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屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


少し前、YasukoHoshinoさんが、先月終了した翻訳祭の感想をブログ記事にされました。

「第29回 JTF翻訳祭2019【後編】~”翻訳の日”キャンペーンに思うこと/ 職業翻訳者としての誇り~」

職業翻訳者に誇りをもとうと呼びかける素晴らしい内容でした。
まずは、その一部を抜粋します。

「翻訳は、文芸翻訳だけではありません。同業者なら当たり前に思われるでしょうが、一般の人にとっては文学以外の実務翻訳の世界があまりよく知られていない面もあります。また、当の実務翻訳者自身にも、自分の仕事の価値を宣伝しきれていない面があるのではないかと感じました」

「実務翻訳によって日本の国家や社会、文化が有形無形に形作られてきた長い歴史があるという事実がもっと広く知られてほしいし、できれば翻訳者にとっての常識となってほしい。実務翻訳が今の日本を作り、支えてきたことを踏まえれば、翻訳者は今以上に誇りをもって翻訳という仕事に取り組めるようになるのではないかと感じます」

「(翻訳祭のセッションのひとつ『質を守る翻訳者の工夫~原稿受領の時点から』の)資料に出てきた『リスペクトされる仕事 プライドをもてる仕事』というフレーズが印象に残りました」


これらの力強い言葉の数々を読みながら、けれど私は、「実務翻訳者ということに私は誇りを持てるだろうか」と自問自答していました。

(注記)
*以下でいう「実務翻訳」は、あくまでも日々自分が仕事で接する翻訳業務で、世間(主に業界)で用いられる「実務翻訳」をすべて包含するものではありません。
私が主に対応している翻訳は、分野は医療機器(もう少し範囲をせばめるなら、循環器系の体内植込み機器や手術用具)、文書は報告書や試験実施計画書が多く、これらは、主にPMDAに提出される申請書類の一部となります。それ以外に、論文・照会事項・社員教育資料・パンフレットなども扱いますが、報告書と計画書が半分以上を占めています。定型表現が頻出するものもあり、改訂版や同種製品の報告書の場合は、差分翻訳を求められることも増えました。



「誇りを持てない」というのが、正直な気持ちでした。少なくとも、ブログ記事を読んでしばらくのあいだは、ということですが。

心のどこかに、「文芸翻訳の方が格上ではないか」という気持ちがありました。

(注記)
* どこまでを文芸に含めるのかという問題もあるかと思いますが、ここでは、「日々の実務に使用される文書」の対極にあるものを連想しています。文芸に含めてよいのかどうか迷うところであるノンフィクションなども含めて考えています。その意味では「出版翻訳」や「書籍翻訳」という言葉を使った方が近いと言えるかもしれませんが、便宜上「文芸」という言葉で統一しています。


そして、確かに、普段の報告書系の仕事より、もっと自由度の高い案件や課題の翻訳の方が、格段に難しい。難しい、という言い方は語弊があるかもしれません。報告書でも、正しい動作やグラフの読み方を求めて、ネットや参考書を何時間も、ときには日をまたいで調べることだってあります。ただ、実際の訳文作りにかける時間は、課題エッセイなどの方がはるかに長い。

また、文芸翻訳は(共訳や翻訳協力という形になることはあるにしても)、全体を俯瞰しながら、一人でまとまった量を訳すことができる。もちろん、報告書などでも、ある程度時間をかけて1件まるまる1本の文書を訳すこともありますが、「納期が短いので数人で分担」「納期と予算の関係で最低限の差分翻訳」ということが増えました。
「これに合わせてほしい」と同時に参考文書を渡されることが多いのも報告書の特徴のように思いますが、文書によっては表記や用語の統一が取れていないものもあります。さすがに修正すべきと思う箇所にコメントを入れながら「(おおむね多忙が理由かと思いますが)どうせきちんと読まれないのだろう」と空しくなることもあります。
けれども、そういう仕事は、それなりに繰り返しの多い、あまり頭を使わずに既訳をベースに訳文をつくれる「美味しい」仕事だったりもするのです。心の中でため息をつきながらも、お金がほしくて、ついつい受けてしまう。いくら早めに仕上げて納期の残りの時間を勉強や別のもう少しやり甲斐の感じられる仕事に当てようとも、自分の中でもやもやする気持ちがなくなることはありません。


自分が弱い、と言ってしまえばそれまでなのでしょう。
意に沿わない仕事が多いのであれば、もっと積極的に、そうでない仕事を与えてくれる翻訳会社(クライアント)を探せばいい。そのためには実力をつけよと人から言われ、自分でも自分をそう鼓舞しているけれど、実際は、理想と現実のはざまで揺れる日々なのです。
実務翻訳が、今の日本をつくった。そして、今もあらゆる活動の基礎になっている――確かにそう、なのでしょう。でも、「だから重要なのだ」という言葉は今は心に空しい。

そんな自分は、いったい何に誇りをもてばいいのだろう。


そんな風に悶々としていたとき、私はある文章に出会いました。
それは、『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル)の中の一節でした。

(蛇足)
* この書籍は、タイトルどおり、キャンベル氏による井上陽水の歌詞の英訳を対訳形式で収めたものですが、前半部分には、氏の英訳時の姿勢や、歌詞の解釈、英語の表現を求めての呻吟、陽水氏との対談なども収められていて、大変興味深い。この本については、いつか改めてブログ記事にしたいと思っています。



「白なのか黒なのか、ではなく、白でもあり黒でもあるのではないか。はては、白でもなく黒でもないのではないか。そういう、ある種測れない形のぼんやりしたものが文学的なのではと思うのです」
「(日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、『雪国』英訳時に川端康成に『多くの部分が曖昧でとても困っている』というような質問を投げかけたときの川端の答えとして『余白と言おうか、余情とでも言おうか、曖昧だからこそ、逆に表情を豊かに受け止める力が生まれる。その可能性を私は信じたいのです』」


訳文に余白を持ち込む、と言っても、翻訳者は、自分の頭の中にきちんとひとつの解釈をもって(=確固たる絵を描いて)いなければなりません。その上で、原文が曖昧さを残した文章であれば、どこか読者に解釈を委ねる余地を残した訳文をつくるのが文芸翻訳だということができるのかもしれません(もちろん、曖昧さを排さなければならない場面もあるには違いないのですが)。

それなら、実務翻訳は「余白を徹底的に潰す」翻訳と言ってもいいのかもしれない。少なくとも自分が扱うような文書においては。
私は、そのとき、ふとそんな風に感じたのです。「そこに書かれている解釈が唯一の正しい解釈である」訳文をつくる――これは、あたりまえと言えばあたりまえのことですが、実はとても難しいことではないかと思います。日々「余白のない訳文をつくる」という意識をもって翻訳に向かうことが、実務翻訳者として自分がすべきことであり、常にそういう訳文がつくれる翻訳者であるということが、実務翻訳者の誇りだと言えるのではないか。


結局は、ただの心の持ちようでしかないのかもしれません。
けれど、「重要な仕事を担っている」という少し抽象的な理想より、「余白を排除する」という考え方は私の心に響いたのです。
そして、余白について考えたとき、自分の中の悶々とした気持ちが確かに少し楽になったのでした。

この考え方(翻訳に対する姿勢)は、これまで培ってきたもの、やってきたことから外れるものではないと思っています。
ただ、「余白」という言葉が最適のものなのかどうかについては、正直まだ少し迷うところがあります。もしかしたら、自分の考えをきちんと伝えきれていないかもしれない。

それでも、(少し大げさな物言いをするなら)「実務翻訳者であることに誇りをもつ」心の拠り所が得られたということを文章にしたく、現時点の認識で記事にしました(あくまで自分の拠り所ということです――ただ、こういうことは、自分の心が納得するということも大事かなと思っています)。
2019.11.11 01:06 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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