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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


8月が終わっても、まだまだ三島由紀夫の『文章読本』が終わらないSayoです(音読なので、と言訳など)
それでも、やっと「文章の実際-結語」まできました(感涙)。

この章には、作家の書く文章に対する三島の考えが書かれているのですが、翻訳者としても考えさせられる部分がいくつもある。その一部を書き留めておきます。

(文章のスピード――枚数/月――は作家によって千差万別という話から)
「文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。問題は密度とスピードの関係であります。文章を早く書けば密度は粗くなり、読む側から言えばその文章のスピードは落ちて見えます。ゆっくり書けば当然文章は圧縮され、読む側から言えば文章のスピードが強く感じられます」

文学はあまりよく分からないSayoですが、翻訳で考えてみれば、時間をかけてアレコレ考えたり試したりした訳文は、削ぎ落とされた「しまった」訳文になっている場合が多いように感じます。そこが「スピーディな文章」と似ているかなと。翻訳では、「大急ぎで訳した」文章をゆっくりと推敲できるケースは少ないような気がします。特に実務翻訳では。とすれば、やはり「大急ぎで訳さなければならない状況を作り出さない」ということが、まず重要なのかなと思います。やり方は人それぞれだと思いますが。そうやって(推敲も含めて時間を掛けて――と言っても、納期との兼合いがありますが――)「苦心惨憺」した結果が、伝わりやすく「しまった訳文」になるのではないかと。
*蛇足ですが、「大急ぎで訳す」と「翻訳スピードが速い」とは別もので、「速くても大急ぎでは訳していない」という翻訳者の方もおられると思います(ワタクシ自身は、ゆっくりしか訳せないヤツですが)。

「去年書いた文章はすべて不満であり、いま書いている文章も、また来年見れば不満でありましょう。それが進歩の証拠だと思うなら楽天的な話であって、不満のうちに停滞し、不満のうちに退歩することもあるのは、自分の顔が見えない人間の宿命でもあります」

勉強を続けていても、過去より現在、現在より未来の自分は確実に進歩しているというのは、100%事実ではないかも。この言葉は、心の隅に置いておこうと思いました。
だからこそ、長く翻訳を続けていても、折々に「それなりの判断ができる相手に客観的な目で見てもらう」ということが必要なのかもしれません。

(文章が生活環境に左右されるかどうかという文脈で、文章を書くには長い修練と専門的な道程を要する、とした上で)
「われわれの生活環境は、ますます現代(=1973年)の機械化に追いこまれて粗雑な文章の生まれやすいようになってゆきます(中略)しかしそれは文章が生活環境に左右されるかどうかという問題よりも、文章を作るという決意と理想の問題であります」

翻訳も、まず「どんな訳文を作りたいのか」ありきで、「そういう訳文を作りたい」という気持ちがあって、「そのためにはどうすれば」と続くのが理想ではないかと思うのです。


「夏から夏へ」(佐藤多佳子)の感想文を書いたときに、「とにかく何とかして翻訳に結び付けたい病」を発病してしまったSayoです。
「あ、また症状出たね」と、生暖かく見守ってやっていただけると有難く存じます。
2018.09.01 18:20 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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