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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

早いもので、「翻訳を勉強する会」も2月で丸1年が経過しました。
長かったようなあっという間のような(まるで年末のセリフやな)。
簡単に1年を振り返ってみたいと思います(注:あくまで秘書個人の感想です)。

「分野を限定せず、まとまった量の良質の文章を読み要約した上で翻訳する」ことを目標に始まった勉強会。
それは「やってみたい」と思っていたことではありましたが、1年前は、自分は何を目指しているのか、どう勉強していきたいかが明確ではなかったような気がします。

管理人さんの発案で要約を取り入れてはみたものの、「なぜそれをするのか」「どうするのがいいのか」がよく分かっていなかったような。5月には、なぜ要約するのかを記事にまとめようと努力していますが(「なぜ要約するのか」)、今、当時の記事を読み返してみると、その時点では、まだ本当にキモの部分が分かっていなかったような感じがします。

それでも、翌6月には、「勉強会に参加するようになってから、『丁寧に読んだと思っていた』『読めたつもりでいた』ことがいかに多いかに気づき、愕然とし」「(勉強会は)『さまざまなことを踏み込んで考えるきっかけを与えてくれる場』であり、『読み方、訳し方』を自分なりに考え、メンバーとのやり取りの中で修正し、また試し...を繰り返す場のように感じ」るようになっています(「読めたつもりが...」)

といっても、7月はまだ「『自分はこうなんや』というところに気づいた段階で、『では、どうすればいい』『何をすればいい』という部分はまだ手探り」という状態です(「勉強会について」)。

8月には、11月に公開勉強会を行うことを正式決定し、「なぜ勉強会を続けるのか」を考えることが多くなりました。しかし、9月になってもまだ、「キモの部分を自分の中できちんと咀嚼できて」おらず「性懲りもなく毎回迷走してしまう」状態でした(「第7回勉強会-なぜ要約するのかふたたび」)。それでも、この月の勉強会でホワイトボードを使用するようになってから、少しずつですが、文法的なことや段落の関係などにも自然に目がいくようになり「常に情景を脳内再生」することを心がけるようになりました(「ホワイトボードは役に立つ+「公開勉強会」業務連絡」)

けれど、やはり、公開勉強会を経験したことが、自分の中でひとつの契機になった、というか、そこから、自分の中で、バラバラだったパズルのピースが少しずつまとまり始めたような気がします。公開勉強会を終えたあと、「何のために要約するのか」がようやく自分の中で明確になり、そこから「そのためにはどう読み要約するか」を考えるようになっていったと思います。また、自分の一番の欠点は、指摘や気づきがあると、ひとつのことしか考えられなくなることだと自覚し、とりあえず「要約も訳文も、いつもデコボコしたアンバランスなものになって…(中略)…そのデコボコが、1本の線に近いところに収められるようになれば、近距離から、遠距離から、そしてさまざまな方向からみた、バランスのとれた『読者に余分な労力を使わせることなくきちんと原著者の意図が伝えられる』訳文がつくれるようになる」のかもしれないというところまでは辿り着きました(「公開勉強会終了しました-Side一翻訳者」)。


思い返してみれば、勉強会を始めた当初、わたしは「上手い(と思われる)訳文が書きたい」ということばかり考えていました。今は、もちろんそれもありますが、それよりも、原文のよさと流れを殺さない訳文が書きたいと思います。「自分が(いいものを書きたい)」ではなく「原文と訳文どうよ」中心に考えられるようになったこの変化を、私は進歩と思いたい。

「少しでもよい訳文を」が目標ではありますが、同時に、勉強会は、考える――原文にあっては「なぜそれがそこにその順番で置かれているのか」を、何かをするときには「なぜそれをするのか」を――訓練をする場でもあるのではないかと思います。少なくとも、私はそう思うようになりました。そして、この「考える」部分が、(少なくとも今現在の)AIと人間の決定的に異なる部分なのではないかとも思います。

そういう1年を経て読んだのが、「翻訳事典」の「私が考える『翻訳』」(井口耕二さん)でした。そこに記されている「翻訳の手順」には、私がおぼろげに「こうありたい」と思い始めていたものが、明確に小気味よく文章化されていました。これを「そこまでは自分には無理」と考えるか「同じレベルは無理でも(無理です<キッパリ)どこまでそこに近づけるか」と考えるかは人それぞれだと思いますが、私は、たとえ今ははるか低レベルでも後者でありたいと思うのです。

井口さんは、最後の方で「本来の翻訳では、『使える』で満足せず『ベスト』を探し求める。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』と『ベスト』の微妙な違いを判断する力だ。対してMT+PEでは、『使える』なら十分で『ベスト』である必要はない、になる。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』とここからは下は『使えない』の境界を見極める力だ」とし、「使える」と「使えない」の境界はだんだん下方にずれ、それによってPE作業者の言語感覚そのものが狂ってしまうと述べられています(「翻訳事典2019-2020」P43)。
この部分を読むと、料理研究家の故・辻静雄さんの「九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」という言葉(海老沢泰久「美味礼讃」より)が頭に浮かびます(語られる文脈としては、ちょっと違うかなという感じもするのですが)。

最初から「使える」を求める勉強会はないと思うのですが、「翻訳を勉強する会」が1年の時を経て、「ベストを求める」勉強会に育ちつつあることを(少なくともわたしにはそのように感じられます)嬉しく思います。苦しさも、そして楽しさも、ベストを求めるがゆえのものだと。
今後いつまで続けられるか分かりませんが、できるかぎり長く、この苦しさと楽しさを味わっていきたいと思っています。
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2019.02.14 23:13 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

少し間が開きましたが、先日、第10回勉強会を終えました。
今回は、前回の要約をもとにした翻訳回です。

の前に、前回の要約があまりひどかったので、もう一度やり直しました。きちんと理解した要約を作っておかないと翻訳できんわーと思ったので。今回のエッセイは(少なくとも私にとっては)それほどの強敵でした。

今回は、前回、要約箇所を最後まで検討できなかったので、まず前回の続きから。
前回は青息吐息で、皆さん「分からん、分からん」とうなりながら終えましたが、今回は前回から2ヵ月近い準備期間があり、みなそれなりに課題エッセイと格闘なさったようです。そのことは、皆さんが提出された課題訳文を一読した瞬間に分かりました。もちろん、細かなミスや読解の誤りもありましたが(…ワシもな…)、文法に悩み言葉を選んだことがハッキリ分かる訳文でした(逆に言えば、やっつけで提出したものも簡単に見抜かれてしまうということで、ますます手を抜けなくなってしまったのだった)。
今回は、検討する中で、時代背景やその時代の英文の書き方にまで話が及び(といってもほとんど管理人さんからですが)、最後には「翻訳するときは、そういう背景や作者がエッセイを書いた年齢も考えた方がいいよね」という結論に達しました。段落によっては、中身を分解(図解)して「こういう流れだよね」と確認したものもあります。
今こうして思い返してみて、自分で「わたしたちはここまできたのか」とちょっとビックリし軽く感動しています。若干自慢混じっている感じでスイマセン。けれど、1年前、(少なくとも管理人さんを除く)わたしたちは、何に気をつけ何を考えながら要約や翻訳に取り組んだらいいのかさえ分からず、途方に暮れていて、ポツポツと「この表現はいいですね」的なことしか言えず、ただただこうべを垂れて管理人さんの審判を待つだけだったのです。それが今では、細かく全体に気を配ることを覚え、(ときどきは)秘書らもこちらから斬りかかっていくようになりました。
それでも、もちろん、みな「まだまだ」な訳文しか書けないのですが、1年かけて、原文と翻訳作業にどう取り組んでいけばいいのかが、少しずつ分かってきたような気がします(錯覚かもしれませんが)。たとえて言えば、深い霧の中で動けずにいたのが、少しだけ霧が薄くなって周りにあるものの輪郭がぼんやりと見えてきたような。そして、もちろん翻訳そのものの上達が目標ではあるのですが、自分たちで悩み考えときには間違ったりもしながら「翻訳する考え方を身につける」ことこそ、勉強会が目指すべきところではないかと思います。そして、今わたしたちは確かにその方向に向かっているのではないか、そんな風に思えた勉強会でした(錯覚かもしれませんが)。

次回は次のエッセイに進みます。
コイツもまた手強そうで、チラッと見てそっと本を閉じ静かに書棚に戻しました…(やはり成長がないようです)
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2019.02.14 00:24 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「ネバーホーム」(Laird Hunt、柴田元幸訳)

柴田先生訳を読むのは始めて。
(正確には、柴田先生訳を読んでみたくてたまたま手に取ったのがこの「ネバーホーム」)

男装して南北戦争に参加した女性のひとり語り。
…なんだけど、物語自体は、主人公の女性の視点からしか語られておらず、途中に回想やら幻覚やら混じっているので、とても分かりにくい。おそらく、自分の都合がいいように改変して語っている部分もあるだろうと思う。農場に残した夫との夫婦関係はどうだったのかもよく分からない。私は、破綻しかかっていたんじゃないかと思うけれど根拠はない。
「ネバーホーム」の意味も分からなかった。柴田先生も訳者あとがきにそう書いておられる。もしかしたら「結局どこも自分が本当に錨をおろすべき場所ではなかった」ということなのかも。私は実家にいたときからずっとそんな感じで「今いる場所が私の居場所」で特に帰るべき(帰りたい)場所はないヒトなので、そういう気持ちならちょっとは分かるような気がする。でもそれはまた別のはなし。

内容については、そんな感じでよく分からなかったので、ここまで。
あとは、柴田元幸という翻訳家に度肝を抜かれた話。

この主人公は、頭はいいけどたぶんそんなに学はない。そういう英語で語られているのだと思う。だから、通常より漢字が少なく平仮名が多い。でも、主人公の観察眼は鋭いし情況描写は分かりやすい。だから「そこそこ頭がいい」という設定ではないかと思う。最初のうちは「平仮名が多いのに読みやすいな」と思いながら読んでいた。そうしたら、3ページ目に「それってかんがえてしまう」という一文があって、私は「やられて」しまったのだった。なぜかは説明できないのだけど、これは自分では絶対出てこないし、他の方もなかなかこういう文にはできないんじゃないかという気がした。たった12文字なんだけど。

それから、この小説を音読した。どこかで、柴田先生はご自分で朗読もなさるという話を聞いたことがあったので。
そしてまたまた、平仮名が多く句点も少なく一文がかなり長い(これは原文がそうなのだと思う)のに、何て音読しやすいんだろうと舌を巻いた。語順や平仮名とカタカナの配置具合、少ない句点の位置が絶妙。けれど、やはりリズムが素晴らしいのだと思う。そして擬音語が効果的に多用されていることも、読みやすさの一因なんじゃないかと思う。最後まで気持ちよく音読した。

しばらく翻訳書から離れていたのだけど、少し思うところがあって、また色々な方の訳書を読んでみようと手に取った1冊がこれ。不用意に開いて、アッパーカットを喰らった、そんな感じ。気持ちよくノックアウトされた。そして、そんな方の翻訳書が同時代に読めることを幸せに思った。
以下に、書き留めた表現を少し書いておきます。興味が湧いた方は、まずは図書館へGOで。

「こぎれいな日ざしの毛布をアゴまでかぶっている死者」
「何かめまいみたいな気分が早足でかけてきてわたしを追いぬいていった」
「年月のげんっこつがかれの顔をさがしあてて、たしかな一撃を食わせたみたいに」
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2019.02.14 00:20 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |