屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。

「翻訳力を向上させるには良質の文章を読むとよい」という言葉をときどき耳にします。

以前は特に疑問も持たなかったのですが、あるとき「良質の文章て具体的にどんな文章やねん」という疑問がふと頭に浮かび、以来答えの出ない世界をぐるぐるしていたSayoです。

自分が翻訳者として関わる分野でいえば、「著者の意見が、業界用語を正しく用いて理路整然と書かれており、起承転結に齟齬がなく、その分野の基本知識を身につけた人間であれば、一読して趣旨が頭に入る」文章が良質の文章といえるのかなと思います。

一般的な文章についていえば、やはり「基本的な文法に則った、流れのある読みやすい文章」をひとつの「良質の文章」と呼ぶことはできるかなと思いますが、そうではなく、たとえばあちこち引っ掛かる表現であっても心に残る文章というものもあり、ではそれは「良質」ではないのかと問われると、分からなくなってしまうのです。

「質」という言葉を用いることで、どうしても主観的要素が混じってしまうように思います。書かれた目的、読まれる目的、対象読者などがさまざまに異なる日本語の文章全体をひっくるめて「良質の文章」と呼ぶことにも無理があるように感じます。

なので...

全方位的「良質」文章を追究するのは止めにして、自分が目的とする種類の文章における「良質」を求めていくことにしました。
たとえば、フィクション、ノンフィクション、実務文書、新聞等で良質の文章というのはビミョーに異なると思うのです。

とはいえ、基本は大事なわけで。

日本語文法と文章作成技術の基本を抑えた上で、常に「自分の求める種類の文章における『良質』は何か」を考えながら、広く文章を読んでいくのが理想かなあと思っています。
そうする上で、「今(あるいは短期的視点で)どんな文章を書く必要があるのか/書きたいのか」と「長期的にどんな文章を書いていきたいのか」の両方の視点から、優先的に読むべき文章を選んでいくのがいいのかなと。短期必要文書系6割、長期文章鍛錬系4割とか(割合はときどき見直します)あくまで自分の場合ですが(で、「優先的に」をためてしまういつものパターンなのだった)。

とはいえ、基本だけでも不十分なわけで。

そのうちご紹介したいと思いつつ年を越してしまった(<というか、世間はすでに3月なのだった)「文章の書き方」で、辰濃和男さんは、「広い円」という言葉を使って、1のことを書くために(たとえば100の)多くの情報を得ることの大切さを説いておられます。言葉も同じで、100通りの語彙や訳し方が自分の中にあってはじめてぴったりの訳語を選ぶことができるのではないかと思うわけです(まあ、100は自分には逆立ちしても無理と思いますが)。そのためには、さまざまな文章を多読して自分の中に語彙を蓄積する必要があるかなと。

ということで、強引にまとめてみると...

基本は大事。
常に目的とする文章における「良質」を自問自答することを忘れない。
その上で語彙を蓄積する努力をする。

...みたいな感じになりましょうか(...理想ですが...)
2017.03.02 23:40 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
某社主催のリーディングの通信講座の課題を無事に提出することができました。息も絶え絶えのSayoです。

思えば1年前、HPで偶然目にした上記の講座。
6ヵ月の間に2冊の原書(フィクション/ノンフィクションの2つのコースから選択、課題図書1冊+自由選択図書1冊)を読んでシノプシスを提出すると添削されて返ってくるというものです。
かなり食指が動きましたが、当時ワタクシはすでに****アカデミーさんのノンフィクション講座の受講を始めていて、仕事量の減少を1割程度に留めた状態で、6ヵ月間に2つの講座を完走するのは自分には無理と思いました。
そこで、「こういう事情で今は申込みを躊躇しているのですが、2期目の募集予定はありますか」と問い合わせたところ、予定はないとのことで、救済策として特例として半年期間を延長して頂きました(蛇足ながら、こちらの講座は好評だったようで、実際は昨年2期目の募集がありました<そういう事情もありまして、講座の内容をあまり詳しく書けないわけなんですが、ご了承くださいませ)。

ノンフィクション講座は7月には終わったのですが、その後もだらだらと日々を過ごしてしまい、気づけば年も変わり、締切りまで2ヵ月もありません。
結果、40日弱で2冊の書籍を読み5日で2冊分のシノプシスを書き上げるという、恐らくは実際の「実務もやりながらリーディング」に近い形で課題に取り組むことになりました。毎日、仕事を終えたあとに最低1時間は強制的に原書を読む、メモを取る(←フツーはここで雑誌や小説を読んだり、ぼーっとテレビを見たりして緊張を解いてます)という生活、精神的にしんどかったですわ~。おかげで確定申告は忘却の彼方じゃ。

とはいえ、1年の間に課題図書と選択図書両方のCDブックを手に入れて、何度も繰り返し聴いていましたから、一からのリーディングというわけではありませんでした。
...とたかを括っていたりしたわけです。「内容分かってるんやから楽に読めるや~ん」的な。浅はかでした。「キモはどこか」を考えながら読むのと聞き流すのは全然違います。まあ、あらすじをまとめる際には、流れが分かっているということが多少役に立ちましたが。

本ブログでときどき「読書感想文」を書いていたことも、たぶんなにがしかの役には立ったと思います。
ただ、「読書感想文」は、基本「この本よかったのー、面白かったのー、読んでー」という思いで書いていますが、シノプシスの所感ではもっと客観的かつ多面的にその本を評価する必要がありました(つまり「商品としてどうか」という視点も必要ということです。少なくともワタクシはそう思います<選択図書は現時点で内容イチ押しのものにしましたけど)。

シノプシスはこうやって書くのか~、ということが分かったことは面白かったです。
まあ、どう添削されて返ってくるか、あまりにもギリギリなんで、そもそも添削してもらえるかどうかも分からないですが。
ともかく、明日からは「目の前の仕事ONLY」の生活に戻れるということで、遅れ気味ではありますが、精神的にはかなりラクになりました。もうしばらく通信講座はしないぞー。

1年前には、「成績がよかったら乗換えもありかも」的なヨコシマな思いがあったのも事実ですが、今は「どうしても」という気持ちはありません(そのあたりは、2016年を振り返る記事でも書いていますので、しつこくは触れません)。
ただ、少し実務翻訳からはみ出てみて、「外から実務翻訳を見る(何が違うのか、何は変わらないのか、応用できるものはあるかetc.)」ということも大事かなと思うようになりました。ナカにどっぷり浸かっていてはどんなに注意していても視野狭窄に陥ってしまいがちです(自分の場合は、てことですが)。それは「医療翻訳」の外、「英和訳」の外、「医療機器翻訳」の外(翻訳以外の世界という意味で)にも当てはまることかもしれません。「医療機器翻訳」という自分の基本を大切にすることはもちろんなのですが、今年は、「外」を意識しながら過ごしていきたいと思います。この仕事終わったらね。確定申告終わったらね。
2017.02.20 00:06 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(2) |
「原文の意図するところを日本語で過不足なく伝え、同時に、対象とする読者が労せず内容を正しく理解できる文章になっている」
そんな訳文を目指したいと考えるようになって1年と少し。
その間のブログ記事を読み返してみると、何度もそのことに触れています。
よっぽど書くことないんかい<自分。

そうではなく、たぶん軸がブレそうになり、そんな自分に気づいて書くことで基本に立ち返ろうとしたんだと思います。
なので、また今日も書かねばならないSayoであった。
てことで、皆さんはいつもの「テキトーにスルー」でお願い致します。

年度末が近いせいでしょうか、仕事もそれ以外の部分も忙しい今日この頃(仕事が忙しいのはありがたいことです)。
でも、時間に追われて生活していると、つい「考える」ことが後回しになってしまう。

落ち着いて考えてみると、最近は、読者の読みやすさ、理解しやすさを過度に優先し、少し原文をないがしろにし過ぎていたような気がします。ワタクシには、1つのことに集中しすぎると、そんな風に目の前のことだけに意識が行きがちなのです。だから、時々立ち止まって考えないと、簡単に基本から外れてしまいます。原文作成者が伝えたい何かがあっての原文で、それを踏まえた上の想定読者に寄り添う訳文でなければならないはず。実際のさじ加減は微妙な部分も多いですが、キモ(まず原文ありき)を失念してしてしまっては、無意識に勝手訳との境を踏み越えてしまう恐れもあるわけで。

具体的には、「2文を1文に統合する、1文を2文に分ける」ことに対する意識が甘かったなと。全体の流れや読みやすさを重視してしまい、「なぜ統合する(分ける)必要があるのか」の自問自答が足りなかったかなと反省しています。「キモないがしろ」の弊害の1つでもあるかもしれません。今後、注意したい点です。
それから、まず「この原文作成者はどんな意図でこの文書を作成したのか」を考えてから訳出作業に入ること。忙しさに紛れて機械作業的に翻訳に入り、入ってからは日本語ばかりに意識が行きがちで、原文の存在を多少軽んじてしまった感があります。でも、それでは、一見それなりの出来の訳文が作成できても、どこかに「行き過ぎ」が潜んだ訳になっている可能性があるのですよね。気をつけねば。

そんな風に「基本に還る」ためには、まず、知らない間に(あるいは忙しさに紛れて)積もってしまったホコリを払い「基本は何だっけ」を再確認しないといけないのですが、ホコリを払うために行くようにしているところがあります(<あくまで自分の場合ですが)。

「翻訳事典」(2017版)「わたしの提言」のI口さんの提言(の特に前半部分)。
「誠実な裏切り者-岩坂彰の部屋」の「翻訳者が伝えるべきもの」「翻訳の新たな規範とは」「誠実な裏切り者」あたり。

お2人の考えをそっくり自分のものとするということではないですが、どちらも大先輩にあたる方ですから随所に考えさせられる言葉があり、自分の大切にしたいところを再確認する契機になります。
2017.02.13 15:09 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
を、とりとめもなく。

文芸翻訳者の越前敏弥さんが、著書「翻訳百景」の中の「なんのために学ぶのか」の全文を、ご自身のブログに掲載してくださいました。↓です。
http://techizen.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/1-5890.html

越前敏弥さんは、こちらにいらっしゃる方はよくご存じのとおり、ダン・ブラウンのラングドンシリーズを始めたくさんの訳書を出しておられますが、白状しますと、ワタクシは、越前さんの著書は「越前敏弥の日本人なら必ず悪訳する英文」を読んで青息吐息したきりで、「翻訳百景」も我が家のどこかで積ん読になっています(スイマセン)。
なので「なんのために学ぶのか」も始めて読ませて頂きました(何とか翻訳者の風上に置いておいてやってください)。

「なんのために学ぶのか」の中で、越前さんは「わたし自身は、翻訳の勉強をはじめてから二十年以上になるが、まだまだ知らないこと、わからないことは多く、むしろ増えている気さえする。だが、それこそがおそらく翻訳という仕事のいちばんの魅力であり、つづけていくための原動力なのだろう」と書いておられます。
己れの無知と未熟な部分をきちんと認め、「だからこそ、ここでは止まれない」と思えるかどうかが、息の長い翻訳者となる資質のひとつなのかなと。

越前さんは「翻訳書を読む側、翻訳文化を受容する側にとっても、同じことが言えるはずだ。未知のものが無尽蔵にあり、果てしなく湧き出してくることは、翻訳書を読む際の大きな喜びにほかならない。われわれ翻訳者は、そのお手伝いができるよう、日々つとめているので、どうかその成果たる数々の翻訳書を末長く楽しんで、人生の糧としてもらいたい」と結んでおられますが、そのくだりを読んで思い出した文章がありました。

それは、実川元子さんの「翻訳というおしごと」の中の一節(正確には和田忠彦氏の言葉の引用)です。
「(テクストを)読んでいて響いてくる声、自分が聴き取った声を日本語で再現したい、そしてできれば再現された声に耳を傾ける読者がいて、その読者がまた別の声でそれを再現してくれたら」(247頁)。この文章を、実川さんは「翻訳という仕事の醍醐味が凝縮された一文」と評しておられます。

どちらも出版翻訳を意識した言葉ではあると思うのですが、「だから翻訳をしたい、翻訳を通してそういう橋渡しがしたい」という気持ちは全方位(?)共通のものかなと。
ワタクシ的には、大事に心に留めて置きたい言葉です。
2017.02.10 16:42 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
ここしばらく、私は「日本語として読みやすい訳文」をつくることに腐心してきた。
まだまだ先は長いが、「日本語らしい文章」という点を評価ポイントとするなら、1年前の訳文と比べて多少の成果は出ているような気がする(ほんに多少ですが)。

だが、このところ、「読者に文意を正しく伝えられるように」ばかりを意識するあまり、リライトの領域まで足を踏み入れていないかということが気になり始めた。
ひとつのところに意識がいくと他が疎かになるのは私の悪い癖だ。
(蛇足ですが、「行き過ぎていないか」を意識するきっかけとなったのは、初対面の先輩方が多かった同業者新年会でした。しみじみ、新たな出会いは大切だと感じました)

「ここまでならリライトではない」と判断しながら訳文をつくっていくのは自分しかおらず(←提出前の翻訳の段階で、という意味で)、自分の中の「判断基準」をより明確にするために、先達の言葉から学び訓練を続けていくわけなのだけれど、ときに立ち止まって「その判断基準が独りよがりになっていないか」「大切なことを見失っていないか」を考え、修正すべき点を修正することはとても大切だと思う。

見据えるべきは読者。意識すべきはきちんと読者に届く訳文。でも、私の前には、同じ思いで原文を作成した原著者がいるわけで、そうして書かれた原文の存在をつい軽んじて「日本語として読みやすい」ばかりを求めるならば、突き詰めれば、Gxxxxx翻訳と変わるところがないではないか。そう思って、さまざまな意味での自分の力不足がちょっと悲しくなったのだった。


諸般の事情によりいつにも増して始動が遅れてしまった屋根裏ですが、午後からは上記の内容を肝に銘じ、また新たな気持ちで翻訳に取り組みたいと思います。
自戒をこめて文章にしました。
2017.01.31 12:57 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |