屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

5月頃に、「口を開かなくなって」老衰が進んだため、「父も今年見送ることになるかも」という記事を書いたのですが、どーして、どーして、この頑丈な老人は再び甦り、このまま行けば無事に年を越せることになりそうです。まあ、老人なので、ひと月の間に何が起こるか分かりませんが。

現在、もう食器を持ち上げる力は殆どなく、持ち上げられた場合でも、とにかく一気に掻き込もうとしてむせてしまうので、食事は介助です。「できることは自分でやる」が理想で、スタッフさんも様々に工夫してそう努めては下さるのですが、食事については、一度吸引のお世話になったこともあり、安全重視ということで、全介助になりました。今のところ、「口を開く」元気はあるようです。

今、私が一番懸念しているのは、昔から快食快便だった父が、便秘がちになってしまったこと。どうかすると、1週間くらい便が出ないこともあり、普段量を調整して服用中のマグミットに加え、別の緩下剤を使用することもあるようです。たぶん腸の働きが落ちてきているのだと思うのですが、そうなると怖いのが、老人に多い麻痺性腸閉塞。伯母も、腸閉塞→腸管破裂→敗血症で、2週間ほどの入院の後に亡くなりました。父も伯母同様、普段と違う症状を自ら訴えることはできないので、スタッフ&看護師さんに、便秘が長く続く時は注意して頂くようお願いしています。

そんなこんな、もう私のことさえ認識できないらしい父ですが(見慣れた顔という認識はあるらしい)、以前は、好奇心の強い、本好きな、自分に厳しいかくしゃくたる老人でした。その父が、目の前にある食事を口に運んで貰うまでの、ほんのちょっとした時間が待てなくて、手掴みで食べようとかするわけです(食器重たいもんで~)。そんな父の現在のありようを受け入れるまでには成長(?)できた私でございますが、「そんな姿で生き続けることは、父にとって幸せなことなのか?」「こんな姿で生きていることにどんな意味があるのか?」という思いとは、未だに日々葛藤しております。これは、娘としての「長生きしてほしい」という気持ちとは、また別のところにある正直な気持ちです。

まあ、このまま、答えは出ずに行くかと思うのですが、最近思うことは、「どんな形であれ、最後の瞬間が来るまで生き続けることが、ヒトとして生を受けたことに対するけじめなのではないか」ということと、「最後は、家族だったり周囲の人たちだったりに、形にならない『何か』を残すために生きるのではないか」ということ。
こんなことを考えるだけの余裕ができたってことなんでしょうかねえ。
こちらをずっと読んで下さっている方はご存知の通り、母親とは色々あったSayoでございますが、その母の死に至るまでの日々は、いったい私に何を残してくれたのだろうと、実家の仏壇の前で手を合わせながら、ふと物思いにふけったりもする今日この頃です。

ちょっと哲学的になってみたりしました。
(根が俗人ですから、長くは続かないかと思いますが)

SayoのBackgroundについては「はじめに」カテゴリの記事をご参照ください。
2011.12.06 12:23 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |












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