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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


 という副題は、管理人さんの言葉ではなく、私がいろいろ悩んでつけたものです。
 本文でうまく説明できればいいのですが。

 昨日、第13回勉強会を終了しました。

 本来は新しい課題の要約回になるはずでしたが、前回、Saul Bellowの『Graven Images』の訳文検討が途中で終わってしまったため、今回は、残った訳文を検討するところから始まりました。「さくっと終わらせましょう」と始めた割りには、原文のイタリック体部分の訳文への反映や、ある「it」の意味するものは何か(→迷ったときは文法に戻れ)など、結構つっこんだ議論ができたかなと思います。最後に、全体を見渡したまとめを行って終了。

 残りの時間は、管理人さんが提案してくださったショートショート、Ann Beattieの『Snow』の要約と訳文の検討です。次回勉強会が「翻訳を勉強する会・番外編」(別名:公開処刑会)になるので、今回は「箸休め的に軽いものを読みましょう」ということで提示された(はずの)掌編で、気楽に楽しく取り組み和気藹々と論じ合う、はずだったのですが、期せずして私(たち)の欠点がハッキリ露呈される結果となりました(”Ann Beattie" ”Snow” でG検索するとPDF原稿がヒットします。A4で2ページほどの短いものですので、興味が湧いた方は目を通してみてください。道下匡子さん、柴田元幸さんのお二方による邦訳も出版されています)。

 さて、この『Snow』の検討ですが、まず、メンバーひとりひとりが「どんな主人公(一人称なので話者)をイメージし、どんなところに気をつけて翻訳したか」を説明することから始まりました。すると、魔王様を除けば妙齢(!)の女性ばかりの集まりですから、「いまだ残る未練が雪によって喚起される」(演歌派)、「いや結構醒めていて過去の思い出を昇華しようとしてるんじゃないの」(ユーミン派)、「自分に酔ってるよね」(思いつかないので、さくっと「その他」派)等々、感想、出るわ出るわ。総じて、「訳文を考えるのがとても楽しかった」というのが女性メンバーの一致した感想でした。
 そして、最後に真打ち魔王登場となるわけなのですが、管理人さんは、まず「どんなToneで書かれているか」というところから入ります。女性陣がさまざまに感想を述べたにも関わらず「直接的に話者の感情を表現する言葉はないですよね」だから「淡々とした日本語で表現したい」。なぜなら、それが著者の意図するところだから。

 この管理人さんの説明を聞きながら、女性メンバーは(たぶん)みな「自分は読者と同化しすぎていた」と感じていました。作品への思い入れは必要ですが、読者と同化してしまっては、著者の思いをきちんと伝えることはできません(これは著者に対しても言えることかなと思います。著者の思いを伝えたいという気持ちばかりが先走った訳文も、やはりよい訳文とは呼べないような気がします)。
 ホワイトボードには「訳者は、最初に読むときは無色透明な気持ちで読むべき」と書いていますが、あとで、それもちょっと違うかなーという気がしてきました。訳者も、最初は読者として読んでよいのではないかと。あくまで私の個人的な考えですが。そうでないと「これはいい」「この文章を他人にも伝えたい」という気持ちが湧きにくいような気がするのです。そうした「これを伝えたい」という気持ちは、訳していく上で大きなモチベーションになります。だから、ざっと一読するときは、まず読者として読めばいい、その代わり、もう一度熟読するときは、距離をおいて英文をきちんと観察することを忘れない、そして訳すときは「(自分がではなく)著者が日本語でその文章を書いたらどう書くか」をつねに頭に置いて訳す、この3つの立場を混同することなく、原文そして訳文と向き合えばいいのではないかと、一日経った今は、そんな風に考えています。
 ――というところからの、「読者として、観察者として、そして訳者として」ですが、若干芸がなさ過ぎた感ありますね(汗)。

 この課題では、「その訳語をそのまま(日本人読者に向けた)訳文に当てはめても大丈夫か」「ダブルミーニングの言葉の、ほのめかされている方の意味をどこまで訳文に反映させるか」といったことも話題に上りました。これらについては、現在も、FBのグループで議論が続いています。たぶん答はでないけど。

 白状しますと、訳文を仕上げたとき、心中密かに「いいのできたー♪」などと思っていたわけです。それが、「(たとえ日本文として悪くないものだとしても)作者の意を汲んだ訳文ではなかった」という事実をどかんと突きつけられるのは、辛くはありますが爽快でもあり、少し時間を置いた今、自分に必要なボディブローだったと思っています。「よくできた」と思っていた訳文を褒められたりすれば、それこそ天狗になってしまっていたに違いありませんから。

 というわけで、今回も、さまざまに考えさせられた勉強会でした。
 何回目になっても、いつも何かしら学びがあり気づきがあります。それは、「成長が遅い」ということなのかもしれませんが、決して「成長していない」ということではないと思っています(希望的観測)。「もう学びも気づきもなくなった」と思ったときこそ要注意なのかも知れません。

 来月は「番外編」準備のため、通常の勉強会はお休みです。お盆明けに再開の予定。「番外編」にお申込みいただいた皆さんは、公会堂でお会いしましょう(でもたぶん背景に同化しているはずなので見つからない)。
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2019.06.15 18:33 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「翻訳を勉強する会・番外編 ― 訳文による絵の描き方」(7月14日)にそなえて、『翻訳のレッスン』を再読中です。

内容の方は、「そうだった」と確認する部分あり、「そこは失念していました」と恥じる部分あり、「そこはきちんと理解できていなかったかもです」と今一度うんうん唸る部分あり、共感する部分あり…とさまざまですが、他の方もおっしゃるとおり「読む時期により心に響く部分が少しずつ違う」を実感しています。

翻訳の力をつけるためにはどうすればよいかということが、翻訳の準備(調査)、辞書引き、訳文のつくり方といったさまざまな視点から語られていまして、山岡洋一さんの『翻訳とは何か』同様、折に触れて読み返すのがいいんじゃないかと思っています(個人的見解です)。個人的には、翻訳をはじめてしばらく経ち、さまざまな壁にぶつかってどうしたらいいか分からなくなったときに手に取るのがベストかと。その時点で自分に足りないものが何であるかを確認できると思うからです。

でもだがしかし。

今日の本筋は、暑苦しく『翻訳のレッスン』の内容を語ることではないのでありました。

以前『PIXAR』の記事を書いたとき、「わたしは『あとがき』から入るタイプです」と書きました。先入観が入るのであとがきは読まない方がいいという意見もあり、それはそれで納得できるのですが、わたしはまず著者(OR訳者)の伝えたいことを知りたいタイプのよう。「はじめに」には、「こういうことを伝えたいのです」という力みが感じられることも多いのですが(「はじめに」なので、個人的にはそれはそれでよいのではと思っています。こちらの期待も高まりますし)、「あとがき」からは、多くの場合、直接そう書かれてはいなくても、行間から「わたし(たち)の伝えたいことはきちんと伝わったでしょうか」という読者への真摯な問いかけが感じられるような気がします。自分はそこが好きで最初に読みたいのかもしれないと思います。

で、再読でもあとがきから入るわけです。

そこ(『翻訳のレッスン』あとがき)に書かれているある部分が特に心に残りましたので、少し長くなりますが転記します。

人に教えを請うときの姿勢、そういう姿勢で臨まれたときにとことんやさしい先輩たち、議論するときのルール、そうした議論を通じて培われた信頼と翻訳愛、それを次の代にも継承したいというおもい―これも「恩送り」の一種なのだろうなと、わたしは思っています。フォーラムの方々だけではなく、多くの先輩方が、自分たちの次の世代が「翻訳は楽しい、翻訳が好きだ、翻訳したい」という気持ちと厳しい現実にどう折り合いをつけていったらいいのかを、さまざまな場所で、さまざまな形で、言葉で伝えてくださっているのだと改めて感じさせてくれたあとがきでした。

(今日もまとまらない内容でスイマセン

*****

「…Q&Aと言っても、今どきの『教えて』や『知恵袋』とはわけが違い、まず自助努力をするのがルール。自分で調べられるところまで調べ、過去ログも必ずさかのぼって読み、自分なりの根拠を添え、『こういうわけでこのように悩んでいるのですが』と尋ねます。尋ねるほうが真剣なら、答えるほうも真剣で、さまざまな調べ物をしたうえで、こちらも根拠を添えて『こうではないでしょうか』とレスを付けます。ハンドルネームとはいえ記名ですから、いい加減なことは書けません。皆、大まじめに取り組みました。勉強会も、順番に出題役をして、数人が訳を書き込み、それを互いに批評しあうというスタイル。うっかりすると喧嘩になるような場面でも、『訳文への批判と個人への批判を混同しない』という大原則のもと、侃々諤々やりあい、直後のチャットでは和気藹々と無駄口を叩くということが日常的に行われていました。先輩・後輩も利害関係もなく、ただ『翻訳』が好きな人たちが集まる場で、わたしたちは大いに鍛えられたのです。
今わたしたちは、翻訳学校やセミナー、大学などで話をしたり、原稿を書かせてもらったりする立場になりました。よく『惜しげもなくノウハウを教えてくださって』と言っていただきますが、そんなノウハウは元々は翻訳フォーラムで先達や仲間たちから教えてもらったもの。今度はそれを次の世代に渡し、少しでも翻訳者の地位向上を目指していくのが、今の私たちの仕事かなと思っています」(pp. 222-223)
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2019.06.13 23:38 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
「シンポジウムでは、どんな風にノートをとっているのですか」という質問をいただきました。
こうやってレポートを書いていると、ノートとりにまで目を向けてくださる方がいて、ありがたいことです。


ひと言で言えば、「書き取れるもの、聞き取れたことはすべて書いています」ということになります。なので、ずっと何か書いています。今回のシンポジウムでは、A4用紙5枚(裏表)10ページ分のノートをとりました。

なぜ、こんなノートのとり方をするようになったかを説明するには、初参加の2016年の翻訳祭までさかのぼらなければなりません。
それまで私は、翻訳祭のツイートやその後のレポート記事を「(参加できて)いいなあ」「羨ましいなあ」と思いながら眺めていました。
だから、始めて参加できた翻訳祭では、それまでの自分のように「いいなあ(参加したいなあ)」とPCの前でため息をついている方たちのために、精一杯レポートをしようと決めていました。ツイッターでは、その場に居合わせた方々の生の感想が流れてきます。同じフレーズが何度も流れ、「それがその話のキモだったのだ」ということは分かるのですが、どういう状況で、どんな流れでそのフレーズが演者の口から発せられたのかは、前後のツイートやその後のレポートから想像するしかありません。だから、「大事な部分を切り取った、内容の濃い深いレポートは他の方に任せて自分は全体の流れが分かるようなレポートをしよう、そのためには、書き取れることはすべて書き取ろう」というのがSayoレポを始めた理由です。


今もその気持ちは変わらなくて、「昔の私のような方に読んでほしい」とノートをとり、レポートを書いています。

そんなわけで「とにかくすべて書く」ことに徹しているため、「ここ大事だから書き留めよう」ということはありません。ですから、シンポジウムなりセミナーなりが終わると、「え、今日私どんな話を聞いたっけ」状態で、普通なら心に残っているはずの重要な内容がまったく自分の中に残っていなかったりします。なので、自分のためにも復習とレポート作成が必要なのです。

シンポジウムに関していえば、講演者によって少しずつノートのとり方が変わります(3回目ともなると、そのへんだけは少し見えてきました)。

深井さんは、比較的ゆっくり喋られ、スライドもイラストや写真多めなので、ノートテイキングという点から言えば一番ラクです(その代わり、どの情報も落とすことができませんが)。
なので、トップバッターが深井さんだと、言葉がちょっと悪いのですが、いいウォーミングアップになります。耳から情報を中心に、できるかぎりスライド情報を書き足します。

井口さんは、とても理路整然と話されますので、やはりノートはとりやすいです。話が分かりやすい一因として、(スライドで)図を多用されるということがあるかもしれません(今回の「ぐるぐる循環させる」の説明も、図があれば一目瞭然ですよね)。なので、その図だけは、間違いがないようキチンと写しておかなければなりません(昨年はいい加減に写したのでレポートに使えなかった)。耳から聞いたこと7割、スライドの内容3割くらいの感じでノートをとります。

高橋(あ)さんは、「マイクいらないですよね」と仰って地声で話されるだけあって一番滑舌がよく、「耳からノートテイキング」には神のような方です。スライド情報はそこそこ多いのですが、あとで事後配付資料やご自分のブログ記事などの形で何らかの補足をしてくださることが多いので、耳からの情報をおもに書き取ります。

高橋(さ)さんは、すごく大事なことを仰るのだけど、とにかく難しい。今回は、事前配付資料とスライドの内容がかなりかぶっていたのでとても助かりました。さきのさんのお話をノートにとるときは、スライドからはキーポイントだけ、おもに耳から情報を書き殴ることになります。一度置いてきぼりになると絶対に追いつくことはできないので(&ほとんどの方がそうだと思いますが、「ノって」こられると早口になります)、とにかくその場では、耳に入ってくる内容をできるかぎり書き取ります。

(星野さん、佐復さん、タコの会さんは、まだ傾向がつかめていないため割愛します。スイマセン。)

最後の4名によるケーススタディは、「ノートテイキング」的観点からいえば、一番ラクでした。スライドに各例題が表示されましたが、いずれも事前資料として配付されていたものですので、基本、顔を上げることなく耳からの情報だけに傾注することができました。「スライドも見ながらノートをとる」には、首の動きと視線の移動が必要になりますし(キー入力と同じで「チリも積もれば…」です)、瞬間瞬間で、耳からの情報とスライド情報のどちらを優先するかという判断も必要になります。ですから、疲れマックスの最後のセッションが、このケーススタディであったことは、とてもありがたかったです。


ノートからレポートにする作業ですが、まず、テーマや当日の進行表とにらめっこしながら、「なぜその順番なのか」を考えます。フォーラムのシンポジウムでは、内容や緩急も含め、話をされる順番がとてもよく考えられていると思います。そこで、だいたいの流れを1枚程度のメモにしてしまうと、その後のレポート作成がかなりラクになるような気がします。
基本的には自分のノートを基にレポートを書きますが、一応、ハッシュタグでまとめられたシンポジウム関連のツイートも確認しておきます。
その後、もう一度ノートを読み直して、どの部分をレポートに採用するか(&どの部分を闇に葬るか)を決めます。だいたいそのあたりで新幹線が京都に到着します。


覚えとしてのメモなら、自分にとって大事だと思えるところを重点的にノートをとればいいのかなと。
もしも、翻訳祭や来年のシンポジウムで「全部ノートをとろう」と思っている方がいらっしゃったら、なにがしかの参考になれば幸いです。
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2019.06.03 22:15 | 翻訳祭・フォーラムetc.報告(2016-) | トラックバック(-) | コメント(0) |