屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

文章力をつけるには、とにかく大量に読み大量に書くことだと、以前、どこかで読んだ(それとも聞いたのかな?)ことがあります。


ワタクシは、1997年10月から2004年5月まで日本を離れていました。

その間、仕事は休んでいましたが、3年超に及ぶ「『近々本帰国させるで』詐欺」が「『ホンマに本帰国させるで』内々示」に変わると、当然のことながら、「帰国したらガンガン仕事するで」モードに入ったりなんかするわけで。当時は両親もそれなりに元気でしたので、自分の(自分たちの)生活のことだけ考えていることができました。

そのとき一番不安だったのは、翻訳者としての自分の日本語。
インターネットが常時接続になってからまだ日が浅く、日本語の情報を得るのは主に雑誌か書籍(かビデオ<がまだ主流)からでしたが、レンタルビデオは別として、いずれも、安価にすぐに手に入るという訳にはいきません。
友人は同じ「駐妻」の立場の日本人の方が多く、日常の会話は主に日本語でしたが、「その方が話早いよね」ということで、「今日は、スクールバスキャンセルで子供をピックアップ」とか「4時にドクターのアポ」とか「スノーアラート出た」とか、その地の日々の暮しに慣れていない方が聞くと、頭の中が疑問符だらけになるようなルー英語的日本語会話が、ワタクシたちの間を日常的に飛び交っていたのです。
いや、その日本語、やっぱ変だし。日本語を読むのも大切だけど、書く訓練も必要じゃね<自分?

そうだ、おはなしを書こう!

という発想は「ちょっと違うやろ」かもしれないのですが、小学生の頃、こっそりおはなしを書くのが好きだったワタクシにとってはごく自然な流れで、こうして、ワタクシは、一時的二次創作の世界に足を踏み入れたのでした(注:世間ではこれを「駄文」という)。

2004年から約4年間、ときには、ただただ書くのが楽しくて、ときには、現実から逃れるために、ひたすらに書き散らしました。
ときには駅のベンチで、ときには病院のランドリールームで、広告紙の裏紙に。世間様にはアヤしいおばさんと映ったことでありましょう。
今でも、ときどき、あのとき「書くこと」に費やした時間とエネルギーのたとえ半分でも翻訳の勉強に費やしていればなあ、と思うことがあります(まあ、そんだけ書いてたってことです)。

書き始めた当初は、文法知識は記憶の彼方、「 」で括られる台詞の終わりには読点は打たない、など基本的なルールさえ知らなかった(というか、そもそも気に留めていなかった)ワタクシですが、それでも、慣れない言葉を使うときは、「この言葉でよかったっけ」と、ネット様や国語辞典様にお伺いを立て、類語辞典様を繰ることはしていました。また、書いているときは、頭の中で同じ動作をやっていて、「いや、その状態で外は見えん」とか「その関節の動き、人間としてありえん」とかやっていました。それが、今「頭の中に状況を思い浮かべて翻訳する」ということに繋がっているかなという気はします。

というわけで・・・

「大量のOUTPUTは日本語力の向上に繋がる」という仮説が、ここに証明されるに違いない(1例の症例報告なのでエビデンス的には弱いですが・・・)。

しかしながら・・・

ときどき、現実逃避に、当時の駄文を読み返しにいくことがあるんですけど、最初の頃と最後の頃を比べてみると、期待した(OR思い込んでいた/誤解していた)ほど日本語作成力が上達したとは、とうてい思えないのです。
しいて言えば、いかつくゴツゴツしていた日本語が、いくらか柔らかくなり、少し漢字が減って、多少読みやすくなっている、かも、しれない、もしかしたら、という程度。
「このおはなしを最後まで書くぞ!!!!」というエネルギーがハンパなかった最初の頃の方が、文章に勢いがあるくらいです。

そもそも、「文章を書く」ということは同じでも、翻訳と「自分の書きたいものを書く」ということは同じではないのですけれど(翻訳には原文があり、いくら「翻訳しにくい」とはいっても、書かれている内容や書き手の意図をねじ曲げるわけにはいきません)、そうは言っても、読み手を意識し、読み続けてもらえる、日本語としておかしくない文章にしようと努力するという点では、似ているはず。
「大量に書けば上達する」のであれば、ワタクシの日本語は、あの4年間で格段に上達している、はず。でもって、通信講座の講評で表現力を問われたりはしない、はず(・・・問われましたが)。

したがって・・・

結果から、書くことは必要だとしても、「大量に書けばよいというわけでもないようだ」ということが示唆されます。

「大量に書いた過去」がまったく力になっていない、ということはないと思います(医薬翻訳者としてはどうよ、という部分はあるかもしれませんが)。でも、「大量に書く」と平行して、あるいは「大量に書いた」後では、「自分に足りないものを意識しながら書く」「言葉を選択し、比較し、吟味しながら書く」ことも大切なのかなと(ブログは息抜きなので、できれば、大目に見てやって頂きたく(^^ゞ)。

そうしたことを高速に行えるようになる、というのも、もしかしたら、ひとつの効率化なのかもしれません。そのために必要なのが表現(力)の蓄積で、それを助けてくれるものの一つに(ワタクシの場合ですけど)辞書や辞書引きの効率化があるのかなと、今日のところはそんな風に考えております。
2016.07.19 17:32 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(8) |

ヨシダヒロコさん、まいどです~。

福島先生の文章のご紹介、ありがとうございました。こちらの方だけ先ほど読みました。
考えさせられると同時に、無駄のないリズムのある文章と思いました。

2016.08.19 10:56 URL | Sayo@屋根裏 #- [ 編集 ]

Sayoさま、

坂口安吾はさっき読みました。仕事は今ないけど別の意味でわたわたしてまして、遅れました。とても美しい文章でした。

福島智先生は、毎日新聞にもありますけどこっちの方がいいかも。少し詩のようでした。他の人のコメントもありますが、短いのですぐ読めるかと。金沢大教育学部に以前いらした先生なのです。
http://www6.nhk.or.jp/baribara/lineup/single.html?i=211#top

2016.08.19 00:56 URL | ヨシダヒロコ #lMBqkpAs [ 編集 ]

ヨシダヒロコさま、まいどです~。

坂口安吾、確か前回もご紹介頂いたのに、まだ読めていないんです。す、すいません。
「日本文化私観」はそんなに長くないようなので、週末にでも読んでみますね。
東大の福島先生は、福島智先生でしょうか。心に留めておきます!(ご紹介ありがとうございます)。時間できたら検索してみますね。

2016.08.19 00:01 URL | Sayo@屋根裏 #- [ 編集 ]

Sayoさま、こんばんは。

坂口安吾のは、『100分で読める名著』で『日本文化私観』を知りました。『堕落論』の話にくっついてきたのですがまずはこっちが面白そうと。今は青空文庫もブラウザができて読みやすく、「日本文化なんて」と言っている割にはすごくよく知っているのではという気がします。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42625.html

最近だと、重複障害の東大教授として名前が出た福島先生の文章も印象的ですね。

2016.08.18 22:38 URL | ヨシダヒロコ #lMBqkpAs [ 編集 ]

ああ、そうなんですね。言われてみれば・・・

「舞姫」は高校の時、友達とぼこぼこにしてやった思い出がありますよ(主人公を、てことですが)。マジ、とんでもねーヤツだった記憶があります。ただ、個人的には「舞姫」の文体は好きでしたね。

ブログはお気楽に書いてはますが、何日もかけて書いたり、削ったり、結局ボツにしたり、で、ワタクシもなかなかさくっとは書けません。

2016.07.22 13:22 URL | Sayo@屋根裏 #- [ 編集 ]

Sayoさま、どうもですー。賢治について補足。

賢治は確かに世界観もですがボキャブラリーも不思議で、西﨑憲さんがむかし翻訳フォーラムで「難解」という翻訳講座をやったのですが、その中に賢治の英訳がありました。擬態語だったか擬音語だったかが難しく、そこだけ「賢治っぽい」と褒められた記憶が。

他には漱石も読んでみたいな。『坊っちゃん』再読で持った感想がドキュメンタリー見たら覆されたので。鴎外は詳しくないのですが『舞姫』はそうとう男がひどい話のようですね。

ブログはありがとうございます。長いのはちと気にしているんですが、ボリュームが増え出したのはここ何年かのことですね。さくっと書けたらいいなと思うこともあります。

2016.07.22 13:01 URL | ヨシダヒロコ #lMBqkpAs [ 編集 ]

ヨシダヒロコさま、まいどです~。

母語の維持の問題は悩ましいですね~。

海外在住でも、ワタクシみたいに、周りに適度に日本人の方がおられて、親しい友人は8割方日本人、という状況の場合、一見、日本語の問題はなさそうにも思えるんですが、皆、現地の生活に適応して、カタカナ英語混じりの日本語で話すので、やっぱり全体的に日本語オカシくなっているような気がします。
最近ではネットで簡単に日本語の情報が手に入りますが、日本語としては玉石混淆なので、やはり自分で注意してきちんとした日本語を読む必要はあるかもですね。
ワタクシは別言語はできないのですけど、お話をお聞きして、3種類以上の言語だと、なるほどそういうこともあるのかと思いました。

アウトプットは(英語についてもそうですけど)、しないよりした方がいいには決まっているんですけれど、自分の文章にあまり上達のあとが見受けられなくて(<それはオマエの問題という説もある)、ただ書いているだけではダメなんだなあと、最近思った次第です。あと、「頭の中で分かっていること」を文章にするのは、やっぱり理解と推し量りが必要になる翻訳作業よりは断然ラクですよね(別の意味でしんどい部分もあるかと思いますが・・・)。

坂口安吾は読んだことないです。青空で読めると思うので、今度読んでみよう(森鴎外とかはたまに読んでます)。宮沢賢治の文章も不思議な魅力がありますよね(かなーり昔の記憶ですが)。賢治については、「文章校正の教科書」という本には、彼の「銀河鉄道の夜」の一節を校閲者視点から添削している箇所があって、確かに校閲後の方がずっと読みやすくなっているのですが、校閲者ご本人も「校閲することで原文の味わいを失わないようにするのはむつかしい」というようなことを仰っていて、確かに不思議感(、のようなもの)は多少減退しているような気がして、ナルホド~と思いました。

ヒロコさんの文章、ときどき読ませて頂きますが、ワタクシは読みやすいと思います。長くても「読もか」という気になるし。
創作物は、申し訳ないですが、PWかけて封印してます。駄文だし。翻訳者引退したら、また戻るかも(でも「書くぞ!!」エネルギーが戻らないので無理かも・・・)

2016.07.22 11:16 URL | Sayo@屋根裏 #- [ 編集 ]

Sayoさま、こんばんは。

日本語力は悩ましいものですね。海外在住の人の悩みは割と最近になって入ってきました。わたしは少なくとも学生としては住んでみたくて、大学2年から3年まで軽く準備していたので、ある意味うらやましい悩みでしたが。

最近、別言語をやっていて似た2言語間で言葉がこんがらがるという経験をしています。日本語―英語の場合は違いすぎるけど、言葉が出てこない経験はしました。

それで、大量に書いて読めば、というのはわたしもどっかで知りました。ただ、何を読むかとか書いたものは見せて恥をかく(昔翻訳フォーラムで翻訳文について言われました)のも大事そうな気がします。

最近、すごいパワフルな作品を書いた人がいるんだなと、なぜか朝ドラ経由などで知っています。平塚らいてうとか、最近NHKでやっている坂口安吾とか。「私は停車場は好きで、(外国人の好きな)法隆寺なんて要らないから、壊して停車場を建てろ」とかすごいことを書いてて。内容に賛同するかはともかく、1回聞くか読むかしたら忘れないなあと。そういうものは簡単には書けないけど、読んでおくのはいいなと思ったりしています。あと、賢治をプラネタリウムで見たらとてもきれいでした。

わたしのブログは、2004年に富山に帰った当時大分調子は悪かったので、翻訳者から離れて(題名もFreelancerと入ってました)勝手なことを書き、あるときから翻訳者の立場でものをいうようになりました。

翻訳者で長文を書く人には特にすとんと腑に落ちることを書く(落ちがうまい?)人が多い気がして、Sayoさんの文章もするする読めますよ。
その創作物、読みたい気も……。わたしは散文は書けないのです。詩は書いていたことがあって、何か降ってこないかなと思うことがあります。

2016.07.22 00:15 URL | ヨシダヒロコ #lMBqkpAs [ 編集 ]













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