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2020. 10. 24  

『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)

 読了したのが三ヵ月近く前でして(<今まで何してた<自分)。
 そのときの心の昂ぶりのようなものも、たいがい消えてしまった今日この頃ですが…
 面白かったです。ところどころ音読したりしていましたので少し時間が掛かりましたが、十分一気読みできましたね(もう少し若ければ)。二段組みの単行本なんか、いつ以来だろう。


 芳ヶ江国際ピアノコンクールに出場した四人(本選まで残ったのは三人)のコンテスタントが、予選を通じ音楽を通して触れ合い成長していく(年齢制限ギリギリの高島明石の場合も、迷いが消え人間として成長したんじゃないかという意味で)成長譚とも呼べるのかもしれませんが、圧倒的に音楽が主人公の物語だと思いました。感覚としては、スポーツ小説を読んだあとの読後感に近かったです。

 音楽(演奏)が、演奏の様子や「音」の直接的な表現ではなく、聴き手や弾き手のイメージや思考(心の動き)といった実体のないもので表現されているのが、自分がこれまで読んできたスポーツ小説と似ているように感じたのかもしれません(『銀盤のトレース』シリーズ(碧野圭)とか――そういえば、あのシリーズ、もう終わりで続きはないんですかねえ――堂場瞬一の「走る」シリーズとか。有吉京子の『SWAN』初期のバレエコンクールの場面なども思い出しましたね)。登場人物による感じ方の違いもきちんと書き分けられていて(性格の細部まできちんとつくり込まれているということかと思います)、さすがだなと思いました。イメージによる表現の場合は、こちらの頭の中にも同じイメージが浮かぶようです。たとえば、主人公の一人、栄伝亜夜が、ダイナミックで一般受けするもののどこか単調な演奏を聴いて抱いたイメージはこんな感じ。

「(脳裏に浮かぶイメージは)大柄な男性たちがバレーボールをしているところだ。それも、なぜかチームのエースが見事なバックアタックを打ちこんでいるのに、ことごとくコースが読まれてブロックで阻まれているシーンである(中略)強力なバックアタックなのに、攻撃パターンが単調なため、ブロックのタイミングもすっかり合ってしまい、スパイクを決めることができないのだった」(201頁)

 随所に演奏する曲の解釈に関する記述があるのですが、そうした場面では、つい「音楽家が『演奏する』ことと、翻訳することは同じなのか」ということを考えてしまいました。
 どちらも「自分が『これだ』と考えるひとつの解釈に則って表現する」という意味では同じなのかなと思えてきます。翻訳でも、それがどんな種類の原文であっても、やはり「これが著者の言いたいことだ」というひとつの解釈の上に立たなければ、きちんとした訳文はつくれないと思うんですよね。解釈がぐらついている訳文は、多かれ少なかれ「言っていることがわからない」箇所をもつものになってしまうと思うのです(<と書いた瞬間にブーメランになって戻ってくるなど)。けれど、音楽の方が、解釈の幅というか自由度は格段に広い。特に、カデンツァと呼ばれる即興演奏パートが組み込まれた課題曲「春と修羅」の演奏場面でそのことを感じました。正直、考えるほどにわからなくなってくるのですが、それほど「音楽を演奏する」ということに翻訳に対する「近しさ」を感じてしまっている、ということなのかもしれません。

 もうひとつ、ふと翻訳に思いを馳せた箇所がありました。やはり主人公の一人であるマサル・C・レヴィ・アナトールの、将来は「新たな」クラシックを作曲し自分でも演奏するコンポーザー・ピアニストになりたいという心の内が語られる場面です。正確には、「新たな」クラシックという言葉かな。考えてみれば、どんなクラシック音楽も、作曲されたときは、同時代の人々を聴き手に想定した「現代音楽」だったのですよね。それは現在「古典」と呼ばれるようになった文学作品も同じはず。そう考えると、古典新訳が(その時代固有の生活様式や事物の表現には配慮した上で)現代的な表現を用いて翻訳されていても、それはそれでよいのかなと思ったのです(あとはもうその新訳が「好みかどうか」という話になるでしょうか)。

 そうそう、その同じマサルが演奏のための準備を大邸宅の掃除にたとえる場面があって、これも翻訳者としてなかなか興味深かったです。どうやって掃除したらよいのかわからない部分も多いので「まずは、掃除に掛かる手間や材料、掃除の方法を考え、準備をしてから掃除に掛かる」。最初のうちは、細かいところまで気が回らずし残しが出る。それでも工夫しながら毎日掃除を続けていくうちに、完全に磨き上げられる日がやってくる。マサルはこれを、「意識しなくても、隅々まで手が行き届いて、屋敷が生来の美しい姿を現す日」「この曲のすべてを知っていると思う瞬間」と表現します。翻訳では、「この原文のすべてを知っている」と思う瞬間はたぶん訪れないだろうし、そんな境地(「完璧にできた」感)に達したとしたら、それはそれで危険な気がしないでもないのですが、ここに描かれた掃除の過程は、翻訳と推敲の作業に似ているなあと思うのです。特に、磨き残しが少しずつ減っていくあたりは、推敲によって訳文の凹凸が減っていく過程とよく似ている気がします。

 コンクールを終えた二人の審査員(片方はマサルの師でもある)のやり取りが描かれる短い場面とエピローグを別にすれば、本選最終演奏者の亜夜が演奏のために舞台に出ていくところで、この物語は終わります。最終ページに本選の成績が記載されているものの、本編では審査員のやり取りの中で結果が暗示されるのみ。それまでに、皆それぞれに成長を遂げ、異端児・風間塵の亡き師ユウジ・フォン=ホフマンいうところの「カザマ・ジンなる『ギフト』」をちゃんと受け取ったから(そして、塵自身も「音楽を外に連れ出す」仲間と手立てを見つけたから)、物語としてはそこで終わっていいということなのだろうと思います。
 エピローグの塵のモノローグに「耳を澄ませば、こんなにも世界は音楽に満ちている」とあります。きっと音楽家の周りは音や音符であふれているのだろうなあ。翻訳者の自分も、「頭の中に言葉があふれ(私たちの場合は「きちんとしまい込まれ」というべきなのかも)、取り出されるのを待つ」という状態に少しでも近づきたいと、最後まで翻訳と絡めずには気がすまないSayoなのでした。


 栄伝亜夜は子どものころ天才少女と呼ばれCDデビューまでしていたのですが、母親の死をきっかけに舞台に立てなくなってしまっていました。芳ヶ江コンクールは、その復活の場でもありました。「完全復活」を確かなものにした第三次予選の最後に弾いたのが、ドビュッシーの「喜びの島」。クラシックにはうとい私はまったく知らない曲でしたので、YouTubeで探して聴いてみました(いやホント便利な世の中です)。いい曲ですね。復活にふさわしい曲だと思いました。
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プロフィール

Sayo

Author:Sayo
医療機器の和訳も9年目。
老眼腰痛、最近は膝痛とも闘いつつ
翻訳人生をまっとうしようと奮闘中。
この頃になってやっと翻訳の奥深さ・
難しさ・楽しさが分かってきたような。
記事は「翻訳一般」多め、ときどき読書感想文、本業(医療機器)やや少な目。
(2019年4月現在)

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