屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

ここしばらく、私は「日本語として読みやすい訳文」をつくることに腐心してきた。
まだまだ先は長いが、「日本語らしい文章」という点を評価ポイントとするなら、1年前の訳文と比べて多少の成果は出ているような気がする(ほんに多少ですが)。

だが、このところ、「読者に文意を正しく伝えられるように」ばかりを意識するあまり、リライトの領域まで足を踏み入れていないかということが気になり始めた。
ひとつのところに意識がいくと他が疎かになるのは私の悪い癖だ。
(蛇足ですが、「行き過ぎていないか」を意識するきっかけとなったのは、初対面の先輩方が多かった同業者新年会でした。しみじみ、新たな出会いは大切だと感じました)

「ここまでならリライトではない」と判断しながら訳文をつくっていくのは自分しかおらず(←提出前の翻訳の段階で、という意味で)、自分の中の「判断基準」をより明確にするために、先達の言葉から学び訓練を続けていくわけなのだけれど、ときに立ち止まって「その判断基準が独りよがりになっていないか」「大切なことを見失っていないか」を考え、修正すべき点を修正することはとても大切だと思う。

見据えるべきは読者。意識すべきはきちんと読者に届く訳文。でも、私の前には、同じ思いで原文を作成した原著者がいるわけで、そうして書かれた原文の存在をつい軽んじて「日本語として読みやすい」ばかりを求めるならば、突き詰めれば、Gxxxxx翻訳と変わるところがないではないか。そう思って、さまざまな意味での自分の力不足がちょっと悲しくなったのだった。


諸般の事情によりいつにも増して始動が遅れてしまった屋根裏ですが、午後からは上記の内容を肝に銘じ、また新たな気持ちで翻訳に取り組みたいと思います。
自戒をこめて文章にしました。
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2017.01.31 12:57 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
最近、知合いの翻訳者さんが、日本語のアウトプットを兼ねて「読書感想文」を始められました。
文章も内容もステキだったので、思わず「これからも楽しみにしてまーす♪」的なコメントをしてプレッシャーをかけてしまいました(スイマセンでした)。

屋根裏でもときどき「勝手に読書感想文」をやっていて、今では個人的には結構好きなシリーズになっているのですが、ジツは、学生時代は、夏休みの宿題的にやってくるこの「読書感想文」は好きではありませんでした。

今「読書感想文」が楽しみなのは、「伝えたい」と思ったものしか紹介していないからかなと思います(なので、かなり偏っています)。学生時代の読書感想文は、あくまでも勉強の延長線上で、「書かなければならない」感が先に立ち、だから楽しめなかったのかなと。


継続は力なり、と言いますが、あくまで自分の場合ですけど、「やらなくては」「これは勉強です」感なく、「楽しく」続けたことが長く続いているような気がします。
とはいえ、1年ほど前から、「意識してやる」ことの大切さも痛感するようになりました。「何となく」続けていることの、脳内や実力としての定着度は、「意識して」やったことの比ではないような気がするのです。

ということで、「昨年の音読・リスニング記録」でもちらと触れましたが、しばらく前から「楽しく継続」と「意識して」を組み合わせた訓練を試行錯誤しています。

ブログは、ワタクシにとって「息抜きの場」という意味合いも大きいので、言葉や表現については確認しますが、基本、書きたいように書いています。一番気をつけて(?)いることは、「どこで抜くか」(「突っ込むか」ともいう<関西人のサガです)ということで、「でもだがしかし。」(3連続逆接接続詞句点付き)のような、文法が卒倒するような言葉遣いが登場することもありますが、どうかお目こぼしください。

とはいえ、ブログが日本語を書く訓練の場になることも確かなので、努力目標として、1か月に1本は、正しい言葉遣い・文法・文の流れ・読みやすさなどを意識した記事を書くようにしています(注:あくまでも努力目標です<気持ちにも時間にも余裕がないとできない)。

リスニングは、今は「楽しく耳慣れ」のみが目標です(なので、意識が他に飛んでいて内容が抜けてしまうこともしばしばですが、「ああ、またやっちゃった~」と気にしないことにしています)。

音読も、以前は英語舌(?)継続のみが目標で、英語の音読しかしていませんでしたが、今は、日本語の文章(「文章、文法、語の使い分けに関する書籍」「小説や紀行文」「医療分野の文体(?)で書かれた書籍」)も読むようにしています。あとの2つは、今のところ「記憶の片隅に残ればいいか」と割り切って「何となく読み」していますが、「文章、文法、語の使い分けに関する書籍」は「勉強として」読むようにしていて、付箋を貼ったりメモを取ったりすることもあります。今は、今さら「実戦・日本語の作文技術」にお世話になっています)。

その他に、平日は、新聞を読むときに、記事見出しの文章化(記事1本)と記事見出し作成(自分ならどういう副見出しにするか、記事1本)をするようにしています(「文章添削の教科書」で紹介されていた方法を、ワタクシなりにアレンジしました)。いざ文章化しようとすると簡単にできるものとそうでないものがあって意外に面白いのですが、自分の中では「勉強してます」感があるので、週末はサボることにしています。


「何となく」を長い間続けてきて、自分の中では「実力がついている(ハズだ)」という慢心がありましたが、ここにきて、「何となく」と「意識して」の違いを痛感しています。とはいえ、すべてを「意識して」ではしんどくなってしまうので、今は、「意識して」は仕事と日々の訓練の一部に留めて、自分がどう変化するか、そもそも変化できるのか様子を見ている、そんな感じです。
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2017.01.26 16:08 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |
今日の朝日新聞の「パブリックエディターから」は校閲に関する記事(「紙面の質守るキーパー 役割・重み増す校閲記者」)でした。
その記事を読みながら思考があらぬ方(?)にdriftしてしまった(いつものことです)結果が今日の記事なので、新聞記事に興味が湧いた方はウェブで記事を読んで頂ければと(要登録ですが)。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12761841.html

記事を読んでしみじみ思ったのは、校閲は「きちんとできてあたりまえ」な職業ということ。
訂正記事が出れば「校閲は何をしていた」という話になり、訂正がなく直前に間違いを拾うことができても、それはきちんと仕事をしただけのことで、たぶん誰もほめてくれない。そのための努力は新聞の最終読者には関係がなくて、結果がすべて。

でも。
考えてみれば、それは、他の多くの職業にも当てはまることではないでしょうか。

鉄道やバスは「毎日遅れずに運行してあたりまえ」。郵便や荷物は「予定どおり届いてあたりまえ」。さまざまな製品も「きちんと動作してあたりまえ」。
きちんと仕事をした結果をほめてもらえる仕事は実はあまり多くはないのかもしれません。だからこそ、誰でもたまさかの「きちんと見ていますよ、ありがとう」的なほめ言葉が嬉しいのかも。

というわけで。
ここまで考えれば、翻訳にこじつけたくなるのは、これはもう「屋根裏」の哀しいサガです。

「文意をきちんと移植した、きちんとした日本語(英語)の訳文を納期までに提出できてあたりまえ」。原文がおかしくても(あまりおかしい場合はやんわりコメントしますが)、調べものがどんなに大変でも、睡眠時間をどんなに削っても(注:そういう状態が生じるのは、だいたいにおいて自己管理が甘かった結果です<屋根裏の場合)、そうした困難や努力は関係なくて、結果がすべて。

まあ、仕事というものは、そういうものかなと思います。
なので、ごくごくたまにではありますが、「きちんと見ていますよ(クライアントさんが同じ訳者さんでと仰っていますとか)」と言っていただくと、もうその瞬間第七天国だったり(単純なヤツです<それが作戦なのか)。

ただ。
さまざまな意味で疲弊すると、この「あたりまえ」が「仕方がない」にすり替わる瞬間があるような気がします。
例えば、「これだけ納期キツいんだから、多少きちんとしていなくても仕方がないよね」的な悪魔の囁きが聞こえるときが。
でも「仕方がない」は、提供される側が口にすることはあっても、提供する側はゼッタイ口にしてはいけない言葉ではないかと思います。その瞬間に、仕事への誇りが失われるような気がするから(<それを「埃」変換するウチのATOKどうよ)
「仕方がない」と呟きそうになったら、その原因を考え、どうすれば具体的に改善できるのかを、今年はこれまで以上に考えていきたいとしみじみ思ったのでした。


...て、どこまでDriftするねん、て話ですが(しかもかなり強引に)
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2017.01.24 23:21 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
わたしはこの世に交流のある血縁者はもう誰もいない。
旦那と、旦那の気のいい人たちだがやはり気を使う義父母と病気の義妹は健在だ。
だから、わたしは、最初に旦那を失うことをとても恐れている。常日頃は考えないがいつも心の底にある。
そして、いつか自分を取り巻く事情が変わり、あるいは自分の限界を悟って、翻訳から離れなければならない日が来ることも恐れている。訳文を考える作業がとても好きだから。
(だからEveryday is giftという言葉も常に心のどこかにある)

でも、翻訳を離れ、つらいことが続き、ため息ばかりの毎日になっても、頭がそれなりにしっかりしていて、見たもの、読んだ本、聞いた話、感じたことを文章にすることができるなら、そのあとの人生もそれなりに生きていけそうな気がする。
わたしにとって、パンドラの箱に最後に残った希望は「書くこと」なのかもしれない。たとえ、素人のそれであっても。だから、書くための力はまだまだつけていきたいし、もっとたくさんのものを見、本を読み、考えたいとも思う。この先何か別のものに心惹かれるかもしれないけれど、それもやはりどこかで「書くこと」に関係するものなのではないかと何となく思っている。
何もない何も残らない平凡な人生だけれど、わたしにとっては捨てたものじゃない人生かもしれないとも思うのだ。
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2017.01.23 12:34 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(-) |
JAFの特別支援隊(災害や大雪などで救援サービスが増えた/増えることが予想される地域に期間限定で派遣される特別チームだそうです)の記事の中に、「路面も慣れない、車だっていつもと違う。でも、制服を着てJAFの車に乗れば、お客さまからしたらJAFの隊員」(JAF MATE 2017年2・3月号)という一節がありました。

ちょうど、その前日、ときどきお邪魔するブログの「新しくテレビを買ったのだが、据付けに来てくれた担当者がひどかった。結局、あとでサービスセンターに電話をして自分でやり直す羽目になった。この頃『さすがプロ!』と思える仕事が減った。プロの仕事が懐かしい」という記事を読んで、プロの仕事について考えていたりしたので、そのJAFの隊員さんの言葉にびびっと反応してしまいました。

2つの記事から、よい仕事をするためには、「ある集団を代表するという意識を持つ」ということも大事ではないかと、ふと思ったのでした。

ワタクシなら、翻訳者、あるいはもっと広く翻訳業界を代表する、ということになるのかな(<大きく出たね<自分)。

ワタクシが翻訳者を名乗るなら、ワタクシの訳文に触れた方は、それを「翻訳者が提出する訳文」の1つの基準になさるでしょう。そう思えば、やっつけ仕事はできないし、いい加減な訳文は提出できません。1回1回、1案件1案件「今の自分にできる最高の仕事」をしなくちゃという気持ちになります(<努力目標ですが)。

翻訳者を代表するのだから、他の翻訳者の損になると分かっているような振る舞いもできません(ていうか、まあ、したくないですよね)。ワタクシにできることなど高が知れてますけど。小心者なので、単価交渉もようしませんが、自分の中に「譲れない最低ライン」というものはあります(低いけど)。オカシイ、と思うことは言います(小声で)。

「できます」と口にした分野については、知識向上に努めています(<努力目標&あくまでも「屋根裏」レベルですが)。だって、「翻訳者」として「翻訳できます」と言うかぎりは、ソトの方からすれば「きちんとできて当然」と思われると思うのです(<なので、口にしたことを後悔したり...)。

読者という最終的なお客さまあっての仕事ですから、そこにきちんとしたものをきちんと届けるために、必要があれば、言葉を選びながら「こうした方が皆Happy」的な前向きの提案もしていった方がいいのかなとも思います(小心者なのでかなり無理っぽいですが...)。

この「代表」意識、もちろんプロ意識と同義とは言えないでしょうけど、少なくとも、ワタクシは、忘れずにいたいなと思ったのでした。
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2017.01.22 23:27 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |