屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

福島正実訳/小尾芙佐訳

初読は多感な高校生の頃(...遠い目)。
原書も翻訳書も永久保存版として所持していたのですが、20年ほど前に諸般の事情により行方不明になってしまいました。

先日、図書館で偶然小尾芙佐訳を見つけ、「ならば旧訳も」と両方借り出しました。

「夏への扉」はSFです。
舞台は(原作時点からみた)近未来。
主人公である発明家ダンは、親友と婚約者の裏切りによって(愛猫ピート以外の)すべてを失い、失意のままピートとともに人工冬眠で30年の眠りにつく決意をします。直前で考えを変え友人と婚約者に一矢報いようとするのですが、逆に麻酔を打たれ、2人の奸計によって人工冬眠に送り込まれてしまいます。
30年後に覚醒したダンは、自分が原型を試作した万能ロボットや頭の中に思い描いていた機械が広く普及しているのを知り、その謎を解くために、タイムマシンでふたたび30年前の世界に戻ります。そこで、自分が目にした未来が現実のものとなるよう手を尽くし、今度は、救出したピートを連れて再び30年の眠りにつくのです。

冬になるとピートが「どれかは暖かい夏に通じているに違いない」と固く信じて探し続ける「夏への扉」。夏は、ざっくりいうなら明るく希望に満ちた未来の象徴かと思います。
冒頭と結びに「夏への扉」への言及があります。

本作のあらすじを短くまとめるのはとても難しい。てことで、興味を持たれた方は、まずはWikipediaさんあたりでもう少し詳しいあらすじを仕入れてくださいと逃げるSayoなのだった。
その上で、お好みで旧訳/新訳いずれかの訳書に進んで頂ければと思います。

最初に年代を整理しておきます。

原作発表:1956年
福島訳初版:1963年
福島訳文庫化:1979年
小尾訳初版:2009年

作中の「現在」:1970年
作中の「未来」:2000年~2001年

20年以上のときを経ての再読ですので、忘れているところも多々ありました。
何より、ワタクシも多感でナイーブな高校生ではなく、世の中のあんなこともこんなことも見てきた50代ですから、当時とは違う感想もあり、主人公に思わず回し蹴りを喰らわしてしまった箇所もありました。

1 「万能ロボットを発明して女性を家事から解放してやりたい」とのたまう主人公ですが、「まずはお前も家事をやらんかあああい」と、まずそこで回し蹴り。
2 最終的に辿りつく2000年の未来で、主人公は、自分ともピートとも大の仲良しである、親友の継娘リッキーと結ばれてメデタシメデタシの結末となります。1970年にはダンは29歳、リッキーは11歳、約20歳の年齢差があるのですが、タイムトラベルで戻ってきた2度目の1970年を去る前に、ダンは、リッキーに「10年経ってもまだおじさん(=自分)に会いたかったら、2000年まで人工冬眠しなさい」と言い聞かせて人工冬眠に入り、2000年に再会して結婚します(てことで、その時点で2人の年齢差は10歳弱まで縮まっています)。しかし、しかしですよ、ダンは、手ひどい裏切りにあうまでナイスバディの悪女ベルに首ったけだったわけで。ところどころに「ずっと自分を慕ってくれた誠実なリッキーがいい」という心境の変化が描かれていたような気もしますが、ラブストーリーにはほど遠く。初読時には「眠り姫みたい♪」とロマンチックに思ったわけですが、恋愛は遠い記憶の彼方、結婚の実態を知った今となっては、「いやいやいや、そこおとぎ話すぎるっしょ」とツッコミを入れずにはおれません。
3 タイムマシンが介在したことで若干力技で話が解決してしまった感は否めません。

そうは言っても。
ワタクシは、この作品好きです。旧訳も新訳も、勢いがついてからは一気読みでした。

特に旧訳と新訳を付き合わせながら読んだわけではありませんが(2つの作品を楽しむのが目的なので)、同じ箇所を比べてみると、小尾訳の方が読みやすい訳になっているように思われました。とはいえ、福島訳にはごつごつとした力強さがあり、それはそれで、「未来は必ずよくなる」と信じて疑わなかった時代背景に合っているような気がします。どちらもそれぞれの味わいがあり、結局、原作がPage turnerの秀作であれば(上では細かいところに文句を付けていますが、「夏への扉」はやはり圧倒的に面白いSF作品だと思います)、力のある訳者の方が訳せば、それぞれ趣の異なる優れた訳書に仕上がるのかなあと思いました。
以上はあくまでも個人的な読書感想文です>念のため。

新訳を読むにあたって、旧訳と比べてみたいと思っていた訳語(訳文)が3つありました。

1 Hired Girl
2 Flexible Frank
3 You know, I think he is right.

1はルンバのまだ上をいく自動床掃除機。床の状態を見極めて、掃いたり、拭いたり、磨いたり、異物を拾ったりとさまざまな動作が可能です。福島訳は「文化女中器」、小尾訳は「おそうじガール」でした(どちらもルビつき)。「文化」はここではたぶん、昭和初期の最新の洋風住宅「文化住宅」を念頭においた「最先端」を意味する訳語だと思います。「文化住宅」も「女中」も死語となった今、Hired Girlはどう訳されているのだろうと。素直な訳になっていました。全体のトーンからすれば、これはこれでいいのかなと。1950年代にすでにルンバの登場を予見していたハインラインは凄いなと思います(蛇足ながら、彼はCADにつながる「製図工ダン」という自動製図機も”発明”しています)。

2は、皿洗いから猫ののどかきまで学習させたことは(ほぼ)何でもできるという万能型ロボット。福島訳は「万能フランク」、小尾訳は「ばんのうフランク」(どちらもルビつき)。「万能」という訳は、このロボットにぴったりの訳語だと思うのですが、個人的には絶対出てこない訳語だな~と思います。

3は本書の最後の1文。エピローグ的にダンとリッキーの「幸せな今」が描かれたあと、

ただし、ピートは、どの猫でもそうなように、どうしても戸外へ出たがって仕方がない。彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。
(福島訳)

でもピートはまともな猫なので、外に行くほうが好きだし、家じゅうのドアを開けてみれば、そのなかのどれかひとつは必ず”夏への扉”なのだという信念をぜったい曲げようとはしない。
そう、ピートが正しいのだとぼくは思う。
(小尾訳)

「ぼくはピートの肩を持つ」という力強い賛同の言葉が未来賛歌のようにも聞こえて、初読当時大好きでした(お忘れかもしれませんが、うぶでナイーブな高校生でしたんで>念のため)。「名訳」と呼ばれることもあるこの1文を小尾芙佐さんはどう訳されているのか、とても興味がありました。

あっさりしとるな、というのが第一印象。
でも、読み直すうち、ところどころ読み比べるうち、いろいろ考えるうちに、2009年の新訳はこれでいいのかなと思うようになりました。
作中の未来である2000年が過去のものとなってすでに久しく、わたしたちは「明るい未来はくるのか」と自信が持てない「現在」を生きています(少なくともワタクシはあまり楽観的ではありません)。「そう、ピートが正しいのだとぼくは思う」には、原作を尊重した上での、小尾さんの「わたしたちは本当は2000年代が素晴らしいばかりの時代ではないことを知っています。でも(未来は明るいと信じる)ピートは正しいと私は思います。あなたもそう信じてみませんか」という思いがこめられているような気がするのです。そう、今ならやっぱりこっちかな。

しつこいようですが、あくまで個人的な感想です>念のため。
2017.04.27 22:58 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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