屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

もう少し前のことになってしまいますが、MEI(大阪大学 臨床医工学融合研究教育センター)の土曜スキルアップ講座を受講してきました。
薬事法が改正され名称も「医薬品医療機器等法」(略称)に変更されたこともあり、規制関連を勉強するならここ1~2年かなと思っています(←基本的に私の興味がってことですが、恐らく各所で新法対応系のセミナー等が開かれるのではと)。というわけで、今年は、My規制強化年間なのだ。

なかなか記事にできなかったのは、申込み時に、個人情報保護及び著作権保護に関する誓約書なるものも提出しなければならず、どこまで内容を書いてよいのか迷う部分があったためです。

MEIのHPはコチラ
最初はGoogle経由のシンポジウム案内ページから辿り着き(医工学連携に関連するシンポジウムは私にとってはなかなか興味深いものです)、その後、こちらのスキルアップ講座を見つけました。大学院生が対象ですが、広く一般にも(特に、「クリニカルリサーチプロフェッショナルコース」)開かれた講座です。

土曜スキルアップ講座のシラバスのトップページは
http://mei.osaka-u.ac.jp/cou01_01

私が受講したのは
「臨床医学総論1(循環器学、呼吸器学、神経学)」
「医療機器開発のエッセンス」
来年1~2月に
「医薬品の審査と規制」
も受講予定です。

「臨床試験の研究倫理」も興味があったのですが予定が合いませんでした。

統計関連の講座にも興味を惹かれましたが、最後にグループワークがあるものもあり、私よりは統計に親しんでおられるに違いない他の出席者の方々の足を引張る恐れがありますので、こちらは「翻訳者Akoronの一期一会」でも紹介されていた「ICR臨床研究入門」で自習することにしました(<と決心したというだけで、まだそこまで辿り着けてないんですが)

総論は阪大医学部の講義室での受講ですが、その他は、関西の翻訳者の方にはJTFセミナーなどでお馴染みの中之島センターでの受講になります。東阪の2会場での開講で、「医療機器開発のエッセンス」では初日が大阪会場は音声(とスライド)のみ、2日目が講師来阪による講義(東京会場音声のみ)という形でした。

・・・90分の講義を4コマ受けるというただそれだけのことが、こんなにしんどかったとは。

事前に「DLして持参せよ」と言われる講義資料や参考資料の量がハンパなく、我が家の古いプリンタは何度も死に掛け、お腹すいた(インクリボン切れ)と泣きました。
医療機器センターのe-learning(http://www.jaame.or.jp/koushuu/yakuji/yakuji260121.php)の資料と似た内容のものも多かったですが、総じて「価値あり」と思える内容でした。

「臨床医工学融合」とあるように、医学に精通した理工学研究者、理工学に精通した医学研究者の育成を図りたいというのが、MEIの一番の目的であろうと思います。
「クリニカルリサーチプロフェッショナルコース」の方は、(以下パンフレットからの情報)「臨床開発から市販後調査までの医薬品の研究開発に関する知識と技術を体系的・網羅的に学べる教育プログラム」と銘打たれており、私の大好きな「摘み食い方式」の受講が可能です。概論コースより、もう少し社会人よりのプログラムかなと思います(治験コーディネータ、看護師、薬剤師、薬事担当者などを主な受講者として想定しているようです)。いちおー、3~5年の実務経験があった方が望ましいとされていますが、特に制限が設けられている訳ではありません。開講1週間前まで申込みが可能ですので、興味のある方は、検討されてみてもよいかなと思います。

さて。
「臨床医学総論1(循環器学、呼吸器学、神経学)」
特に前知識は不要とのことでしたが、やはり解剖、できれば生理学の基礎的な前知識はあった方がBetterかなと思いました。
基本的に、「これらの領域・疾患の治療に工学技術がどのように役立っているのか、今後どのような新技術が期待されるのか」といった内容で、たとえば解剖生理について詳しく述べられるという訳ではないので、正直、製薬分野の翻訳のみを扱われる翻訳者の方向きではないかなという気はします。個人的には、実務で扱った医療機器も多く登場しましたし、それらを用いた手技の動画を見せて頂けたりもしたので、興味深く拝聴することができました。

長くなりましたので、「医療機器開発のエッセンス」については次の記事で。
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2014.07.30 20:18 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |
3年前に、学年全体の同窓会が開かれて以来、
1年に1回、クラス会が開かれるようになりまして。
今年は、3連休の初日がクラス会でした。
クラス会となると、同窓会よりがたっと出席率は減って、
近畿圏在住の20数名のうち、15名前後が出席する感じになります。
(クラス全体は44名)

私自身は2回目の出席です。

同窓会では、近況報告に終始した感じでしたが、
クラス会も3回目となると、病気や介護、肉親の看取りなど、
「楽しくはなかった経験」も話題に上がるようになり、
同時に、それまで殆ど交流のなかった同級生同士の距離も
多少縮まったような気がします。
そりゃ、30+年だもんね、イロイロあるよね~。

子供の年齢は小学生~社会人と幅広いですが、大学生が一番多い。

あくまでも私の個人的な感想ですが、
「子供の話題」はもやは「話題の1つ」となり、
老親の介護や自分の健康・老後・仕事(含定年)・趣味など、
「自分系」の話題が増えてきたような気がします。
(そんな訳で、ワタクシも参加しやすいのでした)

というわけで、2次会まで、まずまず楽しく過ごしました。

進学校ではありましたが、高校生活はそれなりに楽しかったです。
文化祭や修学旅行は、かなりの部分を生徒に任せてくれるような学校だったしね。
「若かったね、バカやったね、楽しかったね」と盛り上がりもします。
でも、正直「ここ(高校の同級生の集う場所)が私の居場所」という訳でもない。
ワタクシは結構「今いる場所が私の居場所」というヒトなので、
あまり「あの頃/あの場所に戻りたい」ということはありません。
どこにもガタのきていない身体に戻りたいと思うことは多々ありますが。

そんな風にいつも一歩引いてきた人生が、
これから私をどこへ連れて行くのか、
それとも、老後を見据えて、
多少努力しても変えていった方がいい部分があるのか、
そんなことを考えたりしながら帰途に着いたのでした。
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2014.07.22 21:14 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(2) |
という言葉を私もよく使い、同業者の方が使われるのもよく耳にするのですが、
では、「その『品質』とは完全に同じものをイメージしているのか」と考えると、
「なんか違う・・・ような・・・」ということもあります。

翻訳者の考える翻訳の「品質」に大きなばらつきがあってはもちろんマズいのですが、
最低限の了解事項というか「あるべき品質」というものがあって、
そこから先は、その人の考える「品質とは何ぞや」には微妙な違いがあるのではないか、
この頃、そんな風に考えるようになりました。

実は、ワタクシ、恥ずかしながら、イメージとして頭の中にあるソレを
すぐにきちんと言葉にすることができなかったのでした。
というか、どうしても、抽象的な言葉になってしまうというか。
という訳で、この暑い中、干乾びた脳味噌を絞って少し考えてみました。

基本的な「あるべき品質」を備えた成果物(訳文)は、
‐納期通りに提出された、
‐指定の書式・表記方法の守られた、
‐文単位の抜けのない、
‐書かれていることが理解できる(文意が不明なまま翻訳していない)
訳文であろうと考えます。

当たり前っちゃ当たり前のような気もしますが、
最後の「文意が不明なまま翻訳しない」ために苦しむことは結構あります。

転記間違いやスペルミスは、もちろんあってはならないものとは思いますが、作業者が人間である以上、チェックを重ねてもゼロにすることはできないし、ツールの助けを借りたとしても、やはり完全にゼロにすることはできないのではないかと考えましたので、My「あるべき最低品質」基準からは除外しました。

これらの「基本品質」を満たした上で、では「高品質」とは何かを考える時、
(あくまで脳味噌の溶けたワタクシの考えるソレです)
対翻訳会社では、「後工程で最低限の作業しか発生しないもの」

具体的には、
‐ケアレスミスの修正・訂正の少ないもの(転記間違いやスペルミスはここに入ります)
‐間違って文意を解釈している場合はゼロではないとしても、自分の中で何らかの結論に達した上で翻訳を行っており、根拠や解釈に自信の持てないものについては、その解釈を採用した根拠をコメントに簡略にまとめてあるもの
です。

対クライアントでは「成果物の文書の種類に応じた文体で、適切な訳語を用いた翻訳がなされているもの」

具体的には(・・・て、あんまり具体的じゃないんですけど)、
‐修正が少なく、
‐専門家が読んだ時、選択語句等の間違いが「これはあのこと(言葉)を指す」とすぐに分かるもの

あくまでワタクシの考えですが、自分は、どう頑張っても、ある分野の専門家の方々と(その専門領域に関し)同レベルの文章は書けないと思っています。どんなに頑張ってみても、所詮は門外漢なのですから。であれば、自分のすべきことは、そうした専門家の方々を唸らせる文章を作成することではなく、常に、その方々が一読して間違いなく書かれた内容を正確に把握でき、簡単な語句や表現の修正のみで利用できる訳文を作成することだと思うのです。

以前、「美味礼讃」(海老沢泰久、1992)の読書感想文で、
「べつにあれでもあのままどこへ出しても恥ずかしくない味なんです。しかし九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」
という主人公の言葉に共感したと書きました。

でも、「理想としての100%」はありだと思いますが、
達成可能目標としては「常に95%」あたりを目指すのが実際的なのかなと。
その結果、タイトな納期のものも、内容的に難解なものもすべて含め、
常に85%以上のものがOutputできれば「一定品質が保たれている」
と言ってよいのではないかと、そんな風に考えています。
(ここでいうマイナスとは、ミス、解釈間違い、専門用語の選択ミスなどを言います)

誤解しないで頂きたいのですが、私はいつも
「限られた納期の中で今の自分にできる最高のものをOutputしたい」
と思って仕事をしています。
・・・でも・・・
恥ずかしく悔しい話ではありますが、
たとえば、自分の過去訳を参考資料的に参照する時、
そこにミスや解釈間違いを見つけることは多々あるのです。
それが現実です。

85%という数字は、一見かなり甘い数字に見えますが、例えば
「どんな事情があり何が起こっても、85%を下回る品質のものは出さない」
と言い換えると、実現は不可能ではないものの、
なかなか難しい目標であるような気がします。
(少なくともワタクシにとっては)


この「品質」を達成するやり方というのは、人それぞれでよいのかなと思います。
多数の方が推奨されるよい方法というものはありましょうし、
そこから始めてみるのは決して間違いではないと思いますが、
自分にとっての最善を求めて、常に試行錯誤していく必要はあるかなと。
独りよがりなものになってしまわないよう気を付けなければなりませんが。

手抜き、ではないのですが、最近、自分の中で色々な意味で「流れ作業的」になっていることが多いな~という気がしましたので、「品質とは」という原点に一度立ち返ってみましょか、自分、ということで、記事にしてみたりなどしました。ああ、脳味噌絞り切った感。老体には堪えるわい。もうこの夏頭は使わな~い、と。


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2014.07.15 17:25 | 伝える | トラックバック(-) | コメント(0) |
(何となく、1つ前の記事から続いていたりします)

様々な状況を想定して「辞める」ことを意識するようになったのは、
ここ2、3年のことです(親送ったことが一番大きいかも)。

辞めても(あまり)悔いが残らないようにするには、
「毎日を精一杯生きること」
なんて格好いいことは、至福の二度寝に浸って「極楽極楽」と呟いている、
ぐーたら者のワタクシには口が裂けても言えません(てか、口が裂ける)。

それでも、
仕事が束になってやってきて(いや、それはそれで大変ありがたいことなんですが)
「もうダメ、休みてえええ」と息も絶え絶えになる時(ホント根性のないヤツです)、
疲れて具合が悪い時(ホント体力のないヤツです)、
小まめに旦那の世話を焼かなければいけない時(ホント手の掛かるヤツです)、

私はいつも
「Everyday is gift」
という言葉を思い浮かべます。

「仕事」という点では本当に好きなことだけできているこの毎日、
(例えば会社勤めだと、意に染まない雑用や調整も仕事のうちだし、
考え方の違う、どうしたって馬が合わない人とも
それなりに上手くやっていかなければなりませんよね)
いつ終わりが来るかもしれないと思えば、
しんどい日々もカリカリする日々も、毎日が自分に与えられたGiftなのだと。
そんな風に考えるようになって、結構精神的に落ち着き、
些細なことで旦那とやり合うことも少なくなったような気がします。

でも、もともと人間ができていないので、
すぐにぐーたらして、「休むぞおおお」とか叫んでますけど。

まあ、数年前比で状況微妙に改善、ということで。
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2014.07.11 11:40 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(3) |
時々、
「いくつになってもできるからいいね」
と言われることがあるが、本当にそうなのか??

個人的には、「いつでも辞める覚悟」を持ちつつも、状況が許せば、世間的に定年とされる60歳くらいまではフル稼働は無理としても、何とか仕事を続けたいと思っているけれど、果たしてその先は?


年を重ねてなお質の高い仕事をされる先輩も多々おられ、一概には言えないとは重々承知ですが、それなりに健康で年相応プラスの体力が維持できた場合の「限界定年年齢」は、70歳前後ではないかと思います。

70歳を過ぎると、どうしても注意力が疎かになり、長期間に渡り一定の質を保つことが難しいのではないかと、3人の老人(叔母&両親)の年の取り方を見てきて思うのです(まあ、サンプル数が3なので、一般化することはできませんが)。

3人とも、だいたい70~75歳の間に、注意力が落ちた、というか「まあいいか」的なことが増えたような気がします。そして、2、3の事柄については、「そこまでしなくても」「ナゼにそこまで」的な拘りが増えました(これは、性格的な部分も大きいかもしれませんし、認知症の前駆症状であった可能性も否定できませんが)。

それは、身体が思うように動かなくなった結果の「まあいいか」だったかもしれませんし、理性のタガが緩んでの「まあいいか」だったかもしれませんが、「老い」であったことに変わりはないように思います。

何を「まあいいか」とするかは人によって様々だと思いますが、我が家の場合は、手の掛かる、面倒臭い、いくつもの段取りを必要とする物事が多かったような気がします。調べものや訳語探しが、いつか「まあ(少しくらい)いいか(身体もしんどいし)」に該当しないという保証はありません。
もっと恐ろしいことは、老いのために、「成果物の質が落ちた」という事実に気づけないということです。誰も、面と向かって「最近、質が落ちましたね」なんてことは言ってくれません。面と向かっては「まだまだ大丈夫ですよ」と言われ、陰では「あの人も年を取りましたね」と言われるのが、在りがちな結果かなと思います。

自分で気づくことができなくなる前に辞めたい。

これはあくまでもSayo実家の人達のケースであって、私は性格的に、同じ道を辿る確率は高いとは思うけれど、一般には当てはまらないかもしれません。ただ、誰しも、「自分の老いにはなかなか気づかない」というか「老いを認めたくない」ということはあるのではないかと思います。

会社が決めてくれる定年がある人生は、ある意味楽だなと。

「定年がないからいい」は裏返せば「自分で定年を決めなければならない」ということでもあって、これはなかなかに難しい作業であるような気がします。


私は決してNegativeに生きているわけではなく、どちらかと言えば、日々「(まだまだ)負けへんで」と思いながら生活しています。まあ、時々そういうことを考えるような年齢に達したヒトの記事ということで・・・
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2014.07.08 14:21 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(8) |