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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


いつもひねりのない副題でスイマセン。
(あとで自分が内容を思い出しやすい副題にしています)

勉強会・通常編、終了しました。

今回は、まず、今後の進め方を話し合うところからスタート。
課題が取りまとめられた段階で、管理人さんから「課題の難易度が高すぎるかもしれない。要約継続の是非も含めて検討した方がいいかも」という提案があったためです。

話し合った結果、「現在のテキストをそのまま継続する」「要約に向かないタイプの文章も多く、またどうしても『要約のために読む』になってしまいがちなので、課題として要約を行い勉強会で検討することは止める。翻訳の前に要約するかどうかは個人の裁量にまかせる」ということになりました。
確かに、Best American Essays of the Centuryのエッセイは、読むのも訳すのもとても難しく青息吐息なのですが、普段の仕事に戻ったときにとてもラクに感じるのも事実でして(と油断していてはいけないんですけど)、個人的には今のテキストをそのまま続けたいなと思っておりました。というわけで、ワタクシ的には望ましい方向に向かってくれて嬉しく思っています。要約は、先のことはわかりませんが、当面続けてみるつもりです(井口さんが仰った「もう少しやさしい課題を、トーンや想定読者を変えて訳してみる」ということも、いつかやってみたいなと思っています)。
こんな風に、ときどき話し合って軌道修正しながら、メンバーが力をつけるのに最適な方法を探っていけるのが、勉強会のいいところかなと思います。

また、今回から、「日本語学習の時間」が追加されました。ひとつのテーマについて、それぞれが事前に下調べをしてきて、当日はルーレット(!)で指名された1名が発表、そこから話し合いに発展させるというやり方です。フタを開けてみると、ほぼ全員が何らかのプリントアウトを用意してきていて、活発なやり取りとなりました。初回は(連続の是非も含めた)「の」についての考察。次回は「は」格と「が」格について勉強します。
「番外編」では「『の』を減らす」というお話がありましたが、減らすにしても「の」とはどんなもので、どんな種類があるということを抑えておかないと、言い換えてよい「の」とそうでない「の」を、自信を持って適切に判断できないですよね。
これまで、さらっと簡単な文法書を読んだくらいで済ませてきましたので、ここできちんと勉強しようと思います。
管理人さんからは、

『日本語学入門』(近藤安月子、研究社 2008年)
『日本語の文法』(高橋太郎、ひつじ書房 2005年)
『日本語文法整理読本―解説と演習 (日本語教師トレーニングマニュアル) 』(井口厚夫他、バベルプレス 1994年)

の3冊を推薦いただき、まずは上2冊をAmazonさんで購入しました(帰りに寄ったリアル書店にはなかったので)。


後半は訳文検討の時間。
すでに何ヵ月やっているか分からなくなってきた(笑)"Graven Images"。もういい加減きちんと読めていいやろという話ですが、そう甘くはなく。細かい話は省きますが、皆さんの訳文を拝見し勉強会での検討を経て、自分は

● わざわざ難しく読んでいる。
● 一度思い込んだらなかなかその思い込みから離れられない。
● 本当はよく考えるべきポイントや単語を結構スルーしている。

ということがよく分かりました。
こうしたこと自体は、他の方にも「よくあること」かもしれませんが、問題は、自分はこれまで何回も、気づきとして似たようなことを書いてきた、ということ。これはもう、「(やってはいけないが)往々にしてある話」ではなく、自分の一番の「欠点」なのだときちんと意識して公言しなければいけないんじゃないかと。そこからのタイトル副題(前半)です。こうした自分の癖については、独学だけで気づくことは難しい。比べるもの(他の方の訳文)があり(やんわりと)指摘されてはじめてはっきり見えてくるものだと痛感しています。


勉強会については、いつもまずFB上で、「今日のスイーツ」の写真も含めて簡単に報告しています。
今回、「管理人さんがこれまで読んでこられた書籍参考書の数々、勉強されてきた内容を考えれば、並んで歩ける日が来るとは思えませんが、いつの日か(おずおずと)『ここが気になる』と細い赤線を引けるくらいにはなりたいものです」(各人が訳文の気になる箇所に赤線を引きコメントを添えたものを返して頂きました*)と報告しましたら、井口さんから「遠慮はいらない。どんどん口にすべき」(抜粋・以下の引用箇所同じ)というコメントを頂きました。それに対して「気になる箇所があっても、自分の中にきちんと説明できるだけの根拠がなく、ふわっとした説明しかできないので、自信が持てない」と返信しましたら、今度は「ふわっとした疑問でも『ここが気になる』ということは大事。そこから(メンバー全員による)ブレインストーミングにつながるかも。それが勉強会の醍醐味では」というコメントが。
それを読んでハッとしました。私は、もっと自信が持てるようになるまで「意見を述べるなど百年早い」と思っていたのですが(なので、勉強会では、どちらかというと聞かれたことに対して防戦し、たまに斬り込んでいく感じ)、それでは勉強会というより、片方が教えを請う講座に近いものになってしまいます。それは最初に自分たちが目指したものではなかったはず。まだまだ実力差はあるとはいえ(そして、互いに勉強を続ける分、その差はいつまで経っても埋まらないものなのかもしれませんが)、次回は(返り討ちにあうとしても)もっと声を上げていこうと思います(板書もしてるんで、なかなか難しいんですけど)。


* 「各人が訳文の気になる箇所に赤線を引きコメントを添えたものを返して頂きました」→最後に迷って書き換えたもの、イマイチと思いつつそれ以上の訳語を思いつかずそのままにした箇所も、「やはりな」という感じで指摘されていましたが、打ち返せそうなもの(笑)もありました。訳文自体はまだまだとしても、言葉で説明(弁明)できそうな箇所が増えたことが、「翻訳への向き合い方」という点で、この1年半の(少しの)進歩と言える、かもしれません。


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2019.08.25 00:05 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |

「ムギと王さま」(Eleanor Fargeon、石井桃子訳、岩波少年文庫2001年)

裏表紙には「『現代のアンデルセン』とも称されたファージョンの美しい自選短編集全27編」とあります。子どもの頃、大好きで何度も読み返しました。
私の手元にあったのは、おそらく1971年出版の単行本(ハードカバー)。今も実家の物置に保管されているはずなのですが、その物置だけは鍵が行方不明で、中のものを取り出すには鍵を壊して開けるしかありません。

ということで、図書館から借りてみました。とにかく分厚く重たく、その厚みがまた好ましかった記憶があるのですが、岩波少年「文庫」ということを差し引いても、薄い、軽い。嘘やろ――と思ったら、新版は「ムギと王さま」と「天国を出ていく」の2巻に分かれているのですね。それぞれに「本の小べや1」「本の小べや2」と副題がついています。

そう、この本の原題は"The Little Bookroom"。その原題の説明にもなっている「作者まえがき」が、私は大好きなのです。
ファージョンが子どもの頃に住んでいた家には、子どもたちが「本の小べや」と名づけた小さな部屋があったそうです。それ以外の部屋も本で占領されていて、「本を読まないでいることは、たべないでいるのとおなじくらい不自然に」思われるほどだったそうです。そうした部屋々々の本棚からあふれた本が流れつくのが「本の小べや」で、そこには選択も秩序もなく、雑多な本がところせましと積まれていて、「いろいろな種類の本でぎっしりつまっている、いくつかのせまい本棚は、壁の中ごろまでとどき、またその上には、ほとんど天井にとどくところまで、乱雑に本がつんでありました。床に山とつんであるのは、またがなければなりませんでしたし、まどによせかけてつみあげてあるのは、ちょっとさわれば、たおれおちました。おもしろそうな表紙の本をひきだせば、足もとには、まるで大波がおしよせたように本がひろがります」という状態だったとか。そして、子どもたちは日がな一日、そこで本に読みふけり、空想にふけったのです。

たとえば、屋根裏みたいに天井が低く天窓からひかりが差し込むような、秘密基地めいた小さな部屋に、こんな風に本が積まれていたら、嬉しくないですか。まあ、掃除も行き届かないでしょうから、ファージョン自身が言っているように、つねにほこりが舞っていて、のどを痛めてしまうに違いありませんが。

子どもの頃に住んでいた社宅では、せまいダイニングキッチンのダイニング部分を潰すような形で、天井まで父の蔵書が積まれていました。真ん中にあるせまい通路は、子ども一人やっと通れるほどの幅で、いつもうす暗く、奥はまるで穴蔵のよう。私はよくそこにもぐり込んでは、本の背表紙を飽かずながめたものです。そんな小さい頃の風景がファージョンの前書きとシンクロしたのかもしれません。(今は、本を処分することの大変さを身をもって知ってしまったので、自分では本に囲まれた生活はもういいやと思っていますが)。


再読すると、どれも「ああ、こんな話だったなあ」と懐かしくてたまりませんでした。何回も読み返しただけあって、少し読むと結末を言い当てられるお話がほとんどでした。
寓話や昔話、子どもの日常、神話に題材をとった話――とファージョンの語る話は多岐にわたります。『大学教授のように小説を読む方法』のフォスター先生なら、「こんな風に読み解ける」と仰るところかもしれませんが(注:決してThomas C. Foster氏に異を唱えているわけではありません。この本(私が読んでいるのは原書ですが)は小説をもう一歩踏み込んで深く読む読み方とその面白さを教えてくれます)、ここは、深読みは忘れ、童心にかえって楽しく読むのがいいかなと思います。石井桃子訳は、やわらかく暖かく、若衆だの駅夫だの、もう死語といってもよい言葉もたくさん登場しますが(初版は1959年)、それさえも古い不思議な世界に誘ってくれる合い言葉のようです。

中学生の頃は、王さまが小間使い(実はとなりの森の女王)と結婚なさったり、王女さまと木こりの青年が恋に落ちたりといった、"Happily ever after"系のお話に心惹かれましたが(そういうお年頃でした)、今は別のお話にもっと心を惹かれるのは、四十有余年という年月のなせる技でしょうか。再読して一番心に残ったのは『金魚』という掌編。むかしむかし金魚は海に住んでいたけれど、そこは金魚には広すぎると考えた海の王さまが、小さな金魚がほしいと泣いた世界(金魚鉢)と月(銀色の金魚)を金魚に与えてやるというだけの短いお話なのですけど、小さな金魚がなんだかとてもいとしくて。作者のお気に入りだったという、神話に題材をとった『パニュキス』も、初読時は別になんとも思わなかったのですが、(特に最後の大人になってからを描写した数行が)なんだかとても切なく感じられました。


というわけで、「本の小べや」が原点の女性が書いた物語に興味が湧いた、かつて少年少女だったみなさん。
図書館で見かけましたら、手に取ってみて頂ければと思います。
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2019.08.23 23:25 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |

ツイッターを意識して下書きをしていたら、連投するにしても長くなりすぎてしまいましたので、独り言的に。

「翻訳を勉強する会・番外編」について書かれた井口さんのブログ記事に、「普通に訳してから相互検討を通じて仕上げたあと、方向性を変え、たとえばかた~く訳す、柔らかく訳す、人間中心に訳す、人のにじみを極力抑えて訳すなど、何種類も訳文を仕上げてみる」という一節がありました。
http://buckeye.way-nifty.com/translator/2019/07/post-622beb.html

はじめて読んだときは、「ああ、これスタイルの違う訳文をつくる勉強になるな」と思ったのですが、何度か読み直したり自分でも考えたりするあいだに、こうした「違うタイプの訳文」をつくるとき、「なぜその方向で訳すのか、そこではどんな読者をイメージしているのか」も併せて考える必要があるんじゃないかと思えてきました。「いや、それ、考えるのあたりまえでしょ」と言われればそれまでなんですけど。

たぶん、「スタイルを変えて」という指示があると、私はきっとそのことだけを意識してしまうと思うんですよね。だいたい、言われたこと(だけ)に意識が向いてしまうヤツなので。見た目「かたく」とか「やわらかく」というのは、選択する語(句)を変えるという小手先の技術だけでも、それなりの形にはできるような気がします。でも「なぜそれをするのか」を考えながらやると、もう少し大きく変える必要のある部分がでてくるかもしれない。さまざまな訳文をつくるという練習も、そこまで考えて取り組んではじめて上達できるんじゃないかと思ったわけです。「や、それ、当然でしょ」と思われた方は、たぶん、私の2倍速、3倍速で成長していかれる方なんだろうなと思います(うらやましいです)。

そんな私ですが、数年前は、文体とか著者の意図などを、もっとふわっと考えて、ふわっと訳していたと思うんですよね。仕事以外の一般的な文章(エッセイなど)ということですが。その頃から考えれば、さまざまな視点からいろいろなことを考えられるようになった分、小さな進歩かなと思うことにします(←自分に甘い)。考えたことを結果として出すのは、本当に、とてつもなくむずかしいんですけど。
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2019.08.08 14:13 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

出席者の方への資料配付、アンケートの送付・回収・まとめ、講師へのアンケート結果送付、精算などの後処理がすべて終わりました(のハズ)。
アンケートに回答くださった皆さん、ありがとうございました。選択式の設問はともかく、自由記入形式の感想を書くのは面倒くさいし大変ですよね。
にもかかわらず、多くの方がコメントを(それも好意的な!)寄せてくださいました(嬉涙)。本当にありがとうございました。

皆さん、講義部分の内容、訳文検討でのやりとり、最後に登場した井口さんご自身の圧巻の訳文、さらには井口さんのブログ記事などから、それぞれに考えるところがあったようですが(運営としては、その点も嬉しいかぎりです)、ワタクシも「疲れた」「燃え尽きた」以外にも、いくつか思うところがありました。

● 「きちんと絵が描けている」では足りない
前回のブログ記事で、「(描けているつもりで)そもそも正しい絵が描けていなかった」と書きましたが、「正しい絵が描けた」だけでは不十分なのだということにも思い至りました。大事なのは「それをきちんと言葉で伝えられているか」ということなのですよね。自分は、分かった状態で書いていますから、訳文に多少不明瞭な点があっても、さらっと(正しく文意をとって)読めてしまう。そこがひとつの落とし穴になるなあと。「翻訳時に気をつける」以外で、どうすれば落とし穴にはまらずにすむかを試行錯誤中です。

● 本当に際だたせたい部分はどこなのか
必要な部分が際だつように不要な部分(ノイズ)を削る、というような話がありましたが、これまで勉強会で続けてきた要約は「際だたせる部分はどこか」を抽出して(自分の言葉で)まとめるという作業なのではないかと思うようになりました。ま、キモはそこではないのかもしれませんが。でも少なくとも、自分は、今後しばらくそういう意識をもって要約に取り組みたいと思っています。

● 文末表現で文を短くしようとしない
これは、井口さんが、訳文の長さに関する話の中で仰ったことと記憶しています。「同じ内容が伝わるのなら、基本的に訳文は短い方がよいが、文末はけちらず、テンスやアスペクトはきちんと表現するのがよい」というようなお話だったと思います。文末表現の変更や「の」の連続などで短くするのは楽なんですけど、それをしないとなると、同じことをごそっと別の言い方で言い換える必要もでてきます。常にそうするのがいいのかどうか、私にはまだよく分からないのですが、今は訓練と思ってやってみています。時間もかかるしなかなかうまくできないんですけど(そして変更前の方がやっぱりよかったってなることもけっこうあったりする)。自分で意識的にトライしてみて、はじめて「テトリス」が実感できたというのはあります。これも試行錯誤中。

● 小さな違和感をそのままにしない
「なんかおかしい」というのは、煎じ詰めれば、「頭の中で描いた絵がきちんと言葉にできていない」あるいは「必要部分がきちんと存在を主張するメリハリのついた訳文をつくれていない」ということなのだろうと。納期との兼ね合いでなかなかそこまで手が回らず「ま、いっか」となってしまうことも現実としてあるのですが、そうした妥協を極力減らしていきたいです。


こうしたことを意識しているからといって、自分の訳文が「のっぺり」から変わってきたとは思えないのですが、「メリハリ」を意識するあまり、「メリハリをつける」ことが目的になってしまってもそれは本末転倒なわけで、バランスをとるのはとても難しいと感じる今日この頃です。


「番外編」の内容を受け、通常勉強会では、次回(8月末)から新しい試みを取り入れることになりました。今後、どういう形で発展していくかまだちょっと分かりませんが。

今回の勉強会が、皆さんにとっても、今後の継続的な学びのきっかけになりましたら嬉しく思います。
「番外編」を開催した頃の「夏は来るのか」的な気候から一転して、昨年に負けず劣らずの酷暑となりました。
皆さまもどうぞお身体ご自愛ください。
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2019.08.04 01:06 | 勉強会 | トラックバック(-) | コメント(0) |