屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

「OUTPUT」でも書いたとおり、ワタクシは、お話を書くのに勤しんでいた時期がありました(なんで、あの膨大な時間を翻訳の勉強に費やさなかったんだろう)・・・という記事を書いたら、また書きたくなってしまいました。でも、まあ、それは、老後の楽しみにとっておこうと思います。体力も落ちたので、今は余力ないし。

ということで、ときどき読み直しては、一部分を取り出して、「校正する」「推敲する」という目線でちまちま直しています。で、やり始めたら、自分の癖が分かったりして、これが意外と面白い。ワタクシはどうも「漢字好き」人間のようで、かなりの漢字を平がなにしました。あと、文章くどい。くどいぞおお<自分。がっつり書き直したい部分もありますが、そうすると未校正部分からそこだけ浮いてしまうような気もするので、誤字/脱字の修正、表現一致、「なんか変」部分の修正程度に留めました(それでもたくさんあったことよ)。数字の表記は、今は取りあえず手を付けずにおきました。翻訳の推敲とはまた少し違うんですけど、気分転換になるし(仕事の絡まない推敲作業は結構楽しい)、国語辞書にもお世話になるし、で、たまにやるにはいいかも。

本体の内容が分からない部分だったので、「ひと休み」的に置いてみました。
お好みでスルーの、いつものパターンでお願いできれば、と思います。
(そしてまた、悪の道にはまろうとしているSayoなのだった<じゃなくて、翻訳頑張る)


*****

 私の通っていた小学校は、小高い丘の上にあった。
 350段の階段を下り(男の子たちは、手すりを滑り降りる方を好み、いつも半ズボンの尻をてかてかに光らせていた)、走るように急坂を下り、その先の緩やかなカーブを抜けてしばらく行くとバス通りに出る。そこからバス停4つ分バスに乗り、さらに10分ほど歩いたところに、当時私の住んでいた団地があった。
 今にして思えば、小学生にはかなりきつい道程だが、当時は、親も子もそれを当たり前と思っていた。私自身、特に通学に不満を抱いた記憶はない。毎日の下校の道程は本当に楽しく、そのために学校に通っていたといっても過言ではない。
 団地に住む子供たちは、登校にはバスを使ったが、帰りは、だいたい、学校の裏の柵を乗り越え、お隣の高校の校庭を横切り、その向こうに広がる林を抜けて(毎日がちょっとした探検だ)、最後は岩のごろごろした崖の細道を下りて住宅の裏に出る、というコースを取った。バス通りは大きく迂回していたが、林を抜けるコースはほぼ直線的な経路を取るので、私たちの足でも、1時間弱で家まで辿り着けるのだ。田舎町のこととて、バスは30分に1本しかなかったし、何より、子供が、毎日何かしら新しい発見のある「道草コース」の方に心引かれるのは当然のことだろう。
 ただし、このコースにはかなりのアップダウンがあったから、私たち子供の間では、その道は4年生になるまで使えない、という暗黙の了解があった。それまでは、途中までバスを使い、そこからときどき河川敷に下りて遊びながら川の堤を帰るという、危険(=魅力)の少ない「半道草コース」で我慢しなければならない。この子供世界の掟を破った者には一週間の仲間外れという厳罰が待っていたから、私たちはみな、指折り数えて4年生になるのを待ったものだ。
 子供だけの ―― しかもそんな長距離の徒歩の ―― 下校がごく当たり前だった、古きよき時代の話である。
 もっとも、本当は、崖道を通るのは「危険だから」という理由で固く禁じられていて、畑仕事をしていた老爺に告げ口されて、親からお仕置きを喰らったことも一度や二度ではない。
 もうひとつ、私たちが、それぞれの親に禁じられていることがあった。それは、林の中に点在する熊の住処(絵本なんかで見たそれだけど)のような穴倉には絶対に入ってはならない、というものだった。親たちは、その穴をボウクウゴウと呼んだ。それが、戦争中空襲を避けるために造られた防空壕であるということを知るのは、もう少し後のことである。親たちは、この禁止事項に関しては厳格この上なく(崖道通行禁止の比ではなかった)、この禁を破ったことがバレると、私は母親に尻を引っぱたかれ、アキヒロは父親に拳骨を喰らい、カヨコは晩ご飯のおかずを取り上げられた ―― まあ、つまり、私たちは頻繁にその禁を破っていたということだ。
 ボウクウゴウは顔を背けて走って通り過ぎるには数が多すぎたし、私たち子どもが苦もなく滑り込める大きさの丸く暗い入口は、まるで異世界への入口のように見えた。それは、いつも「おいでおいで」をして、私たちを招いていた。
 穴の中は意外に広く、一部に天井を支える木組みが組まれている大掛かりなものもあった。その木組みの間からは、絶え間なく土塊が転がり落ちていたが、私たちにはそれさえも面白く、薄明かりの中で、その土塊を集めて小山を作り、トンネルを掘ったりしたものだ。
 長じて、「防空壕」遊びを親たちが厳しく禁じたのは、その多くが、いつ崩落し私たちを生き埋めにしてもおかしくない状態だったからだということを知った。私も、もしも自分の子供が同じことをしようとすれば、母と同じく夜叉のような顔で、その遊びを禁ずるに違いない。
 けれど、ともかく、「いけない」と言われれば言われるほど、その禁を犯したくなるのは、これはもう子供の業(あるいは本能?)のようなものである。
 というわけで、夏休み最初の登校日の帰り道、私とアキヒロとカヨコは、性懲りもなくボウクウゴウに足を踏み入れた。
 うだるような暑い日だったが、穴の中はひんやりとしていた。汗ばんだ肌には心地よい涼しさだ。林の中を抜けてきた時は、セミ時雨でたがいの声も聞き取りにくいほどだったのが、穴の中では、そのセミの声さえひどく遠いものに聞こえる。まるで、そこだけ時間が止まってしまったような不思議な感覚に襲われた。
 私たちは、いつものように土塊を集めて小山を作り始めたが、きっとそのうちに寝入ってしまったのだ、と思う ―― つまり、そう考えるしか説明がつかないような体験を、私たちはしたのだ。


(中略)


 次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。ベッドの脇に両親が座っていた。防空壕に入ったことがバレたのは、明らかだった。お仕置きを覚悟して布団の中で身を縮めたが、母親は泣き出し、父親は「よかった、よかった」と言いながら頭を撫でてくれたので、何だか拍子抜けしてしまった。

 私たちは、防空壕の中で倒れているところを発見されたのだった。
 穴の入口にランドセルが3つ放り出してあるのを見つけた畑仕事帰りの老爺が、「親の言いつけを守らない悪ガキどもをどやしつけてやらねば」と中を覗いて、私たちが倒れているのを見つけたのだそうだ。最初は眠り込んでいると思ったが、身体を揺すっても頬を張っても反応がないので、さてはガス中毒かと、慌てて私たちを穴から引きずり出すと、助けを呼びに走ってくれたのだという。
 結論からいえば、私たちは、ガス中毒ではなかった。
 壕内の調査でも有毒ガスの存在は確認されなかったし、第一、私たちを救出し、最寄りの人家まで往復した老爺は、体調不良を訴えることもなく、最初から最後までぴんぴんしていたらしい。
 脈拍も呼吸も何もかも正常な状態で、ただ意識だけが回復せず、私たちは、2日2晩正体なく眠り続けたのだそうだ。その原因は、今もって不明である。
 防空壕の中には、私たち3人以外誰もおらず、かつて誰か ―― 大勢の人間 ―― がそこにいたような形跡も、もちろんなかったという。


(後略)


「夏の日のふしぎ」(初稿2009年)
2016.09.27 14:48 | 好きなもの・こと | トラックバック(-) | コメント(2) |

めぐりさん、まいどです~。
申し訳ござらん、もだえてくだされ。

2016.09.28 16:13 URL | Sayo@屋根裏 #- [ 編集 ]

Sayoさん、こんにちは~

ふふふ、(中略)と(後略)が気になります (*´ω`*)

2016.09.28 13:47 URL | めぐり #- [ 編集 ]













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