屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

「死すべき定め」(アトゥール・ガワンデ、原井宏明訳、みすず書房)

原書「Being Mortal」を読んだ(聴いた)ときの感想を以前に記事にしています。
原書を読んだとき、「自分がこの本を訳したい」と強く思いましたが、同時に「今の自分の力ではこの本の真価を伝えられない」という恐れも抱きました。

原書はベストセラーになりましたし、ガワンデ医師の著書は過去にも翻訳されていますので、きっと訳書が出るに違いないと、ときどきGoogle検索やAmazon周りチェックで確認していました。そして、出版される暫く前に、同じ著者の「医師は最善を尽くしているか」を翻訳された精神科医、原井宏明氏の翻訳で出版されることを知りました。

原井先生の経歴をネットで確認し、ご自分で何冊も著書を書かれている方であることを知り、ブログで「Being Mortal」について真摯に語っておられる記事も読みました。そして...いてもたってもいられず、「私もその本読みました」的なコメントをしてしまったのでした(ときどきそういう大胆なことをやります)。それがきっかけで、先生とやり取りさせて頂くようになり、前作を翻訳するにあたって、宮脇孝雄さんの著書や他の翻訳指南書で自分なりに勉強されてから翻訳に取り組まれたことを知りました。そのお話をお聞きしたとき、医師であり「翻訳」という作業にもきちんと取り組まれた原井先生の翻訳で本当によかったと思いました。

先生には「読んだら感想文書きます」とお約束していたのですが、ずるずると遅くなってしまいました(いちおー、出版されてすぐに購入したんですけど...)。1つ前の記事の勉強会の前には読了しておきたいと思ったのですが、帰りの新幹線の中でも読み終わらず、月も変わった今となってしまいました。
前置きが長くなりましたが、以下、「死すべき定め」の読書感想文です。

長文です。内容的なこともあり、体調の宜しいときに読まれることをお勧めします。


***


訳文、ということだけを言うなら、もっとこなれた日本語を書かれると思われる翻訳者の方を、たぶん私は何人も知っている。
でも、「死すべき定め」を読んでいると、訳者の翻訳に対する真摯な姿勢が伝わってくる。「翻訳に対する」というと、少し語弊があるかもしれない。訳者は誰でも、常に真摯に翻訳と向かい合っているに違いないのだから。生と死について翻訳することに、居住まいを正して向かい合っている、とでも言えばよいだろうか。少なくとも、さまざまな知識も含めて、今の私が足下に及ばない翻訳をされたことは確かだ。

もちろん、原文の持つ力も大きいと思う。
Amazonの著者紹介には、アトゥール・ガワンデは現役の外科医だが、「ニューヨーカー」誌のライターでもあると書かれている。アメリカ生まれだが、インドにルーツを持ち、両親もともに医者である。

医療の進歩により、寿命は延び治る疾患も増えた。しかし、「人生の最後の日までをどうすれば満ち足りて生きていけるかを全体から見る視点が欠けている」(序x頁)のではないかと、著者は問いかける。
医療を行う側も受ける側も、その方が楽だから、老いや死から目を背けている。そうではなく、きちんと対峙する必要があるのではないか。そのためには何が必要なのかを明らかにしようとする本だ。

原書は何巡したか分からないほど聴いていて、内容は概ねきちんと頭に入っていると思っていたが、母語で「読んで」みると新たに気づくことがたくさんあった。

まず、アトゥール・ガワンデはストーリーテラーだということを改めて実感した。

老化と死についての考察では、インド在住の父方の祖父の最後の日々(多くの家族の世話を受けながら天寿を全う)と、妻の祖母の最後の日々(独居→ナーシングホームという流れで徐々に生きる気力をなくす)が対比される。その間に、これまでの研究で得られた知見や、別の最後の日々の実例(フェリックス・シルバーストーン医師)が挟まれる。
また、いわゆるナーシングホームの成立や、理想的なナーシングホーム、アシステッドリビングなどが生まれた経緯を紹介する間に、ローとシェリー父娘の葛藤が描かれる。
ホスピスと緩和ケアのくだりでは、そのケアの実例の描写と、最後までアグレッシブな治療に望みを繋いだ結果、ICUで最後を迎えることになったサラ・モノポリとその家族の物語が同時進行する。
それぞれが絶妙な間隔で配置され、飽きさせない。逆に、彼(彼女)はこの先どんな運命を辿るのだろうという興味をかき立てる。

終末期ケアでは、治療のみならず話し合いこそが大切なのではないかと、ガワンデ医師は問う。
緩和ケアスペシャリスト、ブロック医師は、そのような患者を相手に話を進める場合のルールとして、「相手の前に座る。時間を作る。治療Xか治療Y、どちらを行うかを決めるのは医療者ではない。今のこの状況の中で、何が相手にとってもっとも大切なのかを学ぼうとする――そうすることで、大切なことを達成できる最善のチャンスを見いだすための情報とアドバイスを提供することができる。このプロセスには話すのと同じくらい聞くことが必要だ。もし医療者が面接時間の半分以上話しているならば、(彼女によれば)これは話しすぎである」(180頁)と語っている。
ブロック医師自身も、父親の手術を前に、現実を直視する「厳しい決断」を迫られた経験がある。
しかし、現実は、「これ以上の治療はよろしくないという時期を決めるための話し合いにはお金が支払われていない」(185頁)。医療は死や病気と闘うために存在するのだから。

「Being Mortal」の感想文の中で、医師の態度には、Father-like figure(家父長的、「こうしなさい」と治療法を指示)、informative(情報提供的、これこれこういう治療の選択肢がありますよと情報を与え、最終決定は患者に委ねる)、interpretive(解釈的、患者の「どうしたいか」を理解し、そのために最善の治療を選択する)の3種類があると語られていることに言及したが、これは、エゼキエル・エマニュエルとリンダ・エマニュエルによる論文から引用された言葉だった。私は、ガワンデ医師は「共同意思決定」とも呼ばれるこの3番目の態度を望ましいとしている、と解釈していたのだが、実際に読んでみると、論文の著者らは、それだけでは足りず、ときには「医師は患者の大きな目標を明確にすることだけにとどまらず、思慮の足りない願望に対しては考え直すように医師の側から指摘する必要がある」(200頁)とも述べている。患者のニーズに適切に応えるためには、時間や知識や患者理解に加え、ときには情に流されない判断も必要ということだ。

これは、患者と家族の間にも当てはまる。
ガワンデ医師は、父親の病に際して、患者家族として「厳しい会話」に臨み「厳しい決断」をくださなければならない。手術をするのかしいないのか、どういう状態なら生きていたいのか、治療を続けるのか緩和ケアに進むのか。決断のときは何度も訪れる。

父親の最後の日々の話と並行して、娘のピアノ教師ペグの最後の日々が描かれる。ペグはホスピスケアを受けながら、最後までピアノ教師として生きた。そういう、何らかの役割を果たすことにも、医療者はもっと目を向ける必要があるのではないかと、ガワンデ医師は考える。「現代のハイテク社会は、社会学者の言う『死にゆく者の役割』が臨終で果たす重要性を忘れている。死にゆく人は記憶の共有と知恵や形見の伝授、関係の堅固化、伝説の創造、神と共にある平安、残される人たちの安全を願う。自分自身のやり方で自分のストーリーの終わりを飾りたい。調査報告によれば、この役割は死にゆく人にとっても残される人にとっても人生を通じてもっとも重要なことである。そして、もし本当にそうならば、私たちの鈍感さや怠慢さゆえに、この役割を否定してしまうことは恥辱を永遠に残すことにもつながる。人の人生の最後の時に底知れない深い傷を残しながら、終われば残した傷について無関心でいることを、私たち医療者は何度も繰り返している」(250頁)。

本の最後で父親にも死が訪れるが、父との間に「厳しい会話」があったからこそ、自分たちは今平穏な気持ちでいられる、とガワンデ医師は結ぶ。

医療者や医療者を志す方たちに是非読んで頂きたい本だと思うが、現実問題、さまざまな制度の縛りがある(らしい)中で、医療者にばかり意識改革を促すのは酷ではないかという気持ちもある。患者とその家族は、自分たちの決断だけを考えればよいが、医療者は数多の患者とその決断を共有しなければならない。常に真摯に対応した場合の疲弊感は並大抵のものではないということは、容易に想像できる。
よりよく生きて死ぬためには、医療を受ける側も、逃げずに現実を直視し、任せておけば医師が何とかしてくれるという他力本願から脱却する必要があると思う。前にも書いたとおり、人生は一度しかないのだから。


最後に。
ガワンデ医師は、最後まで人らしく生きるためには「厳しい会話」が重要で、それを怠らなかったから、父は人間らしく死ぬことができた、と述べている。

確かに、私は、父とも母ともそうした会話をしなかった。ガワンデ医師と状況は違うが、状況が大きく動く前も、3人とも、何となくそういう話題を避けていたと思う。
でも、同時に、老衰で亡くなった父に関して言えば、たとえそうした会話を交わしていたとしても、最後の日々は大きく変わらなかっただろうとも思う。父には延命措置は行わなかった。枯れ木が枯れ落ちるように亡くなった。
それでも、一日の殆どを眠って過ごし、手掴みで食べ物を口に運び、(おそらく)娘を始め周りの誰をも認識できない状態で過ごした日々は、人間らしいと言えるのだろうか。その状態で生きる意味はあったのだろうか。
その問いに対し、かつて私は、自分の気持ちを楽にしたいという思いもあったが、とにかく一つの結論を出している。あれから4年がすぎたが、その気持ちは概ね変わらない。それもまた「死にゆく者の役割」ではないかと思う。
自分も死に際して、そうした「何らかの役割」を果たすことができるだろうか。
2016.11.08 14:03 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(4) |

原井先生、再コメントありがとうございます。

「翻訳者としての視点を定めて」というのは、今年師事した通信講座の講師先生に教えて頂いたことです。
思い返してみれば、それまでも、無意識のうちに似たようなことをやっていたんですけど、意識して「定める」ようにすると、訳語の選択に迷ったときなども役に立つような気がします。

>訳文の一部があちこちで引用されることを想定して

確かに、Gawandeさんの言葉は、引用したくなる部分がたくさんありますよね。私も、今回、「読書感想文書かなきゃ」という使命(?)もありましたけど、付箋貼りまくりました。貼りすぎて意味がなくなって、付箋の高さを(自分の考える重要度で)3段階に分けたりして。

書籍の翻訳ではないですが、私の日々の仕事でも、後になって「こうした方がよかった」と思うところが出てくることは多いです。そのときどきで最善を尽くし、「最善」のレベルが昨日より今日、今日より明日と少しでも向上するよう研鑽を積むのが理想なのでしょうね。たぶん、先生の本業のお仕事でも。

とか、カッコいいこと言ってますけど、私も先生とおっつかっつの年なんで、老眼・腰痛・眼精疲労は辛いし、ついついだらだら過ごしてしまうのが実情なんで、昨日より今日、今日より明日とレベルを落とさないよう足掻いている、というのが現実に近いかも。

「死すべき定め」を通じて、思いがけなく、本業が翻訳とは異なる分野の方ともこうして交流することができました。Gawandeさんに感謝です。

2016.11.13 23:19 URL | Sayo@屋根裏 #- [ 編集 ]

翻訳者としての視点を定めて翻訳をされているように感じました。

このようにおっしゃっていただけると嬉しいです。訳文の一部があちこちで引用されることを想定して翻訳することを心がけました。全体は読まないまま、ある特定の分だけを読んだとしてもGawandeが伝えようとしていることがわかるように。

一方で、後から読み直すともうちょっとなんとかならないかと思うところがあります。読者からのメールで指摘を受けたところもあります。その時は精一杯やった、翻訳は妥協のプロセスでもあるから仕方ない、と思うのがいいのでしょうね。

2016.11.13 22:09 URL | 原井 #- [ 編集 ]

原井先生、

コメントありがとうございます。
お返事お返しするのも緊張しますわ~。

訳文云々の部分は、正直、最後に抜こうかどうか迷った部分でした。
自分はまだまだ及ばない翻訳をされている、でも、私は掛け値なしに「凄い」と思う翻訳をされる方を(個人的に作品をきちんと読んで、ということですが)何人も知っている、原井先生訳を「素晴らしい翻訳だ!」とうわべだけの言葉で賛美したくない、そんな感じです(なので、書いてしまってから何ですが、お気を悪くされないで頂ければ嬉しいです)。全体を通じて、翻訳者としての視点を定めて翻訳をされているように感じました。意識してそれをしている翻訳者は、全体から見ればそう多くないのではと、個人的には思います。私も、まだまだ、そこは努力の途上です。

以前、「死すべき定め」は生と死のみに留まらないというお話をさせて頂いたように記憶していますが、私にはやはり生と死の物語です。
自分の経験と重なり、正直辛い部分もありますし、医師の側にも患者の側にも「それは理想だよ」と思う部分がまったくないとは言い切れないのではないかとも思います。でも、同時に、理想がなければ始まらないとも。重い内容ですが、同時に、きちんと読むと希望を感じるような本でした。

これから外出しなければならないので、あとで、先生がご紹介くださったブログと、あと、エマニュエルの論文も読んでみたいと思っています。

2016.11.09 11:10 URL | Sayo@屋根裏 #- [ 編集 ]

感想をありがとうございます。
原書と訳書で気づくところが違うというのはそうですね。Gawandeの構成の巧さについては確かにその通りです。
Bob Wachterのブログに"Atul Gawande and the Art of Medical Writing"があります。
http://thehealthcareblog.com/blog/2010/08/15/atul-gawande-and-the-art-of-medical-writing/

訳文、ということだけを言うなら、もっとこなれた日本語を書かれると思われる翻訳者の方を、たぶん私は何人も知っている。

Being Mortalの中で引用されている、フィリップ・ラーキンの「救急車」について、児玉実用らの翻訳を見つけたときはショックでした。私にはとてもこのレベルの翻訳はできないと思いました。エピローグはほとんど散文詩なので、苦労しました。
一方、詩は無理だけど散文なら訳せる医者という意味では、なんとか及第点をいただけたようで嬉しいです。ありがとうございます。

2016.11.09 10:31 URL | 原井 #- [ 編集 ]













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