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2020. 10. 30  

書籍のあとがきは原井先生が書いてくださいました。
なので、私は、一人でも多くの方に本書を手にとってもらえるよう、全力で訳者感想文を書きます。

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 テクノロジーが診断や治療の中心となりつつある現代医療においても、医師と患者のコミュニケーションが、質の高い医療を実現するための重要な要素だということに、だれしも異存はないだろう。だが、実際どの程度重要なのだろう? そもそも医師と患者はきちんとコミュニケーションがとれているのだろうか? 前著『What Doctors Feel』(邦題『医師の感情:「平静の心」がゆれるとき』)で医師の感情が医療にどのように影響を与えるかを考察したオーフリ医師は、本書では、コミュニケーションというやはり実体の掴みにくいものを考察の対象に選んだ。それこそがもっとも重要な診断ツールではないかと考えたからだ。そして、研究を紹介し数字を示しながら、コミュニケーションに関するさまざまな疑問を解き明かしていく。数字を用いた論考の前後には診察室での自身の経験や取材によって得たストーリーが散りばめられているので、読者は、自分にも関わりのある身近な問題としてコミュニケーションを捉えることができる。

 医師が途中で話をさえぎらなければ、患者は本当に――医師がおそれているように――際限なく喋り続けるのだろうか(第3章「相手がいてこそ」)? コミュニケーションは定量できるだろうか(第4章「聞いてほしい」)? 医療従事者の態度は術後の患者の回復に影響するだろうか(第6章「なにが効くのか」)? 話を聞く側は何もしなくてよいのだろうか(第8章「きちんと伝わらない」)? 医療過誤が生じたとき患者が医師や医療機関にもっとも望むことは何だろう(第10章「害をなすなかれ、それでもミスをしたときは」)? 医師は患者が本当に伝えたいことをきちんと聴き取れているだろうか(第11章「本当に言いたいこと」)? 医師に偏見はないのだろうか(第13章「その判断、本当に妥当ですか?」)?
 こうした問いのすべてについて、必ず研究の結果が数字とともに示される。

 BLM運動がアメリカ全土に波及し、日本のメディアにも取り上げられるようになった頃、私はちょうど医師の偏見を扱った章(第13章)を訳していた。医師は、人種的偏見はもちろんどのような偏見とももっとも縁遠い存在のように思えるが、決してそうではない。オーフリ医師は、潜在的連合テスト(IAT)の結果を示しながら、そのことを証明する。同時に、患者と自身のやりとりを振り返り、自分にも潜在的な偏見があるのではないかと自問する。
 本書がすぐれているのは、記述がそうした考察に留まらない点だ。オーフリ医師は随所で改善方法を提案する。たとえば、この章では、たとえ感情が追いつかない場合もまずは行動で偏見を抱いていないことを示すよう求めている。そうすればいつか潜在意識も変化するかもしれないし、何より研修医や看護師への模範となる、と。それくらいのことで人種差別の問題を解決できないことは明らかだが、それでも内なる偏見を直視し行動を変えることは小さな一歩であるにちがいない。

 全体をまとめる最終章では、本書を執筆するまで、オーフリ医師自身コミュニケーションは「息をするようなもの」だと考えていたことを告白している――呼吸困難に陥ったときだけ「治療」すればいい。だが、本書の各章で示されるとおり、コミュニケーションは、息をするように簡単な、無意識のうちにできるものではない。適切にコミュニケーションをとるには不断の意識的な努力が必要だ。だが、そうやって得られる恩恵は計り知れない。決してテクノロジーによって脇に押しやられてしまってよいものではないのだ。

 この本を訳してから、私は、診察の場で患者としてできることを実践している。その日必ず伝えたいことを三つ(頭の中に)書き出し、それを全部口にするまで医師との会話を終わらせないのだ。こう書くととても簡単なように聞こえるが、医師が会話を引き取ろうとするのをやんわりさえぎり、無言の圧に屈せずにいるのはなかなかむずかしい。けれど、不思議なことに、診察のあとは「言わなければならないことは言った」という満足感に包まれ、「先生はそれをもとに診断を下したのだから言うとおりにしよう」という気持ちになる。患者の側も「伝えたいことをきちんと伝える」ことで、確かに何かが変わるような気がする。

 本書は、医師と患者のコミュニケーションを扱ったもので、医療従事者や医学生を読者に想定している。だが、二人の人間がいるところには必ずコミュニケーションが生じるものだ。それは決して医療の世界には留まらない。一人でも多くの方に手にとっていただき、コミュニケーション、特に「相手の話をきちんと聴く」ことの大切さについて、改めて考えてみていただきたいと思うものである。

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 みすず書房に連絡をとり「共訳やりますか」と声をかけてくださった原井宏明先生、書籍翻訳ははじめての私に共訳を任せ、要所々々で鞭を当て、励まし、どんな質問にも丁寧に答えてくださったみすず書房の担当編集者、田所俊介さんに心から感謝いたします。
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2020. 10. 30  

 このたび、勝田さよの名前で原井宏明先生との共訳書『患者の話は医師にどう聞こえるのか――診察室のすれちがいを科学する』(ダニエル・オーフリ)がみすず書房から出版されることになりました。私の持ち込み企画です。
https://www.msz.co.jp/book/detail/08951/

 初訳書が翻訳したい本だったというのは、とてつもなく幸運なことに違いありません。

 とはいえ、それは(もちろんいくつもの幸運が重なった結果ではありましたが)「近くに転がってきたものを掴みとった」ものだと思っています。前編には、出版に至った経緯を記すことにします(どなたかのなにがしかの参考になるかもしれません)。


 この本は、もともと音読用に購入したものでした。洋書を音読する習慣は、駐妻として滞米時に「少しでも滑らかに喋ることができれば」と始めたものですから、もう20年以上続いていることになります。日本に帰国してからは医薬翻訳の勉強も兼ねてとテキスト類を音読していましたが、どうも面白くない。そこで、10年ほど前からは医療系のノンフィクションを読むようになりました。おもにAmazon.co.jp(洋書)で探して購入しています。書店や図書館で背表紙を読むのが大好きな私にとって、そうやって面白そうな本を探すのも至福の時間でした。数年前からは、未訳で面白そうな本を選び、「日本の読者も読みたいと思うだろうか」を考えながら読むようになりました。
 『患者の話は医師にどう聞こえるのか』の原書”What Patients Say, What Doctors Hear”(Danielle Ofri)は、2017年の末に購入したものです。すぐに「面白い」と思い、音読で数ページずつ進めるのがもどかしく、途中から黙読に切り替えました。医療従事者や医学生がおもな対象読者ですが、それ以外の読者にも思い当たることが多々ある内容だと思いました(そのあたりは、「後編:どんな本なのか――私的あとがき・のようなもの」で少し触れたいと思います)。この本を出版社に繋ぐことはできないだろうか。

 その2年ほど前、私は”Being Mortal”(Atul Gawande)を手に取りました。老いや病気で死を前にした人に対しまわりの人間や医療従事者は何ができるかを、医師が自分の体験をまじえて綴った上質の医療ノンフィクションで、「この本は絶対長く読まれ続ける」「だれか訳してほしい」と強く思いました。同時に「今頃だれかが訳しているに違いない」とも。
 その勘は当たっていて、”Being Mortal”は2016年6月に『死すべき定め-死にゆく人に何ができるか』(原井宏明訳)という邦題でみすず書房から出版されました。訳書の出版を知らせる原井先生のブログ記事を見つけたのはほんの偶然でした。その記事に”Being Mortal”を読んだ感想を書き込んだことがきっかけで、最初はブログ記事のコメント欄を通じて、その後はメールで、さらにはSNSでも先生とやり取りするようになりました。そして「一度お会いしましょうか」という話になり(先生は私が関東在住だと勘違いしていらしたようです)。ちょうど翻訳フォーラム・シンポジウム(2018年5月)で上京する少し前のことでしたので、シンポジウムの前日にお会いするという話になりました。
 先生にお会いしたとき、私は面白そうな洋書があると”What Patients Say, What Doctors Hear”を紹介しました。「でも版権があいているかどうか分からないんです」。実は、Danielle Ofriの前著”What Doctors Feel: How Emotions Affect the Practice of Medicine”は『医師の感情:「平静の心」がゆれるとき』(堀内志奈訳)という邦題ですでに医学書院から出版されており、”What Patients Say, What Doctors Hear”もすでにどこかの出版社が版権取得済みで翻訳が進んでいるという可能性も決してゼロではなかったのです。先生は、担当編集者に聞いてみましょうと請け合ってくださいました。
 そしてなんと1週間後には、先生から「版権あいています。一緒に訳しますか」というメールが届いたのです。仕事に関連する部分があると興味をもたれ、すぐにみすず書房の担当編集者である田所さんに聞いてくださったようでした。私は正直「先生、あの話覚えていてくれたらいいな」くらいの気持ちでしたので、この話の急展開に震え上がってしまいました。自分で翻訳したいという気持ちがまったくなかったと言えば嘘になります。でも、自分にそれだけの力はあるのだろうか。誰か私の実力を客観的に判断できる人に相談したい。

 その2年ほど前(<こればっか)、私はフェローアカデミーのノンフィクション講座(通信)を受講しました。出版翻訳にシフトしようという強い気持ちがあったわけではありません。その少し前から、よくも悪くも「慣れた」医学分野の文章以外の翻訳を学んでみたいという気持ちはありましたが、尊敬するI先生が講師をされるという点が受講の決め手になりました。講座の期間は6ヵ月、成績優秀者はすぐにも仕事ができるレベルと判断される「クラウン会員」に推薦されるのですが、もちろんそれにはかすりもせず、中の上の成績のまま講座を修了しました。I先生なら、私の力を客観的に判断してくださるに違いない。幸い、先生には講座修了後に別の翻訳セミナーでご一緒する機会があり、「困ったことがあれば何でも相談してください」という言葉をいただいていました。私はその不用意な社交辞令(笑)に賭けようと思いました。
 そこで、具体的なことはすべてぼかした上で、先生宛に長い相談メールを書きました。事情を説明したあと「編集の方も私の翻訳力に不安があるに違いないから、こちらから企画書作成と試訳の提出を提案しようと思う」と付け加えました(原井先生からのメールの時点では翻訳の話は口約束のみでした)。翌日には返信があり、祈るような気持ちでメールを開くと、最初に「共訳の件、大丈夫です。おやりなさい」と。「あなたにはまだ無理」と言われてもそれまでと思っていましたから、そのときの私の気持ちは――きっとこの気持ちを「第七天国にいっちまった」と言うのでしょう。
 とはいえ、いつまでも舞い上がっているわけにもいかず、実際的な話を進めていかなければなりません。みすず書房の田所さんにシノプシスと試訳を提出したい旨をお伝えすると、とりあえずシノプシスを書いてほしいと連絡があり、私は実務翻訳の合間を縫ってはじめてのシノプシスに挑戦することになりました。

 ノンフィクション講座を受講していたその同じ時期、私は並行して(株)リベルの「仕事につながるリーディング」という講座(通信)を受講していました(不定期の講座で今は開講されていないようです)。半年間に課題図書1冊、自由図書1冊を読んでレジュメに従ってシノプシスを作成して送ると添削してもらえる、というものです。「ノンフィクション講座を受講したのだからついでに勉強しておこう」くらいの気持ちでした。2冊とも「あらすじが短すぎる(これでは編集者の興味を引かない)が、所感部分は客観的な考察もありよい」という添削結果で、自分の弱点が分かりました。そうか、あらすじはもっと詳しく書くのか。
 というわけで、この講座のレジュメと『文芸翻訳教室』(越前敏弥)のリーディング関連の記述を参考にシノプシスを書き上げました。それが7月末のこと。翌月の企画会議にかけられるということでした。会議の前に「最初の数ページを訳してほしい」と言われ、すでに用意していたものを提出。「できあがりページ数を概算したいので」とのことでしたが、出版社としては、本当に翻訳を任せても大丈夫かどうかも確認したかったのかもしれません。出版企画は会議で無事承認され、実際の出版に向けて動き出すことになりました。

 版権が取得できGOサインが出たのが2018年11月。その後、原井先生が、本業やらご自身の著書の執筆やらで多忙を極められるようになり、当初だいたい半々ずつというお話だったのが、先生の了解を得て最終的に私が三分の二以上を訳させていただく形となりました。当初の予定より遅れて今年の6月に訳了したのですが、翻訳期間が延びたことで、私は、勉強会や翻訳フォーラムのシンポジウム、二度の公開勉強会、勉強会・番外編の企画などを通じて、翻訳について考える時間をたくさんいただくことができました。この間に翻訳(原文と訳文)に対する向き合い方も少し変わったような気がします。番外編(2019年7月)終了後、結局、それまで訳していたものを一からの訳し直しに近い形で修正しました。その後実務の仕事を減らしたり休んだりしながら、どうにか訳了まで完走。二度の赤入れを経て校了となりました。

 そうそう、これは言っておかなければ。
 番外編の直後、著者のオーフリ医師ご本人にお会いする機会に恵まれました。プライベートの旅行で来日され、版権エージェントを通じて出版社に「時間が合うようなら(担当者や翻訳者に)会いたい」と連絡があったのです。指定の日時に上京し、原井先生のクリニックで一時間ほどお話させていただきました。
 実際にお会いするまでのオーフリ先生の印象は、実は「つかみどころのない人」というものでした。原書を読んだときは(その時点で私の読みが不十分だったのかもしれませんが)「しっかり者でハキハキものを言う強そうな方」という印象でした。批判すべきはきっちり批判する態度にそんな印象を抱いたのかもしれません。けれど、YouTubeのインタビューなどを拝見すると、落ち着いた語り口には「強そうな」ところはまったくなく、第一印象よりずっと柔らかい方のように感じました。
 実際にお会いした先生は、人なつこくチャーミングで、くるくる変わる表情がとても魅力的な方でした。ユーモアをまじえて楽しそうに旅行の感想を語り、仕事の話になると、一転して真剣な口調になりました。その口調からは、内に秘めた芯の強さが感じられました。それら全部をひっくるめた方なのだなと、先生風にいうならそのときmy gut feelingが納得した感じです。この経験は、翻訳する上でも大きな助けになりました。このあと本人の台詞の「口調」で悩むことは少なかったように思います。「あの人なら日本語でこんな風に言うだろう」と容易に想像することができましたから。
 著者とじかに話をするという幸運はそうそうあるものではないに違いありません。今回の経験で(翻訳)人生の運をすべて使い果たしていないことを祈るばかりです。


 このように「面白い本があります」と原井先生に原書をご紹介してからはとんとん拍子に話が進んでいったわけですが、自信をもって「面白い」と言える本に出会うまでには、「面白そうな原書を探しては読む」を続けた期間が長くあり、その間に出会った心引かれる原書の感想を訳者にお伝えした行動力(無謀ともいう)があり(実は一度ではありません)、迷ったときに相談できる信頼に足る相手がいて、ノンフィクション翻訳もシノプシスの書き方も一通り学んでいた――という風に、「そこに向けてやるべき最低限のことはすべてやっていた」からこその結果だとも思うのです。
 それでもラッキーだったには違いないということは、忘れずにいたいと思います。今はまだ「一冊(正確にはその一部)書籍を訳した」に過ぎず、実務翻訳でいえば、初仕事を納品した、というところでしょうか。その先継続して受注していけるかどうかは、初仕事以降も安定した質の訳文を継続して提出できるかどうかにかかっています。書籍の翻訳もひとつの仕事のスパンこそ違いますが、基本は同じではないかと思うのです。幸運と言うべきか、今年の3月に同じ著者の新刊が出版され、その翻訳を任せていただくことになりました。でもその先は、私の実力次第。精進を重ね、力をつけて書籍の仕事も続けていければと思っています。

 この先どのような形で仕事をしていくかについては、まだ決めかねています。もう体力的に無理のきかない年齢です。バリバリ働くことはできません。義父母の介護もそこに見えている。書籍翻訳は遅々として進まない日々もあり精神的にもキツかったけれど、訳文を考え推敲を重ねる過程はとても楽しいものでした。反面、実務翻訳にも別種の面白さがあります。試験の結果から考察を経て結論に至る論理的な説明はときに美しいとも感じますし、難解な取り扱い方法をいかに分かりやすく伝えるかにもやる気をかき立てられます。それに、実務翻訳からは毎月少額なりとも定期的に収入が得られる。しかし同時に、休んだり減らしたりした時期にコロナ禍が重なり、全体的に受注量が減ったという厳しい現実があります。取引先の開拓に動いた方がいいのか書籍(と勉強)に力を入れるべきなのか。今はまだ貯金を切り崩すことができるけれど、この先は――と悩みは尽きません。当面、両立に悩みつつ、手探りしながら進んでいくことになると思います。

 
 一部の方はご存じですが、「勝田さよ」はブログ主Sayoの本名ではありません。私を可愛がり、甘やかし、いつも遠慮がちにそっと見守り応援してくれた伯母の名前です。今回訳書を出版するにあたり、出版社に「ペンネームを使いたいのですが」とお願いし快諾いただきました。
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2020. 10. 24  

『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)

 読了したのが三ヵ月近く前でして(<今まで何してた<自分)。
 そのときの心の昂ぶりのようなものも、たいがい消えてしまった今日この頃ですが…
 面白かったです。ところどころ音読したりしていましたので少し時間が掛かりましたが、十分一気読みできましたね(もう少し若ければ)。二段組みの単行本なんか、いつ以来だろう。


 芳ヶ江国際ピアノコンクールに出場した四人(本選まで残ったのは三人)のコンテスタントが、予選を通じ音楽を通して触れ合い成長していく(年齢制限ギリギリの高島明石の場合も、迷いが消え人間として成長したんじゃないかという意味で)成長譚とも呼べるのかもしれませんが、圧倒的に音楽が主人公の物語だと思いました。感覚としては、スポーツ小説を読んだあとの読後感に近かったです。

 音楽(演奏)が、演奏の様子や「音」の直接的な表現ではなく、聴き手や弾き手のイメージや思考(心の動き)といった実体のないもので表現されているのが、自分がこれまで読んできたスポーツ小説と似ているように感じたのかもしれません(『銀盤のトレース』シリーズ(碧野圭)とか――そういえば、あのシリーズ、もう終わりで続きはないんですかねえ――堂場瞬一の「走る」シリーズとか。有吉京子の『SWAN』初期のバレエコンクールの場面なども思い出しましたね)。登場人物による感じ方の違いもきちんと書き分けられていて(性格の細部まできちんとつくり込まれているということかと思います)、さすがだなと思いました。イメージによる表現の場合は、こちらの頭の中にも同じイメージが浮かぶようです。たとえば、主人公の一人、栄伝亜夜が、ダイナミックで一般受けするもののどこか単調な演奏を聴いて抱いたイメージはこんな感じ。

「(脳裏に浮かぶイメージは)大柄な男性たちがバレーボールをしているところだ。それも、なぜかチームのエースが見事なバックアタックを打ちこんでいるのに、ことごとくコースが読まれてブロックで阻まれているシーンである(中略)強力なバックアタックなのに、攻撃パターンが単調なため、ブロックのタイミングもすっかり合ってしまい、スパイクを決めることができないのだった」(201頁)

 随所に演奏する曲の解釈に関する記述があるのですが、そうした場面では、つい「音楽家が『演奏する』ことと、翻訳することは同じなのか」ということを考えてしまいました。
 どちらも「自分が『これだ』と考えるひとつの解釈に則って表現する」という意味では同じなのかなと思えてきます。翻訳でも、それがどんな種類の原文であっても、やはり「これが著者の言いたいことだ」というひとつの解釈の上に立たなければ、きちんとした訳文はつくれないと思うんですよね。解釈がぐらついている訳文は、多かれ少なかれ「言っていることがわからない」箇所をもつものになってしまうと思うのです(<と書いた瞬間にブーメランになって戻ってくるなど)。けれど、音楽の方が、解釈の幅というか自由度は格段に広い。特に、カデンツァと呼ばれる即興演奏パートが組み込まれた課題曲「春と修羅」の演奏場面でそのことを感じました。正直、考えるほどにわからなくなってくるのですが、それほど「音楽を演奏する」ということに翻訳に対する「近しさ」を感じてしまっている、ということなのかもしれません。

 もうひとつ、ふと翻訳に思いを馳せた箇所がありました。やはり主人公の一人であるマサル・C・レヴィ・アナトールの、将来は「新たな」クラシックを作曲し自分でも演奏するコンポーザー・ピアニストになりたいという心の内が語られる場面です。正確には、「新たな」クラシックという言葉かな。考えてみれば、どんなクラシック音楽も、作曲されたときは、同時代の人々を聴き手に想定した「現代音楽」だったのですよね。それは現在「古典」と呼ばれるようになった文学作品も同じはず。そう考えると、古典新訳が(その時代固有の生活様式や事物の表現には配慮した上で)現代的な表現を用いて翻訳されていても、それはそれでよいのかなと思ったのです(あとはもうその新訳が「好みかどうか」という話になるでしょうか)。

 そうそう、その同じマサルが演奏のための準備を大邸宅の掃除にたとえる場面があって、これも翻訳者としてなかなか興味深かったです。どうやって掃除したらよいのかわからない部分も多いので「まずは、掃除に掛かる手間や材料、掃除の方法を考え、準備をしてから掃除に掛かる」。最初のうちは、細かいところまで気が回らずし残しが出る。それでも工夫しながら毎日掃除を続けていくうちに、完全に磨き上げられる日がやってくる。マサルはこれを、「意識しなくても、隅々まで手が行き届いて、屋敷が生来の美しい姿を現す日」「この曲のすべてを知っていると思う瞬間」と表現します。翻訳では、「この原文のすべてを知っている」と思う瞬間はたぶん訪れないだろうし、そんな境地(「完璧にできた」感)に達したとしたら、それはそれで危険な気がしないでもないのですが、ここに描かれた掃除の過程は、翻訳と推敲の作業に似ているなあと思うのです。特に、磨き残しが少しずつ減っていくあたりは、推敲によって訳文の凹凸が減っていく過程とよく似ている気がします。

 コンクールを終えた二人の審査員(片方はマサルの師でもある)のやり取りが描かれる短い場面とエピローグを別にすれば、本選最終演奏者の亜夜が演奏のために舞台に出ていくところで、この物語は終わります。最終ページに本選の成績が記載されているものの、本編では審査員のやり取りの中で結果が暗示されるのみ。それまでに、皆それぞれに成長を遂げ、異端児・風間塵の亡き師ユウジ・フォン=ホフマンいうところの「カザマ・ジンなる『ギフト』」をちゃんと受け取ったから(そして、塵自身も「音楽を外に連れ出す」仲間と手立てを見つけたから)、物語としてはそこで終わっていいということなのだろうと思います。
 エピローグの塵のモノローグに「耳を澄ませば、こんなにも世界は音楽に満ちている」とあります。きっと音楽家の周りは音や音符であふれているのだろうなあ。翻訳者の自分も、「頭の中に言葉があふれ(私たちの場合は「きちんとしまい込まれ」というべきなのかも)、取り出されるのを待つ」という状態に少しでも近づきたいと、最後まで翻訳と絡めずには気がすまないSayoなのでした。


 栄伝亜夜は子どものころ天才少女と呼ばれCDデビューまでしていたのですが、母親の死をきっかけに舞台に立てなくなってしまっていました。芳ヶ江コンクールは、その復活の場でもありました。「完全復活」を確かなものにした第三次予選の最後に弾いたのが、ドビュッシーの「喜びの島」。クラシックにはうとい私はまったく知らない曲でしたので、YouTubeで探して聴いてみました(いやホント便利な世の中です)。いい曲ですね。復活にふさわしい曲だと思いました。
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2020. 10. 03  

というテーマでZoomセミナーを開催します。
(私は運営というか裏方です)

詳細はこちら↓↓↓の告知申し込み画面をご覧ください。
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01nqp6118dqwf.html
(申し込み開始は10月10日13時からになります。ご注意ください)
  *「運営事務局」とご大層な肩書きになっておりますが、現役翻訳者3名が開催に向けて地味に頑張っている、というのが実体です。

 翻訳フォーラムを共同主宰なさっている高橋さきのさん(翻訳フォーラムメンバーにはもう一人高橋(聡)さんがおられますので、以下「さきのさん」とお呼びします)と井口耕二さん、そしてパソコン通信時代にお二人とともに(正確には井口さんと岩坂さんがともに運営に携わった時期はないのだそうです)翻訳フォーラムの運営を担った岩坂彰さん。
 それぞれ、個別にセミナーに登壇し半日でも一日でも語れるだけのものを、ご自分の中にお持ちの方ばかりです(と私は思っています)。

 そんな三人が旧翻訳フォーラム時代をともに過ごされた仲であるということを知って以来、私は、三人の対談的な話をお聴きする機会をもてないものかとずっと考えていました。
 私は、さきのさん、井口さんのお二人とは顔見知りの間柄であり(といってもシンポジウムやレッスンシリーズを通じて言葉を交すようになった程度でして、後輩にも気さくに声をかけてくださる方たちだと分かった今でも、お二人を前にすると緊張します)、しかも岩坂さんの生徒でもある(フェローアカデミーのマスターコースでお世話になりました)という、奇跡的に(笑)三人をそれなりによく存じ上げる立ち位置にいたのです。

 虎視眈々と機会を狙っていたある日、告知申し込み画面で「Twitterでの何気ないひと言が」と書いたとおり、何気ないひと言がきっかけとなってトントン拍子に話が進み(個人企画の翻訳関連の催しはえてしてそうしたものです)、三名をお招きしてのセミナーが実現する運びとなりました。
 というのが、ほぼ一年前の話。当初は、皆さんに大阪にお集まりいただき、通常のセミナー形式で開催する予定でしたが、コロナ禍も終息のきざしが見えず、Zoomを使用してオンラインで開催することにしました。普段なら「遠方だから」と諦めていたような方にも参加いただけることになり、それはそれでよかったなと思っています(ただし、私自身は、初めてのオンラインセミナーを上手く運営できるかどうか不安で一杯です)。
 定員は70名程度としました。お三方の話を聴きたいという方はもっとたくさんいらっしゃるかもしれないのですが、仕事を抱えながらの個人企画セミナーでは、スムーズに運営するためにはこのあたりが限界です。どうかご容赦ください(そして申し込みが始まりましたら、できるだけ早い時間にお申し込みください)。

 上で「不安で一杯」と書きましたが、それはあくまでも運営サイドの不安です。登壇者の皆さんが話される内容についてはまったく心配しておりません。特に後半の対談は、どんな流れになるか当日(の前半部分が終わる)までまったく分からない状態でして、私も今からドキドキワクワク状態です。セミナーの運営は、それなりに大変で、準備や雑事に膨大な時間をとられるのも事実なのですが、それでもそれらを補って余りあるメリットがひとつあります。それは、打ち合せという形で登壇者の方々のbrainstormingを目の当たりにできるということです。これまで数回打ち合せの時間をもちましたが、時に「翻訳ばりばり」の話に逸れていきそうになる皆さんのお話を(それはそれで困りもするのですが)、どれだけ幸せな気持ちで(心の中で「役得~♪」と呟きながら)聴かせていただいたことでしょう。
 というわけで、当日は、「自分も聴きたい」気持ちは封印し、スムーズに進行できるよう裏方に徹する所存です。なにぶん素人なもので、不手際も多々あるかと思いますが、登壇される方にも参加される方にも有意義な楽しいひとときを過ごしていただければと思っております。

 必要な情報は、申し込み画面にすべて含めたつもりです。
 記載内容をよくお読みいただいた上でお申し込みください。

 皆さんのご参加をお待ちしております。


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三名の登壇者の話を聴くのはこれがはじめてという方がおられましたら、以下のブログやYouTubeに目を通しておいていただきますと、さらに理解が深まるのではないかと思います。
(セミナーに参加されない方にとっても有益な情報ではないかと思います)

「Buckeye the Translator」(井口耕二さんブログ)
http://buckeye.way-nifty.com/translator/

「翻訳フォーラム・シンポジウム2017」YouTube
翻訳フォーラム(高橋さきの・井口耕二・高橋聡・深井裕美子)公式YouTubeチャンネルより
https://www.youtube.com/playlist?list=PLkuuimbLeRC0Y2lT8ygpWMx1-UP2cMJSG

「誠実な裏切り者-岩坂彰の部屋 過去ログ」
http://aiwasaka.parallel.jp/
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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