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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「エッセイの贈りもの2」(岩波書店編集部編、岩波書店)収載
この書籍は、次の音読本を探していて、図書館でたまたま目に留めたもの。5巻まで全巻そろって並んでいたが、ドナルド・キーンという名前に惹かれて2巻を借りてみた。5巻で1938年から1998年までの60年間を網羅するのだが、2巻には1961年から1970年までに書かれた文筆家のエッセイが収められている。

「近松を英訳して」は1962年7月に「図書」という雑誌に掲載された短いエッセイ。訳者の名前はないので、ご本人が日本語で書かれたものだと思う。ここは省略できるという「私(主語)」、副詞の使い方がもやっとする箇所、日本語なら「それ」とするだろう「それら」が数カ所あり、若干かっちりしすぎている印象を受ける以外は、実に美しい日本語の文章だった。

けれど、私が一番興味を惹かれたのは、「英訳」に対する彼の考察だ。
近松の浄瑠璃を英訳するにあたり、キーン氏は、日本語では省かれる主語を英語では補って訳さなければならなかったと述べている。日本語の曖昧さはときに日本人をも当惑させるものだが、英訳することで「現代語訳を読むよりも原作の意味をよく掴むこともあろう。私の英訳を更に日本語に直したら面白いかもしれない」。

蛇足ながら、この「英訳を日本語に訳し直」したものに「A・ウェイリー版 源氏物語」がある。これは1925年から9年の歳月をかけて現代英語訳された「The Tale of Genji」(Arthur Waley)を、もう一度日本語に訳し戻したものだ。平凡社から「ウェイリー版 源氏物語」が刊行されているが(これは知らなかった)、昨年、左右社から新たな訳し戻し訳(全4巻)の刊行が始まり、現在第3巻まで刊行されているようだ(第1巻をずっとほしいものリストに入れたままのワタクシをお許しください)。訳者の毬矢まりえ氏は俳人、森山恵氏は詩人とのことだ。この書籍の装幀がまた、ため息が出るほど美しい。

閑話休題。

キーン氏は、曖昧さを排除し、単複を区別することに時間を掛けたが、一番苦労したのは「翻訳に一種の統一を与えること」だったと書いている。「文句が一つ一つの独立した表現として終わらないで、統一した意義のある文章になるように相当努力した(中略)これ(「冥途の飛脚」中之巻のある箇所の解釈)は言うまでもなく大胆な解釈であるが、たとえこの解釈が誤っていても全体の意味を掴もうとする努力によったもので、、無難なちぎれちぎれの解釈に不満を抱いたためである」。
そして、「もし外人の読者が『心中天の網島』などを読んで、『なるほど、日本人には面白いだろうが、日本のことを余り知らないわれわれには十分その意味が理解できない』と言ったら、私の英訳は失敗だといわねばなるまい。日本独特のもの(障子、下駄など)や独特の考え方(義理人情関係等々)があっても、何か普遍性のあるテーマが西洋の読者たちの心にうったえるだろう」とも。
この文章から、氏が、日本語と英語(そして日本独特の文化と英語圏の文化)の違いを理解した上で、近松の物語を貫くエッセンスのようなものを、正しく読者に伝えようと努力なさっていることが伝わってくる。これは英訳の話だが、和訳についても同じことが言えるのではないかと思う。「どんな形で」「どんな風に」「どこまで原文から離れていいのか」という問題は一筋縄ではいかず、作品や文書の種類によっても力点を置くべきところは違ってくると思うが、彼我の違いを理解・意識し、エッセンス(著者の言いたいこと)を汲み取ろうとする姿勢は同じではないか。

最後に、氏は、「近松浄瑠璃集」があまり読まれていないとしたら、それは、現代の読者に興味を持たせる力がなくなっているからではないかと推測している。もしも、「自由自在に生きている現代語で近松の文章を生かす」現代語訳が発行されたら案外読まれるのではないかと。なぜなら、近松の登場人物はどこにでもいるような人間が多く、誰しも彼らの中に自分自身の姿をみるからだというのが氏の考えで、「そう信じているので近松の英訳をやることにした」とエッセイを結んでいる。

「 」内はキーン氏の文章からの引用だ。1962年の時点で、氏がどれほどきちんと日本語を理解しておられたかお分かり頂けるのではないかと思う。氏の文章がもっと読んでみたくなって著書を一冊注文した(「源氏物語」はまだほしいものリストに入ったままであることは、今日のところはスルーしてやってください)。
2019.03.15 01:46 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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