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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


JTFセミナー(「脱・辞書の持ち腐れ」)からひと月が経過しました。

その間何をしたかと言えば...(今さら)「広辞苑」(LogoVista版)と「てにをは辞典」を購入し、EBWinのウェブ検索にいくつかのサイトを登録しました。
ただ、私はEBWinをメインの辞書検索ブラウザとして使っていないので、あまりこの機能を活用する機会はなく、現状、EBWinは翻訳訳語辞典とOneLookを見るためにしか使用していません。もう少し試行錯誤の余地があるかも。

セミナーで心に残った言葉に「使ったことのない言葉は使えない」(by F井さん)という言葉がありました。
この言葉は、セミナーから時間が経過しても色褪せず、逆にじわじわきています。

この頃、勉強会のために、いつもとは毛色の異なる文章を訳す機会がそこそこあるのですが、そんなときは、普段仕事では使用しない表現も探しにいかねばなりません。すぐに「これ」という訳語が頭に浮かばないときは、英英辞典で意味を確認したあと、各種類語辞典に当たることになります。それでも「コレジャナイ」感しか残らない場合は、たいてい「類語連想辞典」(http://renso-ruigo.com/)さんのお世話になります。正直関係ないものも多いですし、ピンとくるものがあっても、だいたいは再度国語辞典で裏取りするので手間っちゃ手間ですが、思いも寄らない訳語に行き当たることがあって、それなりに重宝しています。ノンフィクションの通信講座を受けていたときも、ずいぶんお世話になりました。

でも、そうやって探し当てた言葉の中には、「自分で使ったことのない言葉」も多いわけで。
そうした言葉は一瞬「これ」と思うのですが、いざ文脈の中に置いてみると、「決して間違いではないが、その言葉だけが浮いている」ということが少なくありません。それが、「使ったことのない言葉は使えない」ということなのでしょう。語彙ではなく、「自分が本当に使える語彙」を増やす、そういう意識を持つことが大切なのだと、この頃になってしみじみ思います。できれば老眼に出会う前にこの境地に達したかったですが...
(蛇足ですが、この頃、イマイチ使い方の難しい「てにをは連想表現辞典」をこの部分の強化に使えるのではないかという気がしています)

とはいえ、どんな言葉にも、「最初にその言葉を使用する」機会が必ずあるわけで。
そうした言葉が悪目立ちしないようにするには、出会ったときにきちんと意味を調べ、できれば(翻訳以外の場で)使用してみるようにすることが必要なのかなと思います。

F井さんは、いつでもどこでも何でも、気になったらとにかく調べる、ということをされているとか。きっと、きちんと文章を書かれる方はみなそうなのでしょう。
自分に欠けていてすぐに改善できそうなのはその点かな、と思い、この頃では、気になったら(PCから離れていてもスマホで)できるだけその場で調べるようにしています(いや、まだついそのままにしちゃうことが多いんですが、自分としては長足の進歩ってことで)。
あとは、対訳音読のやり方を少し変えました。
今は、「原文を1段落分音読→自分ならその部分をどんな風に訳すか考える→訳文を1段落分音読→汎用に耐える表現は書き留める→それぞれ1回分ずつ音読→訳文のみ味わって読む」というやり方を試しています。「ストーナー」(東江一紀訳)でやっているので、毎日「ひゃー!(そうくるか)」の繰り返しですワ。

身につく速度も遅くなっているに違いなく、自分では「翻訳力を上げる」積もりでやっていることが、「翻訳力を落とさない」にしかなっていないのかもしれませんが(その可能性は大なのだった)、亀の歩みでもう少し続けてみようと思います。
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2018.03.29 22:19 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

・・・正直、負けた感満載ですが。
日本循環器学会学術集会(於:大阪)に2日間潜入。

当初は23日、24日の予定でしたが、24日に急用が入り、23日と25日(←書籍を買い足りなかったわけっすよ)の2日間。
おかげで3日間出ずっぱりとなり、心身ともに疲れた身体にムチ打って、明日から粛々と仕事ですワ。トホホ。

強引にざっくりと印象をまとめると、翻訳祭の数十倍スケールアップ版という感じです。
残念ながら発表内容には言及できませんが、今後学会潜入を企てておられる同業の方のために、若干のレポなど。

循環器学会の学術集会が今年は大阪で開催されることを知ったのは、昨年の秋。
大胆にも無謀にも、名刺に「循環器分野の経験豊富」と謳っている(<命知らずにもほどがある)Sayoとしては、これはもう、行かねばなるまい。

12月25日からプレレジストレーションが始まりましたので、1月中旬に申し込みました。
参加者登録するとログインIDがもらえ、自分の登録者情報画面から、ランチョン・コーヒーブレーク・ファイアサイドの各セミナー(弁当や軽食付き)への申込みなどができるようになります。
企業主催らしいこれらのセミナーには心惹かれるものがいくつもあったのですが、修羅場って油断しているスキに、事前申込み分はすべて満席になっていました。当日券もあったのですが、こちらも、いずれも早い時間に埋まってしまったようで、結局、1つも申し込むことができませんでした。その点がちょっと心残り、というか今後の課題です(「今後」があるかどうかは心許ないですが)。

開催の2週間ほど前になると、セッションの抄録がダウンロードできるようになりました。
で、ダウンロードしたら、何と全2800ページ。局方、負けとるー。
同時に、興味のあるセッションを選択・登録し、その分の抄録のみを記載したMy Abstract(PDF)を作成できるようになります。それまでに、発表された演題とスケジュールとにらめっこして、軽くスケジューリングをしてみたりなどしていたのですが、最終的に、プログラム検索画面からMy Abstractを作成しました(抄録はほとんどが英語のみなんで、あんまりソッコー性はないですが)。
とにかくトラック数が多く、目移りしてしまって演題を選ぶのも大変でした。

翻訳祭と違って、自分の立場的に、拝聴したセッションの内容が即身になるとは思えません。てか、「よう分からんかった」で終わる方に一票。
最終的に、普段仕事で関わることが多く「面白そうなもの」という観点から、23日は心臓突然死に関するセッションを、25日は心臓移植に関するセッションを選択しました。
前者は私には難しすぎましたが、後者はシンポジウムの内容を興味深く拝聴しました。

展示にも(普段お世話になって?いる医療機器メーカーさんなど)心惹かれるものがいくつかあったのですが、潜在顧客でもない自分を相手にしてもらうのも申し訳なく、こそこそとパンフレットだけ頂いて退散しました。

個人的に、今回一番嬉しかったのは、書籍販売の品揃えです。2日間、書籍購入に通ったと言っても過言ではありません(若干、過言ですが)。
大規模書店でも、医学系、特に循環器に特化した専門書が、これだけ揃っていることはまずありません。専門雑誌のバックナンバーや増刊号が綺麗に並んでいるさまを見たときは嬉し泣いたーー。
お医者さまはどんな書籍を手に取るのだろうか、としばらく様子を窺ってみたところ(いや、お医者さまとは限らないんですが)、「心不全関連多そう」というのがざっくりした印象でした。さまざまな原因によって生じる心機能低下が心不全という病態であることを考えれば、これもある意味当然かという気もします。まあ、10分程度しか観察してませんので、こじつけですが。
今回の学術集会に合わせたのか、循環器ガイドラインが3月23日付けでいくつかアップデートされていますが、心不全のガイドラインも2017年度版が出ました。
「急性・慢性心不全診療ガイドライン(2017年改訂版)」
http://www.j-circ.or.jp/guideline/
あと、統計関連の書籍が結構あって、「お医者さまも統計には苦労してるのね~」と(勝手に)しみじみしてしまいました。

というわけで、(屋根裏比)疲れMAXの週末でした。
今回の潜入がこれからの仕事に役立つ...かどうかは、自分次第であろうと。ついつい雑誌のバックナンバーなど何冊も仕入れてしまいましたので、翻訳ストレッチにも織り込みつつ、少しずつ目を通していきたいと思っています。とりあえず、明日から仕事に励みます(の予定です)。
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2018.03.25 22:17 | 翻訳祭・フォーラムetc.報告(2016-) | トラックバック(-) | コメント(4) |

何となく、文体や言葉や言回しのリズムが、自分の体内リズム(?)と合っているような気がして気に入ってしまった熊谷達也さん。
本当は、「合ってない」小説もたくさん読まないと、語彙やら文体やらの幅は広がらんのでしょうけど。

舞台は架空の「宮城県北部に位置する人口が六万五千人ほどの港町」仙河海市(おそらく気仙沼市)。
1991年春、主人公の「僕」岩渕和也は、仙河海市の中学校で教師をしています。関東の中学から移ってきて2年。数学を教え、陸上部の顧問を務め、この春からは3年生を担当する予定です。
和也のクラスに、急遽、関東からの転校生がやってくることになるのですが、その少女、早坂希は、転校初日、いわゆるスケバンルックで登校し、先生や生徒の度肝を抜きます。
母子家庭に育ち、男にだらしない(希談)母親と暮らすうちに生活が荒れてしまったらしい希ですが、和也らとの関わりを通して、素直で頑張り屋の素が表に出るようになります。また、陸上選手として非凡な才能の片鱗を見せ、陸上部に加わることになります。

「さわやかな読後感」という言葉がぴったりの小説でした。
別に揶揄しているわけではありません。素直に気持ちよく読了しました。
突っ張っている希が、少しずつ素直になりながら変わろうと努力するという点では早坂希の成長物語だし、「生徒への信頼を失っていた」と自らの過ちに気づき、希らへの接し方を変えていく部分をみれば、和也の教師としての成長物語とも読めるかなと思います。

でも、若干の物足りなさを感じたのも事実でして。
ひとつは、和也がいったん希の心に「信頼できるヤツ」とインプットされると、(クラスの雰囲気も含めて)すべてがよい方向に一気に転がっていったこと。ただ、それは、あくまで懐疑心の強い自分基準で考えているからであって、根が素直な希からすれば、一度壁が取り払われてしまえば、担任教師にもクラスにも一気に馴染んでいくのはあたりまえのことなのかもしれません。てことで、ただ自分がヒネているだけなのかもしれない。

もうひとつは、本書の「僕」を客観的に見ている20年後の「僕」がいて、その視点がときどき顔を出すために、特に前半は話に入り込めなかったこと。「今でこそこうだが、1990年当時はこういう時代だった/中学校はこうだった」といった説明や、「このときの僕はそんな風には考えられなかった」的な文章が挟まれて、ときどき、「その『僕』はどちらの僕?」となるときがありました。特に、当時のワープロ・パソコン事情等には、20年後の「僕」視点で、「あの頃はこうだった」的説明があるのに、「スケバン」という言葉に説明がなかったのが、細かいですが個人的には一番尾を引きました(勝手にですが、「スケバン」はすでに死語と思っていたので)。そんな風に、ときどき「20年後の僕」が顔を出すので、最後に何らかの形で表に出てくるのかな、と思って読み進めていったら、普通に終わってしまって「あれ?」と思ったというのが、正直なところです。

・・・と、いろいろ書いていますが、何でしょうね、素直に心が洗われるような小説です。
教師側からみた中学校のあれこれもよく描かれていたのではないかと思います(著者自身、教師をされていた期間があるとか。自伝小説とは言わないまでも、和也の年齢から推して、自伝的要素もかなり含まれているのではないかと思いました)。
そして、この町や描かれた景色はもうもと通りではないのだと思うと、余計に切ないものがあります。

熊谷さんの、この「リアスの子」を含む仙河海市を舞台とする一連の小説は、「仙河海サーガ」と呼ばれ、今も書き続けられているとか。震災前を舞台とするものも、その後を描いたものもあるようです(また、蛇足ながら、震災前に書かれた作品に、和也の「その前」が描かれた「七夕しぐれ」「モラトリアムな季節」の2作があるようです)。
今度図書館に行ったら、探してみようと思います。
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2018.03.24 21:40 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「一語一会-出会いで綴る昭和史」(保阪正康、清流出版、2000年)

青息吐息で音読了。
な、長かった...永遠に終わらんかと思った...

父の蔵書からかすめてきたもの。自分のフトコロなら、たぶん痛めなかったかな的な書物。

保阪さんが、それまで取材で出会った人々の人物像を綴ったもの。
軍人・政治家・元官僚などが多いですが、秩父宮妃殿下や佐藤千夜子らの名前も。

保阪さんは、それまでに、延べ四千人近くの人々の話を聞かれたそうですが、自分の出会った人々を、「どのような時代であれ筋のとおった考え(それはいつの時代にも普遍できるという意味である)をもつ人と、その時代しか通じない考え方に固執する人に分かれる」とし、後者は、1. 官位栄達を人生の目標に据え、それを恥じない人、2. 自らの能力や力𠈓を錯覚している人、3. 時代の論理しかなく、児孫の顔が見えない人、4. 巧言令色のみの人、5. 自らの言に責任をもたず、振幅の激しい人、6. 万象の不変を信じている人、 7. 虚言を弄し、責任感のない人、に分類できるとしています(なかなか手厳しいのです)。

本書に収められているのは、前者に相当する人々。
戦前戦後のいわゆる激動期を生き抜いた人々の言葉は、(発言者の思想がどうであれ)唸らされるものがあります(必ずしも全面的に共感するという意味ではありません)。

本書は、「内容をまとめる」という感じの書籍ではないので、そうした人々の言葉をいくつか挙げて、終わりにしたいと思います。

美濃部正
元海軍将校、昭和20年沖縄決戦時に131航空隊隊長として作戦参加。
「私には『死』しかない命令を下すことはできない」という理由を掲げ、軍令部の参謀も出席していた作戦会議の席で、公然と特攻作戦に反対したという。もちろん死刑も覚悟した。
「司令などの指揮官から率先して突っ込んでいくなら、私は反対はできないが、一億玉砕の名のもとに若いパイロットに命を賭して体当たり攻撃していけと命じるのなら、あまりにも残酷ではありませんか。戦争の時代ですから、死は怖くはない。でも、生存率ゼロの命令をだす権利は指揮官といえども持っていませんよ」

石井秋穂
陸軍に所属し、太平洋戦争開戦前の政策立案などにあたった。
「私はあのころ政策立案にあたったひとりです。ですから尋ねられればお答えする義務はあります。しかし、私は私の携わったこと、私の体験したこと、私の見たことは語りますが、それ以外は語れません。推測、噂などは私に尋ねないでください。それから人物観については、私の見聞した範囲内では答えます。それ以外は答えようがありません。私の知っている限り、事実はひとつですが、解釈は多様です」

新関欽哉
戦時下のドイツ駐在の外交官。
「外交官には、ひとつのことに熱中してはいけない、惚れこむな、という教えがあります。特定の人物や考えに溺れてしまったら、国益を損なう恐れがあります」

堀栄三
大本営情報参謀。
「私はあの戦争は、やはり問題はあったと思うが、それには<戦争指導を行った側>と<戦争指導を受けて戦わされた側>の責任は明確に分けなければならない。それを含んでの戦史こそ意味がある」
「人はいちどしか生きないのだから、ひとつのことである時代に生きたら、あとはそれを抱えて生きる姿勢が必要だ。どういう時代になっても小手先で、要領よく生きる姿というのは、ある意味では歴史への背信行為ともいえるのではないかと思う」

原子物理学者(匿名)
戦時下、日本の原爆製造計画に末端で関わった。
「これは誤解される言だから、決して私の発言とはしないでほしい。私たち物理学者の心底では、たとえ自分の肉親があの原爆で犠牲になったとしても-実際に縁者を失った学者もいるのだが-、奇妙な感動を覚えた。机の上の数式では想像もつかないような破壊エネルギーを生み出すということはわかっていたが、現実にはあのような結果になるのか、われわれの計算は正しかったのだ、という感動です。しかしすぐにもう二度とこんなことがあってはならないと恐怖感をもったのです。原子物理学者がもっとも先鋭的に核実験反対を叫ぶのは、感動と恐怖の振り子の揺れがあったからです」


カクカクした文章と格闘していたので、次は、向田邦子さんの「無名仮名人名簿」に移行。さらっと始まる書出しの1行が上手いなあ。
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2018.03.19 00:13 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |
英語で
put yourself into someone's shoes
と言われるアレです。

わたしは、家族の顔色を読む子ども時代を送ったせいか、わりと「でも相手の立場に立てば」という考え方をしてきたような気がします。

(とはいえ、中学生に上がる頃までは、家でこれをやっている反動もあったのか、学校では、割りとズバズバものを言っていた記憶があって、自分の思いも及ばぬところで、誰かの心に傷跡を残したということがあったかもしれません)

これは、仕事をしていく上ではなかなか便利(?)な考え方で、翻訳の仕事をよくご存じない方から無理を言われても、「でも、私もアナタの仕事内容をよく知らないし、たいして興味もないから、お互いさまだよね」と思えるし、コーディネータさんから無茶振りされても「板挟みになって大変なのね」と思うことができます。
以前は、そう思うだけで、心の中でため息をついてスルーしてきましたが、この頃では、「でも言わな」というときは、なけなしの勇気を振り絞って言葉にするようにしています。そのとき、「でも、私もアナタの仕事のことを知らないから、お互いさまなんですけどね」感を醸し出すようにすると、若干話が円滑に進むような気がします。気がするだけですけど。


しかしながら、この「想像するちから」というヤツには、度を超すと相手の立場や感情に呑み込まれてしまうという、副作用的なものもあって、これが強く出てしまうとちょっと(かなり)厄介です。
相手を思いやるには、想像するちからが欠かせないのではないかと思うのですが、同時に「自分を見失わないこと」も必要なのではないかと。

わたしと晩年の母の関係がそんな感じでした。

もともと、「離れていれば上手くいく」という淡泊な関係で、わたしは母を疎ましく思い、母も晩年「アンタのことはそんなに好きじゃなかったけど、私なりに愛していたとは思う」と述懐するような、想像できない方には想像できないであろう母子関係でしたが、父の入院がきっかけで、母が実家で独り暮らしをするようになってから、わたしはこの「想像するちから」に苦しめられることになりました。

「家族が帰ってくるあてのない家で自分が独りで暮らしているとしたら」「不安で押し潰されそうになってどうしていいか分からないとしたら」

母はいつも、さまざまな言い方で、その点をグイグイついてきました。今にして思えば、自分を守ろうとする本能で「そこを突けば、罪悪感に苛まれた娘は必ず自分のところにやってくる」ということが分かっていたのかもしれません。
当時、わたしの中では、想像するちからが「自分はどうしたいのか」を圧倒していたような気がします。
思い返してみれば、それは、自分にとっても母にとっても不幸なことでしかなかったのですが。


時間が流れ、母を「いとしい」と思うことはできなくても、母の気持ちや、わたしが疎ましく思っていた母の性格が尖鋭化した(と思われる)事情が理解できるようにはなったような気がします。
とにかく、母は、わたしに、生きていく上で「想像するちからを持ち、でも自分も見失わず」が大切なのだということを教えてくれました。

「想像するちから」のみに支配された当時のわたしの心の中は、罵りの言葉で満ちていました。
だから、こうしてあれこれ思い返せるようになった今、想像するちからと自分のバランスを保ち、人間としても翻訳者としても、うつくしい言葉で語れる人間になりたいと心から思うのです。

命日が近いので、ちょっとマジメに振り返ってみたりなどしました。
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2018.03.16 00:29 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(-) |