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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル、講談社 2019年)

 
 タイトルどおり、歌詞の対訳集なのだけれど、陽水さんとの対談を含む訳詞の過程も書かれているということで、興味を持った。
 (私は陽水さんの曲は有名なヒット曲くらいしか知らない)

 本題に入る前の「はじめに」に、キャンベルさんがどんな英訳を目指したかが書かれている(ちなみに「はじめに」には「井上陽水はうなぎだ」という副題がついているのだけれど、ここではスルーするので、「うなぎ?」と興味を持たれた方は、購入するなり書店で立ち読みするなり図書館で借りるなりしていただければと思う)。

***(引用ここから)***

 難しいと思うのはまずそのまま「歌える英訳」を目指すのか、目指すなら言葉のひとつひとつが楽譜どおりに拍子(ルビ:リズム)に乗り、英語歌詞として破綻がないことを担保しなければならないけれど、そのためには、大切なことを切り捨てなければならないのです。
 一度素人なりに「氷の世界」を「歌える英語歌詞」として訳し音に乗せてみましたが、日本語に打ち込まれたもともとの陰影がことごとく網の目から抜け落ちてゆくばかりでした。そこで、なんとか歌詞のエッセンスを一滴もこぼさず読者に届けたいと考え、歌うのではなくまず読むための英訳=「読詞」を仕立てることにしました。

***(引用ここまで、P11)***

 私は(「著者の言っている(言いたい)ことを正確に読者に伝える」を基本として)、まず誰が何のために読むかを考え、文体や言葉遣いその他細かなスタンスなどをそれに合わせていく(仕事柄ということもあるかもしれない)。キャンベルさんの、原作を尊重しつつ、それを「自分はどんな風に届けたいのか」を考えるというアプローチは、最初に読んだとき「おお、自由だな」(読者どこいった?)と感じた。けれど、よく考えてみれば、歌詞という特殊性の強い原文の翻訳では、最初に「どういう形で読者に届けるか」ということをキチンと決めなければ先に進めない。キャンベルさんは、原作のもつ微妙なニュアンスを余すところなく伝えたい(そのために歌えない訳詞となってもしょうがない)、というスタンスをとられた。そして「(英語で歌えないということで、陽水ファンからは叱られるかもしれないが)ここではまず『読む詞』として味わっていただきたい」と読者に断っている。決して読者の存在を忘れているわけではない。そういう「翻訳する態度」を好ましく感じた。

 本書は3章構成になっている。
 第1章では、キャンベルさんがなぜ英訳を思い立ったかが語られ、第2章では、実際の訳詞の過程が語られる(二つの章のところどころに、陽水さんとの対談が散りばめられている)。そして第3章は実際の対訳集だ。

 第1章で、一番心に残ったのは、余白という言葉だった。
 当時私は、仕事のことで悶々とした日を送っていたので、よけいその部分に「感応」したのかもしれない。SNSへの言及に始まり、「文学」の役割について考察し、ドナルド・キーン氏による『雪国』(川端康成)の英訳へと続く文章を読んで感じたことを、そのとき私は「余白」という記事にした。

 自分の頭の中に確固たる(原文の)絵を描いた上で(←ここはすべての翻訳の出発点かと)、「余白を徹底的に潰す」のが実務翻訳なら、(原文の曖昧さに応じて)読者に解釈を委ねる余地を残す、つまり余白を感じさせる訳文をつくるのが文芸翻訳だといえるのではないかと、私は考えた(ちなみに、そのどちらとも少し違うように思えるノンフィクション翻訳では、大切にすべきは事実と著者の主張ではないかと思う。そこをしっかり踏まえた上で、まず訳文に余白を反映させるべき文章なのかどうかを判断し、その上でどこまで反映させるかを考えるということになるのではないか……と思ってみたりするのだが、まだ上手く考えをまとめきれていない)。
 キャンベルさんは、陽水さんの歌詞について、「聴き手に対するさりげない気遣いというか絶妙な距離感に深くうなずくしかありませんでした。この距離感こそが、日本文学でたびたび感じる『余白』だと思ったのです」(P51)と感想を述べている。そして、その「余白」を英詞でも表現しようと悪戦苦闘する。

 だからだろう、第2章のタイトルは「余白にきをつけろ」だ。
 第2章では、キャンベルさんは、個々の例を挙げながら、歌詞に、ときには陽水さんの視点にも、深い考察を加えていく。冒頭、「初めて聴く歌詞をすべて理解しなくてもさわりから大ざっぱにつかんでおけば、感情移入は十分にできます。逆に、全部わかったつもりの歌詞を一度音楽から突き放して読んでみると、いい詞ほど、意味不明な部分が現れます」と書いている。この「大ざっぱに掴んでわかったつもりになる」は、私も普段の仕事でやりがちだ。ざっと読んで大意を掴んだ「つもり」で訳し進めると、どうもきちんとつながらない箇所が出てくることがある。そんなときは、思い込みによる解釈間違いであることが多い。翻訳では「思い込み」を取っ払って読むことが大事だというのは、どんな翻訳でも同じだ。
 
 この第2章は、興味を引かれた箇所を挙げるとキリがないので(付箋だらけになっております)、二点だけ挙げておく。
 一つは、日本語詞中に現れる英語の処理。「なぜ英語を使ったのか」に関する考察も含めて、ナルホドという解釈をなさっている。
 もう一つは、「音」に関する考察――音合わせ的な言葉遣いを英語に置きかえるとき、どこまで配慮できるか――だ(昔Puffyが歌ってヒットした「アジアの純真」は、ナンセンスな言葉遊びの最たるものではないかと思う)。英語の頭韻や脚韻、単語の音合わせを日本語にどう反映するかはときどき考えることだが、逆方向については正直考えたことがなかったので、新鮮な気持ちで面白く読んだ。
 最後の部分で、キャンベルさんは、「英語で読む陽水さんの詞には、日本語だけで聴き、あるいは読む場合に思い浮かべる景色と異なるものがあります。総じて翻訳とはそういうもので、言語を前提にした文化の境を越えようとする時点で置いていかなければならない荷物と、理解を得るために肩の上に積まなければならない荷物とがあって、そのやり取りの過程で大切な旅人=原文が無事に向こう側へ渡れるかどうかが決まります」(P175)と書いている。渡し方はさまざまあれど、「必ず持って渡らなければならない荷物」というのもあるわけで、本書の訳詞においては(無意識か意識的かを問わず)陽水さんが歌詞に乗せて伝えようとしているものと、その結果原詞からかもしだされる微妙な空気(のようなもの)がそれではないかと思う。少なくとも、キャンベルさんは、それを大事にして翻訳に挑戦されたのだと、私は思っている。

 「翻訳は本業ではない」と仰るキャンベルさん。その翻訳との向き合い方に、翻訳者の私もさまざまに考えさせられるところがあった。

 そして今、私は、毎日少しずつ第3章の対訳を音読している。そして思うのは「陽水さんは、自分の主張をもった『詩人』だなあ」ということ。あらためて、日本語の音の面白さに、言葉選びの妙に「おおっ」と思ってしまう。それが、こういう英語になるのかという面白さもある。それらを読んでいくのは、中身のわからないおもちゃ箱の中から、ひとつひとつおもちゃを取り出すような、そんな感じだ。
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2019.12.14 00:38 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |