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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


今号は保存版にするために購入しました。
(いつも地元の図書館に読みに行っています…スイマセン、スイマセン)

とりあえず表題の特集を読みました。一番気になっていたのは、河野弘毅さんの機械翻訳に関する記事と井口耕二さんの「道を拓く」で、おもにその2つの記事について書くことになると思いますので、最初に他の記事(一部)に簡単に言及しておきます。

● お金のこと
 執筆者は「状況は人それぞれ」として、ご自分の経験を書いておられます。お金のことって、後回しにしてしまいがちですが、最初から中長期的計画に組み入れることが大切ですよね(←組み入れてなかったヒト>なので反省をこめて)

● からだのこと(健康)
 老眼腰痛など「そのとき」がきて不自由な思いをしてから対処するより、予防に努めて「そのとき」を後延ばしにする方が、結局コストカットになると思います(切実)。大切なことだと思います。

● ITリテラシー
 「自分の翻訳スタイルをITの技術や知識をもとに説明できる」という部分に、本当はここまでできるべきなのだなと。それは、後述する、「自分で考え(て決め)る」にも繋がることではないかと思います。


さて、気になった2つの記事。

河野さんのMTに関する記事をきちんと拝読するのはこれが始めて、だと思います。これからはMTの時代になると仰りつつ、ベテラン翻訳者の言説も、MT開発者の言説もうのみにせず(「翻訳会社の言説」には言及しなくていいのかと思わないでもありませんが)、「発言者の『ポジション』に注意して話を聞く」ように書いておられること、すでに萌芽が認められる、あるいは今後台頭してくるであろうと思われるMT関連の種々の仕事を(PEも含めて)「翻訳とは呼ばないけれど、翻訳者の資質を必要とする仕事」と翻訳と分けて説明されていることなど、これはこれでナルホドと頷ける部分の多い記事でした。
河野さんが仰る「リンギスト」という仕事も、やりがいのある仕事の可能性を秘めているように思えます。とはいえ、現実は、「翻訳ではないのだから低料金でいいよね」な流れになってしまって(「時流に乗り遅れまい」を第一目的としてMTに参入する翻訳会社やクライアントが多ければそういう流れになると思います)、やりがいのある仕事に育つかどうかは不透明なような気がします。「やりがい」を感じるには金銭的評価も大事ではないかと、私は思います。
また、河野さんは、翻訳技能を磨くのがよいとしつつも、大ベテラン以外の翻訳者は、MTが使われる可能性に備えたほうがよいと仰っていますが、では、将来「人手翻訳者」となるべき若手はどう育てばよいのだろうかと考えてしまいます(この点は、次に紹介する井口さんも、ご自身のブログで憂えておられました)。未来のいつか、すべての翻訳がMTによるものになるとしても、当面、MTも人手による翻訳も両方あっての業界ではないかと思うのですが。

そして、井口さんの「道を拓く」。
おっしゃりたいことは、乱暴にまとめれば、どんな道を選ぶにしても自分の頭でしっかり考えて選ぼう、ということになるかなと思います。誰の発言もうのみにせず注意して話を聞くようにと説く河野さんの言葉とも通じるものがあるかも。
白状しますと、私は、これまでの井口さんのさまざまな発言、そのとおりだと納得しながらも、「井口さんだから言える言葉だよねー(そもそも実力が違うもんなー)」と思ったこともありました。けれど、今回の記事を拝読すると、そうしたことを言えるようになるまでに、人の何倍も(もしかしたら何十倍も)努力なさったのだということが分かります。そうやって、自分の考える道を貫きつつも、精神的にきついこともあり、最終的に頼ることはなかったものの「安全弁」を心の支えにしたとも。そこまで、赤裸々に語ってくださったことに感謝したいと思います。

私は、「翻訳事典2019-2020」について記事を書いたとき、(さまざまなことをよく理解した上で自分で選択したのであれば)「自分の選択を悔やむ以外の後悔はないのではないか」と書きましたが(そして、実際、翻訳以外でさまざまなことを自分で決めてきた私は、今ある自分を「自分で選んだのだからしょうがない」と受け入れているのですが)、井口さんは、「自分で道を選び、主体的にトライするなら、成否の判断もしやすいし、軌道修正もしやすい」ともっと前向きに「自分で選択すること」の結果を捉えていらっしゃいます。私の言い方より、もっと希望を感じますよね。そして「譲れないところは極力譲らない頑固さと、譲っていいところは必要に応じてどんどん変えていく柔軟性があれば、環境がどう変わっても対応していけるはずだ」と結んでおられます。この「譲らないところは譲らず、あとは柔軟に」は、勉強会の運営方針としてめざしているところでもあり、個人レベルでも勉強会レベルでもあてはまる内容なのかなと思います。


この2つの記事の他に、映像翻訳に関する記事では、執筆者が、プロがプロの仕事をみせなければ「ファンサブ(ファンがつけた非公式字幕)やAI翻訳でいい」「少しぐらい翻訳が間違っていても楽しめればOK」となってしまいかねないと仰っていますが、これは「(安いんだから)この程度でも仕方ない」という変形として、実務翻訳にも当てはまることのように思えます。
また通訳に関する記事には、通訳者は「通訳市場や通訳ビジネスの基本構造を理解した上で、サービス提供者としてどんな価値を提供できるか改めて考える必要がある」というくだりがあり、この部分にも深く考えさせられました。
これまでは、そこそこ力があれば、「将来のなりたい自分」をあまり強くイメージしなくてもそれなりにやってこれたかもしれません。でも、これからは、誰もが「自分には何ができるか、何がしたいか、そのためにどうするか」をもっと真剣に考えなければいけないところにきているのだと改めて思いました(「なりたい自分」をあまり真剣に考えてこなかった私にはキビしい時代です)。

特集全体を通じて、いろいろ考えさせられました。
特に「これから」という方、迷っておられる方は、「翻訳事典2019-2020」と本号を併せて読み、保存版にされたらいいのではないかと思います。
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2019.02.26 22:36 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

公開勉強会(in 東京)が迫ってきました。
1年前、「翻訳を勉強する会」が始まったとき、こんな事態になると誰が想像できたでしょう。
「翻訳を勉強する会」は、「おおさかでXXハムさんたちが何かやっているらしい」と、たまに誰かの口の端に上る程度の小さな勉強会になるはず、でした。
それが、どうもこの頃、「何やら本格的な凄い勉強会らしい」(確かに「凄く」厳しい勉強会ではあります)という噂だけが独り歩きしているような。その虚像と実際の自分(たち)との差にとまどい、恐れおののく今日この頃です。
私たちは(少なくとも私は)、慢心しては自信をなくす、を繰り返している、ごく平凡な翻訳者です。どうかどうか、そこのところ誤解のなきようお願い致します(実物を見てがっかりされないよう、あらかじめ予防線を張っておくなど)。

私たちの地味な勉強会を多くの方に認知いただいた理由のひとつとして、「もっと上手く翻訳したい」と試行錯誤するだけでなく、そのために仲間と切磋琢磨したいという方が多いということがあるのかもしれません。勉強も仕事も、とても孤独な作業ですから。

私も、しばらく前から、他の方と一緒に勉強会をやってみたいという気持ちがありました。
けれど、勉強会は、ちょっと油断すると簡単に、仲よしランチクラブに流れたり、仲違いが起こって空中分解したり、メンバーが忙しくなって形骸化したりしてしまうおそれがあります。そういう勉強会は嫌だなと思っていました。もう年も年だし。
と思っていたところを、管理人さんに釣り上げられてしまったわけです。

「翻訳を勉強する会」は、1年が経過した今、いい感じに機能しています(もちろん、この先どうなるか分かりませんが)。今までそれなりに上手くやってこれた理由を考えてみました。あくまで自分の場合で、誰にもあてはまるものではないと思いますが、参考、ということで書いてみます。


● 最低これをやりたい、ここはブレたくないという点を最初に明確にする
  → 「翻訳を勉強する会」の場合は、「毎月それなりの量の英文を読みきちんと訳す、メンバー全員が参加する、分野を問わない和訳の勉強会」がこれにあたるかなと思います。もしかしたら、この先、「要約」は別のものに姿を変えたりなくなったりするかもしれませんが、この基本の部分は変わらないと思います。

● 少しだけ自分より秀でた人をつかまえてメンバーにする(笑)
  → この「少しだけ」という部分がミソかなと思います。あまり実力差がありすぎると、その人に「学ぶ」姿勢になってしまい、他のメンバーの積極性が低下してしまうと思うのです。また、「少しの差」の場合、知識や調べ方や訳し方という点で、その方自身もまだまだ向上できるような気がします。「翻訳を勉強する会」では、管理人さんがそういう立場でした。その圧倒的読書量は秘書らにはとうてい太刀打ちできないもので、その部分が「良書を教えてもらう」になってしまっているのは若干残念ですが、訳文に関していえば、管理人さんの訳文も、素晴らしいものではありますけど、決して他のメンバーのものを圧倒的に凌駕するものではありません。必死に努力すれば追いつけるかもしれないと感じさせてくれるものです。

● 訳文と人格は別ものということを忘れず、訳文の検討を行う。
  → とはいえ、自分の訳文に対する厳しい意見や指摘は(あとに禍根を残さないとはいっても、少なくともそのときは)あまり気持ちのよいものではありません。私は、どなたかの訳文にツッコミを入れるときは、ツッコミの数だけ褒めるように心がけています(除:対管理人さん)。

● 楽しみも大切
  → 雑談や糖分摂取タイムのおやつも勉強会に欠かすことはできません。

● ホワイトボードを活用する
  → もともと公開勉強会(in 大阪)の準備の一環として始めたものですが、その日に話し合ったことを共有できる以外に、意見を言いやすい雰囲気ができたような気がします。実際、ホワイトボードを使うようになってから議論が深まったように感じています。


順不同に挙げてみましたが、読み返してみると、あまり役に立たなさそうな(笑)。やはり、勉強会は「どうすれば自分もメンバーも向上できるか」を考えて運営していくのが一番だと思います。
始めてみて思ったのは、「新しいことを始めよう」と一歩を踏み出してみるのは意外に簡単だということ。その代わり、準備を整え、軌道に乗せ、続けていくには、かなりのエネルギーが必要。少なくとも私は、勉強会にかなりのエネルギーを吸い取られています。でも、それも何かの形で私の糧になっているのかも(錯覚かもしれませんが)。
そんなわけで、「とにかく始めてみる」は意外に簡単ですが、長く続けるためには、ある程度きちんと準備し話し合ってからの方がいいのかもしれません(というのは、あくまでも私の考えです<念のため)。何かの参考になりましたら幸いです。
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2019.02.22 19:12 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |
早いもので、「翻訳を勉強する会」も2月で丸1年が経過しました。
長かったようなあっという間のような(まるで年末のセリフやな)。
簡単に1年を振り返ってみたいと思います(注:あくまで秘書個人の感想です)。

「分野を限定せず、まとまった量の良質の文章を読み要約した上で翻訳する」ことを目標に始まった勉強会。
それは「やってみたい」と思っていたことではありましたが、1年前は、自分は何を目指しているのか、どう勉強していきたいかが明確ではなかったような気がします。

管理人さんの発案で要約を取り入れてはみたものの、「なぜそれをするのか」「どうするのがいいのか」がよく分かっていなかったような。5月には、なぜ要約するのかを記事にまとめようと努力していますが(「なぜ要約するのか」)、今、当時の記事を読み返してみると、その時点では、まだ本当にキモの部分が分かっていなかったような感じがします。

それでも、翌6月には、「勉強会に参加するようになってから、『丁寧に読んだと思っていた』『読めたつもりでいた』ことがいかに多いかに気づき、愕然とし」「(勉強会は)『さまざまなことを踏み込んで考えるきっかけを与えてくれる場』であり、『読み方、訳し方』を自分なりに考え、メンバーとのやり取りの中で修正し、また試し...を繰り返す場のように感じ」るようになっています(「読めたつもりが...」)

といっても、7月はまだ「『自分はこうなんや』というところに気づいた段階で、『では、どうすればいい』『何をすればいい』という部分はまだ手探り」という状態です(「勉強会について」)。

8月には、11月に公開勉強会を行うことを正式決定し、「なぜ勉強会を続けるのか」を考えることが多くなりました。しかし、9月になってもまだ、「キモの部分を自分の中できちんと咀嚼できて」おらず「性懲りもなく毎回迷走してしまう」状態でした(「第7回勉強会-なぜ要約するのかふたたび」)。それでも、この月の勉強会でホワイトボードを使用するようになってから、少しずつですが、文法的なことや段落の関係などにも自然に目がいくようになり「常に情景を脳内再生」することを心がけるようになりました(「ホワイトボードは役に立つ+「公開勉強会」業務連絡」)

けれど、やはり、公開勉強会を経験したことが、自分の中でひとつの契機になった、というか、そこから、自分の中で、バラバラだったパズルのピースが少しずつまとまり始めたような気がします。公開勉強会を終えたあと、「何のために要約するのか」がようやく自分の中で明確になり、そこから「そのためにはどう読み要約するか」を考えるようになっていったと思います。また、自分の一番の欠点は、指摘や気づきがあると、ひとつのことしか考えられなくなることだと自覚し、とりあえず「要約も訳文も、いつもデコボコしたアンバランスなものになって…(中略)…そのデコボコが、1本の線に近いところに収められるようになれば、近距離から、遠距離から、そしてさまざまな方向からみた、バランスのとれた『読者に余分な労力を使わせることなくきちんと原著者の意図が伝えられる』訳文がつくれるようになる」のかもしれないというところまでは辿り着きました(「公開勉強会終了しました-Side一翻訳者」)。


思い返してみれば、勉強会を始めた当初、わたしは「上手い(と思われる)訳文が書きたい」ということばかり考えていました。今は、もちろんそれもありますが、それよりも、原文のよさと流れを殺さない訳文が書きたいと思います。「自分が(いいものを書きたい)」ではなく「原文と訳文どうよ」中心に考えられるようになったこの変化を、私は進歩と思いたい。

「少しでもよい訳文を」が目標ではありますが、同時に、勉強会は、考える――原文にあっては「なぜそれがそこにその順番で置かれているのか」を、何かをするときには「なぜそれをするのか」を――訓練をする場でもあるのではないかと思います。少なくとも、私はそう思うようになりました。そして、この「考える」部分が、(少なくとも今現在の)AIと人間の決定的に異なる部分なのではないかとも思います。

そういう1年を経て読んだのが、「翻訳事典」の「私が考える『翻訳』」(井口耕二さん)でした。そこに記されている「翻訳の手順」には、私がおぼろげに「こうありたい」と思い始めていたものが、明確に小気味よく文章化されていました。これを「そこまでは自分には無理」と考えるか「同じレベルは無理でも(無理です<キッパリ)どこまでそこに近づけるか」と考えるかは人それぞれだと思いますが、私は、たとえ今ははるか低レベルでも後者でありたいと思うのです。

井口さんは、最後の方で「本来の翻訳では、『使える』で満足せず『ベスト』を探し求める。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』と『ベスト』の微妙な違いを判断する力だ。対してMT+PEでは、『使える』なら十分で『ベスト』である必要はない、になる。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』とここからは下は『使えない』の境界を見極める力だ」とし、「使える」と「使えない」の境界はだんだん下方にずれ、それによってPE作業者の言語感覚そのものが狂ってしまうと述べられています(「翻訳事典2019-2020」P43)。
この部分を読むと、料理研究家の故・辻静雄さんの「九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」という言葉(海老沢泰久「美味礼讃」より)が頭に浮かびます(語られる文脈としては、ちょっと違うかなという感じもするのですが)。

最初から「使える」を求める勉強会はないと思うのですが、「翻訳を勉強する会」が1年の時を経て、「ベストを求める」勉強会に育ちつつあることを(少なくともわたしにはそのように感じられます)嬉しく思います。苦しさも、そして楽しさも、ベストを求めるがゆえのものだと。
今後いつまで続けられるか分かりませんが、できるかぎり長く、この苦しさと楽しさを味わっていきたいと思っています。
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2019.02.14 23:13 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

少し間が開きましたが、先日、第10回勉強会を終えました。
今回は、前回の要約をもとにした翻訳回です。

の前に、前回の要約があまりひどかったので、もう一度やり直しました。きちんと理解した要約を作っておかないと翻訳できんわーと思ったので。今回のエッセイは(少なくとも私にとっては)それほどの強敵でした。

今回は、前回、要約箇所を最後まで検討できなかったので、まず前回の続きから。
前回は青息吐息で、皆さん「分からん、分からん」とうなりながら終えましたが、今回は前回から2ヵ月近い準備期間があり、みなそれなりに課題エッセイと格闘なさったようです。そのことは、皆さんが提出された課題訳文を一読した瞬間に分かりました。もちろん、細かなミスや読解の誤りもありましたが(…ワシもな…)、文法に悩み言葉を選んだことがハッキリ分かる訳文でした(逆に言えば、やっつけで提出したものも簡単に見抜かれてしまうということで、ますます手を抜けなくなってしまったのだった)。
今回は、検討する中で、時代背景やその時代の英文の書き方にまで話が及び(といってもほとんど管理人さんからですが)、最後には「翻訳するときは、そういう背景や作者がエッセイを書いた年齢も考えた方がいいよね」という結論に達しました。段落によっては、中身を分解(図解)して「こういう流れだよね」と確認したものもあります。
今こうして思い返してみて、自分で「わたしたちはここまできたのか」とちょっとビックリし軽く感動しています。若干自慢混じっている感じでスイマセン。けれど、1年前、(少なくとも管理人さんを除く)わたしたちは、何に気をつけ何を考えながら要約や翻訳に取り組んだらいいのかさえ分からず、途方に暮れていて、ポツポツと「この表現はいいですね」的なことしか言えず、ただただこうべを垂れて管理人さんの審判を待つだけだったのです。それが今では、細かく全体に気を配ることを覚え、(ときどきは)秘書らもこちらから斬りかかっていくようになりました。
それでも、もちろん、みな「まだまだ」な訳文しか書けないのですが、1年かけて、原文と翻訳作業にどう取り組んでいけばいいのかが、少しずつ分かってきたような気がします(錯覚かもしれませんが)。たとえて言えば、深い霧の中で動けずにいたのが、少しだけ霧が薄くなって周りにあるものの輪郭がぼんやりと見えてきたような。そして、もちろん翻訳そのものの上達が目標ではあるのですが、自分たちで悩み考えときには間違ったりもしながら「翻訳する考え方を身につける」ことこそ、勉強会が目指すべきところではないかと思います。そして、今わたしたちは確かにその方向に向かっているのではないか、そんな風に思えた勉強会でした(錯覚かもしれませんが)。

次回は次のエッセイに進みます。
コイツもまた手強そうで、チラッと見てそっと本を閉じ静かに書棚に戻しました…(やはり成長がないようです)
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2019.02.14 00:24 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「ネバーホーム」(Laird Hunt、柴田元幸訳)

柴田先生訳を読むのは始めて。
(正確には、柴田先生訳を読んでみたくてたまたま手に取ったのがこの「ネバーホーム」)

男装して南北戦争に参加した女性のひとり語り。
…なんだけど、物語自体は、主人公の女性の視点からしか語られておらず、途中に回想やら幻覚やら混じっているので、とても分かりにくい。おそらく、自分の都合がいいように改変して語っている部分もあるだろうと思う。農場に残した夫との夫婦関係はどうだったのかもよく分からない。私は、破綻しかかっていたんじゃないかと思うけれど根拠はない。
「ネバーホーム」の意味も分からなかった。柴田先生も訳者あとがきにそう書いておられる。もしかしたら「結局どこも自分が本当に錨をおろすべき場所ではなかった」ということなのかも。私は実家にいたときからずっとそんな感じで「今いる場所が私の居場所」で特に帰るべき(帰りたい)場所はないヒトなので、そういう気持ちならちょっとは分かるような気がする。でもそれはまた別のはなし。

内容については、そんな感じでよく分からなかったので、ここまで。
あとは、柴田元幸という翻訳家に度肝を抜かれた話。

この主人公は、頭はいいけどたぶんそんなに学はない。そういう英語で語られているのだと思う。だから、通常より漢字が少なく平仮名が多い。でも、主人公の観察眼は鋭いし情況描写は分かりやすい。だから「そこそこ頭がいい」という設定ではないかと思う。最初のうちは「平仮名が多いのに読みやすいな」と思いながら読んでいた。そうしたら、3ページ目に「それってかんがえてしまう」という一文があって、私は「やられて」しまったのだった。なぜかは説明できないのだけど、これは自分では絶対出てこないし、他の方もなかなかこういう文にはできないんじゃないかという気がした。たった12文字なんだけど。

それから、この小説を音読した。どこかで、柴田先生はご自分で朗読もなさるという話を聞いたことがあったので。
そしてまたまた、平仮名が多く句点も少なく一文がかなり長い(これは原文がそうなのだと思う)のに、何て音読しやすいんだろうと舌を巻いた。語順や平仮名とカタカナの配置具合、少ない句点の位置が絶妙。けれど、やはりリズムが素晴らしいのだと思う。そして擬音語が効果的に多用されていることも、読みやすさの一因なんじゃないかと思う。最後まで気持ちよく音読した。

しばらく翻訳書から離れていたのだけど、少し思うところがあって、また色々な方の訳書を読んでみようと手に取った1冊がこれ。不用意に開いて、アッパーカットを喰らった、そんな感じ。気持ちよくノックアウトされた。そして、そんな方の翻訳書が同時代に読めることを幸せに思った。
以下に、書き留めた表現を少し書いておきます。興味が湧いた方は、まずは図書館へGOで。

「こぎれいな日ざしの毛布をアゴまでかぶっている死者」
「何かめまいみたいな気分が早足でかけてきてわたしを追いぬいていった」
「年月のげんっこつがかれの顔をさがしあてて、たしかな一撃を食わせたみたいに」
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2019.02.14 00:20 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |