屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

再読のきっかけは、朝日新聞日曜別刷「GLOVE」(5月4日版)のBreakthroughのコーナーに、辻調理師専門学校校長の辻芳樹氏の名前を見つけたこと。「美味礼讃」は、辻芳樹氏の父である故・辻静雄氏をモデルにしています。

著者は、モデルは辻静雄氏であるとしながらも、「物語は架空であり、文責は筆者のみにある」と断っています。確かに芳樹氏は、作中では別の名前になっていますし、作品中で辻氏の敵として登場する人物や、後ろ足で砂を掛けるような振る舞いに及ぶ弟子などは、幾人かの人物をミックスして創作されたものと想像しますが、それでも、本書は、辻静雄氏の人生をほぼ忠実になぞったものだろうと思います。

20年以上昔、初めて読んだ時は、辻静雄氏が、(多少の停滞はありますが)フランス料理研究の大家となっていくその過程がただただ面白く痛快で、一気に読んでしまいました(義父に財力があったこと、周囲の人々に恵まれたことなど、運がよかった部分もあるかと思いますが、辻氏の「舌」がなければ、日本にフランス料理が広まるのはもう少し遅れていたかもしれません。少なくとも、本書を読むと、そのように感じられます)。

料理についての記述も、普段食べ慣れない料理名なので、一瞬で頭に思い浮かべるということは(少なくともSayoにとっては)無理でしたが、材料や作り方を頭の中で辿っていくと、美味しそうな料理に行き着く、という感じで、そうした料理を口にした時の辻氏の感想も含めて、食に関する描写を読むのも楽しみでした。

たとえば、

「しかしつぎにブイヤベースが出て、そのスープを飲むと、何かがちょっとおかしいと思った。スープには見事な味が出ていた。それは当然のことだった。伊勢エビ、タイ、スズキ、コチ、ガシラ、オコゼ、アナゴ、それにイサキのガラで十分にダシを取り、最後にそれらの上身にムール貝とハマグリを加えて煮込んでいるのだ。辻静雄は何度かそのスープを味わってから、このスープは感じが出すぎているのだとやっと分かった。完璧な味のバランスが保たれる一線を、このスープはほんのすこし越えてしまっているのだ。」(初版本文28-29頁)

といった感じです。

これは、辻静雄氏が、客を招き学校の教員に料理を作らせるディナーの描写ですが(その1番シェフに任命されるということは、教員にとって大きな名誉だったそうです)、客を前にしてシェフにその日の料理の講評を伝える場面で、「味を出そうとするために、ハマグリを2つ3つ余計に入れ過ぎた」と指摘したのに対し、客の1人が「きびしいものですな」と感想を漏らすと、辻氏は、「べつにあれでもあのままどこへ出しても恥ずかしくない味なんです。しかし九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」(同37頁)と答えています。

ここで、「一流人の考え方は、翻訳の参考になることが多い」というSayoの「いつでもどこでも無理やり関連付け」機能が発動したりなんかするわけです。

このディナーは、辻氏が、教員を腕の良い料理人に育てるにはどうすればよいかと悩んだ結果、何も知らない生徒だけを相手にしていては駄目で、日々客の舌によってその料理を試されなければならないという結論に達した結果催されるようになったものなのですが、翻訳でも、日々の勉強とその成果を試される場(仕事)の両方のバランスを取っていくことが大切だよな~、とかしみじみ考えたりするわけです。

とはいえ、そんなことは忘れて楽しみたい1冊ではあります。

本書は、学校を軌道に乗せ、「やるべきことは全部やった」と引退を決めた辻氏とその妻、そして氏の片腕の人物が、恩人たちへの恩返しのパーティの計画を語り合う場面で終わります。再読時には、この静かな余韻の残る描写が、ただただ哀しくて仕方がありませんでした。以前はそんなことはなかったのに。

その少し前に、長年の美食が祟って肝臓を壊し、思うように料理を食べることができなくなり、何をしても心から楽しめなくなっていた辻氏が、義父に乞われてこの道に入ったことも、弟子に裏切られたことも、肝臓を壊したことも含めて、すべては「自分がそうすべきだと信じてやってきたことの過程の中で起こり、それは避けられないことだった」(同389頁)のだと、自らの運命を甘受する場面があります。

20年の時を経て、私自身も年を取り、「運命を甘受する」ということが、少しだけ分かるようになったための「泣けるラスト」なのかもしれません。

本書の雑誌連載から程なくして辻氏は60歳の若さで亡くなります(1993年)。
本書を書かれた海老沢泰久氏も2009年にまだ50代の若さで亡くなります。

2人とも、存命であればまだまだご活躍されたに違いないと思うと、残念でなりません。
2014.05.13 16:01 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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