<念のため)、意味がよく分からない文(章)については、種々調査の上、間違っていようが強引だろうが苦し紛れだろうが、とにかく、自分で「コレ」と解釈した上で訳すよう、いちおー努力しています(ちゃんとコメントは付けるよ)。

今回も、そんな「分から~ん」文章4行に出会い、1時間半調べたり悩んだりした末、「4行に1時間半も掛けとれんわい」と、自分なりに「こうじゃないか」と多少無理がないでもない解釈をした訳文を作り、丁寧にコメントを付けました。論文っぽい文章の手法の部分。その数ページあとに、結果の記載があり、結果部分を全て訳し終えた時点で、「分から~ん」の謎は氷解しました。私、間違ってました。訳文作りに唸っていた時、「もしかしてここに答えがあるかも」と「結果」の頭の部分をチェックしたのですが、しんどかったので、最後まで精読しなかったのでした。そのツケがこうして自分に帰ってきたのでした。「私の1時間半を返して~」と(心の中でささやかに)毒付きながら、訳文を修正し、呻吟の末の労作コメントを削除しました(涙)。でも、自分が悪いので、誰に八つ当たりすることもできません。「せめて、ココ、ココにコンマ付けとけよな~」と原文作者様に(心の中でささやかに)責任転嫁してみました。
まだまだ修行が足りないSayoでございます。


さて。
今週末は、世間はNHK杯のようですが。
昨年もNHK杯の頃は修羅場っていたようですが、今年はすでに予定よりかなりのbehindで修羅場決定(なのにブログを書いている自分<translator’s high)。
というわけで、今年もYou tubeを彷徨うことになりそうです。

今年は、個人的に町田樹選手に注目。GPファイナル出場も決めました。
数年前、ジュニア時代に始めて見た時は、全体的な感じが「ミニ高橋君だ~」と思えてしまって、実はあまり好印象ではなかったのでした(ファンの皆さん、ごめんなさいね)。
それがですね、今年、別件(?)でYou tubeを彷徨っていた時、彼のEXナンバーに偶然遭遇しまして。自分も「演技する」ことを心から楽しんでいて、同時に観客も楽しませようという気持ちが伝わってきました。
そんなわけでですね、今、密かに無節操に応援中。
そのEXナンバーはこちら↓です。

http://www.youtube.com/watch?v=71gqn1dWrN0&feature=related
「必殺仕事人風アランフェス」
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2012.11.13 13:17 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |
てことで、やっと「Micro」です。
...ていうか、ここはいったい何のブログなんだろう<自分。

この非常時に(2つ前の記事↓を参照)、何悠長に大作読んどんねんという厳しいご意見もあろうかと存じますが、いつもの「ながらリスニング」の一環ということでお許しください。2度目の分納が済んで、ほんのわずかの開放感。今日はこれから、溜まった外回り仕事(?)をやっつけて、夕方から、また心を入れ替える予定。

てことで、聞流しですので、一部理解した内容が間違っている可能性があります。ご注意ください。


Crichtonが残した、全体の4分の1ほどの原稿+プロット+資料から、2年の歳月を掛けてPrestonが完成させたという、Crichtonの遺作。

どこまでがCrichtonの原稿なのだろうと思いながら聴きました。が、もちろん、非Native SpeakerのSayoには、(たとえあったとしても)表現の微妙な違いなど分かろうはずもないのでした。いずれにしても、訳書では、酒井明昭伸氏が、見事に「ひとつの作品」にして下さっているはずです。Crichtonの作品では、「ジュラシックパーク」(正/続)、「NEXT」を訳書で読み、「Pray」「Timeline」をながらリスニングしましたが、全体「Crichton」テイストのように感じました。森林中でのサバイバルの詳細な描写は、Prestonの手になるものではないかという気がしますけど。Prestonも、ぐいぐい読ませてくれる方ですし、ご自身「Cobra Event」という小説も書いておられますので、Prestonが引き継いだのは妥当な選択だなあと思いました。

「ジュラシックパーク」(主要登場人物サバイバル<で順番に舞台から退場)系の話らしいということが分かった時点で、心安らかに最後まで聴き続けるため、図書館に走り、「マイクロワールド(下巻)」をラストから100ページほどざくっと立ち読みし(ストーリーは分からないまま登場人物の去就だけ確認するという、こういう読み方は結構得意)、誰が生き残ったのかを確認しました。結果、「この組み合わせでこの人数かい~!!!(驚倒)」でしたが、ともかく「心安らかに最後まで」の目的は果たすことができました。

面白かったですが、日本語で読むのは、人によっては「・・・(熟考の余地あり)」かもと思いました。小人化された学生たちが鳥や昆虫やハンターと戦って敗れ去っていく様は、個人的には、「ジュラシックパーク」よりグロい描写ではないかと。日本語で読むと、簡単に脳内動画変換できてしまう部分が、英語なのでワンクッションあることに加え、耳から入れるためにストーリーを聴き取ることに集中していて、ささっと流せた感はあります。CGや3D技術が進んだ現在、映画向きの題材という感じはしますが、小心者のSayoは、映画化されても見に行かないと思います。

ストーリーは、だいたいこんな感じ↓
(多少ネタバレあっても面白く読めるかと思いますが、いちおー、ここで回れ右の判断をなさって下さい。ちょっとスペースを置いときます)







7名のScience専攻の大学院生が、磁気を利用して物体を矮小化する技術を開発したNanigen社(ハワイ)のpsychopath社長の手によって2分の1インチの大きさに小人化され、証拠隠しのために、Nanigen社所有の森林中に放り出されるというもの。長くその状態でいると、bendsと呼ばれる止血不能の状態に陥り死に至るため、何としてもTensor coreと呼ばれるその装置で、元のサイズに戻らなければなりません。かくして、7人の森林脱出行が開始されます。
で、多くの仲間が敗れ去って行き、一部メンバーがやっとのことでNanigen社まで辿り着くのですが、そこにも、こちらは人工の産物であるBotと呼ばれるミニキラーロボットが待ち受けています。1~2ミリの大きさしかないのですが、ナイフだのハサミだの物騒な武器を備えていて、小さな切り傷をこさえるのみならず、体内に入り込んで中から動脈を切断し敵を殺傷します。昆虫も怖いですが、こっちもかなり怖い。個人的には、怖さヴェロキラプトル(「ジュラシックパーク」)級。それから、こっちは実際に学生相手に立ち回り(?)こそしなかったものの、致死薬物ミサイルを備えたHell stormというBotもいます。最後には、皆さん焼き尽くされちゃうようですが。

さて。
この「Micro」は、著者(Crichton)のIntroductionから始まっています。
その中で、Crichtonは、現代の子供たちは自然に触れる機会がなくなったと嘆き、実際には自然をunderstandできていなくてmanageしているだけと述べています。それが、小人化した学生たちのサバイバル物語に繋がっていくのですが、じゃあ、機械を小型化する技術にはどう繋がって行くのだろうというのが、ちょっと疑問として残りました。
Nanigen社は、もともと自然界から病気の治療に用いられる薬物を得ることを目的としていて、小型化技術もその目的を果たすためなのですが(と金儲けに走るPsychopath社長は熱く語っている<嘘こけ)、ラストの方では、どう見ても武器造りが主目的としか思えない感じになってしまっていて、自然界での冒険と小型化技術が分断されてしまったような印象を受けました。せっかくの技術なのに、(ストーリー中で)学生たちを自然界に放り出す役割しか果たさないTensor coreは悲しすぎますし、(手術や薬のデリバリで)医学界に大きく貢献できる可能性を秘めながら、人を攻撃するためだけにせっせと働かされる(?)Botたちは不憫です。うまく言えないのですが、様々な内容を詰め込もうとし過ぎて、全体少し散漫になってしまったような印象を受けました。などとエラソーに書いてしまいましたが、十分面白かったのは事実です。でもって、あくまで、個人的な感想です。
それにしても、Crichtonは、自然とBot技術をどう結びつけようとしていたんだろう。残念なことに、Introductionには、その部分への言及はなく、not finishedと終わっています。

Crichtonの新作がもう読めないのは残念です。
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2012.11.07 12:33 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |