屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

樋口了一さんという方が歌われている歌です。
「認知症の母から子どもに宛てた手紙」の形をとっています。
(歌詞は記事の最後に記載します)

数年前に発表された歌ですので、これまで何度か認知症介護家族の掲示板やブログでも話題になりました。いつも、という訳ではありませんが、かなりの確率で「好き(感動した)」と「嫌い(綺麗ごと過ぎ)」にはっきり分かれていたような記憶があります。

私は、母とのことがテンパっていた時期ということもあると思いますが、始めてこの歌詞を読んだ時、何とも言えず嫌な気持ちになりました。自分はどうしてもそんな風に思えなかったからです。歌の中の母親を自分の母に重ね合わせ、「今更そんなこと言われてもそんな風には考えられんのじゃ」というのが正直なところでした。

でも、この歌がメディアで取り上げられる時は、「誰もが感動する」とか「誰もが泣いた」みたいな枕詞がつくようです(そういう枕詞はcatchyだしね)。まだ「母が嫌いな自分」を受け入れられないでいた私は、「どうやら自分は人並みの心を持っていないらしい」と、とても苦しかったものです(いや、実際は「鋼鉄の心臓」と呼ばれてるんですけどね)。

その母が亡くなって2年。今でも、「母の心が理解はできるが心は寄り添えない」状態ではありますが、かなり客観的に昔を振り返ることができるようになった今、もう一度「手紙」の歌詞を読んだ時、どんな風に感じるだろうとフと思ったのでした。

という訳で、読んでみました。

今回は、「自分の記憶がなくなって行く母親」の立場に身を置くことができました。きっと、母もこんな風に不安だったのだろう、我侭に縋ることで、暴発することで、その不安から逃げようとしていたのだろうなと思えました。そう考えながら読むと、その部分はただただ哀しい。とは言っても、決して感動した訳ではなく、やはり「好きだな、いい歌だな」とは思えませんでした。
ただ、「あなたの人生のはじまりに私がしっかりと付き添ったように 私の人生の終わりに少しだけ付き合って欲しい」の部分にはぐっとくるものはありました。
送って初めて分ることもあるのかもしれないと思いました。

とはいえ、主介護者として介護のただ中にあり、疲れて気持ちに余裕のない家族には「聞きたくない辛い歌」「心をかき乱す歌」になる可能性も高いような気がします。

この歌の受け止め方は、その時々で、人それぞれになるような気がします。だって、介護の形も親子関係もそれこそ千差万別なのだから。この歌に感動できない自分を、そのことだけで責めないでほしいと思います。



(歌詞はUta-Netさんからお借りしました)

「手紙~親愛なる子供たちへ~」
作詞:不詳、日本語詞:角智織、補作詞:樋口了一

年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても 
どうかそのままの私のことを理解して欲しい

私が服の上に食べ物をこぼしたとしても 靴ひもを結び忘れても 
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい 

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても 
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい 

あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は 
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた 

悲しいことではないんだ
消え去ってゆくように見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり 
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい 

あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 
様々な理由をつけて いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ 
旅立ちの前の準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい 

いずれ歯も弱り 飲み込むことさえ出来なくなるかもしれない 
足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったなら 
あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように 
よろめく私にどうかあなたの手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい 
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど 
私を理解して支えてくれる心だけを持っていて欲しい 
きっとそれだけでそれだけで 私には勇気がわいてくるのです

あなたの人生のはじまりに私がしっかりと付き添ったように 
私の人生の終わりに少しだけ付き合って欲しい

あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

私の子供達へ 
愛する子供達へ
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2013.07.26 12:40 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(4) |
皆さんも私も息抜きということで、強引にまとめてみると「昔語り」だったりします。

先日、偶然に、7~8年前に作成したと思われる、履歴書兼自己紹介書&翻訳実績書のセットに遭遇しました。帰国して約1年、以前からお付合いのあった翻訳会社からぼちぼちお仕事は頂いていたものの、今イチ満足できず、新規の取引先を開拓しようと作成した時のものです。

読み返してみて、取り立てて可もなく不可もなく、「この人の訳文が見てみたい」ではなく「取りあえずトライアルやらせてみてもいいか」レベルの書類だなあと思いました。

1. 丁寧だが冗長で読みにくい。
2. そこそこ熱意は感じられるものの印象に残らない。
3. Advantages、disadvantagesがよく分からない(自己分析ができていない)。
4. 翻訳実績の羅列が経験の少なさを露呈。

という感じです。
一応、主述はきちんと一致し、文章に破綻もありませんでしたので、最低限の文章力は認めて貰えるとは思いますが(というか、大事な書類の作成においてそれができないということは、そもそも、英日翻訳者として致命的なことであるはずです)。

もちろん、トライアル(&合格すればその後の仕事)できちんとした訳文を提出することが最重要課題ではあるのですが、最初の関門はこの応募書類ですから、はったりや誇大自己評価や嘘はまずいでしょうが、「勝ちに行く」を意識して応募書類を作成することも大事かと。

もちろん、翻訳会社のトライアルと普通の採用とでは多少見るべきところは違うでしょうが、それでも、専攻でも職歴でも翻訳経験でも資格でもない部分で「おっ」と思わせる応募書類というのはあると思います。


もう20年以上前になりますが、新卒採用を担当していた時期がありました。世はバブル期の売り手市場で、ちょうど半沢直樹さんが銀行の面接に臨んでおられた時代です。人を見る目のなかった私は、「御社は第1志望群の1つです」という当時の学生さんの決まり文句に何度泣かされたことでしょう。

新卒採用と言っても、大阪支社の平社員でしたので、会社説明会で仕事や福利厚生の説明をし、自己紹介書に目を通し、「これは」と思う学生さんを呼んで面談し、一次面接に進んで貰う人を選抜するところまでが私の仕事でした。「選抜」と言っても、私が(修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の)学生さんの「是非、御社で一緒に仕事がしたいのです」という(だいたいにおいて嘘八百の)泣き落としに弱いことをよく心得ている上司から再チェックが入りましたから、私の仕事は上司の面談の手間暇を省いているとしか言えない程度のもので、ここでも私は、猫の手社員だったのでした。

支社と言っても、旬の時期には1回の説明会に50人近く集まりましたから、2ヶ月近くの間は、自己紹介書を読んで読んで読みまくる日々でした(もちろん、他の仕事もしてました<念のため)。

そうするうちに、(一応チェックすべき点はあるものの)どの自己紹介書も同じに見えてきます。就職指南書を参考にされる方もそれなりに多いのでしょう(あっしらも参考にします)、自己PR点としては、「(クラブや同好会で)部長又は副部長として大人数をまとめた」「マネージャなどの裏方として地味な仕事で皆を支えた」「アルバイト先で様々な年代の人と協調して働いた」「ホームステイした(或いは一人で外国を長期間旅行した)経験がある」などが圧倒的に多く見受けられました(一生懸命勉学に励んでいても、それをメインのウリにしないのが、当時の流儀(?)でした)。
個々の学生さんは、確かにそうやって大学生活を謳歌し勉学にも励んで来たに違いなく、一人一人は個性を持った方々に違いないのですが、こと「自己紹介書」に関して言えば、同じような内容ばかりであれば、「その他大勢」の束の中に埋没してしまいます。

その中にも、「おっ」と思うような自己紹介書はありました。
それは、「何を書く」ということではなく、あえて言うなら、ちらっと垣間見える個性や知性のようなもので、うまく説明できないのですが、例えば、理系の学生さんの卒論のテーマに関する説明が面白くもう少しその話を聞いてみたいと思わせるもの、愛読書の種類が個性的なもの、PR欄に自分の名前の一字一字を頭文字とする五七調のPRをしているものなどです。あとは、自分を客観視した後で、全体を上手くまとめているもの。たとえば同じ「裏方として皆を支えた」でも、「そう書くと有利だから」の人と「ここは実際に自分の売り」と考えて書いている人とでは、ビミョーに書き方が違うのでした。

時々、全編非常に丁寧に、裏ページまで使って細かな字でびっしり書くことで熱意を示してくれる学生さんもいました(←当時は手書き)。気持ちは痛いほど分かりましたが、「自己紹介書」としては、よほど内容がない限り「簡潔にまとめられない人」「読み手を意識しない人」というマイナス評価になってしまいます。

ということで、新卒採用の「自己紹介書」について言えば、

・読める字である(上手下手もありますが、下手でも丁寧に書かれた字というのはあります)
・誤字脱字がない
・最低限のきちんとした日本語が書けている

ことが前提で、その上で、

・簡潔にまとめられている
・自己分析を行った上で書いている

ものは、取りあえず「面談」束、「おっ」というものは、上司確認の上、即電話アポという感じでした。今では考えられないのどかな新卒採用風景であります(しみじみ~)。

翻訳関係の書類に関しても、当てはまる部分はあるような気がします。翻訳に関する「おっ」は何かと言われるとすぐには「コレ」とは言えないですし、そもそも書類専攻に際して「おっ」はいらないのかもしれませんが、「賢い(?)書類を作成する」ことは大事だと思います。
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2013.07.20 22:03 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(4) |
まるで、愛想のないキーワードのようなタイトルですいません。

暫く前まで、モルモットの側腹部の毛を剃ったり、ウサギの体毛を刈ったりしていました。

医療機器分野でも体内に植え込む機器(或いは植込みや留置に用いるカテーテル等の機器)を扱うことが多く、非臨床の分野のお仕事もそこそこ頂きます。そうした機器については、ある程度の期間埋植しても、或いは一定時間以上体液に触れても毒性を生じないことを証明する必要があるからです。

だいたい局所刺激性試験が多いですが、たまに、全身毒性試験や遺伝毒性試験の報告書に遭遇することもあります。最初はパニックでしたが、だいたいは参考資料が頂けますし、微妙に言葉遣いは異なっても、基本は同じことを同じようにやるということが分かってからは、必要以上に恐れることはなくなりました(小動物や細胞株が相手ですので、翻訳者さんによって好き嫌いはあるかなとは思います)。

個人的には、翻訳メモリーがかなり活躍しそうな分野のような気がしておりますので、折りに触れてMy対訳集を作成しています。まあ、My対訳集なので、精度に今イチ難があるっちゃあるんですが。

非臨床に関する案件は、参考資料以外に、

「医薬品GLPと特性試験の基礎知識」馬屋原宏(薬事日報社)
「実験動物の管理と使用に関する指針 第8版」(丸善出版)
(Guide for the Care and Use of Laboratory Animals 8th editionの日本語訳)
「医療機器の生物学的安全性試験法ガイダンス」
http://www.pmda.go.jp/kijunsakusei/file/guideline/medical_device/T120302I0070.pdf

があれば、取りあえず何とか乗り切れるかなと思います(これまでは乗り切ってきた<這って乗り切ったこともあったが)。

さて、こうした非臨床試験案件にも、treatmentやclinical signs、clinical observationsといった言葉がかなり頻繁に登場します。

最初の頃は深く考えず、頂く参考資料に合せて訳出していたのですが、治験の講座を受講するようになり、「なぜそこでその訳語を選ぶのか」を意識するようになってから、「非臨床に『治療』だの『臨床徴候』だの『臨床所見』といった言葉遣いはおかしい」ということを意識するようになりました。治療も臨床も、相手が患者である時に用いられる言葉であるはずだからです。参考までに、DorlandとTaberでclinical何ちゃらを確認してみましたら、やはり(というか当たり前というか)、対象はpatientsになっていました。
(そもそも意識するのが遅過ぎという説もありますが)

以前のMy原稿を確認してみましたら、初期のものには「治療」や「臨床」の語を用いているものも散見され(深く考えずにそれらの言葉を用いたものと思われます)、恥じ入るばかりです。チェッカーさんのところで別の適切な語句に修正されているものと信じたいです。

そんなわけで、今では、treatmentには、(文脈によりますが)「投与」や「処置」などの語を(試験中に動物の治療への言及の場合は「治療」も用います)、clinical observationsやclinical signsには、(こちらも文脈により難儀します&クライアント様による好み(?)もあります)「一般徴候」や「観察所見」「一般状態所見」などの訳語を当てています。実際の非臨床試験は未知の世界なので、特にclinical~の方は、これらの訳語が最適なものであるという自信はないですが・・・

という感じで、非臨床試験が続きましたので、できれば、次回は非非臨床come baaaaaaaack! という気分の今日この頃です。いえ、ま、ちょっと言ってみただけで、次回が非臨床でもきちんと対処します、はい。
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2013.07.15 15:57 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |
参考書とフィギュアスケート以外のハードカバーの本は買わない(狭い我が家そんなに買ってどこに置く&そんなに買ってどう処分する<父蔵書で苦労中)と自らを戒めて久しいSayoですが、禁を破ってのハードカバー買いです。

東京五輪からロンドン五輪までの日本女子バレーの軌跡を、資料や選手/監督へのインタビューをもとにまとめたもの。

約1年前、「オリンピックな日々」で、「女子バレーの竹下選手にメダルを取らせて上げたい」と書いたかと思いますが、その中で引用したNumberの記事の作者の手になる本ということですから、これはもう、万難を排して(←相変わらず大袈裟です)買わずにいられないではありませんか。

中身の方は、吉井氏がこれまで様々な媒体に発表してきた記事が中心になっていますので、全体的にちょっと散漫というかまとまりない感がないでもないですが、ロンドン五輪の描写に始まり、その後東京五輪に戻って、年代順に各時代の監督や選手たちにスポットを当て、五輪(+W杯等の国際試合)を追っていくやり方は、素人にも分り易く、内容的にもかなり読み応えがありました。「オリンピックな日々」で触れた「敗北を抱きしめて」も、もちろん含まれています。

私は、今でこそ、身も心も(?)フィギュアスケートに捧げておりますが、大学時代は、バレー好きの友人に引き摺られて、日本開催のW杯や日本リーグ(当時)に何度も足を運んでおりまして(箕面のサントリー体育館の練習見学に付き合わされたこともあるよ)。というわけで、本書中の多くの名前に馴染みがあり、本書には、「そうそう、そうだった」「ほお~、本当はそうだったんだ」と細かい部分でも楽しませて貰いましたが、「女子バレーは、とりあえずロンドン五輪」の方でも、それなりに興味深く読むことができるのではと思います。

「天才セッター」と呼ばれた中田久美さん、「世界最小最強のセッター」と呼ばれる竹内佳江さん。彼女たちの判断力や人を見抜く力には非凡なものがありますが、本書を読むと、それは決して天賦の才能ではなく(もちろん「持って生まれた才能」の部分もあるでしょうが)、経験と練習量に裏打ちされたものであることが分ります。

たとえば。

今は取り壊されてしまったが、日立の体育館には一箇所だけ、床が白っぽく変色した場所があった。中田が一人でトス練習を繰り返した場所だ。中田の大量の汗が、床を変色させてしまったのである。だが、床を変色させるほどの汗の量は正直だった(本文129頁)。

(スポーツに限らずですが)どの分野でも一流と呼ばれる人々は、やはり、それだけのことをなさっているんですね。

ロンドン五輪を戦った全日本チームは、(個々の選手の力量はいずれにせよ)チームとしては、過去の全日本チームより確実に強いのではないか、と思います。もちろん理由はいくつもあるでしょうが、「自ら考える」「メダルを獲ることが現実的な目標で、どうしても勝ちたい、メダルを獲りたいという強い気持ちがある」という点も含まれるだろうと。
「どうしてもやりたい」という強い気持ちがあり、それが「夢ではなく目標」であり、「その実現のために自分に最適の方法を考え実践する」というのは、まんま「翻訳を仕事に」だよなあと、今日もどうしても話を翻訳に繋げたいSayoなのでした。ま、どちらも力仕事(?)だしね(<てそこかい<自分)。


この「読書感想文」偏重の流れを何とかしたい今日この頃ではありますが・・・暑くて頭がまわらん。
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2013.07.11 15:27 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(4) |
「屋根裏」的にはプチご無沙汰しました。

1. 体調不良的天中殺的(←大袈裟)近況

4日(木)急性腸炎でダウン。点滴。
5日(金)片頭痛発症。夜、こうもり侵入。
6日(土)片頭痛続く
7日(日)片頭痛続くwith悪心
8日(月)片頭痛続くwith悪心。夕刻生還(悪心撤去)。

今回は片頭痛薬を飲んでもなかなか頭痛が治まらず、後半悪心も伴ったのがなかなか辛かったです。幸い、仕事は納期的にそうハードなものではなかったですし、家庭内避難状況*も、酷暑により最高限度の「寝室避難」でありましたので、暫く働いちゃ~ベッドに倒れを繰り返して乗り切りました。
 *「屋根裏」は夏は暖房完備のため、5~9月の間は、気温上昇具合を見ながら、ノートPCを連れて階段踊り場→寝室(冷房あり)と避難します。

この間、とど様は日曜日まで海外出張でした。こうもり侵入は実は2回目なのですが、前回も海外出張中でした。滞米時に1昼夜停電した時も、ぎっくり腰で唸っていた時も出張中でした(しかも、ぎっくり腰の時は、ラスベガスでスロット回してるし)。本当に大事な時に役に立たないヤツです。

前回は開け放っていた回転窓から侵入したに違いないのですが、今回侵入経路は謎のままです。風呂から上がってリビングに入ろうとすると、暗闇の中をこうもりさんが高速旋回していたのでした。出す音波が全て狭いリビングの壁に跳ね返されて高速で戻ってくるわけですから、こうもりさんがパニくっていたのも分からないではありません。すぐにリビングのドアを閉め、網戸を開け放ってお帰り願いました(やっぱり音波のせいで「そこに障害物がない」と分るんですかね~、すぐにお帰りでした)。2回目ですから、こっちも多少は落ち着いて対処してますが、1回目は「それはこうもりである」と認識するまでにかなり時間が掛かりました。できれば、3回目は遠慮したいです。


2. 音読的独学的近況

今年の初めに「最近の音読」で再読中だった「Medical Biochemistry」(Mosby)を無事に読了しました。再読なんで、かなり手を抜いたところもありますが。

書いたり読んだりは、医薬翻訳の勉強や仕事をする上で優先順位は高いかと問われれば、決して高くないと思います(個人的には、筋トレと思って音読をやっている部分が大きく、どうせ読むなら仕事に関連したものをと思ってテキストを音読しているだけなので)。メリットと言っても、生理学なら、接頭辞や接尾辞が感覚的に分る、生化学なら、化合物名の切り場所が感覚的に分る(例えばhydroxyindoleacetic acidとか)ようになるくらいです。「それはナニモノなのか」の想像が容易になる+調査や辞書確認で手入力する場合に早く正確に入力できるくらいですから、自分でも最優先のmustではないよな、とは思います。まあ、私は「分っていく」「点が線に繋がっていく」という過程が結構好きなので。

この「Medical Biochemistry」(Mosby)は1999年版で情報がかなり古い(購入は2000年)ですし、章立ての順番も今一分り難いので、決してお勧めテキストという訳ではありません(←というのは、あくまでも個人的な感想です)。ちなみに、手持ちの「エッセンシャル生化学」の目次と比べてみましたら、こちらの方が、概論→各論となっている分、多少分り易いような感じがしました(もちろん、同じ順番で語られている内容もあります)。どっちも内容的に脳味噌溶けそうという点は一致しています。

このあと、体系的おベンキョは、「生化学を日本語で再確認」→「薬理学」の方向で攻めたいと思いますので、「生命科学のための基礎シリーズ 化学」(実教出版)に進む予定です。図書館で何冊か比べてみたのですが、無機にも有機にも言及されているこのテキストが、復習メインで用いるにはちょうどいいかな、と。お値段的にも2000円と「許しちゃる」的良心的お値段でしたし。

ぼちぼちですがお仕事も頂けておりますし、整備したいソフトウエアもありますし、仕事に必要な書籍を(必要に迫られて)読んでいることも多いですし、何と言っても今季はソチ五輪のシーズンですから(??)、亀の歩みになることは今から予想できますが、ちょっとずつ頑張っていこうかと。

今日も今日とて、ためにならない話題ですいません。
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2013.07.09 17:16 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(8) |