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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「英語の発想」(安西徹雄、ちくま学芸文庫、第一刷2000年)

一昨年後半当たりからこのテの書籍がマイブームでして(今は、最後の五十か条だけ読んで積んでいた「悪文」をちまちま読んでます)。
「今まで読んでなかったんかい」て話ですが、スイマセン、読んでませんでした。

英語がモノ指向であるのに対し日本語はことを取り出して述べる傾向があり、このため関係代名詞が発達しなかったとか、日本語は動作主への働きかけを中心に概念化するのに対し英語は動作主中心にものごとを捉える(したがって無生物主語が多用される)とか、ウチソトの意識とか、受動態の訳し方(どう考えどのように日本語にするのが「日本語らしい」か)とか、興味深い話題が満載でした。

個人的にとてもtimelyだったのが、時制(視線)の移動。
例として川端康成の「山の音」(本書ではSeidenstickerの英訳と合わせて分析されています)が挙げられているのですが、(日本語の)文章中の過去形と現在形の混在を、安西さんは、「そのとき話の視点はどこにあるか」という点から、語り手の時制(過去形)と物語の主人公の時制(現在形)に分類されていました。

私はその少し前に、過去形と現在形が混在する訳文を作る機会がありまして(原文はすべて過去形)、訳しながら「その方がしっくりくる」という理由で過去形と現在形を混在させたのですが、本書を読んだあとで見直してみましたら、確かに「ナカの人視点になっている」と思える箇所を現在形で訳していました(過去形と現在形の混在が、必ずこの法則で説明される訳ではないと思いますが)。

大げさに言えば、自分の中で「何となく(結果として)適切にやった」ことが「裏づけをもって適切にやっている」に変わった瞬間でした(いや、だから、大げさでスイマセン)。「何となく適切にやっている」と「裏づけをもって適切にやっている」は、結果(生成される訳文)は同じでも、実はかなり違うのではないかという気がします。「何となく」の場合は、基本法則に則っていないので、応用や切り分け(「この場合もそれでよいのか」的な)ができず、どこかで壁に突き当たってしまうのではないかと、そんな風に思えます。

「英語の発想」のような書籍は、私にとっては、そのような「裏づけ的法則」に気づかせてくれる類いの本です。1冊読んで、新たな気づきがあるかもしれないし、ないかもしれない。でも、ともかく「あの人も別の言い方で同じことを言っていた」(だから大切なことなのだ)とピンとくる箇所はある。
さまざまな「なぜ」、「だからこうなる」が気になりだしたここ2、3年が、(自分の)こうした書籍の「読みどき」ではないかと思って努めて読むようにしているのですが、この「読みどき」は人によって違うと思っています(私は「読みどき」が遅く理解にも時間がかかった方かなと)。「読みどき」は、あえて言えば、こうした書籍を「読まなきゃ」ではなく「読んでみたい」と思ったとき、「裏づけ」が気になりだしたとき、読んでいて付箋を貼らずにいられないとき、でしょうか。「読みどき」を誤らなければ、得るものの多い、そんな1冊だと思います。他には、個人的には「翻訳の秘密」(小川高義)、「文芸翻訳入門」(藤井光)、「創造する翻訳」(中村保男)、「日本人のための日本語文法入門」(原沢伊都夫)などが、「読みどき」に読んだと思えた書籍でした。

たいして内容紹介になっていなくてすいません。m(_ _)m
2019.04.26 01:10 | 和書・洋書 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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