屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

「復讐法廷」(ヘンリー・デンカー/中野圭二訳、1984年)
(Outrage by Henry Denker, 1982)

昨年2月、田村正和さん主演でドラマ化されるにあたり、本棚の奥から救出したものの、同時救出した「アナスタシア・シンドローム」を先に手にとってしまった結果、再読の機会を逸し、その後1年以上放置した、という不幸度ハンパない可哀想な書籍です。その原因のひとつは文字のポイント数です(キッパリ)。昔の文庫本は老眼には辛いわ~。

ドラマは結局見なかったので、先日あらすじ(ネタバレ含む)を読んできましたが、「基本設定だけ貰いました」的な内容になっていたような気がします。まあ、米国と日本では法体系も違うし、同じように話を進めるわけにはいかなかったと思いますが、逆転無罪の証拠が「そ、それですか」というガッカリ感半端なく、もう少し内容を練って頂きたかったな、というのがストーリーについての正直な感想です。

さて、本書。
帯には「推理作家協会会員アンケートによる84年度ミステリーベスト1」と書かれていますし、確か、旧版の「東西ミステリーベスト100」にも掲載されていたと記憶しています。

とはいえ。
30年以上前に発行された書籍ですから、とうに廃版になっているに違いないと思っていたら、2009年に再版されてるんですね。Amazonさんで新版が入手可能です。

本書は、善良なNY市民であるデニス・リオーダンが州外で拳銃を購入する、という不穏な場面から始まります。リオーダンはその拳銃でクリータス・ジョンソンを射殺し、その足で自首すると、「人を殺したので裁判にかけてくれ」と言い張ります。そのリオーダンの弁護を担当することになるのが、少壮弁護士のベン・ゴードン、本書のもう1人の主人公です。
ジョンソンはリオーダンの娘アグネスを強姦殺人したのですが、法体系の不備が原因で証拠が採用されず、ジョンソンは無罪となり、ショックを受けたリオーダンの妻もほどなく亡くなってしまいます。だから「自分で手を下し、自ら証言台に立って、市民を守ってくれないこんな法律はおかしいと訴えるのだ」というのがリオーダンの言い分で、自分が無罪になるかどうかについては全く関心がありません。証拠はそろい、本人の自白もあります。そんな状況で、ベンは、リオーダンを弁護し、無罪を勝ち取らなくてはなりません。さらに言えば、リオーダンとベンは白人、被害者ジョンソンと検事クルーは黒人ということで、陪審員選びの段階から、人種問題が裁判に色濃く影を落とします。

話は主にベンの視点から語られますが、ときどき、陪審員の視点に移ります。

ベンは、「アグネスを殺害したジョンソンが法手続上の理由で無罪になったために、リオーダンは凶行に及んだ」と主張しようとするのですが、それは裁判所も心の中では「おかしい」と認めている法体系の不備を暴くことにもなるため、なかなか上手くいきません。ついに、ベンは、奥の手として、ある人物を証人として召還します。

くらいで、あらすじは止めておきます。
「不備」の説明が難しいというのもあるのですが、「そ、それですか」ではなく「そ、そうきたか」という判決に至る話は、やはり、自分で読んでカタルシスを味わって頂きたいなと。ベンは、いつも、偉大な先輩でもあった「ハリー叔父さん(故人)」を引合いに出し、「叔父さんならこうする」「叔父さんならどうするか」とやっていたのですが、恋人の言葉をきっかけに、「自分ならどうするか」を考え始めます。その第一歩が「奥の手証人の召喚」です。というわけで、本書は、基本リーガル・サスペンスではありますが、同時に若者の成長物語でもあります。

米国の陪審員制度も垣間見ることができ、陪審員選びや判決に至る協議など、とても興味深く読みました(蛇足ですが、我が国の裁判員制度については、夏樹静子さんが「てのひらのメモ」という秀作を書いておられます<あくまで個人的感想です)。

本文とは関係ありませんが、本書には「褐色砂岩(たぶんblownstoneの訳語)」という言葉が出てきます。私が「褐色砂岩」に始めて遭遇したのは、たぶん、ラドラムの「暗殺者」(ジェイソン・ボーンシリーズの1作目)。今でこそ、Googleで調べれば、それがどんな色調の石なのか、どんな建物に使われているのかといったことがすぐに分かりますが、当時(1980年前後)は、特に米国東部の建物に特有の建材らしい、ということくらいしか分からず、海外への興味を掻き立てられたものです。

海外が身近になった今、読者の翻訳書の受け取り方も昔とは変わってきているはずで、別の方が現代の読者に合わせて翻訳されたら、また少し違ったものができあがるのかもしれません(←このあたりはフと感じたことなので、あまり深く追求しないでやってくださいまし)。でも、私は、何というか、昭和の匂いが漂う中野圭二さん訳、結構好きだったりします。

初版の表紙は、(おそらく)リオーダンの肖像だと思いますが、新版では表紙は槌に変わっています。表紙は新版の方がシンプルで好きですね。ただ、「復讐法廷」という邦題はどうだろう。確かにインパクトはありますが、ちょっと、リオーダンの気持ちをきちんと表していないんじゃないかなあという気もします。

てことで。
気になった方はAmazonさんへ。
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2016.10.27 23:01 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(4) |
このところ、諸般の事情により、Sayoさんがなかなかひと休みできないので(シュラバとも言います<学習しないヒトです)、代わりにブログにひと休みしてもらいます。
お好みによりスルーでお願い致します。


本文がないので分かりにくいですが、最初の「彼」と最後の「彼」はまったくの別人です(名前の部分はアルファベットに変えました)。

最初に、自分で「この表現やり~♪」と自画自賛した部分ありましたが、泣く泣くばっさり切り捨てました。そういう表現って、あとで読み返すと「やってやるぜ」感がハンパなく、悪目立ちしていて。やっぱり推敲は大事だなー、としみじみ思う秋の夕方です。

もうすぐインフルエンザの季節です。みなさまもどうぞお身体ご自愛ください。
(インフルエンザの記事の若干アヤしい部分は、生暖かくスルーして頂ければ甚幸です)

****

プロローグ

 一瞬、患者が途切れた。
 椅子に身体を預けると、目を閉じて両手の親指でこめかみを揉む。疲れが身体中にまとわりついていた。
 今朝から何人の患者を診ただろう。この前自宅に帰ったのがいつだったか思い出せない。昨夜もその前の晩も病院に泊まり込んだ。
 彼だけではない。まだ病いに倒れずにいる医師は全員 ── そしてもちろん看護師たちも ── 彼と同じように不眠不休で働いているはずだ。

 突然インフルエンザの流行が始まってどれくらいになるだろう。5日 ── いや、最初の赤ん坊がERに運び込まれてから1週間になる。人口5000人に満たない小さな町にひとつしかないこの総合病院は、それ以来患者であふれかえっていた。
 確かに、10月に入ってすぐ冬の到来を思わせるような寒さがしばらく続いたが、それにしても流行には早すぎる。まだ今年の予防接種が始まってから2週間と経っていない。
 もっとも ── われしらず片頬に苦い笑みを浮かべていた── 今年の流行の予測は大外れだ。予防接種など気休めにもならない。3日前にやってきたCDCの医師は、今回の流行はA型が大きく変異した新型のウィルスによるもので、従来のワクチンではほとんど効果はないと言った。まったく、冗談じゃない。

 「先生・・・」
 看護師の1人が遠慮がちに声をかけてきた。まだ若くいつも溌剌としていた彼女も、今は目が落ちくぼみ、声にも表情にも覇気がない。
 「・・・ん、ああ、次の患者さん?入ってもらいなさい」
 急いで身体をしゃんと起こす。身体中の関節がぎしぎしと鳴った。
 「いえ、あちらで少しお休みになってください」
 看護師が奥にある彼専用のオフィスを指差す。普通なら注意したくなるような緩慢な動作だが、それほど身体が疲弊しているのに違いない。
 「交代で休憩をとっていただく約束です。先生方に倒れられてはどうしようもありませんから。1時間休んだら、D先生と交代していただきます」
 「そうそう、最年長のあんたに休んでもらわんと、わしらはおちおち休めんのだ」
 やはり一瞬患者が途切れたらしい当のDが、隣の診察室の入口から顔を覗かせて相槌を打つ。
 「きっかり一時間経ったら叩き起こしに行ってやるよ」
 明るく冗談好きな口調はいつもと変わらないが、その顔は患者のようにやつれている。だが、自分だって相当ひどい顔をしているに違いない。正直もう限界だった。
 「じゃ、ちょっとお言葉に甘えるとするかな」
 そう言うと、よっこらしょと立ち上がる。Dは、別の看護師に急き立てられ、自分の診察室に戻っていった。

 後ろ手にオフィスのドアを閉めると、崩おれるように椅子に座り込んだ。左手で外科用のマスクをむしり取る。
 ちらっと時計に目をやった。3時15分。もうそんな時間か。昼飯がまだだな・・・
 突然、ぞくりと悪寒がした。いかん、ついにわしもやられたか。しばらく前から頭痛と寒気が断続的に襲ってくるようになり、嫌な予感はしていた。

 ふと机の上に置かれた回覧用紙に目がとまった。昨日までのこの病院での患者数と死亡者数の合計が書かれている。
 患者累計、824名。これまでの経験からすると、開業医にかかっている患者を含めれば、実に4人に1人がインフルエンザに罹患している計算だ。
 次に死亡者数の欄に目をやる。死亡者、96名。──何と、10パーセントを越えているじゃないか。スペイン風邪の時代ならいざ知らず、医学の発達したこの21世紀に、冗談じゃない。しかも、ここは先進国のアメリカだぞ。 
 突然、恐ろしい予感が頭をかすめた。
 終わりの、始まり。
 インフルエンザウィルスによって人類が滅亡するときが、ついにやってきたのか・・・
 ──何を馬鹿な、と急いで自分に言い聞かせる。疲れがたまると、これだからいかん。
 全世界にこのウィルスが広まっているわけではない。今のところ、流行が起きているのはアメリカの片田舎のこの町だけのようだ。きっとCDCが解決策を見つけ出してくれる。そのためにも、症状と治療法について、今のうちにできるだけの記録を残しておかなければ。自分がその10パーセントの仲間入りをする可能性だってなくはないのだから。

 不思議に恐いとは思わなかった。だが、もう3日顔を見ていない妻と2人の子供のことが気にかかった。今朝電話で話したときには、3人とも元気でいるとは言っていたが・・・こうなっては、症状が一段落するまで会わないでいた方がよいだろう。

 とにかく少しでも元気なうちに記録を始めなければ。パソコンに向かおうとするのだが、身体がだるく、マウスに手を伸ばす元気もない。
 彼は机の上にあった小型のマイクロレコーダーを引き寄せ、テープが入っているのを確かめると、レコードボタンを押した。テープが回り始めるのを確認してから、ゆっくりと喋り出す。
 「──── 郡アーリントン、聖トマス記念病院では、10月10日に今シーズン始めてのインフルエンザ感染者の発生を見て以来、10月16日現在、824名の患者を診察しております。CDCの調査によれば、今回のインフルエンザウィルスは・・・」
 突然変異について簡潔に説明したあと、症状の説明に移る。
 「このインフルエンザの特徴は、悪寒、頭痛などの自覚症状が現れてから重篤化するまでの期間が非常に短いということです。このため、来院した患者の多くが、気管支炎もしくは肺炎の兆候を呈しております。ごく初期の段階で抗生物質の投与により炎症の拡大を防ぐことができれば、通常の、いわゆる重いインフルエンザの経過をたどって回復しますが、治療開始が遅れると、重症の肺炎、また乳幼児においては脳炎に至る可能性がきわめて高く・・・」

 彼は時間の観念を失い、頭痛や身体のだるさも忘れ、まるで何かに憑かれたようにレコーダーに向かってひたすら喋り続けた。


(中略)


エピローグ

 その朝、空には白いものが舞った。初雪だった。
 彼は診察室の窓から外を眺めながら、インフルエンザの到来にふさわしい天気だと思った。

 ここ3、4日、インフルエンザで来院する患者が急に増えつつあった。予防接種が始まってひと月、流行の始まりが早すぎる。来院患者の中に接種を受けた者が混じっていることも気にかかった。どうやら、今年の予想は大外れらしい。だとすれば、ここ数年来の大流行になるかもしれない。急激に重症化し気管支炎や肺炎を併発する患者が例年よりかなり多いのも不安材料だった。これが冬季オリンピックの年ではなくてよかった、と心から思う。そんなことになれば、観光地から日帰りの距離にあるイタリア北部のこの町は、大打撃をこうむったに違いない。

 「先生!」
 ばたばたと廊下を走る音がして、看護師が飛び込んできた。
 「急患です。インフルエンザから脳炎を併発したらしい赤ん坊が。救急処置室にお願いします!」
 また脳炎の子供か。これで4人目だ。少し多すぎやしないか。いや、考えるのはあとだ。急いで白衣のポケットに聴診器を突っ込み、看護師に続いて廊下に出た。待合室に入りきらない患者が廊下にもあふれている。みな疲れ切った生気のない顔をして、それでも辛抱強く自分の番がくるのを待っていた。

 ──こんな風景は初めてだ・・・
 終わりの始まり、という言葉がちらと脳裏をかすめる。

 まさか、な。
 軽く頭を振って、疲れが意識に上せたに違いないその考えを追い払う。

 今日も長いいち日になりそうだった。


「見えない悪魔」(Unseen Enemy)(初稿2004年)
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2016.10.23 16:24 | 好きなもの・こと | トラックバック(-) | コメント(0) |
わたしは2013年春頃まで、本当に引きこもりの翻訳者でした。
まあ、親のことで「気持ちは24時間臨戦態勢」でしたので、気持ちに余裕がなかったというのもありますが。もともと、外に出るより家にいるのがいい、というタイプでしたし。

2013年初春に同性の同業者の方々とお会いする機会があり、一気に世界が広がると同時に、多くの方が活躍されているのを見聞きして、「このままこもってばかりではいけない」という焦りを感じました。

そんなこともあって、その年の初夏、懇親会も含めて、初めてJ**のセミナーに参加してみました。
医薬のセミナーでしたが、周りは知らない顔ばかり、借りてきた猫状態で小さくなって座っていました。「照会事項」というテーマにもほとんど知識がなく、英訳の経験があるので話にはついていけるけれど、何がどうしてそんなに大事なのか、ということも分からない状態でした。
懇親会では、席が近くになった方や名刺交換のために回ってこられた方と通り一遍の挨拶や仕事の話はしましたけれど、皆さん、話の接ぎ穂がなくなると「それでは」と言って離れていかれる感じで。こちらから積極的に色々お聞きすれば皆さん親切に答えてくださったと思うのですが、「今さらこんなことを聞いては笑われるのでは」という気持ちが先に立って、お聞きしてみたいことを言葉にすることができませんでした。
「翻訳者としての自分に自信がない」という状態で臨んだ、ワタクシのセミナーデビュー体験です。

というわけで、疲れだけが残った初セミナーでしたが、悪いことばかりではなく、さまざまな文書について理解するには「まず規制・規約を知るのが先決」といくつかのセミナーにもぐり込んだ結果、医療機器規制に関するわりと体系的な知識を得ることができたと思います(そういうセミナーは、翻訳者としてはアウェイのものなので、こちらもある程度覚悟はできていますから、「ひとりポツネン」状態もあまり気になりません)。

その後、SNSを通じて言葉を交わすようになった方々と話をする機会も増え、セミナーにも、だいたい年2~3回のペースで参加しています。今では「居場所がない」と感じることもなくなりました。

そういった、「外との交流」を自分なりに振り返ってみると・・・

よかったこと
・同業者と繋がりができることで、入手できる情報の量が格段に増える(増えすぎて取捨選択が必要になりますが)
・自分では考えもしないような、さまざまな意見を聞くことができる(それを自分の中にどう取込むかという問題が生じますが、確かに視野は広がると思います)
・外出のための時間を捻出するために、効率や仕事のやり方を意識するようになる(あくまで屋根裏比なんで、しょぼい意識ですが)

気をつけないといけないと自戒する(した)こと
・雰囲気に酔うことがある(結局、「すごいものを聴いた」という記憶が一番大きい)
・同業の大先輩のお話を聞くと、とにかくそのまま実践しようとしてしまいがち(よくも悪くも影響を受けやすいワタクシは、最初の2年くらいはそんな感じで、何ごともよく考えて「自分のもの」として取り込まなければ、本当に実にはならないということが何となく分かるようになるまで、時間を要してしまいました)。
・みんなが参加するから自分も参加する、になってしまうことがある(乗り遅れたらヤバいわー、的な)

これからも「今自分に本当に必要なものは何?」「今自分が聞きたい話はどれ?」「それはなぜ?」という問いかけを忘れず、外に出て行くようにしたいと思っています。そうしたゼイタクな時間もいつまで続くか分からないしね。
外に出たことで満足せず、「そうやって得たものを自分はどうしたいか、どうするのがいいのか」も考えながら過ごしていきたいという気持ちを込めて、「『自分』を連れて、外へ」というタイトルにしてみました。

あ、ランチ会とかは別なんで。基本的に、ただただ楽しくお喋りしたいです<念のため。
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2016.10.16 21:42 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(4) |
私は、性格がそうなのか育った環境が影響したのか(たぶん両方なのでしょう<+αもあるかも)、若い頃から、人生に「もっと」を求めず、あまり他人や隣の芝生を羨ましいと思うこともなく、与えられた状況を「ま、こんなものかな」と受け入れてきたように思います(「あれ欲しい、これ買って」がないので、家ウチでは「つまらないが安上がりなオンナ」と呼ばれています)。

ただ、翻訳だけは、いつまでも今の自分に満足せず、貪欲に「もっと」を求めたい。
今の状態、今の自分、今の自分の書く日本語に満足してしまうと、今の自分のレベルが維持されるのではなく、レベルの低下が始まるような気がするのです(あくまで自分の場合ですが)。だから、最低今のレベルを維持したければ、「もう少し」「もっと」を求め続けるしかない(それをどのようにやるかは、人によって少しずつ違うと思いますが)。それが、苦しいばかりではないのは、やはり翻訳が好きだからなのかなと思います。翻訳の仕事を辞めるときまで、満足しない自分でいられたら本望かな。


(蛇足)
どこまでも「もっと」を求めていては、究極的にはどんな訳文も提出できない、という話になってしまうような気もするのですが、日々の仕事ではそういうわけにもいきません。
日々の仕事の「これなら提出できる」というMy基準は「解釈に迷う箇所、意味がよく分からない箇所のすべてを(たとえそれが解釈間違いであったとしても)自分が納得できる解釈に基づいて翻訳し(2つ以上の解釈が可能な場合は、可能な限り調べた上でその1つを採用し)、求められれば、そのように翻訳した理由を説明できる(そういう箇所にはたいていコメントを付けますが)」という状態になっていること、です(注:自分の日々のやり方で、訳漏れ、数字や英語の転記ミス、誤字/脱字/誤記のチェック等は済ませたという前提です)。一度そこを「分からんけどええか」としてしまうと、心の弱い自分は、次も「ま、えっか」にしてしまうような気がするので、しんどくはありますが、そこは自分の中で譲りたくない部分です(今回、つい、悪魔の囁きに負けそうになってしまったので、自戒を込めて書いておきます<悪魔強いわ~)。
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2016.10.14 00:08 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
「訳例で読み解くノンフィクション翻訳」(M井章子)
 *「屋根裏」ではセミナー等の講師の方のお名前は、原則として一部アルファベット表記です。ご了承頂ければと思います。

以前、「原文が見えない」で書いたワタクシの祈りが通じたらしく(<ホンマか)DVD出ましたので、購入し拝聴しました(3週間の放置期間があったことはナイショ)。


* 「DVD視聴」についての感想

今回のセミナーに関して言えば、出席よりDVD視聴の方がよかったかも。
 ・停止、リピートができた(ゆっくりメモを取ることができました)
 ・当日配布された訳例を事前に予習することができた(講師自身が「悩んだ」と仰る訳例を集めたものなので、その場でざっと目を通しただけでは原文すらきちんと理解できないものも多く、その状態で当日解説を聞いたのでは、右から左に抜けるだけだったと思います<あくまで自分の場合ですが)
ただ、DVDでは会場の雰囲気は伝わらないので、「心にぐさっと」度は、実際にセミナーに参加した方がずっと大きかっただろうと。


* セミナーについての感想・・・の前に

昨年から今年にかけて、書籍、雑誌記事、通信講座などを通じて、「翻訳とは」についての諸先輩方の考えをお聞きする機会に恵まれました。
皆さん表現の仕方は違うのですが、「翻訳とは、原文の言っていることを(意味が等価になるように)日本語で表現することである」という点は共通していたと思います。
ですから、翻訳者としては、そこは本来無意識にできていないといけない部分なのでしょう(ワタクシなどは、まだまだ、つい字面に囚われ言葉だけで訳文を処理してしまいがちなのですが・・・)。
その「基本」が根底にあって、「わたしの翻訳はこう」「自分はこの点を一番大切にしている」という部分が、それぞれで微妙に異なる(場合もある)、ということなのかなと。
セミナーDVDを視聴しながら、そんなことを考えました。


* で、やっとセミナーについての感想

配布資料の最初に「翻訳とは、外国語を読んで理解する→理解した内容を日本語で書く」こととあります。M井さんの言葉で定義されていますけど、上で書いた「基本」と同じことを仰っているかな、と。そこには翻訳者としての原文の解釈が存在するわけだから、翻訳者には覚悟が必要だというのがM井さんの翻訳に対する姿勢です。

その後、「読む」「書く」「見直す」の3つの観点から、翻訳について語られます。出版翻訳を念頭に置いての話ではありますが、実務翻訳にも当てはまるものです。

「読む」
翻訳は「深い読書」であり、書き手の人格や意思を感じとることが必要
→ 原文の言っていることを正しく理解するためにはそうする必要があるということだと思います。それができていれば「大外れの訳はしない」と。
文法に頼っていては危ない
→ 文法を軽視するということではなく(M井さんは「文法が正しく解釈できているということが大前提」と仰っています)、原著者の言いたいことが正しく理解できていない状態で(OR 理解する努力を怠って)文法のみに頼って訳すことは危険、ということだそうですが、これは、ワタクシの日々の仕事にも当てはまることです(頭の中に動作や情景が浮かんでいない状態で訳そうとしているときは、そんな感じ)。

「書く」
訳文も日本語
→ というのはというごく当たり前のことなのですけど、話が翻訳となると、「日本語らしい日本語で訳文を作成する」ことがなかなか難しい(<自分の場合、てことですが)。目の前の原文だけに目がいって、翻訳の目的や読者を忘れてしまうことも、その一因なのかもしれません。M井さんは、読み手には本来集中すべき本の内容に集中してほしいので、スラスラ読める素直な文章を心掛けている、と仰います。常にその点を忘れないことが、日本語として読みやすい文章を書かれることに繋がっているのかなと思いました。言葉に対する感度を高めるため、新聞・雑誌はもとより、電車の中吊り広告などにも目を留めておられるそうです(というより、自然と目がいってしまうとか)。
→ お話の中で、語順を変えるだけで格段に読みやすくなるということで、「語順」を強調しておられました。

「見直す」
見直しはクオリティの決め手
→ 「白紙の心」や「第三者の目」という言葉を用いておられましたが、要は、訳者モードから読者モードに切り替えることが大切、ということかと思います(最後に仰った「最後は読む速さで読んでみる」というのも、読者モードで読む、ということかと)。


* まとめてみた

正味2時間半強のこのセミナーでM井さんが伝えようとしてくださったことを自分なりに(強引に)まとめてみると、「小手先の技術で処理しようとせず、常に(著者背景、文章のクセ、原語文化などすべてを含めて)『書き手は何が言いたいのか』を意識しながら訳す」ということかなと思います(あくまでワタクシの解釈です)。まとめると2行くらいなんですけど、これが難しいんだよね~。人間、いくつになっても修行です。

余談ですが、質疑応答の「毎日どんな風に生活されていますか」という質問に対し、「できるときはいつも仕事をしています」と仰ったのが、「そこだけは自分と同じだわ~」とちょっと嬉しくなってしまったのでした。
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2016.10.05 22:24 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(7) |