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2020. 08. 02  

 これは、JITF2020のウェビナーを視聴して考えたことをまとめたものです。
 後日「見逃し」視聴するものも含め、視聴したウェビナーすべてについて、なにがしかの感想をまとめるのが目標です(あくまで目標です)。ですが、諸般の事情により、2本目以降の収納は8月後半になると思います。考えることがたくさんありました(笑)ので、とりあえず柴田先生と永井さんの対談(以下、本文では「対談」とします)のセミナーのみ、気分が高揚したまま(笑)、考えたことをまとめてみました(というか、思いつくままに書いたというか)。

ウェビナーの内容説明はコチラ

 上の説明にもあるとおり、この対談は、作者と編集者としてお二人がまとめられた『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』(アルク)がもとになっています。
 PPTの枚数からすると、100のうち十数項目を「ネタ」としてご用意されていたようですが、結局話題にされた項目は数項目でした。その代わりひとつの話が膨らんだり、可能なかぎりQ&Aに回答頂いたりと、中身の濃い90分になりました。

 開始早々音声トラブルがありましたが、司会の関根マイクさんの対応が見事でした(少なくとも画面のこちら側の私にはまったく動じていないように見えました)。事前準備に裏打ちされたものには違いありませんが、通訳者の方々の瞬発力・対応力というのを垣間見た気がしました。

 対談の中で、柴田先生は、何度か「僕にとって翻訳は遊び」「好きなものしか訳さない」ということを口にされました。「遊び」という言葉はそれだけ聞くと誤解を招きそうですが、それだけ翻訳を楽しんでいらっしゃるということだと思います。「好きなものしか訳さない」のくだりでは、好きではないものはどうしても精度が落ちてしまうとも仰っていましたが、確かに私レベルでも似たようなことはあるかもしれません(「つまらない」と思う仕事には全身全霊で取り組めない的な)。
 そう考えると、文芸翻訳にかぎらず、「自分はどんな翻訳をやりたいのか」ということは、早いうちから意識して考え、「やりたいものだけやれるようになるにはどうすればいいのか」を、中・長期計画として考えておくのがよいのかなと思います(途中で方向転換することはもちろんアリだと思います)。

 柴田先生と関根さんが話題にされた、「通訳と翻訳の大きな違いはなんだろう」という話も面白かったです(蛇足ですが、両者の違いを「語順」に焦点を当てて考える、通訳者・白倉淳一さんと翻訳者・高橋さきのさんのウェビナーが8日にあるそうです→詳細はコチラ)。お二人の間で、通訳(同時通訳)は、ポイントを絞ってエッセンスを抽出するという点で引き算、翻訳は、どう豊かにしていくかを考えるという点で足し算ではないか、というようなお話がありました。翻訳を「足し算」というのは、もしかしたら語弊があるかもしれません。私は英語の語順のままの荒削りなものに、雰囲気だったり流れだったりといった微妙なものを「足していく」感じかなと思いました。同通をパッキリ描かれたリンゴの絵とすれば、翻訳は鉛筆書きしたリンゴの線描画というイメージです(あくまで私が捉えたもので、お二人が考えておられるものとはまた少し違うかもしれません)。

 「黒人や南部訛りなどを訳すときに工夫していることはあるか」という質問に対する柴田先生の回答にも、考えさせられるところがありました。「その方言を使うことで、何を表現しようとしているのか、何が大切なのかを考え、それを訳文全体でどう表現できるか考える」というような回答だったと思います。これは文芸翻訳の話ですけど、その部分(訳語)だけで表現しようとせず、もっと広い視点から考えるという考え方は、広く他の分野にも共通するものではないかと感じました。

 翻訳が難しいいくつかの言葉も話題に上りました(最近話題になったBLMも!)。永井さんが「基本単語の方が難しい」と仰っていましたが、本当にそのとおりですね。

 他に心に残ったQ&Aや話題に上った項目をいくつか。
 Q「訳すとき、登場人物に感情移入するか」→柴田先生からは「語り手に寄り添うのが翻訳者だと思う」と回答。語り手が登場人物に感情移入しているのなら、それと同じ熱量でということでしょうか。「語り手に寄り添う」という部分、ナルホドと思いました。
 項目38/100「しっくりくる言葉しか使えない」→しっくりする言葉を選ぶために訳文を寝かす事も大事、という話になり、そこからの流れで「納期は破ってはいけないものだが、締切は破れるものだ」(!)という先生の名言が飛び出したと記憶しています。さらに、話は推敲にも及びました。柴田先生は、だいたい5~7回は推敲されるとか。原文と照らし合わせる場合もあり、日本語だけを見る場合もありですが、「おかしいと思ったら原文に戻る」と。これは、すべての翻訳に共通する大切な「翻訳との向き合い方」だと思います。
 Q「安定した訳を出すにはどうすればよいか」→「自己愛(翻訳者の「どうだ!」という工夫がはっきり表に出てしまう翻訳)を殺すこと」という回答は(やりがちなので)ぐさっと刺さりました。

 時間も残り少なくなってきた頃、柴田先生から、James Robertsonの"The Inadequacy of Translation(翻訳の不十分さ)" という短編についてお話がありました。その短編の内容については、『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』のあとがきで触れられていますが、先生は、この短編の一節を朗読され(そうなんです! 先生の朗読というボーナスがついたんですよ! せっかくなので目を閉じて聴かせていただきました)、その最後の部分は「翻訳の不十分さをこえて伝わるものがある」と読んでよいのではないかと結ばれました。そのように「きちんと伝わっているものがある」と実感できることが、翻訳する理由というか醍醐味と言えるのかもしれません。

 まだまだずっと聞いていたいという気持ちになる、濃密な90分でした。


 さて。
 柴田先生のお話をお聞きして思いを巡らせたこと(というか改めて考えてみたこと)など、最後に少し。

 私は実務翻訳者ですが、書籍翻訳にも興味がないわけではなく、いつも「翻訳に不変なことはなんだろう」「書籍と実務の違いはなんだろう」「文芸・実用・ノンフィクションの違いはなんだろう」というようなことを考えながら、先輩翻訳者の方のお話を聞いたり、そうした方々が書かれた書籍を読んだりしています。
 間違っているかもしれませんが、今のところ、「何を最優先させるかが若干違うのかも」という風に考えています。もちろん、どの分野の翻訳も、翻訳者が「書き手が伝えたいことを読者に伝える」ということが基本としてあると思います。けれど、たとえば小説や詩などは、書き手の意図はひとつだとしても読者の受け取り方は一つではないかもしれません。だから、文芸作品の翻訳では、(作品の内容にもよるかもしれませんが)そういう「受け取る側の自由」が担保されるような余白を残す、ということも頭の隅に置いておく必要があるのではないかと、そんな風に思うのです(そして「自分にはできないなあ」とこうべを垂れるのであった)。一方、実務翻訳では、異なる(=間違った)解釈が入る余地がないよう余白を潰すように訳すことが大事なのではないかと。そして、その中間の幅広い領域に、実用書やノンフィクションが位置するのではないかと、今のところ(なんとなく)そんな風に考えています。
 柴田先生のお話は、自分のこれまでの考えと大きく違うところにあるものではないように(勝手に)思いました。JITF2020では、期間の後半にノンフィクション翻訳者の方のお話も聞けるようで、楽しみです。それ以外にも、映像翻訳者や通訳者の方など、普段は聞くことのできない話が聞けそうで(印をつけたものの半分以上は後日視聴になりそうですが)、本当になんという贅沢な企画なのでしょう。
 運営なさっている皆さんに、心から感謝します。
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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