屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


ジツは、私はこのような「翻訳について語る本」(?)はほとんど読んでいません。
文芸翻訳ってどうも苦手意識があって、それで敬遠してしまう部分があるのかも。
なので、越前敏弥さんの「日本人なら必ず誤訳する...」も、狭い我が家のどこかで積ん読されてます(たぶん階段)。

「翻訳教室」は図書館から借りて延長し、返してその場で借りという裏技も使って(そしてまた延長し)、結局1ヵ月半くらい手元に置いていました。

最初の頃は、課題の文章が(ワタクシには)難解すぎて(「よく分からない(←乱暴なまとめでスイマセン)」系の小説は苦手です)、何度も挫折しそうになりましたが、村上春樹の「かえるくん、東京を救う」の英訳「Super-Frog Saves Tokyo」のバックトランスレーションあたりから面白くなり、「Invisible Cities」で始めて「よく分からない系の翻訳も面白いかも」と思い、その勢いで最後まで読みました。

ご存じの方も多いと思いますが、この書籍は、柴田先生による東大文学部の「翻訳演習」の講義を、ほぼそのまま文字化したもの、ということです。
ときどき見かける「課題→講師による解説→訳例提示」形式ではなく、「課題→学生の訳例をめぐる講師と学生のやり取り→講師訳例提示」形式となっており、どんどん話題が広がっていくのが面白く、だから、途中で投げ出さず、最後まで読めたのかもしれません。柴田先生は、学生のどんな質問にも丁寧に答え、自分の訳例よりよいと思うものはよいと認めて採用されました。実務翻訳でも尊敬できる先輩方はみなそんな感じです(てか、だから尊敬されるのか)。

「翻訳演習」をとるような東大の学生さんは、目の付け所も鋭く、「おお」と思うような訳文が出てくるのですが、それでも、最初の頃は、課題文やその中の単語だけをみている発言が多い。それに対して、柴田先生は、引いたり(著者の性格や文章の癖、作品全体のトーンをもとに最適な訳語を考える)、寄ったり(全体をベースにその文や語句の意味を考える)を繰返しながら、学生の質問に答えていきます。
「Super-Frog Saves Tokyo」(蛇足ですが、この回の講義には、途中から、英訳者であるJay Rubin先生も加わります)の回のあと、村上春樹を迎えての特別講座があるのですが、そのあたりから、(あくまでワタクシの感じたところですが)学生の原文への向合い方にも変化が生じ、「引いた」視点からの発言も多く混じるようになった気がします。柴田先生スゴいというか、村上春樹スゴいというか、東大生スゴいというか...たぶん、そのすべてなんでしょう。

村上春樹の語る翻訳はとても興味深かったですし(ワタクシはどちらかというと彼が苦手で、村上作品は、ノンフィクションの「アンダーグラウンド」と英訳された「Kafka on the Shore」(Philip Gabriel訳)しか読んで(正確には「聴いて」)いないのですが)、柴田先生の発言の中には、訳出時の語句選びに際しての実際的なノウハウもてんこ盛りされていて、途中から付箋付けまくりました。でも、返す前には全部取らないといけないですから、心を入れ替えてAmazonさんに注文しましたよ。手元に置いておきたい一冊です。


付箋部分は以下のような感じ(ごく一部を抜き出しました)。

「翻訳は語彙の豊かさが肝腎などと言いますが、むしろ、似合わない言葉を取り除いていく作業だと思います」(柴田)

「英語は動詞がものすごく強い。日本語はだいたい副詞プラス動詞を使うと強さが出るけど、そのまま英語にするとせっかくの強さがなくなる。だからなるべく強い動詞を使って、副詞を使わないようにしています」(Rubin)

(レイモンド・カーヴァーの翻訳が一段落したことで、翻訳にエネルギーを費やさなくなるのではないかと問われて「...やればやるほど技術っていうのは上がっていく...そうするともっともっと訳したくなるんですよ。やればやるほどやりたくなる。おもしろくなってくる...最初の頃より最後のほうが明らかに翻訳スキルが上がっている。それが自分でも分かる。だから、やはり死ぬまでやるんじゃないかな」(村上)

「ものを書くというのは体力がすべてなんですよ...いくら能力があったとしても歯が痛かったらものなんて書けない。肩が凝ったり腰が痛かったりしたら机に向かって仕事なんてできない。そういう意味で体力は必須条件なんです」(村上)

「文章を志す人はほかの人とは違う言葉を探さないといけないんですよ。プロになるにはそれはすごく大事なことです」(村上)

「ヘミングウェイはIceburg theory(氷山の理論)ということを自分でも言っていて、語らないで伝えるというのが彼の文章の最大の特徴だと僕は思います。だから訳す上で、何をやってもたいてい、小さな親切大きなお世話になっちゃうのね」(柴田)

「neverは『決して』と訳したくなったらまずその気持ちを抑えて、なるべく文章の中に盛り込むような形で訳すのがいい」(柴田)

「...原文を見てさんざん考えた我々はそういう訳し方にある程度共感するだろうけど、英文を見ていない読者が読むと、『なんでこんなに「そして」が多いんだ?』と思うだろうね。andと『そして』は重さが一緒じゃないから」(柴田)
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2017.08.26 18:28 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(2) |
実家から救出したものを音読了。
初版は昭和46年(手元にあるのは昭和54年の12刷)、40年以上も前に書かれたものです。

白洲正子さんについては、「白洲次郎の奥さんである」「美術や骨董に造詣が深い(らしい)」というくらいの知識しかありませんでした。
その状態で読んでみて、読了後も、書評や本人評などにも目を通さない状態で感想文を書いています(いつもそうしたものに目を通して多少なりとも影響を受けてしまうので、今回は敢えてそのようにしてみました)。

「『かくれ里』と題したのは、別に深い意味があるわけではない。字引をひいてみると、世を避けて隠れ忍ぶ村里、とあり、民俗学の方では、山に住む神人が、冬の祭りなどに里へ現われ、鎮魂の舞を舞った後、いずこともなく去って行く山間の僻地をいう。謡曲で『行くへも知らずなりにけり』とか『失せにけり』というのは、皆そういう風習の名残であろう」という第一章「油日の古面」の冒頭部分を読んだときから、「このヒトの文章好きかも」と思いました。
以前、「凜として清々しくて品がある」文章だと感じたと書きましたが、その印象は最後まで変わりませんでした。自分とリズムが合うらしく、音読もしやすかったです。女性の手になる柔らかさは感じられるのだけれど、どこか中性的な感じ。

知識に裏打ちされ、その地を歩き作品を鑑賞した上での、半伝説上の人物などに対するこの方なりの解釈も、「なるほど」と思えるものが多く、とても興味深いものでした。

とはいうものの、自分は便利な都会に住んで気が向いたときに「かくれ里」を訪ね、古来の風習を肌で感じ、そうした古き良き伝統が失われていくのを嘆きつつ「いつまでもこのままでいてほしいものだ」というのは、若干勝手ではないかと思ったりもしました。そうした暮らしは不便と隣り合わせだし、若い人たちはどんどん外に出て行ってしまったでしょうから(そういう時代ではなかったかと思います)、残された方々が老いと向き合いつつ伝統を守っていくのは並大抵のことではないに違いありません。でも、白洲は、どこまでも「外からの観察者」目線で「よい伝統を守ってほしい」というのです。ちょっと、その大変さまで思いを馳せていない感じ。少なくとも、私はそのような印象を受けました。
観察者の目線がなければ、文章は独りよがりのものになってしまいがちなので、これはこれでよいのかもしれませんが。

とはいえ、この方の飽くなき好奇心は素晴らしいし、目の前に光景が浮かぶようなその土地土地の描写は見事だと思いました。

てことで、「文章は好きなんだけど」という若干もやっとした気持ちで音読を終えたのでした(「かくれ里」のみの、あくまでも個人的な感想です<念のため)。


次は、これも実家から救出した、まったく文体の異なる「一期一会-出会いで綴る昭和史」(保阪正康、2000年)に進みます(*文庫化にあたり、「昭和史 忘れ得ぬ証言者たち」と改題)。時間がかかりそうな厚さです...
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2017.08.20 22:49 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
医薬の分野ではお馴染み、治験関連文書のinclusion criteriaの訳語です。

治験対象として適格かどうかを判定するための基準として、「この基準をすべて満たす場合は適格」とするinclusion criteriaと、「この基準のいずれかに該当する場合は不適格」とするexclusion criteriaがあります。exclusion criteriaの訳語は「除外基準」で統一されているようなのですが、inclusion criteriaには「選択基準」と「組み入れ(組入れ)基準」のふたつの訳語があって、私はいつも、「で、どっちやねん」とちょっともやっとしていたのでした。

クライアントさんの参考資料がある場合は、それを第一選択肢とするのですが、そうでない場合、自分の中の第一選択肢はこれまで「組入れ基準」でした。

確か、昔、Inclusion criteria / exclusion criteriaの上位の見出しとして「治験対象母集団を選択する」という意味でSelection Criteriaが用いられている場合もあるので、この2つを明確に訳し分けるためにSelection Criteriaを「選択基準」、Inclusion Criteriaを「組み入れ基準」とする、というような話をどこかで読んだか誰かに聞いたかした記憶があるのよね。どちらかが絶対に正しい、ということではなく、あくまでも自分の中の決めごととその根拠、ということですが。

ところが。
この頃では、「組み入れ基準」という参考資料にお目にかかったことがない。
世の中はSayoの与り知らぬところで(Sayoにひと言の断りもなく)変化しているのか。

ということで、ちょっと調べてみました。

「組み入れ基準」の根拠になっているのは、「治験総括報告書の構成と内容に関するガイドライン」(平成8年5月1日薬審第335号)だと思われます。これは、ICH E3(Structure and Content of Clinical Study Reports)の日本語版で、文字通り「治験総括報告書を作成する場合はこのようにするように」というガイドラインを示したものです。URLは以下のとおり。
https://www.pmda.go.jp/files/000156923.pdf 
「ICHでは『組み入れ基準』になっている」というのは、おそらくこれを指しているのだと思います。

しかし、医薬品の臨床試験の実施に関する基準(GCP)のガイドライン(ICH-GCP E6)の日本語版では「選択基準」が使われています。「ICHが『組み入れ基準』としている」という理由付けはちょっと苦しいかも。ていうか、もとの語句はInclusion Criteriaで統一されているわけで、ICH的には何の問題もないわけなんですが。
http://www.jmacct.med.or.jp/plan/files/ICH-GCP.pdf
*参考:PMDAのICH E6(GCP)に関するページはこちら。
https://www.pmda.go.jp/int-activities/int-harmony/ich/0028.html

念のため「ICH-GCPナビゲーター-国際的視点から日本の治験を考える」(治験国際化研究会編、じほう)も確認してみましたが、Subject Inclusion Criteriaは選択基準で特に問題なしとされています。

うーむ、やはり、世の趨勢は「選択基準」なのか。

ということで、今後はMy第一選択肢として「選択基準」と「除外基準」を採用し、上位大見出しがある場合は「被験者選択のための基準」(今考えた仮訳)のようにして差別化しようかなと考えています。

とはいえ、「申請」という点からみれば、「1セットの文書の中で訳語が統一されており、審査者の誤解や混乱を招かない」という点が一番大事ではないかと思います。なので、まずは参考資料準拠、が基本かなと。
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2017.08.15 21:20 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |
努力しても努力しても、自分はダメだなあと思う今日この頃。

自分の中に、

考え方を変えたり、新しい取組み方法を試してみたりして「自分、少しは上達したかも」と錯覚する → スゴい人のスゴい訳文や翻訳に対する真摯な姿勢に触れる → 「結局、自分はいつまでも『そこそこ』の『中の上』レベルから抜け出せないのだ」「努力だけでは埋められない溝がある」「結局、地頭が違う」と落ち込む → 「スゴい人たちも日々研鑽を積んでいる」「努力が報われることはなくても、努力しなければ何も始まらない」と思い直す → 現在の取組みを微修正する OR 新しいものを取り入れる → 「自分、少しは上達したかも」と錯覚する、に戻る

という無限ループがあって、今は「自分はダメなヤツ」「周りが皆スゴい人に見える」モード。

努力の方向が間違っているのかと考えてみるが(日々の生活に関しては、旦那に「無駄の多いヤツ」と言われております)、考え方の変化や、それに伴って少し明確になった「自分が目指したい翻訳」が間違っているとは思えない。最近、身体も気持ちもだらだらしているのは確かだけど(この時期、そうなることは多い)。

このループから抜け出すことは、たぶんない。
「もしかしたらほんの少しだけ上達しているのかもしれない」状態を積み重ねながら、私はぐるぐる回り続ける。謙虚な姿勢は大切だけれど、「上達したい」という気持ちと「少し上達したかも」という喜びがなければものごとは続かない。そして、その自信をへし折られることがなければ、成長はそこで止まる。このループから抜けたいと真剣に思ったときが「止め時」かなとも思っている。


心に残った言葉は、基本的にFBの方に書くようにしているけれど、今日はこちらにもまとめてみた。
再読しながら、「考え方の基本」に戻る。まずはそこから。近道はない。

「慢心は上達の敵」「『ほどほど』では『ほどほど』の力しか身につかない」(行方昭夫)
「(引退は)モチべーションの維持が難しくなったというのが決め手」(宮里藍)
「(浅田真央は)そのときそのとき精一杯やるというところは絶対にぶれなかった。どんな小さな大会でも、大きな大会でも全力を尽くしてきた。『あ、抜いたな』と感じたことは一度もない」(小塚嗣彦)
「人の2倍とか3倍、頑張ることなんてできない。だから、自分の中で(限界よりも)ちょっとだけ頑張る、というのを重ねて欲しい。僕も、米国で3千本も打てるなんて想像はできなかった。でも、それを重ねてきたことで、僕は今現在に至ると実感しています。この言葉をみんなに伝えたいと思っています」(「イチロー杯争奪学童軟式野球大会」閉会式あいさつより、イチロー、朝日新聞12月31日)


てことで、夜行性のSayobotはこのあと夜翻です。
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2017.08.09 18:38 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(6) |
こんにちは、Sayobotです。
Sayoさんが不在のため(前の記事を参照)、代わりに記事を書いています。


昨年に引き続き、MEI(大阪大学国際医工情報センター)のメディカルデバイスデザインコース(土曜講座)を受講しています。
昨年のMEI潜入記はコチラ


今年は
「医療機器開発のための臨床医学」
http://mei.osaka-u.ac.jp/mdd2017/m1/
「医療機器開発のための機器実習」
http://mei.osaka-u.ac.jp/mdd2017/m3/
の2モジュールを受講しています。

「臨床医学」は6月に終わり(残念ながら修羅場と重なって最終回の出席は断念しました。最近、ときどき仕事に絡んでくるIVR(インターベンショナルラジオロジー)の話を詳しく聞きたかったので残念ですが、講義資料を入手するという最低限の目標は達成しました)、今日からモジュール3の「機器実習」が始まりました。

「機器実習」の実習機器は昨年と同じものも多く、昨年度受講生は1/3程度の受講料で差分受講(昨年から変更になった科目のみ受講)もできたのですが、昨年は東京遠征と重なって一部受講できなかった科目もあり、悩みましたが、再度全受講することにしました。フトコロ痛かったですが(お高いのが難点です)。でも、「循環器の経験豊富」を(ハッタリで)標榜するワタクシとしては、昨年受けられなかった循環器植込み機器とそのシミュレーションの実習は絶対やってみたいのですよね。

「臨床医学」は、基本的に、「専門的に解剖生理を学んでいない、医療機器分野への参入を検討する企業の社員や将来機器開発の道に進みたいと考えている大学院生」を主な対象としている(と思う)のですが、講義によって、難易度に多少バラつきがあるように思われました。ただ、現役の医師が「こんな風に医療機器を使用している」「このような機器があれば便利」といった観点から臨床を語る講義が多く、「ナルホドそうなんや」と納得したり新鮮な驚きを感じたりする部分がいつもとは異なり、そういった意味でも興味深い講義でした。ちょっと「翻訳の外から医療機器をみる」感じですね。翻訳者のワタクシには直接関係がないっちゃないんですが、お聞きした内容や頂いた資料がいつどこで役に立つかもしれません。特に、循環器以外の分野では、これまで断片的だった知識が線でつながったものもあり、それなりに収穫がありました。

今日始まった「機器実習」、今日は昨年と同じ機器ばかりでしたが、若干内容が変わっているものもあり、自分自身も昨年とはまた違う点が気になったりして(そして、アウェイでもそれを質問するだけの逞しさは身につけたのだった<単に「おばさん」度が上がっただけという説もあります)、今日のところは出席してよかったなと思っています。次回は一部グループワークも入るようなので、同じグループになった皆さんにご迷惑をお掛けしないかと(何と言っても、普段は世間から隔絶された隠遁生活を送っているので)多少気重ではありますが。でも、そこを乗り越えないとペースメーカには会えないので、頑張ります。

守秘義務があり、講義内容を詳しく書くことができなくてすいません。
興味が湧かれた方は、上述のURLで内容を確認して頂ければと思います。
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2017.08.05 22:21 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(1) |