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2019. 11. 21  

勉強会、息も絶え絶えになって終了。

今回の「日本語学習」はテンス。1名が発表した内容を、皆で(前回同様管理人さんの力に負うところ大ではあるのですが)補足しながら白板にまとめます(白板に書くのはワタクシですが、皆さんから、「それはこっちに書いた方がいい」とか「それはいらない」とか「その表現はおかしい」とか色々愛あるツッコミをいただきます)。今回は「テンス図解」で、皆の頭の中で、絶対テンスと相対テンスの違いが明確化されたと思います。「知っているようで言葉で説明できない日本語文法」、今後も、こうしたやり方で「言葉できちんと説明できる」範囲を広げていきたい。次回の課題はアスペクトです。

翻訳課題は、前回に引き続き、E. B. Whiteのエッセイ"Once More to the Lake"。前回は冒頭2段落の翻訳でしたが、今回は最後の3段落です。
そこまで(ワタクシの理解では)割りと淡々とキャンプ地での様子(やそれらを通じての、過去と現在の対比、自分と息子の同化)が語られてきた感じだったのが、最後の2段落でThunderstormという大きな出来事が臨場感たっぷりに描写され、最終段落へとつながっていきます。いわば「大転換」とも言える段落です。

ひとつひとつの単語は決して難しいものではないし、それが文になったものも、おそらく皆(なぜそんな風に表現するのか的なことを除けば)「まったく意味が分からない」というものはなかったのではないかと思います。けれど、そのありきたりの単語がテーマにつながる深い意味を持っていたりして、翻訳しようとすると、頭を抱えてしまう――そんな文章でした。個人的な印象としては、とてもやりがいのある、けれど歯ごたえがありすぎて歯の方がボロボロになってしまった翻訳課題3段落でした。


前回から、明らかにメンバーの意識が変わったように感じています。
それは、かつては「では僕から行きますね」と常に議論を主導してきた管理人さんが黙って皆の議論に耳を傾ける時間が増え、「ここぞ」というときに割って入ることが増えたことからも明らかなように思います。

最初の頃多かった(もちろんワタクシも含めてですが)「XXさんのこの表現すごい」「YYさんのこの言い方は思いつかなかった」的な賛辞が、この頃では「こういう背景から考えて、この言葉の選び方はなかなかいいと思う」「こういう視点から見ていることを考えると、この言葉は、その視点のAという部分はよく表現されているけれどBという部分が表現されていないように思える」という賛辞(や意見)に形を変えつつあります。まだまだ未熟ではありますが、全員が、テーマと言葉使い(や表現)との関連を考えるようにもなりました。

この変化はいったいどこからきたのだろう、と考えてみたとき、ひとつのきっかけとなったのは、やはり管理人さんの言葉ではなかったかと思います。

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今回は、提出訳文配布時に、管理人さんから「メンバーの訳と自分の訳を比較するのではなく、他のメンバーの訳を読んで気になったところ、どう考えて訳したのか、訳語の選び方など、知りたいところや聞いてみたいところをチェックするようにしてください。間違いを探したり訳を評価したりする会ではありません」というコメントがありました。(「第15回勉強会―『たずね方』が大切(、と思う)」より)
***

けれど、そのときには、メンバーにそれができるだけの力がついていた、だから、管理人さんの言葉に呼応するように深い議論に入っていくことができたのではないか、そんな風に考えます。「力がついた」理由は、人によって少しずつ違うだろうし、ひとつのことがきっかけだった訳でもないと思います。それぞれの日々の仕事、勉強、読書、公開勉強会、番外編、管理人さんの言葉の数々――そうしたものをもとに醸成されてきたものが、ある形をとろうとしている、今はそういう時期なのではないかと感じます。課題も「転換部」だったように、ワタクシたちも今、半受動的参加者から積極的な参加者への転換点にいるのかもしれません。
そうは言っても、ワタクシたち秘書の読み方はまだまだ未熟です。これからも、きちんと絵を描き適切な言葉で表現する努力を続けていきたいと思います。


ワタクシたちが取り上げる課題は、かなり文芸翻訳寄りです。
課題への取組みや勉強会自体は楽しいけれど、正直、こうした課題に立ち向かうことが仕事にどう役立つのだろうと考えた時期もありました。けれど、「きちんとイメージして言葉を選ぶ」というのは、すべての翻訳の基本だと思います。課題への取組みを通じて、それがどういうことかが自分の中で明確化されたような気がします。そういう頭の使い方は、実務翻訳において「読者が絶対に誤読しない訳文をつくる」ことにつながっているのだということが、今なら実感できます。


勉強会の最後に、管理人さんから、(管理人さんの考える)翻訳者の心得的な言葉が紹介されました。
それは、「翻訳者には、作者で、読者で、研究者で、そして翻訳者であることが求められる」というもの(この言葉どおりではありませんが)。
作者がなぜそんな風に書いたのかを作者の立場で考え、読者として作品を読み、研究者として作品やその背景を調べ解釈し、翻訳者としての立場を忘れないようにしながら訳す――とそんな風な意味だったと思います(白板に書き付けていたので、聞き漏らした部分があるかもしれません。解釈の責はSayoに帰します)。

来年のI-JETでは、そんな話もしてくださるとか(あくまで予定です)。
なま管理人さんをご覧になりたい方は、楽しみにお待ちください(魔王とか無茶苦茶言ってますが、とても優しい方ですよ)。
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2019. 11. 20  

といっても、書籍の記述からの連想なので、実用的な記事ではありません、念のため。
(でもって、綺麗に着地できないまま終わっています、念には念のため)


最近、「日本人なら必ず誤訳する英文」(越前敏弥)に挑戦して、毎日ズタボロにされ、凹んでおります。
(購入したとき少し読んだきりそのままにしていたものです)

この本には、ところどころに「ちょっとひと息」というコラムがあります。越前さんがインタビュアーの質問に答える形になっています。その中に「資格試験というものは満点に近い点数をとれる実力をつけてから受けるべきですね。ギリギリで受かるぐらいなら、むしろ受からない方がいい」という一節がありました。英検についての話の中で出てきた言葉ですが、あとの方で、ご自分の大学受験にも触れ(2浪して東大に入学されています)、1浪目はおそらくギリギリのところで落ちたが、2浪目はかなり高いレベルで合格したはずだとも仰っています(1浪時は「わかった気になって実はよくわかっていなかった」伊藤和夫先生の授業の内容が、2浪することで「深く完全に理解できるように」なったと)。

このコラムを読んで、十分な実力をつけてから受けるべきという部分は、トライアルにも当てはまるんじゃないかと思いました。
(実力というのは曖昧な言葉で、実力の程度の自己評価は人によって違うとは思うのですが)
学校の試験でいえば、赤点ギリギリの点数をとっているような状態では、早すぎるんじゃないかと思うのです。

トライアルに関しては、「勉強ばかりしていないで、早くトライアルを受け、仕事をする中で学んでいくのがよい」といったアドバイスをよく見かけます。
このアドバイスには、納得できる点もあります。仕事と勉強では必死度が違いますし(少なくとも私は「だらだら度」は全然違います)、長時間集中すること、ミスをしないこと、効率を上げることなど、仕事をしなければその大切さを実感しにくいことも多く、さまざまな案件を受けることで知識の幅も広がります。
実際、私も、仕事を始めてから(おもに参考資料という形で)たくさんの業界用語・表現を身につけましたし、案件をこなす中で(付け焼き刃的なものも多いとはいえ)さまざまな知識を身につけました。それは、勉強ばかりしていては、なかなか身につかなかったものだと思います。

というものの、それらは、そうしたものを適切に訳文に反映できるだけの基礎力があったからこそ身についたものだとも思うのです。
英語読解力・日本語表現力・専門知識(の基本)・きちんとした調べ方と辞書の読み方――最低限こうしたことが身についた状態でトライアルを受けなければ、すぐに仕事がとれるレベルの評価は得られないのではないかと思います(英検のでんでいけば圧倒的実力がついてから、ということになるのでしょうが、それはやはり現実的ではないのではないかと)。
少なくとも、これからは、単価交渉で心理的に劣勢に立たず、自分を安売りしないだけの力がついたと思えてからトライアルに臨んだ方がよいのではないかという気がします。本当は翻訳がやりたいのに、PEに誘導されることがないようにするためにも。

力がついたかどうかを図るひとつの目安は、雑誌の誌上トライアルやアXXXの定例トライアルかなと思います。時間と資金が許せば、短期講座を受けて感触を掴む…という方法もありかもしれません。

ただ、そうやって勉強を続けた場合、「勉強することが目的になる」という落とし穴があるのですよね(←落ちたことがあるヒト)。ズルズル勉強ばかり続けないように、1年なり2年なり期限を切って勉強することも必要かと。越前さんは「性格的にコツコツ地道にやるタイプではないらしく、やるときとやらないときの差がかなり激しい」と書いていらっしゃいますが、「やるとき」にされたことを読むと、常人にはなかなか真似のできない量/質の勉強をされています。

期限を決めて(可能であれば)高負荷の勉強を、ということになると、そのあいだ、仕事との両立をどうするかということも考えないわけにはいきません。
(結婚してからのほとんどの期間を、旦那の安定したサラリーマン収入の下で、明日の生活の心配をすることなく生きてきた私に、偉そうなことは言えないのですが…)
今仕事に就いている方は、可能であれば仕事を続けた方がいいと思います。さまざまな理由で辞める方を選ぶ場合は、勉強期間+1年程度は無収入で暮らしていけるだけの資金を貯めてから辞める方がいいのではと思います(←私は後者のタイプでした>>翻訳を志したときはまだ未婚だった>>結局「辞めよう」から「辞める」まで2年掛かりました)。

トントン拍子に仕事を得ていく方もいらっしゃいますが(でも、そういう方の多くは、たいてい見えないところでとんでもない努力をされていると思います)、コンスタントに仕事をとれるようになるまでは、それなりの時間が掛かるのが普通。好き、面白そうという気持ちがあり、長い期間続けたいと思える仕事なら、長期計画で進めた方が、結局は長く続けられるのではないかと思います。

この頃、目を疑うような単価を目にすることが多くなりました。
楽して短期間で翻訳者になろうといった講座についての話も耳に入ってきます。

翻訳は決して楽な仕事でもオイシイ仕事でもありません――そもそも翻訳に限らず、オイシイ楽な、それでいてきちんとした仕事など、本当に存在するのでしょうか。
これから仕事を、と考えておられる方は、雑誌を読む、(ツイッター→ブログ→書籍などの順に)さまざまな立場の方の意見を読むなどして現状を知り、十分な力をつけてからトライアルに挑戦していただけたらと思います。結局はそれが、仕事を始めてからも搾取されず、知らないあいだに波にのまれることもなく、自分の進みたい方向に進むための早道ではないかと思うのです。
そして、一度コンスタントに仕事がくるようになっても、その状態がいつまでも続くとはかぎらない。勉強(というのは、原文読解力を高め、日本語文章力を磨き、必要な専門知識を学び、対応する分野の今後の動向を注視する…などになるでしょうか)を続けなければ置いていかれてしまう、厳しいけれどやりがいのある仕事だと思っています。

着地点が見えないので(?)このへんで失礼します。
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2019. 11. 11  

少し前、YasukoHoshinoさんが、先月終了した翻訳祭の感想をブログ記事にされました。

「第29回 JTF翻訳祭2019【後編】~”翻訳の日”キャンペーンに思うこと/ 職業翻訳者としての誇り~」

職業翻訳者に誇りをもとうと呼びかける素晴らしい内容でした。
まずは、その一部を抜粋します。

「翻訳は、文芸翻訳だけではありません。同業者なら当たり前に思われるでしょうが、一般の人にとっては文学以外の実務翻訳の世界があまりよく知られていない面もあります。また、当の実務翻訳者自身にも、自分の仕事の価値を宣伝しきれていない面があるのではないかと感じました」

「実務翻訳によって日本の国家や社会、文化が有形無形に形作られてきた長い歴史があるという事実がもっと広く知られてほしいし、できれば翻訳者にとっての常識となってほしい。実務翻訳が今の日本を作り、支えてきたことを踏まえれば、翻訳者は今以上に誇りをもって翻訳という仕事に取り組めるようになるのではないかと感じます」

「(翻訳祭のセッションのひとつ『質を守る翻訳者の工夫~原稿受領の時点から』の)資料に出てきた『リスペクトされる仕事 プライドをもてる仕事』というフレーズが印象に残りました」


これらの力強い言葉の数々を読みながら、けれど私は、「実務翻訳者ということに私は誇りを持てるだろうか」と自問自答していました。

(注記)
*以下でいう「実務翻訳」は、あくまでも日々自分が仕事で接する翻訳業務で、世間(主に業界)で用いられる「実務翻訳」をすべて包含するものではありません。
私が主に対応している翻訳は、分野は医療機器(もう少し範囲をせばめるなら、循環器系の体内植込み機器や手術用具)、文書は報告書や試験実施計画書が多く、これらは、主にPMDAに提出される申請書類の一部となります。それ以外に、論文・照会事項・社員教育資料・パンフレットなども扱いますが、報告書と計画書が半分以上を占めています。定型表現が頻出するものもあり、改訂版や同種製品の報告書の場合は、差分翻訳を求められることも増えました。



「誇りを持てない」というのが、正直な気持ちでした。少なくとも、ブログ記事を読んでしばらくのあいだは、ということですが。

心のどこかに、「文芸翻訳の方が格上ではないか」という気持ちがありました。

(注記)
* どこまでを文芸に含めるのかという問題もあるかと思いますが、ここでは、「日々の実務に使用される文書」の対極にあるものを連想しています。文芸に含めてよいのかどうか迷うところであるノンフィクションなども含めて考えています。その意味では「出版翻訳」や「書籍翻訳」という言葉を使った方が近いと言えるかもしれませんが、便宜上「文芸」という言葉で統一しています。


そして、確かに、普段の報告書系の仕事より、もっと自由度の高い案件や課題の翻訳の方が、格段に難しい。難しい、という言い方は語弊があるかもしれません。報告書でも、正しい動作やグラフの読み方を求めて、ネットや参考書を何時間も、ときには日をまたいで調べることだってあります。ただ、実際の訳文作りにかける時間は、課題エッセイなどの方がはるかに長い。

また、文芸翻訳は(共訳や翻訳協力という形になることはあるにしても)、全体を俯瞰しながら、一人でまとまった量を訳すことができる。もちろん、報告書などでも、ある程度時間をかけて1件まるまる1本の文書を訳すこともありますが、「納期が短いので数人で分担」「納期と予算の関係で最低限の差分翻訳」ということが増えました。
「これに合わせてほしい」と同時に参考文書を渡されることが多いのも報告書の特徴のように思いますが、文書によっては表記や用語の統一が取れていないものもあります。さすがに修正すべきと思う箇所にコメントを入れながら「(おおむね多忙が理由かと思いますが)どうせきちんと読まれないのだろう」と空しくなることもあります。
けれども、そういう仕事は、それなりに繰り返しの多い、あまり頭を使わずに既訳をベースに訳文をつくれる「美味しい」仕事だったりもするのです。心の中でため息をつきながらも、お金がほしくて、ついつい受けてしまう。いくら早めに仕上げて納期の残りの時間を勉強や別のもう少しやり甲斐の感じられる仕事に当てようとも、自分の中でもやもやする気持ちがなくなることはありません。


自分が弱い、と言ってしまえばそれまでなのでしょう。
意に沿わない仕事が多いのであれば、もっと積極的に、そうでない仕事を与えてくれる翻訳会社(クライアント)を探せばいい。そのためには実力をつけよと人から言われ、自分でも自分をそう鼓舞しているけれど、実際は、理想と現実のはざまで揺れる日々なのです。
実務翻訳が、今の日本をつくった。そして、今もあらゆる活動の基礎になっている――確かにそう、なのでしょう。でも、「だから重要なのだ」という言葉は今は心に空しい。

そんな自分は、いったい何に誇りをもてばいいのだろう。


そんな風に悶々としていたとき、私はある文章に出会いました。
それは、『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル)の中の一節でした。

(蛇足)
* この書籍は、タイトルどおり、キャンベル氏による井上陽水の歌詞の英訳を対訳形式で収めたものですが、前半部分には、氏の英訳時の姿勢や、歌詞の解釈、英語の表現を求めての呻吟、陽水氏との対談なども収められていて、大変興味深い。この本については、いつか改めてブログ記事にしたいと思っています。



「白なのか黒なのか、ではなく、白でもあり黒でもあるのではないか。はては、白でもなく黒でもないのではないか。そういう、ある種測れない形のぼんやりしたものが文学的なのではと思うのです」
「(日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、『雪国』英訳時に川端康成に『多くの部分が曖昧でとても困っている』というような質問を投げかけたときの川端の答えとして『余白と言おうか、余情とでも言おうか、曖昧だからこそ、逆に表情を豊かに受け止める力が生まれる。その可能性を私は信じたいのです』」


訳文に余白を持ち込む、と言っても、翻訳者は、自分の頭の中にきちんとひとつの解釈をもって(=確固たる絵を描いて)いなければなりません。その上で、原文が曖昧さを残した文章であれば、どこか読者に解釈を委ねる余地を残した訳文をつくるのが文芸翻訳だということができるのかもしれません(もちろん、曖昧さを排さなければならない場面もあるには違いないのですが)。

それなら、実務翻訳は「余白を徹底的に潰す」翻訳と言ってもいいのかもしれない。少なくとも自分が扱うような文書においては。
私は、そのとき、ふとそんな風に感じたのです。「そこに書かれている解釈が唯一の正しい解釈である」訳文をつくる――これは、あたりまえと言えばあたりまえのことですが、実はとても難しいことではないかと思います。日々「余白のない訳文をつくる」という意識をもって翻訳に向かうことが、実務翻訳者として自分がすべきことであり、常にそういう訳文がつくれる翻訳者であるということが、実務翻訳者の誇りだと言えるのではないか。


結局は、ただの心の持ちようでしかないのかもしれません。
けれど、「重要な仕事を担っている」という少し抽象的な理想より、「余白を排除する」という考え方は私の心に響いたのです。
そして、余白について考えたとき、自分の中の悶々とした気持ちが確かに少し楽になったのでした。

この考え方(翻訳に対する姿勢)は、これまで培ってきたもの、やってきたことから外れるものではないと思っています。
ただ、「余白」という言葉が最適のものなのかどうかについては、正直まだ少し迷うところがあります。もしかしたら、自分の考えをきちんと伝えきれていないかもしれない。

それでも、(少し大げさな物言いをするなら)「実務翻訳者であることに誇りをもつ」心の拠り所が得られたということを文章にしたく、現時点の認識で記事にしました(あくまで自分の拠り所ということです――ただ、こういうことは、自分の心が納得するということも大事かなと思っています)。
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2019. 11. 02  

…という言葉が適切かどうか分からないのですが、他に「これ」という言葉を思いつかないので…

しばらく前に、こんな↓↓↓ツイートをしました。

今日は、「どんな風に英訳できるだろう」ではなく「どういう英文だったらこの日本語にできるだろう」と考えながら新聞記事を読んでみた。なんかちょっと違う視点から見れたような。

(いちおー日英翻訳もやっていた時期もあるので――今はもう「商品」になる英文はつくれないと思いますが――たまに英訳を考えてみることはあります)

これ、その後も時々やっています。なかなか面白く、そして難しい。

たとえば、10月30日の朝日新聞朝刊の多事奏論。編集委員の駒野剛さんが、冒頭に次のように書かれています。

「長崎市の繁華街、新地中華街近く、企業のビルが立ち並ぶ中に木造の洋館が立っている。(中略)…幕府に渡された。欧米やアジアの情勢を知る重要な手段だった。(中略)「出島にいて何で世界が分かるのか」。不思議に思う少年がいた」

この中で、フと気になった部分について、「どんな英語だったら、この日本語を使ってもおかしくないだろう」と考えてみるのです。

たとえば、「立ち並ぶ中に」。「背の高いビルが林立する間に(それだけ異質な)古い木造の洋館がある」というイメージです。試みにうんのさんで「林立」を引いてみると、elbow each otherという表現が見つかりました。なるほど。でも、ここでは、背の高いビル群が押し合いへし合いするという表現では、洋館から注意がそちらに逸れてしまうような気がします。では、「A sits (or sat) among 背の高いビル」という英語表現の中で、「背の高い」を少しばかり強調するような言葉が使われていたとしたらどうだろう。注目させたいものがAだとしたら、この新聞の表現のような日本語になるんじゃないか。

あるいは、どんな英文だったら、「不思議に思う少年がいた」と訳したくなるだろう。ここには、「他の誰も不思議には思わないのに」という言外の意味が込められているような気がする。(just) one boy? One boy ...で始まる英語表現、実際に遭遇したら条件反射的に「一人の少年が」としてしまいたくなるけれど、こんな風に「…がいた」とするのもありかもしれない。とにかく、ここは「不思議に思う少年がいた」を強調したい箇所。「がっつり強調したい」的な英語表現に遭遇したら、こんな風に日本語にできる場合があるということは、覚えておいていいかもしれない。

…という具合です。
(上の私の具体例の発想に対して「それはおかしいやろ」という意見もあるかもしれないのですが、ここは、「日本文を読んでこんな風に考えを発展させていきます」という「考え方」の例として読んでいただけるとありがたいです)。


目の前の文をきちんと英訳するわけではなく、自分の頭の中も、英訳モードにはなっていないように感じます。
上手く説明できないのですが(という表現は2019年「屋根裏通信」禁忌表現に指定されているのですが、どうしても明解に説明できないので、禁を破ってこの言葉を使います)、あえて言うなら、和訳作業の助走状態での「頭の中で行ったり来たり」の延長上にあるような感じです。「1回『英語から日本語を考える』枠組みの外に出て、振り返り、同じところに戻れるかどうか見てみる」みたいな。翻訳が上手な方は、無意識のうちに頭の中でこの作業をやられているのではないかと思います。私はまだまだ、その域まで達することはできません。なので、こうやって意識的にやってみることで、「外に出る」距離がもう少し伸ばせるのではないかと。行きすぎないように注意しなければなりませんが。

ということで、もうしばらくこの作業を続けてみようかなと思います。
結構考えるときもあるので、時間と気持ちに余裕があるときしかできませんが。
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2019. 11. 01  

最近、新聞で「無知がおそれを生む」という言葉を見かけました。
それは、病気(難病)に対して使われていた言葉だったと思うのですが、それ以外の多くのものに対して言えることだと思いました。今話題になっている機械翻訳(MT)に対しても。

これもわりと最近、こちらはTwitterだったと思いますが、MTの出力について「95%の精度」という言葉を見かけました。学生時代95点などという点数はなかなか取れなかった私などは、この数字を見ただけでドキッとしてしまいます。

でも、何をもって「精度」「100%」と言っているのか、「95%」とはどんなレベルをいうのか、ということは、もう少しMTについて学んでみなければ分からないはずだし、そうやって学んでからでなければ、「精度95%のMT」を本当にその特定の現場に持ち込んでいいのかどうか、持ち込んでよいとした場合、現場できちんと運用するためにどんなことに気をつけなければならないか、は正しく判断できないんじゃないかと思います。
だから、多くの方が言っておられるように、翻訳者も、使う使わないは別として、適切な判断が下せるよう、MTの基本的な仕組みや強み・弱み、出力結果について、ある程度きちんと知っておく必要があると思っています(その割に勉強できていないことには、今日は突っ込まないでいただけるとありがたく)。

もうひとつ多くの方が(私もですけど)おそれているのは、今後、クライアントや翻訳会社のあいだで、(数字だけをもとに)「MT主体」の方向への動きが加速するのではないか、ということではないかと思います。(確かに、訳文出力が人力と比べものにならないほど早いというのは事実だと。翻訳祭でお話した翻訳会社の方も、「文書によっては『最初の入力の手間が省ける』のが大きな強み」と仰っていて、この話にはナルホドと思う部分がありました)
確かにそんな流れを感じますが、第2セッションに登壇された翻訳会社の方や、私が個人的にお話した翻訳会社の方は、MTを使用しながらも、できること・できないことを冷静にきちんと見極めようとしておられ、使用拡大には懐疑的でいらっしゃるように見受けられました。PEはやらないと決めた場合は、そうした会社を探していくことになりますが、よく探せば意外にあるのではないかと感じました。

そうやって、「相手を知る」と同時に、自分をよく知っておくことも大事だと思います。
何度も書いていますが、私は、よくも悪くも周りの影響を受けやすい人間です。しばらく前、医薬翻訳分野にCATツールの波(のようなもの)が来たときは、「皆がその方向にいくから」という理由だけで導入しようと考えたこともありました。そういう主体性のなさってとても危険ですよね。それに「影響を受けやすい」が加わったら、もう「逆鬼に金棒」なわけで。ツールは便利だとは思いますが、この性格から考えて使用に走るのは(自分&自分の頭の中の翻訳作業&自分の訳文生成には)危険だと考えて、距離を置いています。私の場合、その延長上にMT-PEがあるという感じです。

今も、流されやすい本質は変わりませんが、立ち止まって「自分は何をしたいのか」を考えるようになりました。

そのように、「相手を知り、自分を知る」ことで、(たとえおそれるとしても)闇雲におそれることもなく、前向きな判断ができるのではないかと。考えてばかりもだめだけれど「自分できちんと考える」ことは必要。そのためには、相手を知り、自分を知ることが欠かせない。そう、自分にもう一度言い聞かせるべく、記事にしました。
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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