屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

このところ、諸般の事情により、Sayoさんがなかなかひと休みできないので(シュラバとも言います<学習しないヒトです)、代わりにブログにひと休みしてもらいます。
お好みによりスルーでお願い致します。


本文がないので分かりにくいですが、最初の「彼」と最後の「彼」はまったくの別人です(名前の部分はアルファベットに変えました)。

最初に、自分で「この表現やり~♪」と自画自賛した部分ありましたが、泣く泣くばっさり切り捨てました。そういう表現って、あとで読み返すと「やってやるぜ」感がハンパなく、悪目立ちしていて。やっぱり推敲は大事だなー、としみじみ思う秋の夕方です。

もうすぐインフルエンザの季節です。みなさまもどうぞお身体ご自愛ください。
(インフルエンザの記事の若干アヤしい部分は、生暖かくスルーして頂ければ甚幸です)

****

プロローグ

 一瞬、患者が途切れた。
 椅子に身体を預けると、目を閉じて両手の親指でこめかみを揉む。疲れが身体中にまとわりついていた。
 今朝から何人の患者を診ただろう。この前自宅に帰ったのがいつだったか思い出せない。昨夜もその前の晩も病院に泊まり込んだ。
 彼だけではない。まだ病いに倒れずにいる医師は全員 ── そしてもちろん看護師たちも ── 彼と同じように不眠不休で働いているはずだ。

 突然インフルエンザの流行が始まってどれくらいになるだろう。5日 ── いや、最初の赤ん坊がERに運び込まれてから1週間になる。人口5000人に満たない小さな町にひとつしかないこの総合病院は、それ以来患者であふれかえっていた。
 確かに、10月に入ってすぐ冬の到来を思わせるような寒さがしばらく続いたが、それにしても流行には早すぎる。まだ今年の予防接種が始まってから2週間と経っていない。
 もっとも ── われしらず片頬に苦い笑みを浮かべていた── 今年の流行の予測は大外れだ。予防接種など気休めにもならない。3日前にやってきたCDCの医師は、今回の流行はA型が大きく変異した新型のウィルスによるもので、従来のワクチンではほとんど効果はないと言った。まったく、冗談じゃない。

 「先生・・・」
 看護師の1人が遠慮がちに声をかけてきた。まだ若くいつも溌剌としていた彼女も、今は目が落ちくぼみ、声にも表情にも覇気がない。
 「・・・ん、ああ、次の患者さん?入ってもらいなさい」
 急いで身体をしゃんと起こす。身体中の関節がぎしぎしと鳴った。
 「いえ、あちらで少しお休みになってください」
 看護師が奥にある彼専用のオフィスを指差す。普通なら注意したくなるような緩慢な動作だが、それほど身体が疲弊しているのに違いない。
 「交代で休憩をとっていただく約束です。先生方に倒れられてはどうしようもありませんから。1時間休んだら、D先生と交代していただきます」
 「そうそう、最年長のあんたに休んでもらわんと、わしらはおちおち休めんのだ」
 やはり一瞬患者が途切れたらしい当のDが、隣の診察室の入口から顔を覗かせて相槌を打つ。
 「きっかり一時間経ったら叩き起こしに行ってやるよ」
 明るく冗談好きな口調はいつもと変わらないが、その顔は患者のようにやつれている。だが、自分だって相当ひどい顔をしているに違いない。正直もう限界だった。
 「じゃ、ちょっとお言葉に甘えるとするかな」
 そう言うと、よっこらしょと立ち上がる。Dは、別の看護師に急き立てられ、自分の診察室に戻っていった。

 後ろ手にオフィスのドアを閉めると、崩おれるように椅子に座り込んだ。左手で外科用のマスクをむしり取る。
 ちらっと時計に目をやった。3時15分。もうそんな時間か。昼飯がまだだな・・・
 突然、ぞくりと悪寒がした。いかん、ついにわしもやられたか。しばらく前から頭痛と寒気が断続的に襲ってくるようになり、嫌な予感はしていた。

 ふと机の上に置かれた回覧用紙に目がとまった。昨日までのこの病院での患者数と死亡者数の合計が書かれている。
 患者累計、824名。これまでの経験からすると、開業医にかかっている患者を含めれば、実に4人に1人がインフルエンザに罹患している計算だ。
 次に死亡者数の欄に目をやる。死亡者、96名。──何と、10パーセントを越えているじゃないか。スペイン風邪の時代ならいざ知らず、医学の発達したこの21世紀に、冗談じゃない。しかも、ここは先進国のアメリカだぞ。 
 突然、恐ろしい予感が頭をかすめた。
 終わりの、始まり。
 インフルエンザウィルスによって人類が滅亡するときが、ついにやってきたのか・・・
 ──何を馬鹿な、と急いで自分に言い聞かせる。疲れがたまると、これだからいかん。
 全世界にこのウィルスが広まっているわけではない。今のところ、流行が起きているのはアメリカの片田舎のこの町だけのようだ。きっとCDCが解決策を見つけ出してくれる。そのためにも、症状と治療法について、今のうちにできるだけの記録を残しておかなければ。自分がその10パーセントの仲間入りをする可能性だってなくはないのだから。

 不思議に恐いとは思わなかった。だが、もう3日顔を見ていない妻と2人の子供のことが気にかかった。今朝電話で話したときには、3人とも元気でいるとは言っていたが・・・こうなっては、症状が一段落するまで会わないでいた方がよいだろう。

 とにかく少しでも元気なうちに記録を始めなければ。パソコンに向かおうとするのだが、身体がだるく、マウスに手を伸ばす元気もない。
 彼は机の上にあった小型のマイクロレコーダーを引き寄せ、テープが入っているのを確かめると、レコードボタンを押した。テープが回り始めるのを確認してから、ゆっくりと喋り出す。
 「──── 郡アーリントン、聖トマス記念病院では、10月10日に今シーズン始めてのインフルエンザ感染者の発生を見て以来、10月16日現在、824名の患者を診察しております。CDCの調査によれば、今回のインフルエンザウィルスは・・・」
 突然変異について簡潔に説明したあと、症状の説明に移る。
 「このインフルエンザの特徴は、悪寒、頭痛などの自覚症状が現れてから重篤化するまでの期間が非常に短いということです。このため、来院した患者の多くが、気管支炎もしくは肺炎の兆候を呈しております。ごく初期の段階で抗生物質の投与により炎症の拡大を防ぐことができれば、通常の、いわゆる重いインフルエンザの経過をたどって回復しますが、治療開始が遅れると、重症の肺炎、また乳幼児においては脳炎に至る可能性がきわめて高く・・・」

 彼は時間の観念を失い、頭痛や身体のだるさも忘れ、まるで何かに憑かれたようにレコーダーに向かってひたすら喋り続けた。


(中略)


エピローグ

 その朝、空には白いものが舞った。初雪だった。
 彼は診察室の窓から外を眺めながら、インフルエンザの到来にふさわしい天気だと思った。

 ここ3、4日、インフルエンザで来院する患者が急に増えつつあった。予防接種が始まってひと月、流行の始まりが早すぎる。来院患者の中に接種を受けた者が混じっていることも気にかかった。どうやら、今年の予想は大外れらしい。だとすれば、ここ数年来の大流行になるかもしれない。急激に重症化し気管支炎や肺炎を併発する患者が例年よりかなり多いのも不安材料だった。これが冬季オリンピックの年ではなくてよかった、と心から思う。そんなことになれば、観光地から日帰りの距離にあるイタリア北部のこの町は、大打撃をこうむったに違いない。

 「先生!」
 ばたばたと廊下を走る音がして、看護師が飛び込んできた。
 「急患です。インフルエンザから脳炎を併発したらしい赤ん坊が。救急処置室にお願いします!」
 また脳炎の子供か。これで4人目だ。少し多すぎやしないか。いや、考えるのはあとだ。急いで白衣のポケットに聴診器を突っ込み、看護師に続いて廊下に出た。待合室に入りきらない患者が廊下にもあふれている。みな疲れ切った生気のない顔をして、それでも辛抱強く自分の番がくるのを待っていた。

 ──こんな風景は初めてだ・・・
 終わりの始まり、という言葉がちらと脳裏をかすめる。

 まさか、な。
 軽く頭を振って、疲れが意識に上せたに違いないその考えを追い払う。

 今日も長いいち日になりそうだった。


「見えない悪魔」(Unseen Enemy)(初稿2004年)
2016.10.23 16:24 | 好きなもの・こと | トラックバック(-) | コメント(0) |












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