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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


「翻訳を勉強する会・番外編 ― 訳文による絵の描き方」(7月14日)にそなえて、『翻訳のレッスン』を再読中です。

内容の方は、「そうだった」と確認する部分あり、「そこは失念していました」と恥じる部分あり、「そこはきちんと理解できていなかったかもです」と今一度うんうん唸る部分あり、共感する部分あり…とさまざまですが、他の方もおっしゃるとおり「読む時期により心に響く部分が少しずつ違う」を実感しています。

翻訳の力をつけるためにはどうすればよいかということが、翻訳の準備(調査)、辞書引き、訳文のつくり方といったさまざまな視点から語られていまして、山岡洋一さんの『翻訳とは何か』同様、折に触れて読み返すのがいいんじゃないかと思っています(個人的見解です)。個人的には、翻訳をはじめてしばらく経ち、さまざまな壁にぶつかってどうしたらいいか分からなくなったときに手に取るのがベストかと。その時点で自分に足りないものが何であるかを確認できると思うからです。

でもだがしかし。

今日の本筋は、暑苦しく『翻訳のレッスン』の内容を語ることではないのでありました。

以前『PIXAR』の記事を書いたとき、「わたしは『あとがき』から入るタイプです」と書きました。先入観が入るのであとがきは読まない方がいいという意見もあり、それはそれで納得できるのですが、わたしはまず著者(OR訳者)の伝えたいことを知りたいタイプのよう。「はじめに」には、「こういうことを伝えたいのです」という力みが感じられることも多いのですが(「はじめに」なので、個人的にはそれはそれでよいのではと思っています。こちらの期待も高まりますし)、「あとがき」からは、多くの場合、直接そう書かれてはいなくても、行間から「わたし(たち)の伝えたいことはきちんと伝わったでしょうか」という読者への真摯な問いかけが感じられるような気がします。自分はそこが好きで最初に読みたいのかもしれないと思います。

で、再読でもあとがきから入るわけです。

そこ(『翻訳のレッスン』あとがき)に書かれているある部分が特に心に残りましたので、少し長くなりますが転記します。

人に教えを請うときの姿勢、そういう姿勢で臨まれたときにとことんやさしい先輩たち、議論するときのルール、そうした議論を通じて培われた信頼と翻訳愛、それを次の代にも継承したいというおもい―これも「恩送り」の一種なのだろうなと、わたしは思っています。フォーラムの方々だけではなく、多くの先輩方が、自分たちの次の世代が「翻訳は楽しい、翻訳が好きだ、翻訳したい」という気持ちと厳しい現実にどう折り合いをつけていったらいいのかを、さまざまな場所で、さまざまな形で、言葉で伝えてくださっているのだと改めて感じさせてくれたあとがきでした。

(今日もまとまらない内容でスイマセン

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「…Q&Aと言っても、今どきの『教えて』や『知恵袋』とはわけが違い、まず自助努力をするのがルール。自分で調べられるところまで調べ、過去ログも必ずさかのぼって読み、自分なりの根拠を添え、『こういうわけでこのように悩んでいるのですが』と尋ねます。尋ねるほうが真剣なら、答えるほうも真剣で、さまざまな調べ物をしたうえで、こちらも根拠を添えて『こうではないでしょうか』とレスを付けます。ハンドルネームとはいえ記名ですから、いい加減なことは書けません。皆、大まじめに取り組みました。勉強会も、順番に出題役をして、数人が訳を書き込み、それを互いに批評しあうというスタイル。うっかりすると喧嘩になるような場面でも、『訳文への批判と個人への批判を混同しない』という大原則のもと、侃々諤々やりあい、直後のチャットでは和気藹々と無駄口を叩くということが日常的に行われていました。先輩・後輩も利害関係もなく、ただ『翻訳』が好きな人たちが集まる場で、わたしたちは大いに鍛えられたのです。
今わたしたちは、翻訳学校やセミナー、大学などで話をしたり、原稿を書かせてもらったりする立場になりました。よく『惜しげもなくノウハウを教えてくださって』と言っていただきますが、そんなノウハウは元々は翻訳フォーラムで先達や仲間たちから教えてもらったもの。今度はそれを次の世代に渡し、少しでも翻訳者の地位向上を目指していくのが、今の私たちの仕事かなと思っています」(pp. 222-223)
2019.06.13 23:38 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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