屋根裏通信

在宅で細々実務翻訳をやってます。翻訳、英語の勉強、その時々の出来事などのんびり綴っています。


そんなわけで、年末年始、通常営業だった屋根裏です。
この超弩級の「気持ち改まり感のなさ」はどうだろう。ダイジョブか、自分。

たぶん、6日の「十人十色」勉強会で、「今年も頑張ろう」スイッチが入ると思います。
そうだ、そういうことにしておこう(気が抜けて廃人化するという説もあります).


さて。
年末年始は、ワタクシ的にはやや大きめの案件に取り組みました。
一部内容が重複する参考資料も頂いたのですが、全訳で、「基本、参考資料の訳語を踏襲してほしいが、変更可(ただしコメントつけてね)」という指示がありました。
最終的に50%以上重複する部分があり、ここはもう「うっしっしっ」と軽やかにコピペしたいところですが、昨年からのMy Themeは「考える」ひと手間をかけることです。

以前は、

A. 英文を読む
B. 参考資料で該当訳文を確認する
C. (該当訳文があれば)そのままで問題ないかどうか考える
D. 最終的な訳文を仕上げる

としていたところですが、暫く前から、AとBの間に

A'. 自分で訳文を生成する

というStepを入れています(この場合、「C」にかかる時間は短くなります)。

全体としては作業時間は延びますので、非効率的なやり方かなとも思うのですが(というわけで、今回も最後はかなりへろへろだったのだった)、こういう案件をいただいたときは、今暫くこのやり方を続けてみようと思います。
最初からあるものに合わせにいくのと、自分で考えたものと比較するのとでは、結果は同じでも、きっとどこかに違いがあるはず。はず。

「A'」を入れたことで、以前より、参考資料作成者さんの文章のクセがよく分かるようになったのが、自分でもちょっとびっくりでした。
ここでいう「文章のクセ」というのは、たとえば、followingという語を「以下の」としても「次の」としても違いがない場合、自分なら第一選択肢としてどちらをとるか、というような小さな「クセ」です。

今回の仕事は取説でした。
取説では、「書かれた内容がすぐに理解でき、迷わず操作ができる」ことが大切だと思うのですが、加えて、「全体が同じトーンである」ことも、取説的user-friendlinessといえるのではないかなあと思っています。
取説は、あたまから順に読んでいくというより、「必要なときに必要な部分を読む」という読み方をされるのがフツーですから、どこをとっても同じ調子で書かれている方が、使用者は理解しやすいのではないかと思ったりするわけです。
もちろん、正しい内容が、過不足なく、分かりやすく書かれていることが前提ですが。

なので、この頃では(...以前はあまり考えなかったんですけど...)、差分翻訳であってもなくても、参考資料と「表現を合わせてください」という指示がある場合は、まず自分で訳語を考えつつも、最終的には、できるだけ気配を消して、参考資料のクセに合わせるようにしています(質の高い参考資料を頂けることが多く、正直「この日本語に合わせにいくのツラいわ...」というケースがないのはありがたいことだと思っています)。
最初に「A’」を入れることで、逆にそれがしやすくなるのは、自分訳と参考資料訳の違いが、自分の中でより鮮明になるからなのかなと思います。

Step「A’」を入れても、流用できる参考資料がある方がラクはラクなのですが、一からの訳出の方が楽しいのは確か。調べものもしんどいことが多いですが。
次は週明けから「一から仕事」なのですが、原稿が未入稿のため、若干戦々恐々している今日この頃です。
2018.01.05 21:36 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

*若干内容を修正しました*

やっと今年を振り返る若干の心の余裕ができました。
3日から6日まで休むため、このあと年をまたいで2日まで働きます。
シフト勤務の旦那も今日から2日まで勤務なので、例年に増して年末感の薄い屋根裏です。

ちなみに、昨年末には、こんな風に2016年を振り返り2017年の目標を挙げています。


今年はもっと哲学的(?)かつ抽象的に(?)に、1年を振り返りつつ、これからのことを考えてみたいと思います。

あ、その前に、「家族にも自分にも大過なく1年間翻訳の仕事を続けられますようにを1年の目標にします」は言っとくね。
げんは担がなあかん。

それから、FBでは
「よいと思うものは素直によいと認め、よく考えて取り入れ、
自分の間違いは潔く認め、
発言や発信と人格を(できるだけ)混同せず、
相手の退路を断つ言葉を投げつけることは控え、
譲るべきは譲り、譲らないところは譲らず、
まっとうな毎日を誠実に丁寧に過ごしたいと」
と書きましたが、これは、翻訳にかぎらず、1年を通しての日々の目標です。

閑話休題。

今年の後半は、自分はこの先どこに向かい、どんな風に翻訳と向き合っていきたいのだろう、ということをずっと考えていました。
正直、まだはっきりした答えは出ていません。

ただ、「自分の言葉で2つの言語(と言葉の形で表された著者の意図)を橋渡ししたい」ということはいえるかなと思います。

当面、この基本の上に立って医療翻訳を続けていくことになると思います。

自分の言葉で語ろうとすると、自分が語れる言葉の範囲を広げていかなければならない。
同時に、医療翻訳独特の言回しもきちんと抑え、新しい治療法の確立や機器開発、規制の動向にもアンテナを張っておく必要があります。
専門分野の文章もそうでない文章も、「言葉」という点では同じには違いないのですが、専門分野の文(章)の方が、「こういう場合はこういう言い方をする」という縛りが厳しいような気がします。
そこは抑えつつも、専門分野以外の文章を訳すとき、そこからどれだけ自由になれるか、つまり、自分の中から取り出してくることのできる言葉の振り幅を大きくしたいというのが今の目標です。
どちらもバランスよく高めていくにはどうするのが一番よいのか、悩む1年になりそうです。

もうひとつ、これも今年の後半から少しずつ実践しはじめたのは、「やろうと思ったことはできるときにやる」です。
新年早々開催される「十人十色」勉強会の開催に係わったこともそうですし、年が明けたらもうひとつ形になりそうなこともあります(若干、先行き不透明感はありますが、これも、かなり悩んだ末、「やります」と手を挙げたものでした)。
来年も、仕事や生活や体力の許す範囲で、この方向でやってみたいと思っています(でも基本は隠者です)。

翻訳祭では、「座して待っているだけではダメ」という声をよく聞きました。
私はこれまで「いい仕事を継続していれば誰かが気づいてくれる」派でした。今もこの基本的にはコチラ派(?)なのですが、「ここは」と思ったときに声を上げる必要もあるのではないかとも思い始めています。動いて始まることもあるかもしれない(実際、小さな話ですが、今年の単価UPは、こちらから動いて実現したことでした)。
私はこれまでよく「Every day is gift」という言葉を使って、「翻訳できる平凡な日々が自分にとっては宝物」だと言ってきました。
それはもちろん事実ではあるのですが、同時に、その言葉を、何もせず動かないことへの言い訳にもしていたような気がします。
来年は、動くときは動く。
ただ、地力のある人が動いてこその「何かの始まり」であるとも思っています。まず力をつける努力ありき、は忘れないでいたいです。

今年の振返りでも来年の抱負でもない、ただの雑感です。
おそらく、気持ちが改まることもなく2017年から2018年になだれ込むことになると思います。

そんなメリハリのない「屋根裏」ですが、来年もひとつどうぞ宜しくお願い致します。
来年も、性懲りもなくユルく続きます。
2017.12.31 20:08 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

屋根裏には、「・・・から(強引に)翻訳へ」という得意技があります。

アスリートやベテラン俳優などに関する記事や、そうした方々のインタビュー記事を、翻訳と強引に関連付けるという荒技です。

周りにさまざまに支えられているとはいえ、こうした方々の「よい」パフォーマンスの一番の拠り所は、自分自身--自身の中にある、練習や稽古に裏打ちされた技術や経験、「できる」という自信、「まだまだ」という謙虚な気持ちなどであり、その「最終的に拠り所とできるのは自分自身(の力)」という部分が、翻訳にも通じるところがあって、自分の中の「強引にもってくるで」アンテナがぴぴっと反応してしまうのかなと思っています。

ワタクシは決して「通」ではないけれど、フィギュアスケートを観るのが好きなので、フィギュアスケートから強引に持ってくることが多いです。
最近では、コンパルソリーから「強引に翻訳へ」をやっています。


今日の「強引に翻訳へ」の元記事は、Web Sportivaに掲載された、「佐藤信夫氏・久美子氏(元浅田真央コーチ)に聞く『喜びと苦しみの日々』」。
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/figure/2017/10/05/post_23/index.php
(最後は、「続きはSportivaフィギュアスケート特集号へ」になるんですけど<ありがち)

以下、ウェブ掲載版からの抜粋です。


専属コーチが不在のなかでバンクーバー五輪のシーズンを戦った浅田にとって、課題はジャンプの修正だった。だが、10年以上もジャンプを跳び続けてきたなかで、いくつかの癖がついていた。そこを見破った佐藤コーチだったが、すぐにはジャンプの修正に着手しなかった。まず始めたのはスケーティングの基礎を教えること。そのめどが立ってから、ジャンプの見直しに入ろうと考えていた。だから「道のりは長く厳しい」と覚悟を決めていた。(文:辛仁夏)

「スケートというのはひと滑り、ひと滑りじゃないですか。そのひと滑り、ひと滑りを毎日チクッと言っておけば、ふと変化が起きるわけです。その変化がやがて、いつのまにか本人にとっては心地よい変化になるんです。気持ちよく滑れるものだから、少しずつ変わってきたのかな、というふうには思います」(佐藤信夫コーチ)

「一番簡単なことを大切にするということですよね。一番簡単なことだから無視するのではなくて、簡単なことを大事にするということの積み重ねですね」(佐藤久美子コーチ)

「彼女からすると、受け取り方としては『また同じことを言ってるわ』になるんですけれども、それでもいいんです。何かあった時にふと、それを思い出すというふうになれば」(佐藤信夫コーチ)

(ソチ五輪のSPで失敗を重ねた浅田に対し、佐藤信夫コーチは)「練習をきちっと全部やってきた。できない理由はないし、できない理由が見つからない。できて当たり前なんだよ」と、背中を押した。(文:辛仁夏)


結局、また「基礎ですかい」て話なのですが、自分は、やはりいつもここに辿り着いてしまう(進歩がないともいう)。

久美子コーチのいう「一番簡単なことを大切にする」というのは、漫然と毎日基礎練習をするということではなく、「何かを意識しながら」基礎練習をするということかなと思います。フィギュアだったら、たとえば、身体の軸を意識するとか、のってるエッジを意識するとか。翻訳だと、たとえば、「流れを意識しながら」「使われている言葉を意識しながら」文章を読むとか、「引き方を意識しながら」辞書を引くとか、「接続を意識しながら」文を書くとか。

そうしたことは、そのうち「無意識に」できるようになるのでしょうけど、たとえばゴルフのフォームなどのように、何かのきっかけで崩れてしまうこともあるかもしれない。そうしたら、また「意識しながら修正する」。技術は、そういことを繰り返して向上させていくものなのかもしれません--てことで、考えてみれば終わりがないのだった。でも、考えようによっては、「(気力・体力・知力が続くかぎり)いつまでも改善・努力できる」職業というのは幸せな職業なのかもしれません。

今日は散漫になりましたが、散漫なままで失礼致しまする。
2017.10.06 18:13 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |

1年ほど前に「見出しを文章に、文章から見出しを」という記事を書きました。

だいたい毎日紙版の新聞を読むので、この作業は、その後も続けています(サボる日もありますが)。

続けることで、何か身につくものはあるのか。
...てことで、ちょっと振り返ってみます。

「見出しを文章に」の方は、ちょっと油断すると「本文盛り込みすぎ(見出しにそこまでの情報ないやろ)文」になってしまい、「上達した」感はありません。やはり、「漏れてると言われたらヤバいので」という小心者の性格が災いしているのか。翻訳でも、この「冗長」グセが出てしまうことが多々あります。「見出しを文章に」を続けることで、そういう自分のクセ(弱点)を短い周期で「はいはい、そうでしたね自分」と肝に命じることができている、というのが、「強いていえば」のadvantageかもしれません(なのに、なかなか直らんという...)。

「文章から見出しを」の方は、最近、「そのおかげかも」と思ったことがありました。
(前にも書きましたが、ワタクシは、見出しを考えるという作業はけっこう好きなので、どちらかというとコチラの作業の方が楽しいです)

わが家ではA新聞を購読しているので、「文章から見出しを」には、火~土曜日は3面の「てんでんこ」という記事を、日曜日は(「てんでんこ」の連載が日・月は休みのため)同じく3面の「日曜に想う」を使用しています(月曜日は休日♪)。「てんでんこ」は、「頑張ってやろうかい」と思える程度の絶妙な長さです。記事には、2~4文字の見出しと、30文字程度の副見出しがあります。
たとえば、今は「音楽の力」がテーマなのですが、9月22日の「てんでんこ」は、見出しが「沖縄民謡」、副見出しが「『あす』が津波で一瞬にして失われる現実。宮沢和史は動き始めた。」です。

新聞の副見出しを隠した状態で全文を読み、5分程度で副見出しを考えます。文字数にはあまりこだわりません。自分なりの副見出しができたら、答え合せ。新聞の副見出しに「うーむ、そこを取ってくるか」と敗北感とともに納得したり(←だいたいこちら)、「いやいや、それだと内容モロ分かりでしょ」と若干のケチをつけたりして終わります。頭の中で考えているだけなので、自分の見出しを特に推敲することはありません。

副見出し作成作業を無理に順序化してみると(普段は頭の中でやっていて、特に「こういう流れで」みたいなことは考えていないので...)、頭の中で文を要約 → 一番言いたいことは何かを考える → それを基に何となく骨格的なものを作る → そこに「引き」はあるか(見出しが単なる要約になってしまっていないか、つまり読者に「中身も読んでみよう」と思わせる「何か」があるかみたいなことです)を考える → 最終的な副見出し作成、という流れになるかなと思います。

これを1年と少しやってきた先日、マーケティング(もどき)の仕事が舞い込みました。
たくさんの国語辞書さんと類語辞書さんのお世話になり(ふだん、何と狭い語彙の中で仕事をしていることでしょう!)、遅々として進まない日もあり最後はへろへろでしたが、こういう案件、嫌いではないです(こういう案件ばかりもしんどいので、翻訳会社さんには控え目にアピールしておきました)。

その中で、小見出しの翻訳がありました。いつもの定型的な小見出しではなく、多少の「引き」が求められる小見出しです。その小見出しを考えるのが楽しくて。もちろん、自分で考えるのではなく翻訳ですから、「いやいや、そこまでは言うてへんで」と却下し、無難にまとめた箇所も多かったですが、「見出しを考える」作業をやってきたので、すんなり楽しめた(...若干表現がおかしいですが...)のかなと思っています。

というわけで、1年経って若干惰性になりつつあった「見出しを文章に、文章から見出しを」ですが、初心に戻り(<そもそも「初心」はあったのかという説もありますが)「意識してやる」ことをもう少し取り入れつつ続けていこうと思っています。
2017.09.29 17:33 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |
今年のプログラムが発表になりました。
https://www.jtf.jp/festival/festival_program.do

昨年は、プログラムの内容を見て初参加を決めたわけですが、(個人的には)今年もそれに勝るとも劣らないプログラムだと感じました。

今年は幸い、さまざまな状況がまだ「行けそう」な感じですので、近日中に申込みさせて頂くことになるでしょう。

とはいえ、来年以降は分かりません、というよりたぶん...無理(とか言ってて、またおったらすいません。幽体離脱した霊体が一瞬かたちをとったものと考えて、見なかったことにしてください)。
ですから、同じレベルのプログラムが来年以降も続くようなら、関西でも入場料を取ってライブ配信してほしいなあと思っていたら、同じようなことを考えている方がTwitterにもおられました。

関西から参加する場合、最低1泊2日が必要です(疲れ具合を考えれば、できれば2泊3日ほしいところです)。地元で何か起こっても、すぐに帰宅することはできません。
関西で聞くことができるのであれば、「丸1日」と「在来線で1時間強で帰宅できる」までハードルが下がります(<あくまで自分のことしか考えていませんが)。

・実行委員の方の負荷(恐らく現在でも相当な負荷がかかっていることは想像に難くありません)
・関西での積極的なサポートが必要(会場準備・設営・事前の確認試験など)
・登壇者の意向(会場のみの発信にしたい方もおられるかもしれない)
・他の地域(九州、中国四国、東北、北海道など)との地域格差

などなど、少し考えただけでも、次々と越えるべきハードルが浮かんでくるので、実現は無理かなと思いますが、将来的な可能性として検討して頂ければなあと思いました。
(技術的なことは分かりませんが、東阪同時配信はMEIの土曜講座で体験済みなので、その部分のハードルはそこそこ低いのかなと)

もちろん、すべての配信は無理でしょうから、たとえば、事前にとったアンケートで人気の高かった4プログラムを配信するなどのやり方になるとは思いますが。
それが無理であれば、(可能であれば)セミナーのように、DVDとして後日有料で販売するという方法も考えて頂ければ嬉しいかなと。
(今回も聞きたいプログラムのバッティングは必至ですから、出席しても購入するかもしれません)

あくまで、事情を分かっていない1翻訳者の勝手な希望です。「事情も知らんと」と言われることは想像に難くありません。
ただ、今後の可能性のひとつとして、心の片隅にでも止めて頂ければ幸いです。

もちろん、後日JTFジャーナルに詳細な報告が掲載されますし、当日のツイートである程度内容を知ることもできます。
ですが、全編を通して話を聞くのとレポートを読むのとでは、伝わる内容や突き刺さる度合いが違います(少なくとも私はそうでした)。

全編を通して聞きたい/多くの人に聞いてもらいたいプログラムが目白押しだと思われただけに、とても残念に感じました。


てことで、最後になりましたが、実行委員の皆さま、今年も粒ぞろいのプログラムをありがとうございました。
無事に出席できた暁には、今年も、一昨年までの自分のように「行きたい、けど行けない」皆さんのために、(私情満載の)詳細なレポートを書かせて頂きたいと思っています。
てか、その前に最後まで脳味噌を保たせる体力をつけないかんのだった。
2017.09.20 14:25 | 翻訳 | トラックバック(-) | コメント(0) |