屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


1年ほど前に「見出しを文章に、文章から見出しを」という記事を書きました。

だいたい毎日紙版の新聞を読むので、この作業は、その後も続けています(サボる日もありますが)。

続けることで、何か身につくものはあるのか。
...てことで、ちょっと振り返ってみます。

「見出しを文章に」の方は、ちょっと油断すると「本文盛り込みすぎ(見出しにそこまでの情報ないやろ)文」になってしまい、「上達した」感はありません。やはり、「漏れてると言われたらヤバいので」という小心者の性格が災いしているのか。翻訳でも、この「冗長」グセが出てしまうことが多々あります。「見出しを文章に」を続けることで、そういう自分のクセ(弱点)を短い周期で「はいはい、そうでしたね自分」と肝に命じることができている、というのが、「強いていえば」のadvantageかもしれません(なのに、なかなか直らんという...)。

「文章から見出しを」の方は、最近、「そのおかげかも」と思ったことがありました。
(前にも書きましたが、ワタクシは、見出しを考えるという作業はけっこう好きなので、どちらかというとコチラの作業の方が楽しいです)

わが家ではA新聞を購読しているので、「文章から見出しを」には、火~土曜日は3面の「てんでんこ」という記事を、日曜日は(「てんでんこ」の連載が日・月は休みのため)同じく3面の「日曜に想う」を使用しています(月曜日は休日♪)。「てんでんこ」は、「頑張ってやろうかい」と思える程度の絶妙な長さです。記事には、2~4文字の見出しと、30文字程度の副見出しがあります。
たとえば、今は「音楽の力」がテーマなのですが、9月22日の「てんでんこ」は、見出しが「沖縄民謡」、副見出しが「『あす』が津波で一瞬にして失われる現実。宮沢和史は動き始めた。」です。

新聞の副見出しを隠した状態で全文を読み、5分程度で副見出しを考えます。文字数にはあまりこだわりません。自分なりの副見出しができたら、答え合せ。新聞の副見出しに「うーむ、そこを取ってくるか」と敗北感とともに納得したり(←だいたいこちら)、「いやいや、それだと内容モロ分かりでしょ」と若干のケチをつけたりして終わります。頭の中で考えているだけなので、自分の見出しを特に推敲することはありません。

副見出し作成作業を無理に順序化してみると(普段は頭の中でやっていて、特に「こういう流れで」みたいなことは考えていないので...)、頭の中で文を要約 → 一番言いたいことは何かを考える → それを基に何となく骨格的なものを作る → そこに「引き」はあるか(見出しが単なる要約になってしまっていないか、つまり読者に「中身も読んでみよう」と思わせる「何か」があるかみたいなことです)を考える → 最終的な副見出し作成、という流れになるかなと思います。

これを1年と少しやってきた先日、マーケティング(もどき)の仕事が舞い込みました。
たくさんの国語辞書さんと類語辞書さんのお世話になり(ふだん、何と狭い語彙の中で仕事をしていることでしょう!)、遅々として進まない日もあり最後はへろへろでしたが、こういう案件、嫌いではないです(こういう案件ばかりもしんどいので、翻訳会社さんには控え目にアピールしておきました)。

その中で、小見出しの翻訳がありました。いつもの定型的な小見出しではなく、多少の「引き」が求められる小見出しです。その小見出しを考えるのが楽しくて。もちろん、自分で考えるのではなく翻訳ですから、「いやいや、そこまでは言うてへんで」と却下し、無難にまとめた箇所も多かったですが、「見出しを考える」作業をやってきたので、すんなり楽しめた(...若干表現がおかしいですが...)のかなと思っています。

というわけで、1年経って若干惰性になりつつあった「見出しを文章に、文章から見出しを」ですが、初心に戻り(<そもそも「初心」はあったのかという説もありますが)「意識してやる」ことをもう少し取り入れつつ続けていこうと思っています。
2017.09.29 17:33 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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