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2020. 07. 26  

 COVID-19の流行が拡大し始めた3月以降、セミナーや勉強会は、ほぼすべてオンライン(主にZoom)で開催されるようになった。収束の兆しがまったく見えないことを考えると、この傾向はまだしばらく続きそうだ。

 私もいくつかのセミナーに参加した。どれも、アンケートやチャットでの質問を以外、聴講する側からのインプットのない一方向のセミナーだった。
 あくまで自分の体験の範囲内だけれど、講師の皆さんの喋り方は、若干不自然なものだったような気がする。
 でも、これは当然のことかなという気もする。オンラインでは、聴衆の反応(自分の話がウケているのかスベっているのか、聴衆を掴んでいるのか飽きさせているのか、誰かを置いてきぼりにしてはいないかといったこと)が分からない。だから、どうしても、抑揚の乏しい平坦な話し方か、逆に身振り手振りの大きい派手な話し方になってしまい、私はそれを(それまでの対面式のセミナーと比べて)少し不自然と感じたのだと思う。聴衆との「空気」のキャッチボール(場の雰囲気と言い換えてもいいかも)がない状態で、適切に「間」をつくり、話に緩急をつけ、聞き手と足並みを揃えて進むのはとても難しい。
 とはいえ、そういう状況に慣れていかないといけないのが現実だ。今は届ける側も受け取る側も(聞き手である私たちにも「よいセミナー」づくりに参加する責任はあると思う)、「最善の方法」を試行錯誤している時期ではないかと思う。

 セミナーを通してもうひとつ感じたのは、(オンラインのやりとりで)正しく理解することの難しさだ。場の雰囲気やちょっとした仕草、間(周りの状況を確認し頭を整理することができる)など、対面であれば理解を助けてくれるものが欠落している状態では、どうしても、小さなあらゆるcueに敏感にならざるを得ない(私がオンラインセミナーでげっそり疲れる理由のひとつはこれだと思う)。伝える方も、対面の場合より、伝え方や伝える順番、使う言葉などに注意を払うようになるだろう。これは、セミナーだけではなく、あらゆるオンラインコミュニケーションに言えることではないかと思う。

 オンラインでは、対面の場合より、ひとつひとつの言葉が大事になってくる。対面よりも言葉に依拠する割合が大きいからだ。少なくとも私はそう思う。私がそう考えるくらいだから、言葉の重要性に気づく(そこまでいかなくとも、対面と同じ要領でやりとりしていて「どうも上手く伝わらない、誤解が多いがなぜだろう」と感じる)人はそこそこいるだろう。そういう「気づき始めた人たち」に、上手くいかない理由や言葉を大切にすることの重要性を説明すると、理解が得られやすいのではないか。もしかしたら、今のこの状況は、「正しく理解する/してもらうためには言葉が大切だ」ということを伝えるチャンスなのかもしれない。

 文書では言葉はもっと大切だ――というか、言葉がすべてだ。正しく伝えるためには、適切な言葉を適切な語順で紡いでいかなければならない。それは、私たち翻訳者が今までもやってきたことだけれど、これまでは、その大切さがなかなか理解してもらえない、ということが多かった。だが、今なら、そのことが実感として理解できる顧客もそれなりにいるのではないか(期待もこめて…)。
 翻訳会社には、顧客の「安く早く」という要望に応えるだけではなく、文字のみで正しく伝えることの重要性と難しさ、そしてそれを実現するためには「それなりの値段で翻訳を発注する必要がある(その方が結局きちんとしたものができる可能性が高い)」ということを、この機会に是非顧客に伝えていって頂きたいと思う。そして、私たち翻訳者は、有無を言わせぬものをつくり出すだめに、普段から翻訳する力をつけておく必要がある。

 今このとき、「正しく伝える」ことの大切さを、言葉で伝え、態度で伝え、訳文で伝えていくその先に、翻訳の未来があるのではないか。コロナ禍でさまざまな活動が制限され仕事も減る中で、私は長いことかなり悲観的だったけれど、(仕事量が100%戻ってきたとは言えないものの)セミナーからコミュニケーションへ、そして「伝えることの大切さ」へと(若干強引に)考えを広げていく中で、この厳しい状況は、自分たち次第でチャンスにもなるかもしれないと思い始めている。
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2020. 07. 17  

 この本を読んでいた4月、5月はちょうど、緊急事態宣言が出されて「これからどうなるのだろう」と不安で一杯の時期だった。特に下巻の内容や描写にはその頃の世の中の様子と被るような部分もあり、「タイムリーな」と思いながら読んだ(*個人的な感想です)。

(そして読書感想文を書くのをズルズルと先延ばしにしているあいだに、流行が再燃し、再び不安な日々を送るようになってしまったという…)

 舞台は、四国は讃岐の国の丸海藩という架空の小藩。時代は第11代将軍の頃というから、18世紀末から19世紀初頭の頃か。そこに、乱心して妻子や部下を惨殺したという加賀殿が流されてくることになる。この加賀殿の扱いをめぐって、藩のお偉方らの思惑が交錯する。そこにどうやら家老の家の跡目争いも絡んでいるようだ。加賀殿が藩入りされる前から、丸海では事故や食中毒が相次ぎ、下々の民はそれを「加賀殿の祟り」と恐れている。
 物語の主人公は、一人は、はるばる江戸からやってきて丸海に置き去りにされた少女ほう9歳。「ほうは阿呆のほう」と周りから言われ、自分でもそう信じ込んでいる。ほうの奉公先の匙(医家)の娘、何くれとなくほうの面倒を見てくれていた琴江様が毒殺されるところから、物語が動き出す。ほうの運命の歯車も。もう一人の主人公は、引手(岡っ引き)見習いの少女宇佐17歳。時には周りの人々のものの見方に引きずられもするが、曇りのない目で真実をみようと努力する(そして、常に曇りのない目でものごとをあるがままに見ていたのがほうなのではないかと思う)。
 雷害や火災など大きな災厄が藩を襲い、その災厄で、あるいは藩政に関わる者たちの思惑の犠牲となって、たくさんの登場人物が死んでいく。お偉方は、それを加賀殿という鬼のせいにしたがり、実際丸海の民はそれを信じるのだが、この物語には、実際の物の怪は登場しない。すべての死は、人の手や自然がもたらしたものだ。それが「荒神」など宮部さんの他の時代物と大きく違う点かなと思う。本作では、物の怪は人の心の中にしか棲んでいないのだ。
 ほうは、加賀殿が蟄居する涸滝の屋敷で下働きとして働くことになる。藩の思惑に疑いを抱かせないためには、がんぜない子ども「阿呆のほう」は都合がよかったのだろう。ほうとひとときを共に暮らした宇佐は、彼女が奉公に上がってからも、何かとこの少女のことを気にかける。そうする中で少しずつ真実に近づいていく。一方、ほうはひょんなことから加賀殿から読み書きを習うようになる。無垢で「阿呆」なりに正しいことをしようと努力するほうの中に、加賀殿は大切なものを見られたのではないか。最後にほうの奉公を解くことで彼女の命を救い、その名前に「宝」という漢字を下さるのだ。
 夏の終わりの大雷害が、こっそり避雷針が立てられていた涸滝の屋敷を襲い、(自分の運命を予感されていたに違いない)加賀殿は落命し屋敷は焼け落ちる。同じ雷害はたくさんの人々の命を奪った。子どもを救おうとして大木の下敷きになった宇佐もその一人だ。加賀殿の命に従い唐滝から逃げてきたほうに看取られて亡くなった。
 今や、加賀殿は(藩のお偉方の思惑通り)長年丸海藩を苦しめてきた雷獣と刺し違えて果て、領民を救った守護神となった。ただ、企みに荷担した者たちの心情も複雑であったようだ。荷担者の一人、匙の井上舷州(ほうの元の奉公先)は息子に「満足なさいましたか」と問われ、「おまえがこの家の当主となり、匙家を背負い、私の歳に至ったとき、おまえがおまえ自身に問うてくれ」と答えている。まつりごとというものは、そうしたもので、それは今も昔も変わらないのかもしれない。
 火災や雷害で町も領民も大きな被害を被った。災厄が「終わった」ことへの安堵と、この先の生活への不安が交錯する。そんな中、井上家に戻ったほうは、これからも、真実を見極め自分の頭でものごとを判断しようと努力しつつ、真っ直ぐに育っていくのではないか。確かな根拠はないのだけれど、宇佐や加賀殿が眠る場所に向かって「おはようございます」と挨拶する彼女の描写から、そんな風に感じられた。なんとも重苦しい風景に一条の光が差し込むような余韻と希望を与えて、物語は終わる。


付箋を貼った箇所をいくつか引用しておきます。

「『加賀殿のようなお方は、周囲にいる者どもが日頃は押し隠しているそういう黒いものを浮き上がらせる。加賀殿の毒気がどうだの、魅入られておかしくなるのだというのは、何のことはない、その者がもともと内に隠し持っていたものを、加賀殿を口実に外へ出すことができるようになるからこそ起こることだ。火元は己だ。闇は外にはありません。ましてや加賀殿が運んでこられたわけではない』」(下巻、P54)
(加賀殿をコロナ(ウイルス)と読み替えると、さもありなんと思えることがいくつもありました。私自身の心の中にも「黒いもの」は巣くっていたかもしれません)

「衆を頼んでことを起こすとき、人の心は光を失う。
どこが明るい場所なのかを見失う。暗くとも、淀んで騒がしくとも、衆の集まる方角へと雪崩を打って走ってしまう。走り集まれば肩がぶつかり、誰かが誰かの足を踏み、倒れた者の背中を踏み、怒号があがり拳が振り上げられる。相手の顔さえ見分けがつかない。
つかんで揺さぶり、殴り飛ばし、口汚く罵り、罵り返される。ただそれだけに没頭し、そもそも何が理由で争いが始まったのか、何が面白くなかったのか、どこに不満があるのか、大切なことが置き去りになる」(下巻、P408)
(感染症の大流行に限ったことではないけれど、特にきちんとした説明や勇気を与える言葉が欠けた状況で、受け取る側が「考える」ことを放棄してしまっていたら、簡単にこういうことが起こるよなあと)

「ついさっき、おさんたちがうずくまっていた木のてっぺんに、稲妻が降り立つ。宇佐はその様に魅せられた。何の考えもなく、何の意志もなく、邪気もなく、空を駆け巡るはずの稲妻。若先生にはそう教わった。天空に起こる事どもに、地上の者を害する意図などありはしないと」(下巻、P481)
(コロナウイルスは確かに、今私たちが戦い封じ込めるべき相手ではあるのでしょうが、ウイルスからすれば、「邪気もなく」「害する意図などありはしない」というのが本当のところではないかと思います。今回のコロナ禍が落ち着いたら、同じ地球に住まうものとして、どのように共存していくのが最善の道なのか――これまでの自分たちの行動も振り返りながら――一度しっかり考える方がよいのではないか、そんな風にも考える今日この頃です)

解説は児玉清さんだった。
コロナ禍の中にいる今このとき、児玉さんがご存命で『孤宿の人』の解説を書かれるとしたら、いったいどんな風に言葉を紡がれるだろうと、ちょっと考えた。
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2020. 07. 01  

 もともと4月に(実会場で)開かれるはずだったものが、COVID-19の流行拡大を受けて中止になり、代わりにオンライン講座として開催されたものです。午前と午後の2回開催され、私は午後の方を受講しました。午後の講座は90名超が視聴するという盛況ぶり。知った方のお名前もちらほら見え、嬉しくなりました。

 講座では、担当講師のお話をお聞きするだけでなく、原稿(ゲラ刷り、事前に配布)を用いてその場で実際に校閲を体験する時間もあり、1時間半という時間が短く感じられました。Zoomのチャット機能を用いて質問ができるのもいいですね。講座中、講師以外にもうお一方校閲者の方がチャットルームに入られて、参加者からの質問に対応してくださいました。

 翻訳と同じだと思う部分も違う部分(「新聞」校閲という特殊性もあるかもしれません)もあり、さらにはハッキリ分けられない部分もあり、どうも上手くまとめられないので、箇条書きにします。

● 「書かれたものに不備がないかチェックし、整える」のが校閲の仕事。さまざまな種類の「不備」があるが、ケアレスミス以外に、思い込みから生じるものも多い。
 →この「思い込み」は翻訳でも気をつけなければならないものだ(というより、あらゆる分野・局面で気をつけなければならないものではないかと思う)。解釈間違いや訳語選択ミスは、最初「小さな違和感(なんかおかしい)」として引っ掛かる場合が多いのだけれど、思い込みは、この「違和感センサ」の効きを悪くしてしまう。

● 今回拾ったケアレスミス(誤字、助詞のダブり、同音異義語など)の多くは、Wildlightの辞書を上手く設定することでかなり防げるのではないかと感じた。但し、あるべき言葉の抜け落ちを拾うには、他の方も仰っていた読み上げや自身の音読が必要だと思う。音読すると、語順がおかしい場合も読みにくくて引っ掛かってしまうことが多いため、私はチェック作業のどこかで必ず音読するようにしている。

Wildlightについてはコチラを参照してください。
Microsoft Wordで動作するフリーのアドインマクロです。
https://terrysaito.com/wildlight/

● 新聞校閲は、原稿作成後と編集後(ゲラ刷り)の2回行う。人の手を経るので、間違いが起きる恐れがあるため。
→ 聞いたかぎりでは「同じようにチェックする」という印象を受けた。1回目と2回目で注目する点が変わるかどうか質問しようと思ったが聞きそびれた(文字入力が間に合わず質問できませんでした)。

● 第三者の視点でチェックする。読者の視点を大切にしている(読者によって読みやすいものに)
→ 新聞の製作では記者・編集者・校閲はそれぞれ別の人間だが、翻訳では、翻訳者がこの三者の業務を兼ねなければならない。翻訳作業と校閲作業のあいだに時間を置くなどして「書き手」視点から「読み手」視点にシフトする必要がある。

● 「最終的に品質が保証されたものを表に出す」ことを目的とするという点では、校閲も翻訳も同じだと思う。


 重複表現やものの数え方一覧(実習でも遭遇)などの資料を頂きました。講義中、参照する資料(紙版)の紹介もあり、ここで紹介された『数え方の辞典』(小学館)を購入しました。購入したあとで、Japan Knowledgeにも入ってるよ、と教えて頂いたのですが、読みものとして読むには紙版の方が読みやすいかなと思いますので、ま、いいか。

 実習では、コロナウイルス感染症関連の記事が多く取り上げられました。「コロナウイルス感染拡大」という表現には、医療翻訳者としてはもやっとするものがないでもありません(同じ質問をされた方もいらっしゃいました)。けれど、スペースの問題(少しでも原稿を短くする)を考えると、この表現になるのは仕方ないことなのかなと思います。ただ、読者のあいだに正しい表現を浸透させるのも新聞の仕事のひとつではないかと思いますので、紙面のどこかに「正しくは~だが、紙面のスペースの関係で~という表現を使用しています」のような記載があってもよいのではないかと、そんな風に思ったりもしました。


 講座を受講してみて、「『おかしい』はそのままにしない、とにかくいちいち辞書・事典を引く、『思い込み』は意識して捨てよ」が大事だと改めて思ったのでした(――てありきたりすぎ?)
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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