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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「翻訳を勉強する会」管理人第1秘書です。

昨日、「翻訳を勉強する会・番外編」(井口耕二講師による「訳文による絵の描き方」、於:大阪市中央公会堂大会議室)を無事に終了することができました。
降ったり止んだりのあいにくのお天気でしたが、関西はもとより中国、東海、北陸、関東から、50名をこえる方にご参加いただきました。皆さん運営の至らぬ点は片目を瞑って寛大にスルーしてくださった上、多くの方が、本編、特に後半の実例をもとにした訳文検討に「大変濃い内容だった」など肯定的な感想を述べてくださいました。否定的な意見は(特に開催直後は)あまり直接的な形で表に出てこないという点を差し引いても、主催者冥利に尽きる結果です。これは、講師の力量はもちろんですが、ご参加くださった方々の積極的な参加の姿勢なしには実現し得なかったことだと思っております。皆さま、本当にありがとうございました。


さて、運営モードはここまで。
ここからは、検討対象となった訳文を提出した一翻訳者モードです。主に、自分の振り返りと覚えの目的で書いておりまして、いつもの「内容レポート」モードではありません。その点ご了承ください。

「訳文による絵の描き方」は、前半(2時間)が、井口さんの考える、あるべき訳文作りの方法やそれを実践するための方法などについての説明、後半(1時間)が、「翻訳を勉強する会」事務局3名が提出した訳文を使用しての訳文検討会でした。
前半部分は、今年のシンポジウムの内容ともかなり被る部分がありました。詳細は、ハッシュタグ#翻勉2019で辿っていただければと思います。齋藤貴昭さん(Terry Saitoさん)がまとめてくださいましたので、そちらをご覧ください。
https://togetter.com/li/1376635

後半の訳文検討会では、私たちが普段の勉強会で実際に翻訳した部分をさらに推敲・提出したものを、検討対象訳文として使用しました。つまり、それぞれが(一応それなりに)原文を解釈できているという前提です。「それなら(原文解釈の部分をすっ飛ばしていきなり)訳文をどうブラッシュアップしていくかという話ができるのではないか」というのが、井口さんのご意見でした。

蛇足ですが、今回お話いただく内容を決めるにあたって、井口さんからこの「公開検討会」の打診があったとき、管理人さんは歓喜し、第2秘書は「少し時間をください」と覚悟を決める時間を要し、すでに運営モード全開だった第1秘書は「それ参加者にとって美味しすぎる!やらねばなるまい!」と当たり前の事実として受け入れる、という三者三様の反応でした。

閑話休題。

使用した原文は、Sawl Bellow晩年のエッセイ"Graven Images" その第14段落が検討対象になりました。参加者の皆さんには、2週間ほど前に「参考資料」という形で原文をお送りしています。
該当部分は以下のとおりです。

 The photograph ? to narrow it down ? reduces us to two dimensions and it makes us small enough to be represented on a piece of paper or a frame of film. We have been trained by the camera to see the external world. We look at and not into, as one philosopher has put it. We do not allow ourselves to be drawn into what we see. We have been trained to go by the externals. The camera shows us only those, and it is we who do the rest. What we do this with is the imagination. What photographs have to show us is the external appearance of objects or beings in the real world, and this is only a portion of their reality. It is after all a convention.

(look atのat、look intoのinto、to be drawn のdrawn、with the imaginationのwithがイタリック)
出典: THE BEST AMERICAN ESSAYS of the CENTURY
Copyrigntc by Houghton Mifflin Company
Copyrigntc 1997 by Saul Below, reprinted with permission of The Wylie Agency, Inc.

訳文を提出したときは、「もうこれ以上はできない」と思っていたのですが、どうも自分は、ひとつの考え(というかやり方)にとらわれたまま、その中で訳文を推敲しようとグルグルしていたみたいです(特に、後述するtrainに関する部分です)。検討会を前に、原文と他のお二方の訳文とも併せて自分の訳文を再読してみると、「悪くはない、大きく間違ってはいないんだけど、うーん、のっぺり?」という印象でした。今回は勉強会なのでたかだか数行ですけれど、こののっぺりした文を長々と読まされたとしたら、読者はたまったものではありませんよね(「のっぺり」が原文の意図であれば、また話は違ってくるかもしれませんが)。
 * 井口さんは、前半部分で、「ノイズを減らして(不要なものが多いと本当に必要なものは見えてこない)、際立たせたい部分を際立たせる」という話をされています。そこで言われた「ノイズの多い」訳文の典型と言えばよいでしょうか。

昨日、井口さんからいただいたご指摘や井口さんご自身が作られた同じ箇所の訳文(の記憶)をもとに、「なぜ『のっぺり』訳になってしまったのだろう」と今朝からずっと考えていたのですが、結局はきちんと読めていなかった(絵が描けていなかった)ということなのだという結論に至りました(「原文を解釈できているという前提」以前の問題という…)。すべては、1文目と2文目の関係がきちんと把握できなかったという点から始まっていたと思います(そこがよく分からなかったということは、検討会でも発言していますので、覚えている方もいらっしゃるかも)。

2文目のtrainを、「この言葉をどう訳せば一番しっくりくるだろう」という視点でしか考えることができず、一度そこで立ち止まって、「なぜtrain?」を深く掘り下げることができなかったのが敗因のひとつかなと思います。井口さんの解釈のように、(二次元的表現方法なのにカメラによって外面を見ることに)慣れてしまっていると解釈すれば、上手く続いていきそうです。さらに1文目を「写真では(私たちは)このように表現される」とすれば、ずっと「私たち」視点を保ったまま訳文を作れそうです。
これからは、行き詰まったとき、今あるものをどういじるかだけではなく、一から「そこ何を言いたい? 何を言ってる?」と問い直すことを忘れないようにしたいと思います。
 * ここでは、「視点をどうするか」が話題に上りました。この段落を字面で訳すと、主語が写真になったり私たちになったりカメラになったり、とかなり目まぐるしく移動するのです。では、視点を固定して訳すことができるかどうかと考えたとき、日本語では人を主体にするとアプローチしやすいというお話がありました(日本語では「人がにじむ」という表現も使われたのですが、訳文検討の最中でしたので、詳細書き漏らしました→そのときのことを、井口さんご自身が「無生物と人間のどちらかに寄せるならって話をしていたので、だったら人に寄せるほうがってことなんだけど、逆に、人がにじまないように訳すケースも、当然、あるわけです」とツイートされています)。

まとめると、躓いた2文目以降きちんとした絵が描けなかったことで、メリハリのない(=強調したい部分がきちんと強調できていない)のっぺり訳になってしまった、ということかと思います。その他にも、小さな違和感を持ちながらそのままにしていた部分があり、自分の中では「時間がなかった」と言い訳していたのですが、煎じ詰めればそれも「絵が描けていない」ことが原因なのかなと。結局はそこ。

これまで「絵が描けてない」という状態を何となく理解していた(あるいは「理解した」と思っていた)私ですが、今回、悩んだ末の訳文を、微視的視点・巨視的視点の両方から検討していただいた結果、それがどういう状態なのかということを、実感として理解したような気がします。
今回、「よく(皆の前で井口さんに訳文を評価される)勇気出ましたね」とか「運営の仕事と併せて大変でしたね」とか言っていただきました。確かに、何をやっているのか自分でもよく分からん(くらい精神的に追い込まれた)時期もありましたが、すべて終わった今となっては、今回の訳文検討は、事務局メンバーにとって一番実りの多い贅沢な時間だったのではないかと思っています。何ものにも代えがたいものを「体感」できたわけですから。


訳文検討をまとめてみるとこんな感じですが、あと、お話の中で印象に残ったこと、思ったこと、感じたことを二つ三つ。

● イタリック体の処理→課題部分のイタリック体を私は傍点で訳したのですが、事務局3名の訳文は、傍点、「 」、何もなし(その言葉が強調される表現にする)と三者三様でした。最後に井口さんが示された訳例では、イタリック部分が見事に強調された文章になっていて、なるほどここまですれば、普通の文の中できちんと強調できるのだなと思いました。

● 「気をつけている」は何もやっていないと同じ。「の」の連続、「は」と「が」の使い分け、点の打ち方、文のきれつづき、テンス・アスペクト・ムードなど訳出の基礎的スキルのそれぞれを、期限を区切って訓練するなどして一つ一つ身につけていくことにより、意識しないでもできるようになっていくというようなお話をされたと記憶しています。

● 自信をもって訳していくには、自分は、もっと日本語力をつける必要があると思いました。語彙や表現ももちろんそうなのですが、訳文について、「こうだからこうなる」「こうだからこうする」といったことを日本語側からきちんと説明できる力とでも言いましょうか。二次会の隣のテーブルでは「日本語文法大事」という話で盛り上がっていたそうですが、それに近い感じでしょうか。管理人さんも「日本語文章を強化する試みも取り入れていきたい」というようなことを呟いておられましたので、どんな形で実現するか楽しみです。


運営という立場上、できるだけ多くの方に井口さんとお話しする時間をとっていただきたいと思っていました。極端なことを言えば、自分は実務連絡以外は話ができなくてもいいと思っていたんです。だって、それまでに、FB上で打ち合わせの形で、何度も濃いやり取りをさせていただいていたわけですから。ありがたいことに、こちらから「できるだけ皆さんとお話してください」とお願いしたわけではないにも関わらず、懇親会では、井口さんご自身が席を移動して、たくさんの方と話をしてくださいました。そして、二次会の最後の最後に私の座っていたテーブルにも来てくださいました。シンポジウムやレッスンシリーズや公開勉強会などを経て「ここを気をつけなくては」という点が少しずつ増え、「翻訳スピードがすごく落ちています」というお話をしましたら、「次の段階にいくための時期です」というような言葉で励ましていただきまして。このところ、上手くいかないことが多くちょっとやる気が萎え気味だったのですが、(これからもたいして光る訳文は書けないのかもしれませんが)もう少し頑張ろう、自分のできる少し上を目指そうと思い直すことができました。
明日からまた平常運転に戻って頑張ろうと思います。
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2019.07.15 23:53 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |