屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

「果しなき旅路」(ゼナ・ヘンダースン/深町真理子訳)
(Pilgrimage by Zenna Henderson/1959 ハヤカワ文庫SF/1978)

というわけで、今日は読書感想文(?)なのだった
(ていうか、いったい、ここは何のブログなんだろう・・・)。

ちょっと心が疲かな~と思ったりなんかする時に読み返す本なのですが、今回読み返して思ったことは、「昔の文庫本は老眼には優しくないがな」ということでした。暫く前、文庫本のポイント数が大きくなり行間が広がった時には、金の亡者としては、「ひと文字あたりの単価(?)上げたね」と心密かに(優しく)毒づいたものですが、あれは将来のSayoのためを思っての改変だったのね~としみじみ思ったのでした(←全然関係はありません、念のため)。

閑話休題。

「果しなき旅路」の話でしたね。
ハヤカワ文庫版は、一度絶版になったのですが、2000年に読者投票により再び日の目を見たのだとか。ピープル・シリーズ続編として「血は異ならず」が1979年に同じハヤカワ文庫から出版されていますが、こちらは、残念ながら絶版のままのようです。


アメリカの片田舎に隠れ住む、特殊能力を持つ異星人《同胞(ピープル)》と呼ばれる人々が主人公の連作短編集です。
《故郷》である星の消滅から逃れるため、新たな《故郷》を探して宇宙船で旅立った同胞の一部が、操縦を誤って地球に墜落(したのは19世紀末のことだそうです)。生き残った人々は、能力を隠し、ひっそりと生きる道を選びます。描かれるのは、彼らとアメリカ全土に散った《同胞》との再会、特殊能力を持つ(あるいは持たぬ)地球人との触れ合い、新たな《故郷》からやって来た別の《支族》との邂逅などなど。《同胞》の人々は、おしなべて穏やかで善良で(善良すぎるかも)、(地球人と異星人との別を問わず)常に困っている人々に援助の手を差し伸べます。地球人による迫害の描かれるお話もありますが、読むのも辛いという描写ではありません。地味ではありますが、私的には、落ち込んだり疲れていたりした時の癒しの一冊という感じの本です。原作が書かれたのは、1950~60年代に掛けてですから、当時の田舎町を舞台にした映画など思い浮かべながら読んでいただければ、なお宜しいのではないかと。

《故郷》は、《同胞》の人々にとっては、場所(故郷の星)というより「還るべき場所」、つまり「心の拠り所」という意味合いが強いような気がします。「いつかはそこに帰れて、また皆で集えると信じているから頑張れる」みたいな。

当初は独立した短編として書かれたようですが、文庫では、自殺志願の地球人の女性リーと《同胞》の人々との出会い、やり取り、そして彼らの語る話(←が各短編になってます)を聞くうちに彼女が変っていく様が間に挟まれるという構成になっています。とはいえ、前の作品(複数)の登場人物たちが、後の短編でちょっとずつ顔を出していますので、リーの話がなくても、連作短編集と呼べるかなと思うのですが。

どれか1作を挙げるなら、やはり最初の作品である「アララテの山」でしょうか。
この物語を語るのは、自殺志願者リーを助けた少女(「アララテの山」時の年齢は書かれていませんが、「ハイ・スクールの課程は、もう二た夏も前に…終わっている」と書かれていますので、19歳くらい?)カレン。
彼女を含む《支族》の住むクーガー峡谷の学校に、新しい先生がやってきます(9名の生徒が集まれば、学校を開設し、教師の派遣を申請できるのだとかで、カレンは、その「9名」という条件を満たすために、もう一度学校に戻ることになります。「大草原の小さな町」もこんな感じでしたね)。
《支族》の子供たちが、ついつい《同胞》の能力を使ってしまい、《外界人》の教師を驚かせてしまうので、この学校には、先生が長く居ついたためしはなく、学務委員長であるカレンの父は、今度の先生が居ついてくれることを願っていますが、やって来たのがあまりに若い女性だったので、吃驚すると同時にがっかりします。但し、カレンの兄ジェミーは、この新しい先生ヴァランシーとひと目で恋に落ちてしまうのでした。
カレンは、子供たちがヴァランシーの前でボロを出さない(空中移動したり、指を鳴らしただけでものを移動させたり、空に飛び上がったり、日光をひとつかみ掴んでつむじ風を作ったり!)ように心を砕きますが、なかなかうまくいきません。けれど、ヴァランシーは、ふと目にしたそれらの能力に、それまでの教師たちとは違った反応を示します。
実は、彼女自身、強い能力を持つ《同胞》の子供で、彼女の方は、自分以外に《同胞》が生き残っていることを知らず、自分の能力が周りの人間にばれないよう、息を潜めて生きてきたのです。しかし、その能力が明らかになる日が・・・というのが粗筋。

カレン、ジェミー、ヴァランシーの3人は、その後の物語にも何度となく登場します。ピープル・シリーズでは、彼ら以外でも、前の作品の主人公が、後の作品にちらと登場するというパターンが多く、「おおっ、またお会いしましたね」という感じで、その意味でも、続きを読むのが楽しみなのです。

もう1作品を挙げるなら、「囚われびと」。
語り手は、外界人の女性教師なのですが、同時に、《同胞》とよく似た能力を持つ少年と普通の少女の淡い初恋(少なくとも少女トワイラの側は)も描かれます。
少年が持っているのは、「楽器たちに音(音楽)を奏でさせられる」能力。その能力と性格の故に一匹狼の彼と、彼に心を寄せる少女が、月の光の中で、紅葉を舞い散らせながら、それらの音楽に包まれて踊る(しかも空中だし!)場面の描写は圧巻。少年は、その後、《同胞》に見出され、彼らの元に行ってしまうのですが、ラストの「そしてトワイラは ―― もしフランチャーがいつか彼女を迎えにもどってこなければ(わたしはときおり彼女が、彼がもどることを神様にお祈りしているのを知っている)、彼女は死ぬまで彼の魔法を胸の奥にいだきつづけてゆくだろう」という文章は、切なくて泣かされます。

もちろん、大人の読者向けに書かれた小説なのですが、私は、何となく、「少女小説」という、今やこの世から絶滅しつつあるヤングアダルト小説の古語(?)の言葉を思い浮かべてしまうのです。

どのお話も、最後は希望で締め括られていて、正直「世の中そう甘くない」「人の心はそんなに綺麗じゃない」と思う部分がないではないですが、それでもやっぱり、読み返してみると、何だか心洗われる思いがする。そんな作品たちです。あ、だから、読みたくなるんか。
もっとも、10代の頃は、当たり前のように《同胞》に感情移入していましたが、ウン十年経った今は、(最初のうち)頑なに心を閉ざす《外界人》たちの方により心惹かれたりする自分がいて、しみじみ「年取ったよなー」と思うSayoなのでした。

深町真理子さんの訳も、名訳と思います(少なくとも、私にとっては『相性のいい訳文』を書かれる方です<「アナスタシアシンドローム」なんかも素敵♪)。


さて、蛇足ですが、恩田睦さんが、このピープルシリーズに触発されて書いたとご自身仰っている(たぶん)のが、「光の帝国 常野物語」に始まる常野シリーズ。恩田さんの作品の方が、ホラー色が濃く、辛く悲しい場面もしっかり書いてらっしゃるのですが(表題作「光の帝国」なんか涙なくしては読めません<基本、映像より活字に涙もろいので)、全体的には「怖くて切なくて哀しくて、でも何だか暖かい」、そんなお話です。ご参考まで。


SayoのBackgroundについては「はじめに」カテゴリの記事をご参照ください。
2012.02.13 21:01 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |












管理者にだけ表示