屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

翻訳祭に初参加致しました。

翻訳以外のさまざまな状況が「行けるで」状態であったこともありますが、ワタクシにとっては、「東京まで行こう」と思えるだけのプログラムが多かったことも、初参加を決めた大きな理由です。

前日は「十人十色」という勉強会→懇親会に参加。
勉強会の内容は、ブログに書いてよいかどうか判断しかねましたので、詳細は割愛します。
登壇者はしんハムさん、 内容は以前レポートした「翻訳支援ツール超入門」がさらに進化したもの、ということだけ記しておきます。
懇親会では、「SNS上やり取りしていた/お顔(?)を存じ上げていたけど初対面」という方が何名かおられて、SNS恐るべしですね~、つか、悪いことはできんわ。

さて、本題。

久々の上京ですし(8月にこっそり行ったけどな)、既知の方々に再会できるという楽しみもありますし、何といっても翻訳「祭」です。
「いい話聞いた!!」と舞い上がって楽しんで終わり、ということだけは避けたいと思いました。家のこともあり、次いつ参加できるか、そもそも次があるのかも分かりませんし。

ということで、参加する全セッションについて詳細なメモを取ることにして、表紙の固い掌に収まる大きさのメモ帳を用意しました(立ち見の恐れもあったので)。
で、今、取りまくったメモを読み返しているんですが...書き殴った自分の字が読めません...

そんなわけで、各セッションの内容については、メモをもとに、おいおいUPしていきたいと思います。今日は総括だけ。
総括だけは、どうしても今日のうちに書いておきたかったのです。

参加したセッションは以下の3つです。やはり2泊は家を空け辛く、4つ目は断念し、その日のうちに帰阪しました。
第2、第3希望まで考えておくようにという事前アドバイスがありましたが、運よくいずれも第1希望のセッションを聴講することができました(ただし、第3セッションは立ち見になりました)。

1 「翻訳とはなにか~足元を見直そう~」
2 「誰も教えてくれない翻訳チェック~翻訳者にとっての翻訳チェックを考える~」
3 「私たちは逃げ切り世代?~翻訳者に未来はあるのか」

まず、1と2についてですが、強引にまとめると、1は「訳文の文章の質」についての話、2は「それ以外の部分での訳文の質」(いわゆるぽかミスがない)ということができるかなと思います。と書くと、全然関係のない話のようにも聞こえますし、ついつい1の方だけを重要視してしまいがちですが、翻訳者として「よい訳文」を提出するにはどちらかが欠けてもだめで、その2つは車の両輪なのだということが、1と2のセッションを続けて拝聴するとよく分かりました。個人的には2個1というか、コインの表裏みたいな2つのセッションでした。あくまで個人的な感想ですが(それぞれの具体的な内容は、また後日記事にします)。

セッション3は、さすがに強引には繋げられんやろ、と思いつつ拝聴したのですが...繋がりました<え?

3つのセッションの登壇者の方たちは、それぞれ違う言葉でしたけど、同じことを仰っていたような気がします。

それは、(またまた強引にまとめますが)「やりたくない、意に染まない、一定品質が確保できない仕事はしないという姿勢も大切」「『よくしたい』という気持ちから発したものであれば、そのことを相手にきちんと説明する努力も大事」「そういう姿勢が、結局、最終的な評価を決める」ということです。

皆さん、そういう努力をしない、そもそもそういうことを考えない翻訳者が増えたのではないか、という危機感を抱いておられるのではないかという気がしました(あくまで、勝手に思っただけですが)。

後日、各論でも触れますが、あるセッションで、翻訳者側からみた担当者の質も落ちたという厳しい意見があったのですが、同じセッションで、「担当者側にも変わろうとする動きが出てきているのを感じる」という話も出ました。

翻訳業界にも、もしかしたら、そうした「揺り戻し」が来つつあるのかもしれません。このままでは、翻訳者も、翻訳業界もだめだ、みたいな。
単価の下落や機械翻訳の進出は避けられず(個人的には、「Gxxxxx翻訳」でも書きましたが、機械翻訳との共存が図れればよいなとは思っています)、どういった方向に向かうかは、翻訳者だけで決められない部分はありますが、「やりたくない、意に染まない、一定品質が確保できない仕事はしないという姿勢も大切」「『よくしたい』という気持ちから発したものであれば、そのことを相手にきちんと説明する努力も大事」ということを、個人個人がもう少し真剣に考えてみてもよいのではないかなと。セッションでは「そのためにどうしたか/どうしているか」といった話はありましたが、「自分」はどうするか、というのは、一人一人が考えなければいけないことではないかと思います(と自戒)。

もしかしたら、ワタクシは、分岐点の翻訳祭に立ち会ったのかもしれません。
胎動期に立ち会ったと思いたいですが、そのためには「祭」を「祭」で終わらせず、個人個人も、真剣に5年先、10年先を考えて努力していく必要があると思いました。


てことで、修羅場に戻ります。
セッション各論はまたおいおいと。

実行委員の皆さま、ボランティアされた方々、登壇者各位、市ヶ谷駅前の交番のお巡りさん(おかげさまで正しい方向に進むことができました)、本当にありがとうございました。
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2016.11.30 16:20 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
例によってSayoさんが修羅場っているため(Sayo辞書に「学習する」という言葉はないようです)、ブログにひと休みして貰うことにしました。


R.A.ハインラインの「輪廻の蛇」という作品をご存じでしょうか。蛇がぐるぐるする話・・・じゃなくて、最初の1文と最後の1文がまったく同じで、いつまで経っても話が終わらない、というお話なのですが(手元にないので、詳細は多少いい加減です)、初読時に衝撃を受けたことを今でも覚えています。

そして、恐れ多くも、いつか自分も、蛇がぐるぐるするお話を書いてみたいと思っていました。
でも、ワタクシの妄想力では、きちんと話を繋いでオチにつなげて、の蛇がぐるぐるは、どう足掻いても不可能で。(中略)部分はめっちゃしょぼい、いわゆる「夢オチ」です。ハインライン、凄すぎ(泣)。
(いつものように名前はアルファベットに変えました。連作の途中なので、冒頭、多少分かりにくい部分がありますが、どうぞご容赦ください)

****

 Aは、湯気の立つマグカップをコーヒーテーブルの上に置き、新聞を広げた。朝食後自分でコーヒーを淹れ、英語の勉強も兼ねて居間でゆっくり新聞を読むのが、アメリカに来てからの日課になっている。

 Bがいた間は、午前中居間にいることの多かった彼女の周りに、普段は昼近くまで寝ているJも含め、手の空いた仲間が自然と集まってくる格好になったから、Aは落ち着いて新聞を読むことができなかった。別に彼女が邪魔だったわけではない。親しくなる、というほどではなかったが、それでも、彼女が去ったあとは一抹の寂しさを感じている。だが、とにかく、これで彼の平和なひと時が戻ってきたことは間違いない。

 ニュースセクションの見出しにざっと目を通したが、たいしたニュースはなさそうだ。コーヒーを一口すすってから、ビジネスセクションを取り上げる。
 日本の中堅企業がアメリカ市場でロボット犬を新発売した、というニュースが目を引いた。ロボット犬といえば、日本ではSONYのAIBOが人気を博していたが、写真で見る限り、こちらのロボット犬の方が、より本物に近い感じがする。
 発売日当日、何百人もの客が、その犬を求めて電化製品量販店に群がったという。
 担当記者は、かなり冷めた目でその狂騒ぶりを揶揄し、多くの人間が、寂しさは紛らわせたいが生き物の世話をするのは面倒くさい、というかなり身勝手な理由でロボット犬を購入しているようだ、と結んでいた。

 本物に近づくべく進化を続ける自律型ロボットと、機械にもっとも近いところにいる自分 ―― 似たり寄ったりの存在と言えなくもない。多少の親近感が湧いた。
 もっとも脳味噌だけは違う。いくら判断力や感情を備えたといっても、所詮彼らの脳は人工の産物だ。本物の脳とは比ぶべくもない。

 他のニュースを斜め読みしてスポーツに移ろうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。この家にはめったにないことだ。

 「A、お願い。ちょっと手が離せなくて」
 キッチンからFの声が聞こえた。

 しょうがない。持ち上げかけたマグをテーブルの上に戻し、立っていって明り取りの小窓から外を覗いた。足元に大箱を置いた男が、ポーチに立ってキョロキョロとあたりを見回している。ドライブウェイの先には、Fedexのバンが停まっていた。怪しい人間ではなさそうだ。


(中略)


 身体を強く揺すぶられ、Aはハッと目を覚ました。
 心臓が咽喉元までせり上がり、全身にびっしょり冷や汗をかいていた。

 「どうしたの、Aったら。ひどくうなされて」
 片手に毛布を抱えたFが、心配そうに自分を覗き込んでいた。もちろん、その目には理知の光が宿っている。

 Aは、自分がソファに横になっていることに気づいた。
 では、あれは夢か・・・
 急いでテーブルの上の新聞を引っ掴み、日付を確認する。それはハービーが送られてきた日 ―― いや、今朝の日付だった。例のロボット犬発売をめぐる記事のページが開いてある。ということは、新聞を読みながらうたた寝しちまったってわけか...
 「寝てたのか...」
 「やあね、覚えてないの?」
 Fは、何を寝ぼけているのだと言わんばかりに、彼の肩を軽く小突いた。
 「あまりよく寝ていたから、しばらくこのまま寝かせておいてあげようと思って、毛布を取って戻ってきたら、うなされてるじゃない。びっくりしちゃった。よっぽど悪い夢を見たのね」

 ああ、もう死ぬまで見たくないような夢だ。

 「眠るのならベッドに入った方がいいわよ。こんなところでうたた寝してたら、毛布があっても風邪を引くかもしれない」
 Fは、毛布を彼の脇に置くと、キッチンに戻っていった。おかしなところなど全くない。いつものよく気のつく世話焼きのFだ。

 だが、考えてみれば、いくら洗脳されたとはいえ、彼らが自分を襲ってくることなどあろうはずがない。まったく、とんでもない夢を見たものだ。きっと、こいつのせいだな ―― と新聞の記事をひと睨みする。
 とにかく、しばらく寝るのはごめんだ。もう一杯コーヒーを飲んで頭をすっきりさせるとしよう。
 すっかり中身の冷めてしまったマグカップを手に立ち上がりかける。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。この家にはめったにないことだ。

 「A、お願い。ちょっと手が離せなくて」
 キッチンからFの声が聞こえた。

 立ち上がりかけた姿勢のまま硬直した。
 30秒、いや、1分近くそうしていたろうか。Aはふうとひとつ深呼吸をして肩の力を抜いた。まったく、何を馬鹿なことを考えてるんだ。
 マグをテーブルの上に戻し、立っていって明り取りの小窓から外を覗いた。足元に大箱を置いた男が、ポーチに立ってキョロキョロとあたりを見回している。ドライブウェイの先には、Fedexのバンが停まっていた。

「Harbie, the Dog」(初稿2005年)
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2016.11.26 00:14 | 好きなもの・こと | トラックバック(-) | コメント(0) |
進化した、と話題になっています。
その現実に踊らされることはしたくないですが、目を背けてまったく無視することもまた難しい。

あくまで「個人的に思うこと・考えること」です。
なので、程度、そんなに高くないです、たぶん。
「自分」視点を外れないよう、できるだけ努力しました、つもり。
ワタクシは現在英和翻訳者ですので、英>和の翻訳のみを念頭に置いています。

以前、「生き残る」という記事で、AIについてちょっと考えてみたことがありました。

そのとき、AIによる翻訳は、ヨコ(文や文節単位の翻訳)には強いがタテ(文脈に沿った翻訳)はまだ弱いという(素人の)印象を持ったのですが、ニューラルネット翻訳と言うんですか、今回導入された翻訳手法は、人間の脳の働きを模したもので、文脈も分析しながら翻訳を行うというではありませんか(ざっくりいい加減に理解したところなので、間違っていたらすいません)。これって、「タテも見てるで」てことちゃうん。まあ、どこまでのタテを見るか、ということはありますが、この「タテへの動き」、個人的にはちょっと脅威に感じました。

とは言っても、今のところ、適語選択の判断は「意味を理解して」ということではなさそうですので、まず原稿の全体的な流れを把握し、意味・意図・書かれた目的を理解して翻訳を行う人間の方が、正確で適切な、最善の翻訳を提供できる、ということは言えそうです。

しかし。
「AIのレベルはまだまだだから、翻訳の仕事はまだ安泰」というのは、「正常性バイアス」ではないとは言い切れないような気がするのも事実です。「正常性バイアス」という心理学用語は、最近知ったのですが、自分にとって不都合な事実や情報を「大したことはないはずだ」と無視したり過小評価したりする心理的な特性を言うのだそうです...ホラーやな。

以下、Gxxxxx翻訳に関するいくつかの記事を読んで思ったことを、思いつくままに挙げてみます。

・ それなりに流暢な訳文が生成される場合も多いので、間違った情報が伝わっていても分からない恐れが(ワタクシが「おおっ、賢くなっとる!」とか遊んでいる分には問題ないですが)。誰でも使えるGxxxxx翻訳の怖さを感じました。

・ 「一見読みやすい文章」の弊害
 1 個人で使用する頻度が上がる → 何となく意味は分かるので、それなりに満足する → 職場で翻訳需要が発生した場合に、機械翻訳で十分じゃん、と考える。
 2 個人で使用する頻度が上がる → 何となく意味は分かるので、書かれている日本語が変だとは考えない → きちんとした日本語が身につきにくくなる → 「これでよい」とする日本語の基準が低くなる

 どちらの場合も、まずは機械に(MT+PE)という流れが加速するんじゃないのかなと。
 翻訳分野や文書の種類によって、一概には言えないかな、とは思いますが。

MT+PEについて言えば、翻訳とは別ものという考え方もあるかとは思いますが、業界の一部には違いありません(と、ワタクシは思います)。「一見流暢な、でも間違っている文章」を、前後の日本語と合せながら、正しい、別の読みやすい表現に直す、てジツはかなりの技量がいるんじゃないかなあと思いますし、これはこれで、それだけに特化すれば、1つの面白い仕事と言えるかもしれません。ただ、よいPE/チェッカーを増やすためにも、業界として、その地位を向上させる(実力者には十分にペイする)仕組みを作る必要があるんじゃないかという気はします。

・  (日本語も含め)語学学習が軽視されるのではと、ちょっと不安。辞書を引いたり考えたりしなくても、すぐに「訳文」という答えが手に入るわけですから。語学がすべてとは思いませんが、きちんと言葉を学んで理解が深まる、ということもきっとありますよね。まあ、そんな風に考えたくなるのは、ワタクシが翻訳を仕事にしているからかもしれませんが。

でも。
世の流れではあるし、確かに便利な部分もあるし、ただ敵視することはしたくないとも。

 ・ 海外旅行時(個人的には特に非英語圏)の必要情報収集には威力を発揮すると思います。
 ・ 言語を同じくしない者同士のコミュニケーションが円滑化される部分もあるかと(ワタクシの通っている美容室には、場所柄か、外国の方もときどき来られるのですが、「英語は全然ダメ」というマスターは、最近ではお互いスマホを用いて、そういうお客さんと、髪型も含め、和気藹々とやり取りなさっています)。

それぞれが得意分野に特化し、共存が図ることができればベストではないかなと思います。

とはいえ。
AIによる翻訳の精度がさらに上がっていけば、人間が必要とされる翻訳が減っていくのは避けられない事実のような気がします。
今の段階でも、「原稿の全体的な流れを把握し、意味・意図・書かれた目的を理解して翻訳」されていないと感じる訳文を目にすることはありますし、それが人手によるものであるならば、そうした翻訳者は、そこに留まる限り、今後淘汰されていくのではないかと。

では、自分はどうするのかと考えてみたとき、まずは「年も年だし、そういう流れならいつ止めたっていいよ~ん」という開き直りが心のどこかにあるのは事実です。
でも、好きな仕事ですから、細くともできるだけ長く続けたい。そのためには、抽象的ですが、「機械には置き換わらない翻訳ができる力」をつける努力を怠らない、ということに尽きるかなと思います。
ワタクシは、かなり長いこと、「英語が好き」と思っていたのですが、どうやらそれは「英語が読めて書けて喋れる自分、カッコいい」と思いたい気持ちも多分に混じっていたようで、ジツは「日本語でモノを書く」ことの方が好きなようです(その割りには、「オマエの日本語変」と四字熟語に弱い旦那に言われるのですが<論理的思考を言葉で展開する能力が弱いようです)。その方向を伸ばしながら、(可能であれば、何らかの差別化も含め)翻訳者として生き残って行く道を模索しつつ仕事を続ける、というのが、来年の目標になりそうです。

以前とあまり変わらん、しょぼい結論だったような。
タイトル伏せ字にしといてよかった。
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2016.11.20 16:13 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(6) |
今日は、「...から(強引に)翻訳へ」シリーズなのだった。


コンパルソリーとは、フィギュアスケートの「規定」(審判の前で規定の図形を描くこと)です。
以前は規定、SP、FPの3種目だったのが(もっと前は規定とFPの2種目)、1990年に規定が廃止され、現在の形になっています。

なぜ、今頃、突然コンパルソリーを思い出したかというと、それは、ある選手のEXの演技を見たから(You Tubeですが)。
こちら↓の動画(Chello Suite performed by Mao Asada)がそう。
https://www.youtube.com/watch?v=fPPAArR6HCU

そう言えば、以前はこういう足元の動き、もっと見たよな、と(今もステップの中に組み込まれているのでしょうが、こういうゆったりとしたものはあまりないような)。
競技では、難しいジャンプやスピン、複雑なステップを組み込まなければならないので、「ゆったり」感のあるプログラムを滑るのは難しいのでしょうが、スピードはあっても滑りに緩急のない選手や「忙しい」プログラムが増えたような気がします(<あくまで素人の個人的な感想ですが<念のため)。

ワタクシの好きな「ゆったり系競技プログラム」の一例はコチラ(<あくまで好みです)。
(Ave Maria performed by Carolina Kostner)。
https://www.youtube.com/watch?v=JTOSJ3g0WwA

フィギュアスケートはスポーツですから、基本に忠実な美しい動作ができても、高難度の技を成功させることができなければ高得点は出ないわけなんですが、それでも、こうした選手たちの滑りは、少しでも長く見ていたいと思ってしまいます(これまた、あくまで個人的な好みと感想ですが)。

ジャンプやスピンにも、もちろん基礎練習はあるのでしょうが、すべての基礎は、やはりコンパルソリーではないのかなと。その基礎をきちんと身につけることで、緩急自在の滑りも可能になるのかもしれません。とはいえ、高難度のジャンプやさまざまな種類のスピン、複雑なやステップなど、身につけなければならない技術が増えれば、コンパルソリーの練習にそうそう時間を割くわけにもいかず、というのが現実なのだと思います。試合では結果も残さなければならないし。あくまでも素人の想像ですが(てことで、ここは、「そういう意見もあるかもね」的に流して頂ければと)。


というわけで。
ここまできたら、屋根裏としては、「翻訳のコンパルソリーて何だろう」と考えないわけにはいかないではありませんか。悲しいサガです。

しばらくの間、そのことを考えていました(仕事もしていました<念のため)。
今のところ、それは「適切な文章を書く力」ではないかと考えています。ワタクシの考える「適切な」というのは、「対象読者が予測するような」という意味です。なので、状況に応じて、いかつい専門用語バリバリの文章にもなりますし、ふわっとした柔らかい文章にもなります。あくまで「近づきたい」理想ですが。
そのためには、さまざまな種類の言葉を拾い、表現を拾い、自分の中に蓄積し(ついでに用語集にも蓄積し)、必要に応じて出す、ということができなければいけないわけで、そう考えると、気も遠くなろうってもんです。
ただ、最近、さまざまなことを「意識する」ことで、そうした作業が少し楽になるかもしれない、ということが何となく分かってきました。「原文の言っていることを塊として意識する」「訳文も塊として意識する」「訳文に自分のBiasが入り込んでいないかどうかを意識する」とか、そういったことです。
実際のところは、ワタクシのような平凡な翻訳者は、「適切な文章を書く力」は、さまざまな表現を取り込む+意識的な訓練を続けることで底上げしていくしかないのかな、と思っています(訓練の内容は、「自分は何が弱いか」によってまた変わってくると思いますが)。コンパルソリーが、「単純な図形を描く」という動作を地道に練習するのと、ちょっと似てますよね(と、強引に持ってくるのだった<屋根裏得意技)。

50台も半ばを迎えようとし、体力も衰え、気力も集中力も低下し(ありがたいことtに、火事場の馬鹿力はまだあるようです)、さまざまに努力している(積もり)にも関わらず、同じ期間で質を落とさず処理できる量も、現状維持がやっとです。これからは、量的なことを言えば、たぶん落ちていくばかりなのね~。
取引先から、「あのヒトはちょっと納期を長くとってあげないとだめなんだけど、いつもいい翻訳を提出してくれるので、長く仕事をして貰いたい」と思って貰える状態を少しでも長くキープする、というのが、今のワタクシのささやかな願いです(<そう思って貰えているかどうかは、また別問題でして(^^ゞ)。


ということで、今日は「火事場の馬鹿力」したので、上の動画に癒やして貰って、(屋根裏的には)早めに上がることにします。
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2016.11.15 22:34 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |
「死すべき定め」(アトゥール・ガワンデ、原井宏明訳、みすず書房)

原書「Being Mortal」を読んだ(聴いた)ときの感想を以前に記事にしています。
原書を読んだとき、「自分がこの本を訳したい」と強く思いましたが、同時に「今の自分の力ではこの本の真価を伝えられない」という恐れも抱きました。

原書はベストセラーになりましたし、ガワンデ医師の著書は過去にも翻訳されていますので、きっと訳書が出るに違いないと、ときどきGoogle検索やAmazon周りチェックで確認していました。そして、出版される暫く前に、同じ著者の「医師は最善を尽くしているか」を翻訳された精神科医、原井宏明氏の翻訳で出版されることを知りました。

原井先生の経歴をネットで確認し、ご自分で何冊も著書を書かれている方であることを知り、ブログで「Being Mortal」について真摯に語っておられる記事も読みました。そして...いてもたってもいられず、「私もその本読みました」的なコメントをしてしまったのでした(ときどきそういう大胆なことをやります)。それがきっかけで、先生とやり取りさせて頂くようになり、前作を翻訳するにあたって、宮脇孝雄さんの著書や他の翻訳指南書で自分なりに勉強されてから翻訳に取り組まれたことを知りました。そのお話をお聞きしたとき、医師であり「翻訳」という作業にもきちんと取り組まれた原井先生の翻訳で本当によかったと思いました。

先生には「読んだら感想文書きます」とお約束していたのですが、ずるずると遅くなってしまいました(いちおー、出版されてすぐに購入したんですけど...)。1つ前の記事の勉強会の前には読了しておきたいと思ったのですが、帰りの新幹線の中でも読み終わらず、月も変わった今となってしまいました。
前置きが長くなりましたが、以下、「死すべき定め」の読書感想文です。

長文です。内容的なこともあり、体調の宜しいときに読まれることをお勧めします。


***


訳文、ということだけを言うなら、もっとこなれた日本語を書かれると思われる翻訳者の方を、たぶん私は何人も知っている。
でも、「死すべき定め」を読んでいると、訳者の翻訳に対する真摯な姿勢が伝わってくる。「翻訳に対する」というと、少し語弊があるかもしれない。訳者は誰でも、常に真摯に翻訳と向かい合っているに違いないのだから。生と死について翻訳することに、居住まいを正して向かい合っている、とでも言えばよいだろうか。少なくとも、さまざまな知識も含めて、今の私が足下に及ばない翻訳をされたことは確かだ。

もちろん、原文の持つ力も大きいと思う。
Amazonの著者紹介には、アトゥール・ガワンデは現役の外科医だが、「ニューヨーカー」誌のライターでもあると書かれている。アメリカ生まれだが、インドにルーツを持ち、両親もともに医者である。

医療の進歩により、寿命は延び治る疾患も増えた。しかし、「人生の最後の日までをどうすれば満ち足りて生きていけるかを全体から見る視点が欠けている」(序x頁)のではないかと、著者は問いかける。
医療を行う側も受ける側も、その方が楽だから、老いや死から目を背けている。そうではなく、きちんと対峙する必要があるのではないか。そのためには何が必要なのかを明らかにしようとする本だ。

原書は何巡したか分からないほど聴いていて、内容は概ねきちんと頭に入っていると思っていたが、母語で「読んで」みると新たに気づくことがたくさんあった。

まず、アトゥール・ガワンデはストーリーテラーだということを改めて実感した。

老化と死についての考察では、インド在住の父方の祖父の最後の日々(多くの家族の世話を受けながら天寿を全う)と、妻の祖母の最後の日々(独居→ナーシングホームという流れで徐々に生きる気力をなくす)が対比される。その間に、これまでの研究で得られた知見や、別の最後の日々の実例(フェリックス・シルバーストーン医師)が挟まれる。
また、いわゆるナーシングホームの成立や、理想的なナーシングホーム、アシステッドリビングなどが生まれた経緯を紹介する間に、ローとシェリー父娘の葛藤が描かれる。
ホスピスと緩和ケアのくだりでは、そのケアの実例の描写と、最後までアグレッシブな治療に望みを繋いだ結果、ICUで最後を迎えることになったサラ・モノポリとその家族の物語が同時進行する。
それぞれが絶妙な間隔で配置され、飽きさせない。逆に、彼(彼女)はこの先どんな運命を辿るのだろうという興味をかき立てる。

終末期ケアでは、治療のみならず話し合いこそが大切なのではないかと、ガワンデ医師は問う。
緩和ケアスペシャリスト、ブロック医師は、そのような患者を相手に話を進める場合のルールとして、「相手の前に座る。時間を作る。治療Xか治療Y、どちらを行うかを決めるのは医療者ではない。今のこの状況の中で、何が相手にとってもっとも大切なのかを学ぼうとする――そうすることで、大切なことを達成できる最善のチャンスを見いだすための情報とアドバイスを提供することができる。このプロセスには話すのと同じくらい聞くことが必要だ。もし医療者が面接時間の半分以上話しているならば、(彼女によれば)これは話しすぎである」(180頁)と語っている。
ブロック医師自身も、父親の手術を前に、現実を直視する「厳しい決断」を迫られた経験がある。
しかし、現実は、「これ以上の治療はよろしくないという時期を決めるための話し合いにはお金が支払われていない」(185頁)。医療は死や病気と闘うために存在するのだから。

「Being Mortal」の感想文の中で、医師の態度には、Father-like figure(家父長的、「こうしなさい」と治療法を指示)、informative(情報提供的、これこれこういう治療の選択肢がありますよと情報を与え、最終決定は患者に委ねる)、interpretive(解釈的、患者の「どうしたいか」を理解し、そのために最善の治療を選択する)の3種類があると語られていることに言及したが、これは、エゼキエル・エマニュエルとリンダ・エマニュエルによる論文から引用された言葉だった。私は、ガワンデ医師は「共同意思決定」とも呼ばれるこの3番目の態度を望ましいとしている、と解釈していたのだが、実際に読んでみると、論文の著者らは、それだけでは足りず、ときには「医師は患者の大きな目標を明確にすることだけにとどまらず、思慮の足りない願望に対しては考え直すように医師の側から指摘する必要がある」(200頁)とも述べている。患者のニーズに適切に応えるためには、時間や知識や患者理解に加え、ときには情に流されない判断も必要ということだ。

これは、患者と家族の間にも当てはまる。
ガワンデ医師は、父親の病に際して、患者家族として「厳しい会話」に臨み「厳しい決断」をくださなければならない。手術をするのかしいないのか、どういう状態なら生きていたいのか、治療を続けるのか緩和ケアに進むのか。決断のときは何度も訪れる。

父親の最後の日々の話と並行して、娘のピアノ教師ペグの最後の日々が描かれる。ペグはホスピスケアを受けながら、最後までピアノ教師として生きた。そういう、何らかの役割を果たすことにも、医療者はもっと目を向ける必要があるのではないかと、ガワンデ医師は考える。「現代のハイテク社会は、社会学者の言う『死にゆく者の役割』が臨終で果たす重要性を忘れている。死にゆく人は記憶の共有と知恵や形見の伝授、関係の堅固化、伝説の創造、神と共にある平安、残される人たちの安全を願う。自分自身のやり方で自分のストーリーの終わりを飾りたい。調査報告によれば、この役割は死にゆく人にとっても残される人にとっても人生を通じてもっとも重要なことである。そして、もし本当にそうならば、私たちの鈍感さや怠慢さゆえに、この役割を否定してしまうことは恥辱を永遠に残すことにもつながる。人の人生の最後の時に底知れない深い傷を残しながら、終われば残した傷について無関心でいることを、私たち医療者は何度も繰り返している」(250頁)。

本の最後で父親にも死が訪れるが、父との間に「厳しい会話」があったからこそ、自分たちは今平穏な気持ちでいられる、とガワンデ医師は結ぶ。

医療者や医療者を志す方たちに是非読んで頂きたい本だと思うが、現実問題、さまざまな制度の縛りがある(らしい)中で、医療者にばかり意識改革を促すのは酷ではないかという気持ちもある。患者とその家族は、自分たちの決断だけを考えればよいが、医療者は数多の患者とその決断を共有しなければならない。常に真摯に対応した場合の疲弊感は並大抵のものではないということは、容易に想像できる。
よりよく生きて死ぬためには、医療を受ける側も、逃げずに現実を直視し、任せておけば医師が何とかしてくれるという他力本願から脱却する必要があると思う。前にも書いたとおり、人生は一度しかないのだから。


最後に。
ガワンデ医師は、最後まで人らしく生きるためには「厳しい会話」が重要で、それを怠らなかったから、父は人間らしく死ぬことができた、と述べている。

確かに、私は、父とも母ともそうした会話をしなかった。ガワンデ医師と状況は違うが、状況が大きく動く前も、3人とも、何となくそういう話題を避けていたと思う。
でも、同時に、老衰で亡くなった父に関して言えば、たとえそうした会話を交わしていたとしても、最後の日々は大きく変わらなかっただろうとも思う。父には延命措置は行わなかった。枯れ木が枯れ落ちるように亡くなった。
それでも、一日の殆どを眠って過ごし、手掴みで食べ物を口に運び、(おそらく)娘を始め周りの誰をも認識できない状態で過ごした日々は、人間らしいと言えるのだろうか。その状態で生きる意味はあったのだろうか。
その問いに対し、かつて私は、自分の気持ちを楽にしたいという思いもあったが、とにかく一つの結論を出している。あれから4年がすぎたが、その気持ちは概ね変わらない。それもまた「死にゆく者の役割」ではないかと思う。
自分も死に際して、そうした「何らかの役割」を果たすことができるだろうか。
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2016.11.08 14:03 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(4) |