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2019. 02. 14  
早いもので、「翻訳を勉強する会」も2月で丸1年が経過しました。
長かったようなあっという間のような(まるで年末のセリフやな)。
簡単に1年を振り返ってみたいと思います(注:あくまで秘書個人の感想です)。

「分野を限定せず、まとまった量の良質の文章を読み要約した上で翻訳する」ことを目標に始まった勉強会。
それは「やってみたい」と思っていたことではありましたが、1年前は、自分は何を目指しているのか、どう勉強していきたいかが明確ではなかったような気がします。

管理人さんの発案で要約を取り入れてはみたものの、「なぜそれをするのか」「どうするのがいいのか」がよく分かっていなかったような。5月には、なぜ要約するのかを記事にまとめようと努力していますが(「なぜ要約するのか」)、今、当時の記事を読み返してみると、その時点では、まだ本当にキモの部分が分かっていなかったような感じがします。

それでも、翌6月には、「勉強会に参加するようになってから、『丁寧に読んだと思っていた』『読めたつもりでいた』ことがいかに多いかに気づき、愕然とし」「(勉強会は)『さまざまなことを踏み込んで考えるきっかけを与えてくれる場』であり、『読み方、訳し方』を自分なりに考え、メンバーとのやり取りの中で修正し、また試し...を繰り返す場のように感じ」るようになっています(「読めたつもりが...」)

といっても、7月はまだ「『自分はこうなんや』というところに気づいた段階で、『では、どうすればいい』『何をすればいい』という部分はまだ手探り」という状態です(「勉強会について」)。

8月には、11月に公開勉強会を行うことを正式決定し、「なぜ勉強会を続けるのか」を考えることが多くなりました。しかし、9月になってもまだ、「キモの部分を自分の中できちんと咀嚼できて」おらず「性懲りもなく毎回迷走してしまう」状態でした(「第7回勉強会-なぜ要約するのかふたたび」)。それでも、この月の勉強会でホワイトボードを使用するようになってから、少しずつですが、文法的なことや段落の関係などにも自然に目がいくようになり「常に情景を脳内再生」することを心がけるようになりました(「ホワイトボードは役に立つ+「公開勉強会」業務連絡」)

けれど、やはり、公開勉強会を経験したことが、自分の中でひとつの契機になった、というか、そこから、自分の中で、バラバラだったパズルのピースが少しずつまとまり始めたような気がします。公開勉強会を終えたあと、「何のために要約するのか」がようやく自分の中で明確になり、そこから「そのためにはどう読み要約するか」を考えるようになっていったと思います。また、自分の一番の欠点は、指摘や気づきがあると、ひとつのことしか考えられなくなることだと自覚し、とりあえず「要約も訳文も、いつもデコボコしたアンバランスなものになって…(中略)…そのデコボコが、1本の線に近いところに収められるようになれば、近距離から、遠距離から、そしてさまざまな方向からみた、バランスのとれた『読者に余分な労力を使わせることなくきちんと原著者の意図が伝えられる』訳文がつくれるようになる」のかもしれないというところまでは辿り着きました(「公開勉強会終了しました-Side一翻訳者」)。


思い返してみれば、勉強会を始めた当初、わたしは「上手い(と思われる)訳文が書きたい」ということばかり考えていました。今は、もちろんそれもありますが、それよりも、原文のよさと流れを殺さない訳文が書きたいと思います。「自分が(いいものを書きたい)」ではなく「原文と訳文どうよ」中心に考えられるようになったこの変化を、私は進歩と思いたい。

「少しでもよい訳文を」が目標ではありますが、同時に、勉強会は、考える――原文にあっては「なぜそれがそこにその順番で置かれているのか」を、何かをするときには「なぜそれをするのか」を――訓練をする場でもあるのではないかと思います。少なくとも、私はそう思うようになりました。そして、この「考える」部分が、(少なくとも今現在の)AIと人間の決定的に異なる部分なのではないかとも思います。

そういう1年を経て読んだのが、「翻訳事典」の「私が考える『翻訳』」(井口耕二さん)でした。そこに記されている「翻訳の手順」には、私がおぼろげに「こうありたい」と思い始めていたものが、明確に小気味よく文章化されていました。これを「そこまでは自分には無理」と考えるか「同じレベルは無理でも(無理です<キッパリ)どこまでそこに近づけるか」と考えるかは人それぞれだと思いますが、私は、たとえ今ははるか低レベルでも後者でありたいと思うのです。

井口さんは、最後の方で「本来の翻訳では、『使える』で満足せず『ベスト』を探し求める。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』と『ベスト』の微妙な違いを判断する力だ。対してMT+PEでは、『使える』なら十分で『ベスト』である必要はない、になる。このとき大事なのは、そして同時に磨かれるのは、『使える』とここからは下は『使えない』の境界を見極める力だ」とし、「使える」と「使えない」の境界はだんだん下方にずれ、それによってPE作業者の言語感覚そのものが狂ってしまうと述べられています(「翻訳事典2019-2020」P43)。
この部分を読むと、料理研究家の故・辻静雄さんの「九十点の味でいいということになると、七十点の味に落ちるのはすぐですからね」という言葉(海老沢泰久「美味礼讃」より)が頭に浮かびます(語られる文脈としては、ちょっと違うかなという感じもするのですが)。

最初から「使える」を求める勉強会はないと思うのですが、「翻訳を勉強する会」が1年の時を経て、「ベストを求める」勉強会に育ちつつあることを(少なくともわたしにはそのように感じられます)嬉しく思います。苦しさも、そして楽しさも、ベストを求めるがゆえのものだと。
今後いつまで続けられるか分かりませんが、できるかぎり長く、この苦しさと楽しさを味わっていきたいと思っています。
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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