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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

今年は春から訃報が多い。
そういう年なのかも。

週末亡くなったのは、数少ない薄い血縁関係の
(父の「はとこ」を私の血縁と呼べれば、の話だけれど)
でも、親戚としては、付合いは一番濃かったおじさん。
父の方がだいぶ年上だったので、「兄さん」と慕って時々実家を訪れた。

6月に旦那の元勤務先がちょっと世間様で話題となり
心配して電話をくれたのが最後になった。
「身体壊して辞めてん」と言うと、「そうか」と安心していた。
(そこ安心するとこかい、というツッコミもできますが)

声に覇気がなく、息をするのも大儀そうで
「肺に穴開いて声出えへんねん」という言葉に多少納得しながらも
おじさんらしくなく、どこか釈然としない気持ちもあったが、
忙しさにかまけてそのままになった。

実は肺がんで、その後寝付いたのだということは、
おばさんからの訃報の電話で知った。

よく言えば面倒見がよく、少し悪い言い方をすれば善意の世話焼きで、
実家絡みの謎かけのような電話に閉口したこともあったけれど、
あれも、今思えば、頼りない私を心配してのことだったのか。
ボランティアや民生委員として多忙な毎日、
遠い親戚のことなど、うっちゃっておくこともできたはず。

「おっちゃんももう後期高齢者やで」とぼやきながらも、エネルギッシュに行動し、
何となく、おじさんだけはいつまでも元気でいるような錯覚を抱いていたのだが、
最後のお別れをさせて頂いた、痩せてひと回りもふた回りも小さくなったおじさんには、
往事の面影はなく。
(といっても、久し振りに最晩年の父母を見た方も、
きっと同じように感じられたには違いないのですが)

旦那は一番近しい人で、尻にも敷き頼りにもしているけれど(意味的にヘン<自分)、
それでも、やはり「血のつながりはない」という意識がどこかにある。

父を亡くした時にもこれほどには感じなかった、
自分の拠り所がなくなるようなこの深い喪失感を、
人は誰もどこかで一度は味わうのだろうか。
しっかりと「喪失感を感じ」ておくことも、
これからの人生にとって意味があることなのか。


本日かなり感傷的ですが、
通夜葬儀で予定の狂った仕事の目途もつき、
明日は心を入れ替えて、PASORAMAの怪に触れたいと思います。
(つって、単に動かなくなったってだけですが)
2015.08.11 22:53 | 両親のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |












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