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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


 2001年9月11日。
 洗車しようと思ったくらいだから、その日は朝からいい天気だったと思う(ともかく、テレビ画面越しに見たNYの空は青かった)。
当時、私たちはシカゴ郊外に住んでいた。ダウンタウンから車で40分ほどの場所だ。
 その日、私は朝からクリニックの予約があり、新聞に目を通しただけで慌ただしく家を出た。いつもCNNでニュースをチェックするのに、その日はしなかった。NYとの間には1時間の時差があるから、テレビをつければ、もう「ツインタワーに飛行機が突っ込んだ」というブレーキングニュースが流れていたはずだ。
 クリニックにテレビはなかった。インターネットはダイヤルアップ接続、携帯電話の機能は通話とカメラだけという時代だ。その時刻クリニックに居合わせた人たちはだれも、東海岸で起こっていることを知らなかったと思う。
 診察は問題なく終わり、久しぶりに車を洗って帰ろうと、帰宅途中に機械洗車場に寄った。10時を少し回った頃だった。そこは、車を預けレジで精算をすませて洗車が終わるのを待つシステムになっている。レジの上に天井からテレビが吊してあるのだが、その日は、その前に人だかりができていた。テレビには、黒煙をあげる建物が映っている。画面にWashington, D.C.と字幕が出ていた。周囲の人にどうしたのかと聞くと、「ペンタゴンに飛行機が墜落した」と言う。「ツインタワーにも突っ込んだ。これはテロだ」と。
 そう聞いてもあまり実感は湧かなかった。その時点でまだツインタワーの映像を見ていないというのもあったかもしれない。
 帰宅すると、留守番電話が何本も入っていた。双方の母、主人、主人の同僚、直属の上司、NJ本社の主人の上司―― 
 その二、三日前から、主人はワシントン州に出張していた。私は、前夜本人からの電話で翌朝(9月11日)の移動はないことを聞いていたが、会社では詳しい移動予定を把握していなかったらしく、「飛行機に乗っているかも」という話になったらしい。会社からの電話はすべて「ご主人は無事ですので安心してください」というものだった。
 (余談だが、テロ発覚後、米国内の空港はすべて閉鎖され、運航が再開されたのは14日になってからだった。主人は帯同していた日本からの出張者を無事に帰国便に乗せるまで帰ることができず、結局1週間ほどポートランドに滞在することになった。)
 テレビをつけると、ちょうどツインタワーが崩落した直後で、画面では、崩落の瞬間や2機目の飛行機がタワーに激突した瞬間の映像が繰り返し流された。ことここに至って、私ははじめて、尋常ならざる事態が起こっているのだということを認識した。
 その時点ではまだ、あまり怖いという気持ちはなかった。乗客乗員がハイジャック犯に立ち向かったユナイテッド航空93便が、ピッツバーグ郊外に墜落したことが分かるのはもう少しあとだ。ダウンタウンならいざしらず、郊外の住宅地に住む自分の身に差し迫った危険があるとは思えなかった。だが、世界で一番忙しい空港と言われるシカゴ・オヘア空港を離陸した5機目のハイジャック機があって、シアーズタワー*を目指して果たせず、郊外に墜落するというシナリオだってあり得たかもしれないのだ。
 その日は何も手につかず、終日テレビを見ながらすごした。

 *シカゴダウンタウンの高層ビル。現在はウィリスタワーと呼ばれる。2001年当時、世界一の高さを誇っていた。

 それからしばらくの間、報道はTerrorist Attack一色だった。ニュースを見ながら、言葉が完全に聞き取れないことをもどかしく思い、また幸いにも思った。地元の新聞を購読していたので、新聞記事は丹念に読んだ。93便の反撃を主導した乗客のひとりが地元出身者だったことが明らかになり、新聞でも大きく扱われた。反撃の直前に彼が発したと言われる”Let’s roll”というフレーが広く知られるようになり、しばらくの間、何かことをなすさいの「決め」言葉的に用いられたと記憶している。
 1週間ほど経過した頃、ブッシュ大統領が議会で演説をおこなった。「テロには屈しない」と国民を鼓舞する内容だったと思うが、ほぼ1フレーズ毎に起こる異様なまでに熱狂的なstanding ovationを愛国心の発露と少しうらやましく思いつつ、この高揚した状態のままこの国はどこにいくのだろうと、一抹の不安を感じた。

 10月7日、やはりブレーキングニュースが、有志連合のアフガニスタン侵攻を伝えた(タリバーン政権は、9.11テロの首謀者と目される、アルカイダのビン・ラディンをかくまっているとも支援しているとも伝えられていた)。攻撃の様子をテレビで見るのははじめてではない。だが、遠い異国のできごとだった湾岸戦争(1991年)と違い、今自分は当事国にいる。相手国に攻撃されることはないとしても、またいつどこで、どんな形でテロが起こるかわからない。とにかく早く収束してほしいと、それだけを願った。
 タリバーン政権は倒れたが、ビン・ラディンの行方はわからずじまいで(のちに発見・殺害)、テロの脅威は消えず、2003年には対イラク戦争が始まることになる。その頃になると、庭木に黄色いリボン(家族が戦争に行っているというシンボル)を巻いた民家が増えていった。車で走っているときなど、リボンを目にするたびに「戦争をしている国にいる」ということを実感した。


 生活環境というものは、おそろしいものだ。私のような、よくも悪くも周りに感化されやすい人間にとっては特に。テロ以前、私は国防ということを真剣に考えたことはなかった。だが、テロ以降、現地の報道や周囲の人間の意見・行動などに接するうちに、「日本も有事に自分たちで国を守れるだけの軍事力を持たねばならない、それが衝突の抑止力にもなる」と考えるようになった。ひとつにまとまった(ように見える)アメリカがうらやましかった。他人事として扱う日本の報道(当時、読売新聞衛星版を購読していた)に不安が募ったということもあったと思う。
 帰国後、日本でさまざまな情報に接し、また外からアメリカという国を見るうちに、私の考えはまた変化した。今は軍事力で「一線」は越えるべきではないと思っている。自分のためにもこれからの世代のためにもそうあってほしい。
 もう一度、私の考えは変わるだろうか。絶対に変わらないとは言いきれない。けれど、あのとき雰囲気に流されて自分の考えを形づくってしまったことは、忘れないようにしたいと思う。自分の目や耳に入ってきやすい、狭い範囲のかたよった報道のみに頼って、自分の考えを変えることだけはするまい――そう自戒している。日本とアメリカを内から、そして外から見ることができたのは、本当に貴重な経験だったと思っている。


 事件から6ヵ月後の2002年3月11日、未公開のビデオを編集した特別番組が放送された。偶然消防隊だか警察だかに同行してツインタワーに入ることのできた記者が撮影した映像だ(記者も同行者も生還している)。途中何度も、建物の外からドカン、ドカンと大きな音が聞こえた。近くで自動車事故が起きたときに耳にするような音、とでも言えばいいだろうか。それが「炎と熱に耐えきれず高層階から地上にダイブした人体が地上に激突した音」だと教えてくれたのは、撮影者自身だったか番組のナレーションだったか――記憶はもうあいまいだが、私は一生その音を忘れないだろう。

2019.09.01 00:44 | 分類不能 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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