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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


今さら、三島由紀夫の『文章読本』を読んでいるSayoです。

この本には「翻訳の文章」という章があります。
三島は、「読者としてどう読むか」ということを書いているのですが、翻訳者としてもじわじわくる文章が多い。
小説や戯曲、詩などの文章が対象ですが、実務翻訳や広く翻訳一般にも当てはまるように思えます。

その中に
「このように読者が翻訳の文章を読むときにも、日本語および日本文学に対する教養と訓練が必要なのであります。その教養と訓練が失われたときに、翻訳の文章と水準は低下し、悪文がはびこり、かつ悪貨が良貨を駆逐します」
という一文がありまして、なんか、ぐさっときたのでした。


読者として「日本語を読む」ことを考えるとき、この頃では、特にウェブ上で、何だかもやもやする文章に触れる機会が増えたような気がします(たぶん、私もときどきそういう文章を書いていると思います、スイマセン)。
原因はさまざまあると思うのですが、「とにかく早く」が求められ(OR よしとされ)、十分な校正がなされないまま文章がひと目に触れる機会が増え、読み手もそれに慣れてきたたというのも一因かもしれません。
そういう文章に多く触れ、「この表現おかしくないか」と立ち止まって考えることをしないでいると、知らず知らずのうちに、自分の中の「きちんとした文章」(という表現は非常に曖昧なのですが、ワタクシ的には、論理が破綻せず、読者が、内容を読み取る以上の無駄な努力をすることなく理解できる文章、のように考えています)の基準がだんだん低くなっていくような気がします(周りの影響を受けやすい自分を基準に考えているので、そうでない方も多数おられると思います。そのあたりは、割り引いて読んでやってください)。

そうすると、書く方でも、きちんとした文章が書けなくなる。でも、読者の方もそうした文章を日常的に目にしているので「まあこんなものかな」ですまされる。そうやって受け入れられてしまうと、「これでいいんだ」となって、次からはそのビミョーにもやもやする文章がその書き手のデフォルトとなる。でも、読者の方もそうした文章を日常的に目にしているので...(永遠に続きそうなので以下略)

翻訳でも同じではないかという気がします。
納期が短いためにそこそこの訳文しか提出できない。でも、読者の方も若干もやっとしながら「この納期だしね、意味は分かるしね、しょうがない」と受け入れる。そうすると翻訳者も「このレベルで仕事をすればいいんだ」となって、それがデフォルトになる。でも、読者の方も...(しつこいので以下略)
仕事としては、それが「合格点」と言えるのかもしれません。でも、私は、どうしても、辻静雄さんの「九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」という言葉を思い浮かべずにはいられないのです。
本来は、読者が訳者を育て、訳者が読者を育て――の好循環が理想のはずなのに、今は(あくまでも耳にする範囲ですが)その逆の循環が優勢になってしまっているように思えて、少し残念です。

自分としては、これからも「きちんとした文章を書く力」を養う努力を続けていきたいです。そうやって自分の中に蓄積したものは、きっと私を裏切らないはず。
読者としては、きちんとした文章とそうでない文章を見分けることができ、訳者としては、常にきちんとした文章を書く。
地味にあたりまえのことなのかもしれませんが、これからも、そういう風に翻訳と向き合っていきたいです。

...てなことを、「文章読本」を読んで考えたりしたのでした。

最近、オチもツッコミも少ない文章でスイマセン。次は頑張ります(何を?<自分)
2018.08.07 23:58 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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