屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「一語一会-出会いで綴る昭和史」(保阪正康、清流出版、2000年)

青息吐息で音読了。
な、長かった...永遠に終わらんかと思った...

父の蔵書からかすめてきたもの。自分のフトコロなら、たぶん痛めなかったかな的な書物。

保阪さんが、それまで取材で出会った人々の人物像を綴ったもの。
軍人・政治家・元官僚などが多いですが、秩父宮妃殿下や佐藤千夜子らの名前も。

保阪さんは、それまでに、延べ四千人近くの人々の話を聞かれたそうですが、自分の出会った人々を、「どのような時代であれ筋のとおった考え(それはいつの時代にも普遍できるという意味である)をもつ人と、その時代しか通じない考え方に固執する人に分かれる」とし、後者は、1. 官位栄達を人生の目標に据え、それを恥じない人、2. 自らの能力や力𠈓を錯覚している人、3. 時代の論理しかなく、児孫の顔が見えない人、4. 巧言令色のみの人、5. 自らの言に責任をもたず、振幅の激しい人、6. 万象の不変を信じている人、 7. 虚言を弄し、責任感のない人、に分類できるとしています(なかなか手厳しいのです)。

本書に収められているのは、前者に相当する人々。
戦前戦後のいわゆる激動期を生き抜いた人々の言葉は、(発言者の思想がどうであれ)唸らされるものがあります(必ずしも全面的に共感するという意味ではありません)。

本書は、「内容をまとめる」という感じの書籍ではないので、そうした人々の言葉をいくつか挙げて、終わりにしたいと思います。

美濃部正
元海軍将校、昭和20年沖縄決戦時に131航空隊隊長として作戦参加。
「私には『死』しかない命令を下すことはできない」という理由を掲げ、軍令部の参謀も出席していた作戦会議の席で、公然と特攻作戦に反対したという。もちろん死刑も覚悟した。
「司令などの指揮官から率先して突っ込んでいくなら、私は反対はできないが、一億玉砕の名のもとに若いパイロットに命を賭して体当たり攻撃していけと命じるのなら、あまりにも残酷ではありませんか。戦争の時代ですから、死は怖くはない。でも、生存率ゼロの命令をだす権利は指揮官といえども持っていませんよ」

石井秋穂
陸軍に所属し、太平洋戦争開戦前の政策立案などにあたった。
「私はあのころ政策立案にあたったひとりです。ですから尋ねられればお答えする義務はあります。しかし、私は私の携わったこと、私の体験したこと、私の見たことは語りますが、それ以外は語れません。推測、噂などは私に尋ねないでください。それから人物観については、私の見聞した範囲内では答えます。それ以外は答えようがありません。私の知っている限り、事実はひとつですが、解釈は多様です」

新関欽哉
戦時下のドイツ駐在の外交官。
「外交官には、ひとつのことに熱中してはいけない、惚れこむな、という教えがあります。特定の人物や考えに溺れてしまったら、国益を損なう恐れがあります」

堀栄三
大本営情報参謀。
「私はあの戦争は、やはり問題はあったと思うが、それには<戦争指導を行った側>と<戦争指導を受けて戦わされた側>の責任は明確に分けなければならない。それを含んでの戦史こそ意味がある」
「人はいちどしか生きないのだから、ひとつのことである時代に生きたら、あとはそれを抱えて生きる姿勢が必要だ。どういう時代になっても小手先で、要領よく生きる姿というのは、ある意味では歴史への背信行為ともいえるのではないかと思う」

原子物理学者(匿名)
戦時下、日本の原爆製造計画に末端で関わった。
「これは誤解される言だから、決して私の発言とはしないでほしい。私たち物理学者の心底では、たとえ自分の肉親があの原爆で犠牲になったとしても-実際に縁者を失った学者もいるのだが-、奇妙な感動を覚えた。机の上の数式では想像もつかないような破壊エネルギーを生み出すということはわかっていたが、現実にはあのような結果になるのか、われわれの計算は正しかったのだ、という感動です。しかしすぐにもう二度とこんなことがあってはならないと恐怖感をもったのです。原子物理学者がもっとも先鋭的に核実験反対を叫ぶのは、感動と恐怖の振り子の揺れがあったからです」


カクカクした文章と格闘していたので、次は、向田邦子さんの「無名仮名人名簿」に移行。さらっと始まる書出しの1行が上手いなあ。
2018.03.19 00:13 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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